はてなキーワード: 自尊心とは
と個人的には思っている。
他人の実績にあれこれ言うだけで、自分ではないも生み出していない奴が、自尊心だけ肥大化させて、上から物言ってるだけって以外の構造を見たことがないんだけど、、、
物心ついた時からオタクやってきたので一般の感覚というものがわからなかったんだが、
一時期環境がかなり変わったことで数年脱オタクをし、そしてまた戻ってきたら、俺が当時から感じてたオタクに対する同族嫌悪の理由が自分なりに明らかになってきたのでチラ裏に書き出す。脳内整理。
人間とはえてして自分の加害に鈍く被害には敏感なものだけれど、オタクはそれが顕著。なんにおいてもそう。男オタクも女オタクも萌え豚も腐女子もオタクの種類を問わずそう、また対一般人でも対身内でもオタク同士のコミュニティにおいてもそう。自分の加害の可能性を棚に上げて他者を糾弾するのに必死すぎる。誰かに非難されると、非難した側の属性を指して「お前がいうな」論に持ち込む(大概ただの詭弁)。議論解決において重要な”相互の主張を正しく理解して互いの妥協点を探る”という目的は誰も持っておらず、とにかく受けた被害の鬱憤を晴らさんと他者を殴ることしか考えてない。醜い。
何か世の中に対する不満でもなんでもTwitterで呟いていたとして、それに当てはまるフォロワーが「それ自分です、ごめんなさい」とリプしてきたとする、すると「あなたは○×だからいいんですよ!」と自分の主張を棚に上げて詭弁でしかないフォローをする。掌ドリルである。そうじゃないやつも多く見かけるようになってきたけど、コミュニティが狭いと未だに掌ドリルオタクはどこにでもいる。
自称S人間の痛さみたいなもんだろうか。それに加えて、オタク特有のコミュニティ内でのヨシヨシが発生するのが痛気持ち悪いのである。「お前まじ頭おかしいよな!w」「え、なに?!そんなんじゃないが?wちょっとキャラが痛めつけられてるの見るのが好きなだけでw」「それを頭おかしいというw」みたいなノリを大の大人がしている。面白さと紙一重なノリではあるんだが、大抵のオタクは別に面白さとかではなく自尊心を満たすためにやっていることなので、普通に怖いし気持ち悪い。
「どうせ~」思考は危険だ、他人の見えてない部分を都合よく低く見積もることで自尊心を守りたいだけのクズになる思考。
俺はUOは齧る程度しかやってないが、マビノギを長年やっててMML書いて嫁の誕生日にギルメンで演奏会したり羊毛刈りを極めたりボス周期を記録してボス厨になったりと自分や他人が十人十色の多様な遊び方をしていることを見続けてきた。
どんなゲームシステムもシステムである以上ある程度のやり込み方の方向性は定まっているものが多いとは言え、要素が多いゲームであればあるほど意図してないであろうプレイスタイルの組み合わせなどによって思いがけない発見や驚きに遭遇することは多々ある。
そういうのが自由度ってもので、最近のMMORPGだとToSなんかが、あくまで戦闘スキルに関しての自由度だが、スキルの組み合わせが非常に複雑になるのでビルドの自由度が高く知恵熱をだして楽しく悩んでいた記憶がある。
MoEで0.1単位でスキル配分を悩んでいたときもそうだったし、自由度というのはなりたい/なれるであろう像が見えていればいるほど感じるものであって、ある程度までゲームをやり込んで情報も調べ尽くしていないと見えてこない概念であるとも言える。
オープンワールド的な探索や生活的な行動可能性みたいな自由度とは少し軸が違う話かもしれないが、ゲームの遊びとしての自由度ってのはそういうもんだ。
なに、そんなにオカルティックな話じゃない。
暇つぶしに聞いていってくれ。
まずは呪いをかける前の心構えだ。
これを誤ったり揺らいだりすると自分の呪いに飲まれることになる。
呪いをかける相手に個人的な感情を抱いてはいけない。友情や愛情などは以ての外だが恨みや嫌悪等の負の感情を抱くこともだめだ。
これが一番難しい。
まあ、だからこそ呪いの代行が職業として成り立ってきた歴史がある。呪術師とクライアントの関係は無責任極まりない関係だ。そこに私怨は発生しない。
では本題。
呪いのかけ方だが、その前にもう一つ、呪いの本質について話そう。
呪いは、広義的な意味では人と人の関係のこと。人間感の関係性や言葉などによる契約、もしくは態度や空気感によって相手の精神を思い通りに変化させる技だ。
「冷蔵庫にあるプリンは明日まで食べないでおいてね」とあなたがあなたの家族に伝えたとする。この時点であなたは家族に対して呪いをかけたことになる。
ただ、自覚的でない呪いは多くの場合強力な呪いとしては成立し得ないだろう。更に言うならばこの約束においてあなたは個人的な感情を抱いてしまっている。
