はてなキーワード: キング牧師とは
そういう発想だからTERFにもなるんだろうな……といろいろ納得してしまった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1625581
差別反対を主張していた人がこんなにもあっさり差別的発想に転んじゃうのって、やっぱり本質的に「差別のない社会」がどういうことか理解できてなかったんじゃないかな。
差別というのは、「○○人の血は汚れている」のような根も葉もない生理的嫌悪感に基づくものから、「○○人の犯罪発生率は高い」という統計的事実に基づくものまで色々ある。
アメリカでは黒人の犯罪率は他の人種と比べて高い。だから、もしも「社会の多数派にとっての安全」を「差別の解消」よりも上位に置くのなら、黒人ばかりを狙って職質をかけたりするのは合理的な行動ということになる。それによって黒人の手になる犯罪が未然に防がれるのなら、社会はきっとより安全になるだろう。
別の例を挙げてみると、キャリアの途中で退職したり長期間の休暇を取ることの多い人びとを職場から排除すれば、組織の効率性は上がるだろう。原理主義者によるテロが頻繁に起きている宗教の信者の入国を拒否したり、彼らを集中的にスクリーニングすれば、多くの人がテロから救われるだろう。そして性犯罪の加害者になることの多い人びとを子どもと関わる職業から排除すれば、子どもの性被害の数は大幅に減るだろう。
問題は、それは差別だということだ。そのような対応は差別的であるため、批判され、場合によっては法規制もされる。差別は自由で民主的な社会にふさわしくないものであり、この社会からなくしていくべきである。
逆に言えば、差別のない社会とは、一定の被害を甘受せねばならない社会だということでもある。
事前に黒人の犯罪者や退職者の多い属性やテロリストの多い宗教の信者を排除することは差別である。それを突き詰めた結果として、黒人の犯罪者によって金銭を奪われたり、会社の業績や病院の労働環境が悪化したり、狂信的なテロリストの仕掛けた爆弾で死傷したり、子どもが学校で性的虐待を受けるかもしれない。
もちろん犯罪者は裁かれるべきであり、彼らを無罪放免にしろと言うつもりはない。だが、一定数このような被害や効率性の低下が出ること自体は、差別のない社会が甘受すべきコストということになるだろう。属性に基づく事前の排除やスクリーニングを拒否するというのはそういうことなのだから。
私は差別に反対するので、それによって自分が旅行中に強盗に遭おうがアメリカの警察が黒人を狙い撃ちにするのは間違っているし、仮に自分の業務に支障が出ようが特定の属性の人びとに対する就職差別は許されるべきではないし、もしもテロによって家族を失ったとしても特定の宗教の信者だけをスクリーニングするのは道義的に正当化できないし、たとえ自分の娘が学校のトイレに連れ込まれて乱暴されたとしても、教員やその志望者が能力ではなくジェンダーやセクシュアリティによって選別されるようなことはあってはならないと考える。
差別は、場合によっては問題解決のための手っ取り早い手段になり得る。だから差別の解消を主張するというのは、実はとても覚悟のいることなのだ。
その覚悟を持っていなかった人たちが、時と場合が変わるとあっさり差別主義者に変貌してしまうのは驚くべきことではない。女性差別とさんざん戦ってきたのに、今「安全」を掲げてトランスジェンダーを排除しようとしている人たちがその典型だろう。
私たちは、差別に反対する覚悟を決めるべきだ。たとえそれによって不利益や被害が生まれても、それでも差別を許してはならないと言うべきなのだ。そのような覚悟のない反差別は、いずれあっさりと差別主義に転ぶ可能性を秘めているのだから。
理論的には完全な監視社会、例えば全員の脳内にチップが埋め込まれてて犯罪行為を始めると即電撃で無力化する社会では差別もないし被害も甘受しなくていいし法的自由も保証されるのではないか
