はてなキーワード: チャリとは
遅すぎた気付きをどうにかして死なせず活かしたい。
そういう気持ちをストレートに綴るなり物語に乗せるなりして、せめて他人に役立ててもらおうとする。
でも何かを大切に思う気持ちなんてものは、自分の身体と時間を使った体験を通じて自分の心から湧き出た時に初めて重みを持つ。
食べ物の好き嫌いやチャリの乗り方をいくら言葉に変換した所で、その感覚は他人に受け渡せないように。
結局同じ後悔を抱く者同士でシェアして、感傷に至る酔いを与えるだけなのかもしれない。
そもそも「気付き」ですらなく、どんな選択にも伴うような後悔を実感や納得で振り切れずに、遡及的な粗探しをしているに過ぎないのかもしれない。
何を選びどう転んでも満足のいかない、救いようもない運命だったなんて考えたくもない。そんな出来レースの負け試合ではなく、正しい道もあったのだと信じたい。自分が判断を誤っただけだと。
でも自分の気持ちをそっくりそのまま伝える事はできなくとも、同じ轍を踏ませないためのヒント程度にはなるのかもしれない。そうあって欲しいという祈りの言葉でもあるのかもしれない。
ここに書いて成仏させたい
俺が降りようとしてるでしょうが!!前見ろ!!
こちらは降りるしか選択肢がないので乗り込んでくる奴と必ずぶつかりそうになるのが嫌
かといって降りずにそいつが乗るのを待つ?それも癪
ドアの前の奴が俺に気づいてなさそうな時は、大げさに揺れたりして存在感をアピールしたりするが、それでも気付かない奴もいるから本当にクソ
お前チャリ降りろ
集団の間をガキどもが急に走って行き来したりする
予測不能のクソ、親同士で談笑してないで手でもハーネスでも繋いどけ
道関連ばっかりになってしもうた
牛丼屋に入ると秋の穫りたて新米だった、だが客たちは荒ぶっている、忙しいのだろう、急いで盛った丼に汁がこぼれてて手が汚れた、俗世の民たちの力強い生き様を喜び新米店員頑張れの歌
恋に敗れ田子の浦を傷心旅行中、肉山で米が見えない素晴らしい牛丼に出会えた、私は感動のあまり紅生姜をたっぷり乗せて食った、明日から頑張ろう
落ち葉の積もる山奥のド田舎を歩いていると、腹が減りようやく見つけた牛丼屋に入り、いつもの並&卵を食していると、どこかしらから牛の鳴き声が聞こえてきてなんか罪悪感を覚えた、モォーモォー鳴いてるし、ゴメンて
オールで遊び疲れ牛丼を食うた、汁一滴も残らぬ乾いた丼に渡し箸、行儀が悪い
一息ついて外を見れば夜が明けてきた、そういえば肌もカサカサだわ、不健康だわ
こんな人生で良いのだろうかと悩む様
街を歩いていると牛丼の匂いがしてきた、誘われてる、悪い誘い、食いたい、
昼休みエレベーターを待っているとこれからランチに行く人、ズルして早飯で戻ってきた人と別れすれ違う、みな牛丼を食ったのだろう、奮発してうな重だろうか、僕はなにを食べようか、ワクワク
東京本社では平社員が早飯とかありえないんですけど、という心情
親父(君)が牛丼買ってこいつーて、寒いから嫌だと断ったのに、もう春だと押し切られ、まぁこれも親孝行かと諦めて渋々出かけたら案の定コートに雪が積もる、
ありえねぇ、チャリの前カゴに詰んだ牛丼を眺めるとイライラする、Uberにすればよかった
仕事が忙しくランチタイムを逃し、ようやく仕事が片付いて飯に向かう、腹がすきすぎて大急ぎで吉野家に駆け込み、注文を聞かれる前に「並と卵!」とオーダーしたった
あまりの形相に店員は驚いたのだろう水を出すのも忘れ、先に牛丼が来た、お水ちょーだい
ふと見た窓の外には大勝ちした客がおり目眩がした
昨日の住之江競艇に懲りずに難波ウインズ、競馬で大博打、夢は一瞬で散った
哀れすぎてこの世を去りたい、だが牛丼を食う、すぐ忘れて元気になった
昨日の難波ウインズを妻に詫びたが、結局今日も懲りずに難波ウインズでまた負けた
大学2〜3年頃からだったか、ソナチネのたけしに憧れてマジで白シャツスラックスしか着なくなった。菊次郎の夏だったかも。
海沿いで腰掛けてボーッと波を眺めたり、繁華街を練り歩いたりしながら無限に主人公ぶってた。
ヨウジかギャルソンが良かったけど、サイズが合わなかった。ユニクロのスラックスは夏でも快適だ。
同じ格好しかしないからコーディネートの幅は磨かれなかった代わりに、シルエットや丈に異常なこだわりを持つようになった。