約束を違えてプリンを家族に食べられてしまった場合、あなたは悲しみ?怒り?どちらにしろ負の感情を発露させることとなる。
あなたはあなたがかけた呪いによってあなた自身の感情を左右されてしまうことになる。これは呪いをかけるにあたって最も避けなければならない失敗を犯し、呪いにのまれてしまったということだ。
なぜ呪いをかけるにあたって個人的な感情を抱いてはいけないのかも理解できたと思う。
何度もいうが、強力な呪いをかけるには人間的な感情を一時的に捨て去る必要がある。
それを避けたいならば無関係の他人、それこそスペシャリストである呪術師に頼むのがいいだろう。
呪いのかけ方は千差万別だ。しかしやりやすい方法というのも、ある。
重要なのは、もっともらしい理由を相手に想像させること、自発的な行動を促すこと、反復してそれを定着させることだ。
極端である必要はない。必ず目を見て話す、逆に絶対に目を合わせないで話す、毎日相手に肩を触るなどのスキンシップを取るなど。
呪いの扱いに慣れてきたら規模を大きくしてみる。SNSの捨てアカウントでリプライを送りつづける、など。いかにも呪いっぽいもので言うならば(犯罪だが)虫の死骸をポストに毎日入れるとか。
相手の思考がどのような方向に向くか、相手のことを根気よく観察しながら常に影響を考えてアクションを起こし続ける。
まあ、これはわかりやすく言っただけのものだ。プロはここまで露骨なやり方を取らない。
テンプレートであなたが想像する呪術師であるならば、得体のしれない宗教というツールを使ってクライアントを媒体としてターゲットに呪いをかけるというパターンが多いだろう。
呪術師なんていう胡散臭いものに頼るのはそれを頼るくらいに胡散臭いものを信じている人だ。儀式という手続きを経ることでクライアントは呪いがかかったものと認識する。
もちろん疑う気持ちも持っているだろうが無意識下でそれを信じることによる影響は出ている。これによってクライアントからターゲットへの態度の微妙な変化など様々な要因が組み合わさることによりターゲットに向けて呪いが帰着することになる。
ここまで読んでもらってわかる通り、強力で身近な対象に向けた呪いは素人にはハードルが高い。なんとか呪いをかけるところまでこぎ着けても呪い返しにあったり予測できない不正確な効果を制御できない可能性もある。
無責任な立場で、何かが起きても対処できる範囲でのみ試してほしい。
何度も繰り返して扱いがうまくなれば実生活にも応用できるだろう。
たとえば今後誰かがはてなに対して脅迫する書き込みを増田に行ったことで、はてなが被害届を出してその人が威力業務妨害とかで捕まるということはおこりそうだろうか。
低能先生のときもそうだったがどうにもはてなには我関せずというスタンスがあるようにみえる。
それは大企業に犯罪者と認知されて名指しされたりするとそれだけで自尊心を満たされるような人がいると考えれているからだと思う。
というか、低能先生にはあてはまらないけど、とにかく承認欲求が高い人が最後の望みとして悪名をあげるために犯罪行為を働くという動機も考えられる。
だからむしろ抑止として、あるいは犯罪者ごときの心を自分たちの手で悦ばせてしまうようなことになってはなんか癪なので、ちょっとやそっとの脅迫とかでははてなは動かないのだと思う。
精神科で受けるにしても大体どこも高額、カウンセリング専門でやってるところはどこもかしこも高そうなソファーに高級そうな内装の写真をこれ見よがしにGoogleレビューやらサイトに掲載してる。もうこの時点で経済的に厳しい人間は排除される。
弾かれたところに深刻な問題を抱えてる人間がごまんといるのに。悲しいことに犯罪者になってしまう人だって、高級カウンセリングには手の届かない場所にいる人間がほとんどだろ。(そういう人は自ら進んで受けには行かないかもしれないけど。)
無料カウンセリングのNPO団体も、カウンセラーは高い金を払って趣味で勉強して国家資格でもなんでもないその団体独自の資格を取得した暇を持て余した金持ちのおじさんおばさん。他人を説教することで自分の自尊心を保ちたいだけ。
今日、仕事でミスをした。そのことでお客さんからクレームがついた。もちろん、ミスに関しては私が悪い。けれどもそこでぶつけられた暴言に対して、整理がつかなくてこの文章を書いている。
ミスに関しては私が悪い。それはそうだ。けれども、「ばーか!」と大声で言ったり、「どんなぼんくらでもそれぐらいできるだろ」とけなしたり、「頭悪いんか?」と言い放つのは、ちょっと違うんじゃなかろうか。
こちらがミスしたとはいえ人格否定のようなことを1時間も言い続けられては傷つくし、しんどくなる。電話を切った瞬間、こらえきれなくて涙が出てきた。
