はてなキーワード: 昭和天皇とは
で、その中で力のある者が王位に就いたのです。
そのためにはライバルを容赦ない殺戮を繰り返して天皇(大王)直属の伴造に統括する体制を作り上げた、まぁ極道と同じなのです。
しかし、そのままではただの成り上がり者なので権威付けが必要だった。
もともと日本にあった土着信仰を、さも関係あるかのように天皇と結び付けた。
そして、大陸から仏教が入ってくると、その宗教的権威を天皇統治に利用しない手はなく、鎮護国家として仏教を利用し、天皇や多くの皇族を出家させて高僧にした。仏教の権威を利用し、そのために仏教を保護したのです。
釈迦が欲望を抑えるために作った仏教を、広大な荘園を所有し天皇権力の権威付けに利用するというただ欲望のためだけに利用した。お釈迦さんが聞いたらこんなことのために仏教作ったんじゃないと怒るでしょうね。
そして、壬申の乱で大海人皇子が大友皇子を打倒すべく吉野から東方に遠征し伊勢の豪族度会氏を服属させた時、伊勢の太陽神アマテルの威光が見えたので、「そのおかげで大友皇子に勝利した!」と信じ込み、伊勢にあった地方神話の地方神アマテルを皇祖神に格上げした。
で、「その末裔の神武天皇という架空の天皇が初代天皇なのである」という筋書きで、天皇統治の正統性の根拠として作り上げたのが伊勢出身の稗田阿礼創作の「記紀」。
まぁしょせんこんな程度の家系なので歴史的にもロクでもないことばかりやってきました。
事もあろうに大嘗会で神聖な高御座に女官を連れ込んで情事を楽しんだ花山天皇。
ジャンプでやった増田(https://anond.hatelabo.jp/20241012181121)に触発されました。30年近く愛読…というよりはたまに頭を傾げながらずっと読んでいるビックコミックスピリッツ誌から独断と偏見で漫画史や社会への影響を考えて5作品をセレクト
同じくランキングではなくて連載開始順に並べました。
高橋留美子の最高傑作にして恋愛マンガにおける最重要作品。初期のスピリッツはスピリッツという雑誌名よりも『めぞん一刻』で一般的に知られていたという。
最初の頃の響子さん、可愛くも何ともなかったのにねえ。回を重ねていくうちにルックスはかわいくなって性格は反比例するように嫌らしくなるという。
こちらは料理漫画における最重要作品。料理人を主人公からあえて外すことで「料理以外の食べ物に対する多面的なアプローチ」に成功した。
山岡士郎と海原雄山という日本漫画イチ有名な親子で知られているが読んでみるとキャラクターより原作者の方がうるさいうるさい。しかも全く調べていないのがミエミエ。衝撃的だった現時点最終話は雁屋哲の限界が露呈してしまったんだろうなあと。
連載休止直後編集部の企画で花咲さんは『のぼうの城』のコミカライズを担当したが…。食べ物は上手い方ではあるが。
柔道さらに格闘マンガといえば各スポーツマンガの中でも特に汗と男臭さが強いという伝統があったがそれを江口寿史と大友克洋とのハイブリッドな画風で遥か彼方まで吹っ飛ばした。いきなり巴投げのパンチラというね。
社会的影響でいえばこの作品以上の作品はない。何せ谷亮子というモンスターがこの影響で出現してしまったのだ。あとこの後浦沢直樹はちゃんと物語をたたむことができなくなるのは余談として。
そりゃ相原コージ『コージ苑』も偉大な作品であるし中川いさみ『クマのプー太郎』も名作ではある。とはいえ実際2コマ目に「ねたみ」というプラカードを持ったカワウソくんを見たときの衝撃が忘れられない。下ネタもダジャレも少なくて笑いと恐怖の紙一重をずっと行き来する新しさ。
ファミ通の『はまり道』サンデーの『ちくちくウニウニ』ときはそこまで感じなかったしその後の『ぷりぷり県』もそこまでの凄さはなかったが『伝染るんです』はやばい。
今のサイバラを見ると悲しくなる。高須克弥の人となりが白日になった今、高須クリニックのCMの痛い姿とか気持ち悪いし娘さんの事とか鴨ちゃんのこととかいろいろ足蹴にして今を生きているのも胸糞悪い。そんなクソババなのに『ぼくんち』はやはり歴史に残る傑作なのだ。
時々一太のことを考える。連載が終わって25年ぐらい経ってもだ。そして誰もいなくなっても二太は笑ってくれた。この話は多分その事だけを描いた作品だけだったかもしれん。だけどこの頃のマンガの中で1番涙を流した作品だった。
一応5作品に厳選したが意外と異論が少ないのではないかと思う。というかこの雑誌これらの作品から「ちょっと惜しい」作品がやたらと多すぎる気がする。
今回除外した作品
知名度や社会的影響は大きいだろうがこれはマンガ単体の評価じゃないし最近どんどん画面が汚く下手になってるのが気持ち悪い