オタクが服に興味を持つとそうなるのかもしれない。求める先は異性や他人からのウケではなく。おれの場合はきっかけの時点でもうオタクっぽい。
モサい頭のチビガリだし、たけしのとっぽさにはきっと程遠かった。日中から手ぶらでうろつく姿は変な高校生みたいだったと思う。「主人公」は鞄を持たない。
と思ってた。
最近スタイルというのはもっと必然的なものなんじゃないかって思う。
炭鉱夫はデニムを。軍人は迷彩を。スケーターは動きやすいルーズな服を。オタク少年はママが買ってきたちょっと古いセンスの服を。
そこに演出はなく、その人を取り巻く環境が、生き様が服へと現れる。その自然体こそがスタイルなのではないか。
カートコバーンの真似をしてボロい服を着るのはグランジなのか?なんて語り尽くされた話だ。
スタイルは自分から喧伝せずとも周りが勝手に見出していく。そこには服飾というより精神性としてのかっこよさがある。
ザッカーバーグやジョブズが同じ服ばかり着るのも、彼らの忙しない日々を描くスタイルだ。それをノームコアと囃し立てて、こだわってない風の服をわざわざこだわって選んでもコスプレでしかない。
オタク君の服ってこういうのばっかり、的な揶揄だってベクトルは違えど本質的には賞賛と変わりないのかもしれない。
じゃあおれにとっての環境とは何か。「時代」というのは一つの環境ではないのか。
自我を持って着せ替え人形やコスプレをやるよりもむしろ、服にさほどこだわりのない人が流行に巻き込まれる着る服にこそスタイルがあるのかもしれない。
Twitter(a.k.a 𝕏)で、時代ごとの流行りの比較イラストや写真みたいなのがたまに流れてくる。ファッションは巡るって言説を添えて。
古めの映画を観てても、ジーンズ履いてスタジャンのポットに手を突っ込む若者が妙にかっこよく見える。「その時代の若者」というスタイルが。自分にそういう時期がなかったのがなんか寂しいし、ちょっとコンプレックスですらある。
この際スタイルとかどうでもよくて、能動的なミーハーでもなんでもその時代らしい若者の姿に染まりたいという気持ちがある。
2ch脳拗らせてミーハーを小馬鹿にしてた反動が来たのかも。何なら今だってサンバ履いてゆるいパンツ履いてる連中を若干小馬鹿にしてるけど。いつか自分もそれに倣わなかった悔やむ時が来るのかもしれない。
あの頃もたけしぶってる場合ではなく、若者らしく時代に染まっていれば良かったかな。
と思ったけど、冷静に考えたらそれ以前は「その時代の若者」であった時期もちゃんとあったな。
スラッとしたシルエットにと言われていた筈が、今や掌返して頭でっかちになるとか言われてオワコン扱いを受ける黒スキニーをちゃんと履いていたではないか。1460に捩じ込んで。流行りは3ホールだったけど。チェスターコートも着てた。
げんじファッションの黎明期だ。あれ下半身だけパンクスみたいで面白いな。
服にも強いこだわりは無かったし、自我がないからこその「スタイル」があった。
ミーハー心でyeezyも持ってたしな。QNTM。アレ今でも普通にかっこいいと思う。ブーム末期な上に履きおろさずに売っちゃったけど。
beatsのヘッドホンとかGIATNTSのチャリもかっこいいなと思ってた。まとめサイトの受け売りで情弱向けのゴミ音質とかルック車とか小馬鹿にしつつ、割と欲しかった。
例えば娘が
「パパ、お話があります、妊娠しました、学校辞めて彼と同棲して育てます、いずれ結婚します」
「バカかおめぇ、堕ろして学校続けなさいボケ、厚労省の調査で17歳妊娠の女子が相手と30歳まで関係が続く確率は4%しかない(嘘)、無理だカス、アホな夢見るなトンマ、今度からちゃんと避妊しろエロ、無責任なチンピラと付き合うなバーカ」
「じゃぁ出ていく、ター君と二人で頑張るもん、自分で責任取るもん」
「いいけど一切の援助はしないよ、生活も子育ても自力でやるんだよ、ママも同じだよ」
「ぷいっ」
で、さ、案の定、出産する頃にはター君バックレ、シンママ、どうしようもなくて戻って来る
「パパごめんなさい、私が甘かったです、パパの言う通りでした」
ここまでは納得してもらえるかしら?おおむね同意を得られると思う
俺酷くないじゃん?自己責任じゃん?娘アホじゃん?