あなたにだって家族がいるだろう。大切な人がいるだろう。その人がそんな仕打ちにあっても「ミスしたのが悪い」って言えるのか。
対応してるのは人間なんだよ。ロボットじゃないんだよ。奴隷でもないわ。何もかもが思い通りにいかないからといって、ぎゃあと叫んで感情でコントールしようとするのが許されるのは赤ちゃんまでやぞ。あなたの感情のお守りまで、私に押し付けないでもらいたい。
ていうか、ほんま、何なん?何なん?何様なん?もうほんまなんなんやろう。なんでそんなに自分が偉いって思いこめるのかな。お客さんと店員である前に、我々人間やん。対等やん。一人の価値は同じって学校で教わらんかったんか。
ちゃうねん、ミスしたことに関しては責めてもらってかまわんねん。ただ、人格否定すなて。それだけやねん。
店員やなくて、人扱いしてくれんか。人間やから。そんなん言われたら傷つくし、疲れるし、心折れんねん。頼むでホンマ。
「正義の為なら人はどこまでも残酷になれる」って言葉、つくづく真理やなと思った。
普通に言ったら暴言だと感じてセーブしている言葉も、「相手がミスをした(ことで自分を不愉快にさせた)」という大義名分を得た瞬間、罪悪感というセーフティが外れて口から出てしまう。
そうなったら言ってる側には何のマイナスもないから、いつまでも暴言を吐き続けられるんだと思った。
正義に憑りつかれた人を一歩離れたところから見たら、無尽蔵の体力で周りに災厄を撒き散らすモンスターのようでぞっとした。
そうしてインターネットで色々調べているうちに、クレーマーは心に穴が開いている人だという記事を見つけた。
確かにそうなのだろう。自分に自信があったり満たされている人は、不適当な対応をされたからといって1時間も暴言を吐き続けたり、相手の人格を否定する発言をしたりはしない。
自分自身の中に溜まっている自尊心の量が少ないから、不適当な対応をされると自分の人格存続に大きなダメージを与えられたように感じて、それを防ぐためになんとか相手を下げようとするのだろう。
彼らがいつも「(なにをしたら誠意を見せたと思ってもらえるのか不明瞭な)誠意ある謝罪」を求めるのは、相手を下に置いて言うことを聞かせるということが、彼らの自尊心をいっときながらも満たすからなのだろう。なるほどなあ。
通り一遍の記事を読んで、ぎゃあと叫んでくる人の心理的な構造に関しては理解した。
実を言うと私の父も同種の人間で、少し気に食わない態度を取られただけで「なめてんのか!」と叫んで自分より力の弱い家族をぶん殴っていたので、まあそういう人たちの心の構造に関しては普通の人よりかは造詣が深いという自信がある(そんな自信持ちたくもないが)。父もまた尊大な態度の裏に矮小な自尊心を持つ人だった。なんだかんだといって、その人たちの問題は自分自身の自尊心の欠損を、自分自身でどうにかできないところに尽きるのだろう。
かといって今日のお客さんがわたしに吐いてきた暴言が消えるわけでもないし、事実しんどさは残る。構造の理解と寛容さはまた別のものだ。
結局「執着はうんこだから、両手に持ってないで早く捨てた方がいい」という記事の言葉が一番救いになったので、こうして増田に書いて水に流すことにした。アデュー。
Wikipediaによると、DaiGoは幼少期にいじめられていたらしい。
彼はお金=社会的承認に飢えている一方で(あるいは飢えているがゆえに)、既存の倫理観に対してかなり挑戦的だ。
彼のこうした人格には、当時の経験がかなり尾を引いているのではないかな、と思っている。
いじめられるに至った経緯は不明だが、興味は無い。いじめの経緯なんていつも些細なことだし、どうでもいい。
道徳の授業で、暴力はいけない、揉めたらよく話し合おうと教えられる。相手の人格に問題があったとしても、暴言や暴力を向けていい道理は無い。いじめは許されない。法に触れていれば犯罪だ。
しかし、建前がどうあれ、学校というコミュニティにおいては往々にしていじめが発生してしまう。学校には何故か警察は介入してくれない。彼の場合、頼みの綱の先生も助けてくれなかったようだ。
社会に適応的な人間からすれば、虐められた原因を正して社会と和解すればいいだけのことかもしれない。
しかしいじめられっ子は、たまたま生贄に選ばれてしまっただけだ。仮にいじめられる側に原因があったとしても、どこを正せばよいのか伝えられないまま、突然暴力によって存在を否定される。いじめられっ子からしてみれば、理由はどうあれただ理不尽に暴力を向けられただけである。気に入らない奴に暴力を振るい、尊厳を踏み躙り、見て見ぬふりをするという社会の悪性を一身に向けられたいじめられっ子は、果たしてそんな社会の仲間でありたいと思うだろうか?