唯一無二のアート漫画。とはいえ『猿飛』『ガンモ』ほどの知名度がない。村上隆に対する批判はマンガ界でもアレが許せない人は多数いるんだなという感想に。
『ナニワ金融道』は偉大だなと読んでて思う。多分真鍋先生と青木先生は合わないよなあ。
悩んだ作品その1。国民的アニメになり損ねたアニメも含めていろいろ惜しいし最終回も唐突に終わった記憶がある。お姉さんに似てたお母さんが年月を経るに従って今のお母さんになるというシーンに腹を抱えて笑った記憶。
悩んだ作品その2。とはいえここに書いておく事が中崎さんらしいと。定年迎えて連載辞めてもう絵の道具さえも捨てられていらっしゃると聞いて少し茫然としてた。
弘兼憲史より嫌いだし苦手。原作ドラマも含めてなんで受け入れられるのかが分からない。(『東京ラブストーリー』は坂元裕二が整えたので作品になった)それでもあすなろはまだ読める。しかし続編を最近描いたときはクソババアふざけんなという感想に至り。
レースを真正面から描いた黎明期の傑作。とはいえキャラクター造形の途中で削ってきたテーマを集めて煮込んだ『ICHIGO二都物語』の方が面白いのには…。
初回が見事すぎたし、連載開始のときわざとタイトル載せなかったのは反則だよなあ。あと実は『いいひと。』の方が好きでフジテレビふざけんな。
実は次点作を書いていた途中でUPしてしまったしトラバとブコメで記述もあったので次点の続きと言われた作品や言及があったものについて。
忘れてた(その1)ただし僕がなあばす派(学研派)だったことが主な原因かと。なあばすでの耕平ちゃんはすんごい丸くなっちゃったし。
こっちは次点として書く前にアップしてしまったので。しかしながら多分これがなければ実録系マンガもエッセイマンガもマンガ批評もなかったから歴史上重要な作品ではある。
入れ替わるなら『ぼくんち』なのは激しく同意。好みの問題というかボクの責任で
これは『伝染るんです』で言及した通り僕の思い入れの差で選ばなかったという。あと相原先生の最高傑作は『ムジナ』だと思ってます。
江口寿史アンド望月峯太郎ミーツ島本和彦という鬼才。絵がキレイな人ほどかっこいいブサイクが描けるという証明。ただ僕より上の人の方が思い入れが強い気がする。
不条理ギャグブームの最中にあってその中でも素直な笑いを提供していた印象が強いし、最近のマンガ製作マンガがすごい面白かった。歴史的ではないけどいいマンガです。
個人的な感情で言えば大好きなマンガ。いずみちゃんで性癖が壊れたしウチの妹は不破くん推しだった。あ、あと『結婚しようよ』もビターで好き。
『哭きの竜』と『昭和天皇物語』のちょうど中間点に位置する作品。中原誠のその後を予期したような描写や谷川さんからクレーム出ないかなと思ったキャラ造形が良かったがその後に羽生善治が出現し現実が超えていったのには閉口。
この人ここでも大きな足跡を残してた。『宮本』『ザワールド…』に比べると知名度は薄いがキャリアを決定づけた名作。ばあさん描かせるとエグいよなあこの人も。
忘れてた(その2)『あしたのジョー』の模写もすごいが『キャンディキャンディ』を完全模写したのには戦慄が。
長期連載化し始めて逆に評価が難しくなった気がするのは俺だけか?ダレないのがただただすごい。
近年のスピリッツを支えていたと言っても過言ではない極めて真っ当なスポーツ漫画。
ロードス島戦記と間違えて塩野七生の『ロードス島攻防記』を読んで、そのままズブズブとヨーロッパ史へと行った人向け。このあと阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』が待っておる。
いやだから例えば『まことちゃん』と『漂流教室』どっちがすごいか選べるか?というと。
アイアムアヒーローはその中でも抜け出すかなあと思ってたがなあ…。
土竜はちょっと続きすぎた気もするし他はそのままヤンサンで全うできたはずマンガだからスピリッツの評価に繋がる訳ではない。
ちなみにスピリッツが死に水を取ったマンガとしてはクロサギとイキガミ以外に『ブラックジャックによろしく/佐藤秀峰』がある。
『シャカリキ!』『め組の大吾』から読めばこの人が本当に描きたいものは天才なのは分かる。ただ同時連載には向いていない。他連載の犠牲になったような終わり方。
じっくり野球を描くというタイプではないことに気づくのが遅かったなあ。『冬物語』『部屋においでよ』の方が資質だったと今思えば。
大塚英志と長崎尚志ならどっちの方が害悪なんだろうか。Happy!だって話を途中で下方修正してたぞ。
着眼点は早く『恋に落ちたシェイクスピア』よりだいぶ前。結局話をまとめ切れずヤンマガに復帰。ただいまは休載