大人が自分で人生の決断をするのだから親とて干渉するような話ではない、好きにすりゃいい。
とはいえ、「自分で責任を取って」もらわんと困るわな、大人なんだから余計
で、話は変わる
それはいいんだが
親父よ、たー君、どーすんの
ヤカンに水入れてお湯も沸かせない親父を誰が面倒みるんですか?
若い頃脱サラして事業起こして、そこそこ成功して好き勝手生きて、事業売却してリタイヤ
傲慢で鬱陶しさ指数240%、口から皮肉と愚痴と説教しか出てこない団塊世代、
喋る内容だけではなく態度も鬱陶しいから100%超えちゃってるの。マジクソ。
これどーすんの、
あなたが生涯の伴侶と決めて責任取るつーて結婚したわけじゃん?
なら責任取れよ、まぢで
親父が死ぬまでお湯沸かしてあげなよ
かーちゃん先に死んでどーすんの、ばっくれか?
家事一通り自力で出来る程度の教育しなさいよ、半世紀も時間あったんだから
周囲の人間に好かれる人間性、立ち居振る舞い、処世術、ちゃんと仕込みなさいよ
なーんもしてないじゃん
散々甘やかしてこーゆー人格に育ったわけじゃん
無責任にも程がある
ちなみに親父は若い頃の不摂生を60過ぎて猛省し今は超健康優良児
誰が面倒みるの?
妹は1000km離れた島に嫁いでる、ばっくれやがった
ガイジンの嫁に、信号機のない横断歩道で蹴っ飛ばしてみてはどうかと相談したらブチギレられた。
で、嫁は、「私が面倒みる!」とかいいだすし、家族愛、結構なこった
キミは親父のクソ面倒臭さを知らない
つても嫁は8年間親父の会社でバイトしてたから嫌というほど知ってるんだが
無慈悲な妹と違い俺は実家からチャリで5分のところに住んでいる
これが裏目に出た
この部分では、後悔が個人に限られたものではなく、多くの人々が経験する普遍的な感情であることを認識しています。これは、後悔が人間の本質的な経験であり、時代や場所を超えて共感できるものであるという洞察を示しています。
ここでは、一般的な助言が言葉だけでは意味を成さないことが指摘されています。言葉は重要なメッセージを含んでいるかもしれませんが、それが実際の体験や納得を伴わなければ、その重みや価値は薄れてしまいます。この部分は、表面的な言葉よりも実際の経験がどれほど重要かを強調しています。
この部分では、学びは言葉だけでは伝わらず、実際に経験することで初めて本質を理解できるという考えが表現されています。自転車の乗り方や楽器の演奏のように、特定のスキルは言葉で伝えるだけでは不十分であり、実際にやってみることでしか得られないものがあると述べています。
ここでは、人間の苦悩が時代を超えて続くものであり、解決することが難しい普遍的な問題であると考えています。人間の存在に根ざした苦悩は永続的であり、どの時代にも存在するだろうという哲学的な視点が表現されています。
この部分では、他者の経験や助言をそのまま受け入れるだけでは、自分自身の生き方に対する実感を得ることはできないという懐疑的な見解が示されています。自分の経験や納得がなければ、他人の言葉に頼るだけでは真の満足感や生きがいを感じられないという主張です。
この部分では、他者の後悔を押し付けられることに対する拒否感が表現されています。他人の後悔を受け入れることはできず、自分自身の納得を優先する姿勢が示されています。この主張は、他者の失敗や経験から学ぶことの限界を示唆しており、自分自身の選択と経験を重視しています。
「そんなヒネた生き方をして結局まあ多くの大人と似たような、ありきたりな道を辿った昔のおれに、お前は間違ってたよとは言いたくない。」
この部分では、過去の自分に対する複雑な感情が表現されています。過去の自分が選んだ道を否定したくない一方で、その選択が自己弁護や現状の正当化であるかもしれないという自己反省が見られます。これは、自分の過去の選択に対する葛藤や、それに対する評価がまだ定まっていないことを示しています。