マジレスすると完全に外形的な条件から「何が犯罪で、何がそうでないか」を決めるのは理論的に無理。なぜなら、理論的には、ある行為が犯罪かそうでないかは事後的にしか評価され得ないので。
意識のない他人の服を無理やり脱がせて体を触る行為は準強制わいせつかもしれないし救命措置かもしれない。他人の腕にナイフを刺すのは通り魔かもしれないし壊死性の毒があるクモに噛まれたので毒を除去しようとしているのかもしれない。子供を連れて遊園地に行くのは子守かもしれないし誘拐かもしれない。大量の宅配ピザを注文するのはパーティーの準備かもしれないし業務妨害かもしれない。カレーを食べるのは食事かもしれないし相手を油断させて毒入りカレーを食わせる計画の一環かもしれない。ファイティングポーズを取った男に蹴りを食らわせるのは正当防衛かもしれないし誤想過剰防衛かもしれない。これらの行為が行われた瞬間にチップで犯罪かどうか判定するのは不可能。
っていうか、他人から受け取ったキャッシュカードでカネを引き出しただけで刑務所に入ってる人は何人もいるわけで……
仮に外形的な基準じゃなくて「今自分は犯罪を犯そうとしている」という意思を基準にするとした場合、「嫌だとか何とか言ってるけど部屋までついてきたってことはセックスする意思はあったんだろ、嫌よ嫌よも好きのうちって言うしな、グヘグヘ」みたいな発想の人がいたらどうなるのか、ということになるので、チップを利用した犯罪抑制はどちらにせよ無理。何が犯罪で何がそうでないかは、ある行為が行われてから人の手によって評価され、判断されなければ理論的には決まらない。
ブコメ”加害者個人を排除する場合、最初の一回の被害は防げない”。その理論でいくと、差別される人種なり宗教は1回以上の被害が起こったので差別され始めたのでは?つまりどちらも根本解決にならないと思う。
根本的にわかってなさすぎて頭が痛い。人種集団や宗教の信徒は「個人」じゃないだろう、という話なんだけど。
今、目の前に一人の黒人がいるとする。名前を仮にボブとしよう。黒人が他の人種集団に比べて犯罪率が高いという統計的事実はある。だがボブが犯罪者かどうかはわからない。ボブがもし犯罪を犯したのなら刑に服すべきである。だがボブが犯罪を犯すまでは彼は無辜の市民なのであり、黒人だからという理由でボブだけ集中的にスクリーニングされたり職質されまくったりするのは不当な差別である。ボブが強盗なり殺人なりの犯罪に手を染めてはじめて彼を犯罪者として扱うことが許容される。
逆に言えば、我々は、ボブを事前にスクリーニングして強盗や殺人の被害者をなくすことよりも、たとえ強盗や殺人の被害者が出たとしても、ボブを人種に基づいてスクリーニングしないことを選ぶべきなのだ。
女性は早期退職する確率が高いが、ではどうせ無駄になるのだからと目の前の花子にろくにキャリアも積ませなかったり昇進させなかったりするのは正当か。宗教的テロを起こすイスラム教徒が大勢いるとして、では目の前のアブドゥルにだけ警察の尾行がついたり空港で差別的な扱いを受けるのは正しいか。性犯罪者の多くは男性だが、では資格も能力もあるのに目の前の太郎を保育園に採用しないのは許されるのか。
「私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である」とかつてキング牧師は語った。私はその理想を信じている。そのために生じるであろう被害よりも、なおその理想は重いのだと信じる。それが差別に反対するということだろう。
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
増田はキング牧師のバスボイコット運動やガンジーの塩の行進にもモヤるの?
両方とも有名な不買運動だけど彼らが自分たちの運動が否定されたら困るからと不買運動に消極的だったらどうなってたと思う?
プライム会員にも「イヤなら解約」という手段があるしヨドバシや楽天に乗り換える権利がある
増田が男か女か知らんが増田がモヤってる原因は三浦が女だから女=弱者に多勢でいじめのように感じちゃってるのでは?
これそもそも標的は三浦じゃなく三浦を起用したamazonでしょ?