こういうテーマのときに真っ先にダシにされる作品。しかも終わり方が『代紋take2』と全く同じという。その後『坂の上の雲』のトレースに失敗する。
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く
おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
2000年代になると、日本の映画やドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマは陳腐なものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理・人情の世界観でつくられた恐らく最後のドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸の系譜なのである。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
・薩摩藩が琉球王国を侵略、奄美を奪って薩摩藩に併合(奄美が不自然に鹿児島県なのはそれが理由)
その後琉球王国は琉球藩になり、廃藩置県で正式に沖縄県として日本に併合
・中央から役人が来て沖縄を支配 文化・言語を破壊 それまで琉球王国を治めていた尚氏らは東京に住むように命じられる
・WWII戦争で情勢悪くなったら中央政府はさっさと降参して沖縄放置、沖縄壊滅、昭和天皇のせいで10万人死
・終戦後沖縄はアメリカに併合されて米兵にやりたい放題される(レイプ、強盗、殺人しても無罪放免)
・その後日本に復帰するも戦争とアメリカ統治時代のせいで未だに貧困。沖縄に基地を押し付けまくり県民世論調査でも県内基地移設反対派が多数。未だに自民党が弱い。
そのほか、戦前は鉄道があったのにアメリカが破壊しまくったため今は短いモノレールとバスが移動手段のメインで大混雑する
また、戦時中のトラウマや不良米兵の脅威を吐露するだけで「自分だけ被害者ぶるな」理論を武器に結構な割合で存在するキチガイから叩かれる
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
明治神宮の再開発にせよ、黒歴史な施設をだんだん小さくして消滅させてるぽいなぁ
昭和天皇も1989年まで存命だったが、それからもう40年たったからかい
検察はおでこに親米反中と書いてあるし、台湾有事の勃発により法曹権限を増やしたいようである
当然、格差を拡大させて、石丸(金融不動産)、小池(電力エネルギー)を推す方向である
暇空茜は立候補はしたが、女性ヘイト発言を繰り返していたことを考えれば真剣味は伺えないので、法曹から支援を得ているガス抜きヒーローの位置にある
いずれにせよ、都知事現職は自ら辞任するまで現職でいられるという硬直化がある
石原は築地市場を消滅させ、今は跡地に5万人スタジアム建設計画がある
しかし、明治初期の銀座に日本初の西洋式ホテルであった築地精養軒が存在した事実は消えない
(これは2003年以降は、ドイツのEPA通信と契約した時事通信社になっている)
やはりドイツ学協会派、青天会派の計画がどこかに潜んでいるようだ
大日本帝国憲法作ったのもドイツ人なら、流行りのアディダスもかつてはナチスドイツの企業だし、築地スタジアムも縄張りのひとつとして商売をすることだろう
昭和天皇、学習院の授業においてカエルを解剖される。御帰還後、トノサマガエルを再度解剖され、諸器官を一々御観察になる。終わってカエルを箱に収め、雍仁親王・宣仁親王と御一緒にお埋めになり、「正一位蛙大明神」の称号を賜う。
https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/5.pdf
これによると上官殺人については、代表的なものとして以下の事例を確認できる。
概要: 輜重兵第3連隊第1中隊において、下士官7名と兵32名が中隊長代理および中隊将校に対して集団暴行を行い、中隊長代理を殺害した事件。
原因: 中隊長代理の過激な軍紀粛正に対する反感が引き金となった。
処罰: 首謀者の曹長は死刑、中隊長代理も職権乱用の罪で懲役1年6ヶ月に処せられた。
概要: 第59師団第53旅団隷下の独立歩兵42大隊第5中隊で、兵6名が中隊幹部に対して暴行を行い、中隊長を殺害した事件。
処罰: 本事件の詳細な処罰については記載されていないが、軍内で大きな衝撃を与えた事件として記録されている。
概要: 昭和18年度には、上官殺傷事件が合計で45名にのぼり、特に中隊長以上に対する犯行が多数発生していた。
原因: 上官の粗暴な態度、軍事能力の欠如、指導能力の不足などが原因として挙げられている。