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全体として、あなたの文章は人生の後悔とそれに対する個人的な視点を深く掘り下げたものであり、他者の経験や言葉に対する疑念や、自分自身の納得を重視する姿勢が貫かれています。このような要素が織り交ぜられた文章は、単なる感傷にとどまらず、自己探求と自己認識の一環として後悔を捉えていると言えます。
人生で感じる後悔って、多分自分だけじゃなくいつかのどこかの誰かの数多くが感じてる。
その後悔は言葉になって残される。
失敗を恐れずに挑戦するとか。情熱を持って生きるとか。
でもそこに納得がなければその言葉は何の重みも持たない。
それは自分の身を以て初めて感じられる事であって、チャリの乗り方や楽器の弾き方のように言葉で受け渡す事は出来ない。
物語という形でデモンストレーションしてみせれば少しは説得力もあるのかもしれないけど。
ある種の人類は変わらぬ苦悩と永遠に直面し続けるんだろうなって思う。
でも他人の納得を借りて生きてたって実感のある生というやつは得られないんじゃないかとも思う。
大人になると勉強したくなるんだよな〜ああ勉強すれば良かったな〜〜とか、どうせ失敗するから無駄とか考えずに挑戦した方がいいぞ〜とか。
そう言われた所でまるで響かない。
そう言ってるテメーはどうなんだよ。
じゃあ今からでもやればいいだろ。やれよ。やらねえだろ?
オマエはもう二度と戻らない時への後悔や感傷に浸ってるだけで、そこに反省なんかありゃしねえんだよ。
お前の後悔におれの納得は存在しねえし、それを押し付けんじゃねえよ。
例え同じ轍を踏むんだとしても、自分の納得がない助言に従う気にはなれないね。
そんなヒネた生き方をして結局まあ多くの大人と似たような、ありきたりな道を辿った昔のおれに、お前は間違ってたよとは言いたくない。それがただの自己弁護や現状の正当化なのか、本心なのかはよく分かってないけど。
職場にいる歳下なのに俺より先輩なメガネ先輩(高専卒なのにメガネをかけている。31歳)が
泉に住んでるのに競輪を見たことが無いというので俺とメガネ先輩とオールドスミスのお局さん(30代と思ったが、40半ばらしい)と派遣のおっさんの
(メガネ先輩は知り合いとかにみられて噂されるのが恥ずかしいのでここということになった)
南海で和歌山に着陸してまだレースも最初だし、コースをぐるぐる回ってるのを朝からみても詮無いだろうし
百万石の和歌山城とゴーストタウンを見た。昼なのでお化けはいなかったわ
入場料(50円)をチャリンして入ったら、なぜか派遣のおっさんが入らない
お局さんが「小銭ないの?」って聞くと
派遣のおっさんが「和歌山競輪は3時?から入場料がタダになるから待ってる」とか言い出してみんなドン引きした…
「焼いた土見て楽しかった?」って聞くと笑いの渦が巻き起こった
お局さんがエキスパートラックで15000円くらい勝ってたので
メガネ先輩が
「入場料払う金はないけど奢り酒には来るんですね」っ指摘すると
すいません、子供がPS5欲しいというので値上がりすると言うじゃないですか。
そんで表題なんだけど、値上がりしたPS5買うならPC買った方がいいんじゃね?的な論説が多数見受けられたので博識なはてなーのアドバイスがほしい。
セックスレスなので、たまに残業のフリして風俗に行っています。
好きな風俗はビデボの中でエロ動画見ながらギャルがシコってくれるところ。
ウエスト表記が59以上の子は「ポッチャリ気味です」という店側からの良心なのでいくら巨乳でも注意するように。
韓デリにたまにいる日本人は世間知らずで自分の評価が必要以上に低いから何でもしてくれる確率が高い。
ラブホはケチらないでグレードが高い部屋にすると嬢から喜ばれるサービスの質が上がる(デリ嬢談)
東京都の特殊浴場は20歳未満は働けないので20歳未満と風呂でたまたま恋愛に落ちたいなら東京都意外がいいです。
最終的にはメンエスに行き着く人が多いです。
LINBO
自分はファミコンからPS2まで一通りのタイトルはやってきたつもりです。
家にPCはデスクトップとノート合わせて3代ありますが全てMacなのでゲーム出来ません。
こんな感じですが値上がりしたPS5とPC買うならどっちの方がいいでしょうか?