今日、仕事でミスをした。そのことでお客さんからクレームがついた。もちろん、ミスに関しては私が悪い。けれどもそこでぶつけられた暴言に対して、整理がつかなくてこの文章を書いている。
ミスに関しては私が悪い。それはそうだ。けれども、「ばーか!」と大声で言ったり、「どんなぼんくらでもそれぐらいできるだろ」とけなしたり、「頭悪いんか?」と言い放つのは、ちょっと違うんじゃなかろうか。
こちらがミスしたとはいえ人格否定のようなことを1時間も言い続けられては傷つくし、しんどくなる。電話を切った瞬間、こらえきれなくて涙が出てきた。
あなたにだって家族がいるだろう。大切な人がいるだろう。その人がそんな仕打ちにあっても「ミスしたのが悪い」って言えるのか。
対応してるのは人間なんだよ。ロボットじゃないんだよ。奴隷でもないわ。何もかもが思い通りにいかないからといって、ぎゃあと叫んで感情でコントールしようとするのが許されるのは赤ちゃんまでやぞ。あなたの感情のお守りまで、私に押し付けないでもらいたい。
ていうか、ほんま、何なん?何なん?何様なん?もうほんまなんなんやろう。なんでそんなに自分が偉いって思いこめるのかな。お客さんと店員である前に、我々人間やん。対等やん。一人の価値は同じって学校で教わらんかったんか。
ちゃうねん、ミスしたことに関しては責めてもらってかまわんねん。ただ、人格否定すなて。それだけやねん。
店員やなくて、人扱いしてくれんか。人間やから。そんなん言われたら傷つくし、疲れるし、心折れんねん。頼むでホンマ。
「正義の為なら人はどこまでも残酷になれる」って言葉、つくづく真理やなと思った。
普通に言ったら暴言だと感じてセーブしている言葉も、「相手がミスをした(ことで自分を不愉快にさせた)」という大義名分を得た瞬間、罪悪感というセーフティが外れて口から出てしまう。
そうなったら言ってる側には何のマイナスもないから、いつまでも暴言を吐き続けられるんだと思った。
正義に憑りつかれた人を一歩離れたところから見たら、無尽蔵の体力で周りに災厄を撒き散らすモンスターのようでぞっとした。
そうしてインターネットで色々調べているうちに、クレーマーは心に穴が開いている人だという記事を見つけた。
確かにそうなのだろう。自分に自信があったり満たされている人は、不適当な対応をされたからといって1時間も暴言を吐き続けたり、相手の人格を否定する発言をしたりはしない。
自分自身の中に溜まっている自尊心の量が少ないから、不適当な対応をされると自分の人格存続に大きなダメージを与えられたように感じて、それを防ぐためになんとか相手を下げようとするのだろう。
彼らがいつも「(なにをしたら誠意を見せたと思ってもらえるのか不明瞭な)誠意ある謝罪」を求めるのは、相手を下に置いて言うことを聞かせるということが、彼らの自尊心をいっときながらも満たすからなのだろう。なるほどなあ。
通り一遍の記事を読んで、ぎゃあと叫んでくる人の心理的な構造に関しては理解した。
実を言うと私の父も同種の人間で、少し気に食わない態度を取られただけで「なめてんのか!」と叫んで自分より力の弱い家族をぶん殴っていたので、まあそういう人たちの心の構造に関しては普通の人よりかは造詣が深いという自信がある(そんな自信持ちたくもないが)。父もまた尊大な態度の裏に矮小な自尊心を持つ人だった。なんだかんだといって、その人たちの問題は自分自身の自尊心の欠損を、自分自身でどうにかできないところに尽きるのだろう。
かといって今日のお客さんがわたしに吐いてきた暴言が消えるわけでもないし、事実しんどさは残る。構造の理解と寛容さはまた別のものだ。
結局「執着はうんこだから、両手に持ってないで早く捨てた方がいい」という記事の言葉が一番救いになったので、こうして増田に書いて水に流すことにした。アデュー。
水に流せて偉いすごい