殺人を取り上げたが、対上官犯の発生傾向を全般でみると、戦況の悪化に伴い増加していた模様。
昭和16年度の対上官犯は341名であり、前年の202名から約1.7倍に増加している。
昭和17年の上半期だけで、対上官犯は126件、152名に達している。
昭和18年度には対上官犯が428名に増加し、前年と比較しても著しい増加傾向。
昭和19年には対上官犯がさらに増加し、1月から7月の間に既に347名に達しており、前年の一年間の総数に近づく勢い。
対上官犯の増加についての背景について、戦況悪化と士気低下の影響と分析している。
ガダルカナル撤退後、第一線も後方も士気が低下し、対上官犯や奔敵逃亡が増加する傾向にあったという。
補給不足や飢餓状態が士気を低下させ、逃亡者や対上官犯の増加に繋がったとのことだ。
戦闘が激化し、士気が低下することで、上官への反発や不満が顕在化しやすくなり、対上官犯の発生が増加したと考えられる。
これに対して、陸軍は戦陣訓による教育的指導で意識改革を図ろうとした。(戦陣訓かよ。。。)
PDFは・・・以上のような内容の文書のようだ(AIによると)。
なるほど。面白い。
しかし、そもそも、満州事変にしても陸軍中央の一部幕僚と関東軍の連携に遂行され、それは政府や陸軍首脳の方針に反して行われたものだったし、226事件にしてもクーデターだ。陸軍内部には長い間、皇道派と統制派の対立があってそれがクーデターにつながったもの。
犬養毅首相を武装した陸海軍の青年将校たちが暗殺した五・一五事件(1932年)の時点で、もはや【軍務による制約】がすでに機能していなかったといえる。首相殺害って上官殺しどころの次元じゃない。下剋上すれば何かを変えられると信じていたということだ。
日本陸軍の歴史を振り返ると、ある意味、組織に内在する”下剋上”的な雰囲気が戦争へと突き動かしていたことがわかる。
それは当然ながら戦陣訓といった組織内規律でコントロールできる範疇を超えるものであり、根本的なガバナンスが問われていたことは間違いない。
そのダイナミックな動きをもっとも恐れていたのは昭和天皇だったかもしれない。
上記文書の対上官犯罪の増加について戦陣訓で対応したとあるが、こうして下剋上的な力学が全体で強く働いていたなかでは、戦陣訓ごときで風紀の乱れなど押さえきれるものではなかっただろう。
その戦陣訓を考案したとされる陸軍大将の畑は、昭和20年8月6日、たまたま広島駅近くで被爆し、その体験をもって上京、御前会議の前の元帥会議に臨んだ。他の元帥が主戦論を張るなか、ただ一人、本土決戦など不可能である旨を天皇陛下へ奏上、敗戦に至ることになる。
歴史にもしはないが、天皇陛下に奏上できる立場の陸軍首脳が原爆被害に遭っていなかったら?・・・もしかすると、当時の地震災害を黙殺したみたいに、原爆被害も知らされず黙殺されて、もう数発くらい落とされていたかもしれないし、ソ連の侵攻も相当進んでいたかもしれない。
このことからわかることは、各都市が焼けようと沖縄がどうなろうと本土決戦を諦めなかったにもかかわらず、原爆の威力を肌身で理解した元帥が奏上できたということは、人間誰しも当てはまることで、いくら想像力があっても、現場にいかないかぎり現場のことはわからないということだ。
なお、畑に随行していた参謀は宮城事件(クーデター)に巻き込まれ、青年将校に殺害されたとwikipediaに書いてあった。
アメリカ海軍の代表的指揮官ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督は「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ」をスローガンとしており、艦隊宛の通信文は「やつらを死なせ続けろ」と結ばれていた。
チェスター・ニミッツ提督宛の私信でも「もっと猿の肉を確保する」ための潜水艦の活動を提案した。
ハルゼーは新聞記者達に対して、日本を占領した暁には日本人女性全員に不妊手術を施すべきだと冗談まじりに語り、また昭和天皇の処刑もほのめかした。
第二次世界大戦中、ハルゼーはワシントンで報道陣から「皇居も軍事目標か」と問われこれを否定した際、
不用意に「ヒロヒトの白馬は死なせたくない、そいつに俺が乗ってやりたいからな(I'd hate to have them kill Hirohito's white horse, because I want to ride it)」と発言した。
この発言は大々的にPRに使われ、1945年6月4日の『ライフ』には
「提督に馬を贈ろう!(LET'S GET THE ADMIRAL HIS HORSE!)」というタイトルで昭和天皇を乗せた御料馬白雪の写真が掲載された戦時国債の購入を呼びかける広告が掲載された。