弱者叩きでもなんでもなく今回の不買運動レベルでもうまくいって蚊に刺されたレベルぐらいにしかならんよ
フェミや政権批判側が標的にされたらというが自分たちが圧倒的に弱い立場だってこと忘れてない?
個人がamazonみたいな国家より大きな圧倒的巨大資本に対抗できる手段が不買以外にある?
あるなら教えて欲しい
そもそもフェミや政権批判者は不買どころかCMに起用されすらしないという現実がある
不買運動以前に下手すれば干される
山本太郎のように
反政府的な意見垂れ流しててamazonみたいな大企業の広告やってるタレントいる?
いたとして不買の理由がタレントが男女平等や平和主義だからって反対の理由として成立しないよね?
これは表現と表現の戦いでそもそも「君の発言には反対だが君の発言の権利は死んでも守る(どや)」って話とは根本的に違うんだ
「君の発言に反対だ!反対だから君の売る商品は買わない」って言ってるだけなんだから
フェミにも政権批判にも政権擁護にも誰にでも「君の発言に反対だ!」って言う権利あるし金を払う相手は選んでいい
フェミや政権批判が嫌いな人はそういう企業の製品買わんし、フェミや政権批判側に同じことをされたらどうしよう、じゃなく現実にはすでにそうなってる
そもそも消費者側には買う選択肢しかないしamazon一強の構図になってる現状で買わせる側の唯一の抵抗手段だよ
昨今の宇崎ちゃんやみかんポスター同様にこれらは表現の自由案件とはちと違う
企業側は自社利益のために活動してるんであってむしろ思想や政治理念とは縁遠い
どんな広告打つのも企業の自由だがそれを理由に受け手がクレーム入れたり不買するのも自由
表現の自由のことがあるし殴られたくないから殴らないようにしようって思考なのかもしれんが先に殴ってるのはあれら同様に広告側だってこと忘れたらいかん
人類は割と人間が好きじゃない。身内にだって手厳しい。古代のたとえ話を持ってきたぞ
ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。
そして、生前分与を受けた息子(弟)は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
父のところには食べ物のあり余っている雇人が大勢いるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。
帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。
「お父さん、わたしはもう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。
ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよって抱き寄せる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。
父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。
それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
派手な浮気者のキング牧師 ( [courrier.jp ] キング牧師の不倫を追うあまりFBIは自らも非倫理的行為に走る) は、余裕で弟を赦すだろう
ワイは人間は好きじゃないが家族や仲間と認めた人物については別だ。余裕で赦す
言いたいことは分かるが、少し比較が雑。今アメリカで起こっていることと同じ筋が通るためには少なくとも、
1福澤諭吉が中国人や韓国人を迫害、差別する一部の現代日本人の象徴になっている
2この像が創設者としての福澤諭吉を讃えるための文脈で建てられたのではなく、迫害や差別を目的とする日本人の後ろ盾をもとに近年になって建てられた
(BLM運動の中でなぎ倒されているアメリカ中に存在する銅像(Confederate Statuesといった、奴隷解放運動に反対し活躍した南部諸州の軍人や奴隷商人等)はJim Crow Laws(黒人の公共施設利用の禁止制限した南部諸州の法律)やキング牧師らが活躍した公民権運動の勃興と共に1900年代!に建てられている。銅像になった人物を単純に讃えようと言う文脈や歴史的重要性といったものを加味して建てられているとは決して言えない(そもそも奴隷制を維持すべく北部と戦争して負けた南部の権力者を讃えようと言うのもそもそもおかしな話だが)。ソース↓
"The most recent comprehensive study of Confederate statues and monuments across the country... shows huge spikes in construction twice during the 20th century: in the early 1900s, and then again in the 1950s and 60s. Both were times of extreme civil rights tension. In the early 1900s, states were enacting Jim Crow laws to disenfranchise black Americans. In the middle part of the century, the civil rights movement pushed back against that segregation."