はてなキーワード: 自尊心とは
時すでに遅しだが、新卒で入社した企業で配属先を選ぶときの参考にして欲しい
・人の性格が”個性的な~”とか”個性が強い~”という風に表現されていたらアウト。
・仕事にやりがいを求めるかどうかは人それぞれだが、やりがいを語れない部署はダメ。
ポンコツが自尊心を満たすために、自分の配下に更なるポンコツを置くからである。
教育制度の中で、能力がある水準に達しなければ戦力外通告されるからである。
・管理職の役目は、部下のマネジメントもそうだが、他組織との利害関係の調整も含まれる。
当方30代後半の男性、幸いにも健康診断はまだ何も引っかかっていない健康体である。
はじめは勤めている会社に献血のバスが来たので、興味本位で参加してみた。
体重が50kgちょっとしかない自分の体から400 mLもの血液が出ていったらどうなるのだろう、といった感じだった。
結果としては体調に何の変化も生じなかった。お礼としてティッシュペーパーをもらった。
会社に来る献血のバスとのスケジュールが合わなかったので、市中の献血センターに行った。
また、寝っ転がっているだけでも褒められるし、社会貢献までできる。
日本社会のルッキズムに抵抗して、母親が娘の自己肯定感を高めるような教育をしているってのを見掛けるけどさー
自分も子供の頃は両親や親戚から可愛い可愛い言われて育ったから自己肯定感たっぷりだったけれど
成長してからそんなものは全てゴリゴリに削られて自己肯定感や自尊心を失った。
ギリギリ大学までは希望を持っていたけれど、その後の就職活動やネットの普及によって
メイクでもどうにもならないレベルだと思い知らされた。骨を削るにも限界があるから、整形でも無理だ。
どんなに親が子供を可愛い可愛い言って肯定したところで、世間で一重はブス、面長はブスって言われているのを見ちゃったらもうどうしようもないんだよね
今の若い子だったらそれ以前の小中学生とかの段階でネットに触れるだろうから
ルッキズムに晒されないなんて無理。親がどんな教育をした所で無駄だと思う。
子供の不幸に関しては全て「親が悪い」って思うけれど、それはあくまで親が産まなければこの世に存在しなかったという意味であって
部落解放同盟大阪府連日之出支部の前支部長が、宴席で同席していた別の人権団体の女性職員を名指しして「○○さんのヌード写真を撮って売り出そう」「(支部の)資金を稼ぐためや」「きょうは○○さんの自尊心をぼろぼろに傷つけたろうと思っとったんや」と発言した。同席の現支部長も女性の年齢に触れて「この年では、もう売り物にならんな」などと尻馬に乗って揶揄した。このため女性が府連に抗議し、支部長らは謝罪に追い込まれた[82]。被害女性は部落解放同盟を相手取ってセクハラ糾弾会を開こうとしたが、「加害者どころか部落解放同盟側も逃げ腰です。このままでは糾弾する相手みんなに逃げられてしまう危険性が出てきました。解放同盟といえば、これまで他者を糾弾することにおいてはお得意中の得意なのに、自分の番になればこの有様。情けなくて泣けてきます」[83]と嘆いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD%E8%A7%A3%E6%94%BE%E5%90%8C%E7%9B%9F
どうして自分が書いた(描いた)ものを誰かが金払って読んでくれると思えるの?
どうしてそこまで自信があるの?
描いても描いてもうまくなった気がしなくて自分の描きたいものが理想の形で原稿に出力されなくて苦しい。
ここのコマはイケメン(または美少女)と公式で設定されてるキャラクターの特にイケてる顔のコマじゃないといけないのに私が描いたんじゃ大福にゴマ粒乗った何かにしかならん。いきなりブサイク大福化されたキャラクターのアップのコマ。
ギャグ描きたいわけじゃないのに。
嫌になって描くだけ描いて情けなくなる。キャラクターを戒めてる気がするし可愛く描いてあげられないのが情けないよ。
https://mala.hateblo.jp/entry/2011/12/14/121139
個人的に銘文だと思っているmala氏の「はてな使ったら負けかなと思っている2011」が書かれてからおよそ10年が経った。
たしか当時はネットが危険な場所から健全な場所へとイメージが変わりつつある頃だったと記憶している。
はてなも湿っぽいイメージのはてなダイアリー(個人の感想です)から明るい陽キャのはてなブログへと転換を図り、その5年後には上場を果たす。
石の下でグネグネしていたネット諸氏は、少しづつ陽の光が当たり始めた場所に居心地の悪さを感じ始めていたのではないだろうか。
自身も石の下の一匹であった僕もまた居心地の悪さを感じた一人であり、mala氏の文章の文末に吐き捨てるかのように書かれた『大多数の人にとってインターネットは安全なものであり続けている。すべての人々が、ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれますように。』に喰らってしまった。
mala氏の呪詛が通じたのかは分からないが、多くの人にとってインターネットがより安全な場所になりつつある今、所謂「ネットを通じたトラブルや揉め事に巻き込まれた」人もまた少なくない。
毎日ネットで誰かが誰かに噛み付いており、モニターから飛び出して直に人間を殴りに行く者までいる。
ツイッターではしょっちゅう訴訟が起こされたり、訴訟をするぞと脅したり、訴訟を失敗して笑われたりしている。(10年前の皆さんはこんなにも訴訟が身近になると思っただろうか?)