ぶっちゃけコロンブスがそんな批判されるような奴だなんて知らんかったわ。気になったからChatGPTに聞いた。
評価が変わった偉人や英雄の例を以下に挙げ、それぞれの以前の評価、現在の評価、そして評価が変わった原因を説明します。
クリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)
- 以前の評価: アメリカ大陸の「発見者」として賞賛され、探検家や冒険家の象徴。
- 現在の評価: 植民地化と先住民に対する残虐行為の象徴として批判されることが多い。
- 評価が変わった原因: 植民地時代の負の歴史(先住民の虐殺、奴隷化、搾取)に対する認識の変化と、それに基づく再評価。
トーマス・ジェファーソン (Thomas Jefferson)
- 以前の評価: アメリカ独立宣言の起草者、第3代大統領として民主主義の象徴。
- 現在の評価: 奴隷所有者としての側面や、個人的な矛盾が強調されるようになった。
- 評価が変わった原因: 人種問題や奴隷制度に対する現代の感覚が変わり、歴史的人物の持つ複雑な側面が再評価された。
ウィンストン・チャーチル (Winston Churchill)
- 以前の評価: 第二次世界大戦におけるイギリスの英雄、ナチス・ドイツに対する勝利に貢献した指導者。
- 現在の評価: イギリス帝国主義の象徴として、植民地政策や人種差別的発言が批判されることが増えた。
- 評価が変わった原因: 帝国主義の批判と、チャーチルの発言や政策の再検証による評価の見直し。
マハトマ・ガンディー (Mahatma Gandhi)
- 以前の評価: インド独立運動の父、非暴力主義の象徴。
- 現在の評価: その思想や行動に対する複雑な視点が増え、一部の人々からは人種差別的な発言や行動が批判される。
- 評価が変わった原因: ガンディーの南アフリカ滞在時の発言や、女性やカースト制度に対する態度が再評価されたため。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (Martin Luther King Jr.)
- 以前の評価: アメリカの公民権運動の象徴、非暴力抵抗の指導者。
- 現在の評価: 公民権運動の功績は評価され続けているが、個人としての問題や欠点もより注目されるようになった。
- 評価が変わった原因: 公開されたFBIの調査資料や、個人のスキャンダルに関する報道。
ナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte)
日本人だとどんな例があるんや?
もちろん、日本人の例もあります。以下に、評価が変わった日本人の偉人や英雄の例を挙げます。
豊臣秀吉 (Toyotomi Hideyoshi)
- 以前の評価: 戦国時代の英雄、農民から天下人に成り上がった出世の象徴として評価された。
- 現在の評価: 朝鮮出兵や高圧的な統治政策、晩年の暴政などが強調されるようになった。
- 評価が変わった原因: 近代の歴史研究の進展や、戦国時代における倫理観の変化。
織田信長 (Oda Nobunaga)
- 以前の評価: 戦国時代の革命児、革新的な統治者、天下統一の基盤を築いた英雄。
- 現在の評価: 過激な政策や宗教弾圧、暴力的な手法が批判されることが増えた。
- 評価が変わった原因: 史料の再評価や、信長の行動の道徳的側面への注目の高まり。
昭和天皇 (Emperor Hirohito)
- 以前の評価: 戦後日本の復興と経済成長を象徴する象徴天皇、戦時中の役割は曖昧にされた。
- 現在の評価: 第二次世界大戦における戦争責任やその役割に関する議論が増えた。
- 評価が変わった原因: 戦後の歴史研究の進展や、公文書の公開、戦争責任に関する社会的な議論の深化。
徳川家康 (Tokugawa Ieyasu)
- 以前の評価: 江戸幕府を開いた名君、平和と安定をもたらした統治者。
- 現在の評価: 統治初期の抑圧的な政策や、反対勢力への冷酷な対応が強調されるようになった。
- 評価が変わった原因: 歴史研究の深化と、彼の政治手法に対する現代の視点からの再評価。
福沢諭吉 (Fukuzawa Yukichi)
- 以前の評価: 明治時代の啓蒙思想家、「学問のすすめ」の著者、日本の近代化に貢献した教育者。
- 現在の評価: その思想の一部が欧米中心主義や差別的であるとして批判されることがある。
- 評価が変わった原因: 近代化に伴う欧米化の影響や、その思想の背景にある差別意識の再評価。
山本五十六 (Isoroku Yamamoto)