ひとたび社会の強烈な不正義に晒された人間からしてみれば、適応は不正義への降伏に過ぎない。
彼がナタを投げるという脅迫によっていじめを克服し、しかも本人がそれを成功体験としているのも悲しい話である。
周りの大人や先生が助けてくれたなら、まだ世の中捨てたもんじゃない、正義だってある、自分には味方もいると思えたのだろう。そうした経験を欠いた彼の世界には、おそらく未だに愛も正義もない。自分の行動によって世界は変えられるという本人の言は、承認は行動によって勝ち取るしかないという不安の裏返しではないだろうか。
無条件の承認も社会への帰属意識も身につけられなかった人間は、自分に居場所があることを確認するため、社会的承認をかき集め続けなければならない。
これこそ彼が、目に見える成果が出るまで時間のかかる心理学研究でなく、すぐにお金を稼いで世間に自分の非凡さを思い知らせられる、うさんくさいパフォーマーとしての生き方を選んだ理由ではないだろうか。
私は、彼の信じられないほど酷薄な発言も幼少期のいじめに由来するのではないかと考えている。
非納税者を蔑視する発言は、相手にされないことへの不安から来たスタンドプレーという一面もあるが、既存の倫理観への不信からくる本音でもあるのだろう。暴力はいけないという一般論を教育されつつ暴力を振るわれた過去故に「口でいくらヒューマニズムを謳っても、本心は違うに違いない」と思っているのではないだろうか。
別に私はDaiGoも被害者だから哀れむべきと言いたいわけではない。理由はどうあれ、非納税者への福祉に関して無理解なまま、倫理にもとる発言をしたことは批判されてしかるべきである。
しかし「悪い奴だから懲らしめてやる!」と義憤に燃えている人は、自身が正義などではなく、気に入らない人間を積極的に排除しようとする側、いじめっ子気質の人間であることを認識した方がいい。
自分の非を認めていない人間に数の暴力でサンクションを与えたところで、暴力によって従わされたという心の傷が残るだけではないだろうか。
DaiGoの件に関して言えば、浮浪者への差別発言の問題点を大して理解していなそうな人まで「レイシズム=ナチス=悪」という借り物の価値観で脊髄反射敵に叩いているのも気持ち悪かった。Twitterで支配的な反レイシズムという規範に沿わないという理由で叩くのなら、クラスの空気に沿わない人間を吊るすいじめと大して変わらない。
DaiGoのように成功者になって世間を見返すのに躍起になり、果たしてそれが上手くいったとて、こんな風に問題行動を起こしてしまう。
逆に完全にいじけて人生を放り投げれば、黒子のバスケ事件の犯人のように社会の敵になる。
これらは元いじめられっ子の中でも極端な例である。しかし私には、帰属意識の喪失や社会の正しさへの不信、自尊心の低さ、自分の影響力を確認することへの執着といった、いじめによってもたらされる人格の歪みが遠因になっていると思えてならない。
手立ては色々ある筈だ。
これまでの話は全部私の臆測であり、一から十までこじつけである。どこかに論文があるわけでもないし、私は何の専門家でもない。
しかしDaiGo本人がオリジンとして語っている以上、暴力による自力救済でいじめを克服するしかなかった経験は、彼にとって大きな意味を持っていたのだろう。
DaiGoをいじめたりそれを傍観したりしていた同級生、彼を救えなかった教師、もしかすると「やっぱアイツ変だったしな〜」などと考えていないだろうか。
お前らが歪めたんだ。
中学2年生のとき、優しかったのにだんだん豹変していった父は破産して消えた。
小学校卒業くらいまでは、工場で働く薄給の父と夢を追う専業主婦だった母のもとで豊かではなかったが兄弟と一緒に愛されて育った。小学校高学年になって三兄弟になり、小さい公営アパートが手狭になったので家族で新築に越した。田んぼ広がるド田舎の、小さい町の中での引越しだった。そこから全部が変わっていったと思う。