気がつけばネット越しにお財布からお金を盗まれていて、誰かが炎上して辞職するニュースを見ながら振り返ると、後ろでは自ら火の中に飛び込むYouTuberがいる。
ネット炎上に(無自覚も含め)加害者として加担する人を含めればほぼ「すべての人々が」巻き込まれていると言って差し支えないだろう。
いい時代になった。
しかしそんなリスキーな時代なのにも関わらず、個人の匿名性はほぼなくなりつつある。
ここで言う匿名性とは、セキュリティ的なあれこれではなく「アバターと個人を切り離す」行為のことだ。
少し前、SNSがインフラ的な役割を担うようになった頃、多くの人がネット上の影響力や人間関係などが資産的な価値を持つと考え始めた。
実際、これらはリアルな金銭的な価値や、承認欲求を満たすアイテムとして、非常に高いレートで取引でき、将来性まである事がわかってしまった。
これらの資産を現実に持ってくるには、もちろんネット上のアバターと現実の個人を紐付けなければいけない。
普段は大事にしまっていて時折箱を覗いて満足する、そんな昔の玩具に法外な買取価格が付くかもしれないのだ。
ネット上の分人と現実世界の個人が紐付けば、ネット上のいざこざは現実世界に流れ込んできてしまうのは当たり前なのだが、それに直面したのは数年後。
そんな感じで、僕たちは貴重な匿名性を自ら放棄してお金とか自尊心だとか、まあそれ以外にも色々と便利なサービスを甘受して満足して暮らしましたとさ。
そんなわけで、おわかりだろうか、はてな匿名ダイアリーは数少ない残された大地である。
僕は文学に詳しくは無いし、文学のカテゴライズにはもっと詳しくない。
しかしぼくがかんがえるさいきょうのネット文学的な想いはぼんやりとある。
一番の条件は、書いた人が現実の人に紐つかないということだ。
誰かに結びついてしまえばもうそれはネット文学でなく、その人の文章になってしまう、そんな気がする。
誰が書いたのかがあやふやな文章、知っている人が読めば一発で属性が特定できそうな個性豊かな文章にもかかわらず、著者を知っている人は絶対読むことが無いであろう場所にひっそりと書かれており、物知りなネットの知り合いからリンクで送られてきたそれを開くと、改行や句読点の位置はまるでデタラメ、熱量だけで押し切られた5万字にも及ぶ文章は文句なく面白く「しかしこの文章読みにくいなー」「段落くらい分けろや」と文句を言いながらも一気に読み切ってしまう。
締切が近い仕事で深夜にシコシコと作業をしている時に、何の予告もなく突然そんな文章と出会い頭に衝突して朝まで全然仕事にならない、そんなのが理想のネット文学との出会いである。
昔はそんな文章にぶつかる事が多々あった。
テキストサイトという名の万国博覧会、ブログブームの中で一般の日記に交じる電波日記・怪文章、エログロナンセンス絶望の世界、2ちゃんねるのコピペ、そいういった無数の砂の中から時折砂金のような文章が落ちていたりした。
多くの文章は一期一会で、心と記憶に余韻を残しつつまた砂の中に消えていった。
いやいや昔話はやめよう。
ネット文学が現実と紐ついてほしくないというのは僕だけだろうか。
もちろん、ネット上の優れた才能が現実に結びついて報酬を得られるのは喜ばしいことだ。
しかしそのサイクルが非常に早く、システム化され、なんなら最初から最後までの筋道が出来てしまっている事が多い今日では、現実と紐つかない文章にこそネット文学としての煌めきがあると僕は思う。
ネットと現実の結びつきがより強固になった今、ネットでしか読めない文章、ネットでしか評価されない(あるいは評価もされない)文章というものはこの先ますます読めなくなってくる。
事件を利用しての「フェミニスト内」でのマウンティング行為だよねこれ
オタクって「モテなくて、不細工で、陰キャラ」という「自虐コード」が存在して
逆にモテてイケメンで陽キャっていう属性=「自慢コード」を開示することがオタク内でのカーストに作用するし
ラルキ事件・全身アルマーニ事件みたいに開示の仕方を失敗するとカーストが下がったり村八分になる
フェミニストも「モテなくて(男に媚びてなくて)、不細工で(脱コルしてて)、陰キャラ(世の中に怒ってる)」という「自虐コード」があって
その中で上手く「結婚して子持ちです、オシャレで美人です、世の中と上手くやってます」アピールをすることでカーストを上げられるけど
今回は無差別殺人事件に乗じて「被害者である私」の裏にひっそりと「自慢コード」を忍ばせているのが気持ち悪いんだよな
この自虐コードを「不幸を肯定してる」って言う人が居るけど、本来世の中で上手く行ってないと言われてる人が
「自虐コード」という前提があることオタクとして差別されない作用があるし
同時にうっすらとした「自慢コード」の憧れがその人のペースで社会に適応する助けになると思うから
必ずしも自虐コードは悪くないし、逆にその自虐コードを利用して他人の自尊心を奪おうとするテイカーはフェミ憎しと言えども可哀そうだと思うわ