幼稚園の頃に高い遊具から下りるのを怖がる私に、「俺が死んでも受け止めるから安心して降りてきな」と私を受け止めてくれた優しい父はいつしかたまに容赦ない暴力を振るうようになり、夜は帰ってこなくなり、身なりはどんどん派手になっていった。そんな父を見て、子供の前でもなりふり構わず自殺未遂を繰り返す母の姿を幼い弟に見せないように頑張って守った(つもりだったが、最近弟に聞いてみたらバッチリ覚えていた)。
ある日父は全く帰ってこなくなり、突然住んでいた家を追い出されることになった。父が破産したと聞かされた。当時高校1年生、破産の意味はよく分からなかったがとりあえず母の知り合いが倉庫に使っているという今にも壊れそうな「かろうじて」一軒家に越した。踏切の近くでいつもうるさかった。
「鬱は甘え」と思い込んでいる、ド直球に鬱病を患った母はベッドから動けなくなった。ベッド脇にはいつも首吊りの縄が吊られていて、踏切に飛び込もうとする母を兄弟全員で羽交い締めにして家に引きずり込むことすらあった。
学校はパワハラが横行する自称進学校で、勉強しないできない者に人権がないレベルの病んだ所だった。未だに高校の時の同級生と再会するとあの場所の凄まじさが1番の話題になる。
そんな毎日を過ごして、私も鬱病を患った。母と同じようにベッドから動けなくなり、死ぬことばかり考えるようになった。その時の記憶が曖昧になってしまっているが、弟もそういう様子だったと思う。家族全員がそうなってしまって、もちろん家にはお金がなかった。最近母に聞いてみると、祖母にお金を借りて何とか生活していたらしい。
ある日、母が「明日の米がない」と泣いた。母はご飯だけはなんとか作ってくれていた。もうそれを見て情けなくて情けなくて、私は出会い系アプリを使って援交しせめて自分の食費は自分で持つことを考えた。処女だったので、小学校の時に使っていた縄跳びの持ち手を使って体を使えるようにして、早速中年の男性と会った。それを繰り返して自分は外で食事を済ませ、パンなどのすぐ食べられる食料を買っておいてそっとリビングの卓に置いておいたりした。
ある日しばらくぶりに顔を合わせた母を見て、なんとなく綺麗になった気がした。言いづらそうに、全身の医療脱毛を始めたと言われた。
全身の医療脱毛は40万もするという。そのお金で私や兄弟が食べられたんじゃないの?一体お金の出処はどこなの?地獄に突き落とされたような気分だった。同時に、顔立ちがよく女として魅力的な母は、私たち子供がいなければ気兼ねなく美容にお金を使って人生を楽しめたんじゃないかと思うともうどこにも自尊心はなくなった。その次の日私は中型犬用のリードを使って(確か完全自殺マニュアルかWEBか何かに効率の良い自殺はそうだと書いてあったから)、首を吊った。死ねなかった。それから嫌なことがあると首を吊る習慣がついた。ドアノブ吊りではなかなか死ねない。死にたいのに死ねない自分がダサくて余計に情けない。死にたいのに異様に腹が減って、援交して得たお金で過食を繰り返した。死にたいのに食うのか(笑)と自嘲してまた首を吊った。体重は身長下2桁+20Kgを超えたのに、そんな醜い体を買いたがる中年男性も、そうして体を売る自分自身も気持ち悪くて仕方がなかった。
もはや記憶が無いに等しいがなにかのきっかけで私は何とかしなくてはならないと急に思い立ち、ダイエットのために絶食し(極端だ)、朝起きて夜眠ることを心がけた。色々あって今は関東の大学を卒業し、学費と生活費を兼ねて借りた700万円の奨学金を返すべく働いている。今は元気でそこそこ幸せに1人で暮らしている。
当時の自分を抱きしめて、コンビニのご飯じゃなくてちゃんとしたご飯を適量食べさせて話を聞いてやりたい。居場所はどこにもなくても生きていていいんだよと教えてあげたい。