はてなキーワード: 私刑とは
「いじめ」というのがどのくらいの事を指してるのか知らんけど、ぼんやりハブられるくらいのレベルならしゃーないんじゃないの。
普通にハブられる奴も原因があるでしょ。(「変な奴でも付き合ったら悪い奴じゃない」みたいな話も転がってるので、そういう意味ではあんまり邪険にすんのもどうなのと思うけど)
いじめって0か1かみたいな話もあるんだろうけど、そうじゃない話もいっぱいあるでしょ。だからお前が語ってるみたいな話をして、「いじめられてる奴にも改善する所があるよね」みたいな結論になるのは別に普通。ただ世の中には01でしか考えられない馬鹿が多いから、そういう馬鹿のために「いじめはいじめる方が悪い」って言ってるだけ。
もちろん「殴る蹴る」とか「暴言を吐く」みたいなのは論外。でも「それらをやられたからやり返す」ってのも論外。これはいじめの問題じゃなくて現代社会のコンセンサスとして私刑が論外ってだけ。(はてブには私刑大好きマンが多いから、通じないだろうけど。)
https://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-372.html
を受けて。
法手続き上の正義というのは、その社会の構成員が「確かに存在している」と合意していることが前提だ。
罪を犯した人物が、その程度に見合った刑罰を受けること。
罪を犯していない人物が、証拠もなく「怪しいから」などというだけで裁かれないこと。
それが実現している様子を社会の構成員が見届けることで、「司法に任せておけば大丈夫」となる。
池袋暴走事件で「上級国民」と世の中が沸騰したのは、法手続き上の正義の存在が揺らいだからだろうと思う。
確かに法律には、逃亡や証拠隠滅の恐れがない場合は逮捕の必要はないと書いてある。
罪を犯した疑いがどれほど濃厚だとしても、それが確定するのは司法の場であって、それまでは不当に身柄を拘束されることはないというのはまさに法手続き上の正義だろう。
だが、他の誰かが同じことをした時にその正義は同じように適用されるだろうか。そうした疑念が「上級国民」という言葉で形を得て、容疑者やその家族に向けられることになった。
先だっての裁判でも同じ疑念の目が向けられていることがわかる。
被告には無罪を主張する権利がある。だが、検察の追求は正しく行われるのだろうか。
この疑念は裏返せば司法に対する期待でもあるだろう。
ひとりの構成員として、正義が為されることを祈っている。
さて、この話はここで終わりではない。
この国ではつい最近、法手続き上の正義が大きく揺らいだ出来事があった。
黒川元東京高検検事長と検察庁法改正案をめぐる一連の騒動だ。
法手続き上の正義は、何人であっても平等に適用されなければならない。
たとえ元高級官僚であろうとも、国会議員であろうとも、総理大臣であっても、罪を犯せば裁かれる。
だからこそ司法権は独立していなければならない。
あろうことか、安倍元首相及び自民党はそこに手を突っ込んだ。
それによって黒を白に書き換えたとまでは言うつもりはないが、疑念を抱かせるには十分であろう。
当の本人たちは「そんなつもりはない」「何をそんなに大袈裟な」と思っているのかもしれないが、それであれば事の重大さが分かっていないということであり、なお厄介だ。
法手続き上の正義が存在するとの合意が失われると何が起きるかを示しているのが、Black Lives Matter運動だろう。
法律の上では白人も黒人も平等だが、法手続き上はそうなっていないと多くの人が感じていた。
暴動や略奪を肯定するつもりは一切ないが、法手続き上の正義が存在していないと考えているのであれば、そういった事が起きてしまうことも理解できる。
トランプ大統領はよりによって「法と秩序」と繰り返し言っているが、それが揺らいでいるからこんなことになっているんだろう。
この国にも経済的・社会的な格差が存在する。
性差別が存在する。
人種や国籍での差別が存在する。
法手続き上の正義は、万人に対して平等に為されなければならない。
【ネタばれあり】
半沢と大和田のイチャイチャが好きで観てた。作品自体は好きだ。
それは今も変わらないが、箕部に公衆の面前で土下座しろっていう罵声浴びせるのはちょっと無いなあと思った。
スクラム固めて囲って大人数で追い詰めて謝らせるっていうのが辛かった。
まあ政治家役だし、汚職してたし、ある程度は仕方ないのかもしれないが、
海外でタイヤネックレスしたり、石投げて私刑で死刑みたいな動画と変わらんやん。
黒崎という公権力も仲間にいるんだからきちんと法治国家として対処してほしかったなあ。(金融庁が何で汚職事件追ってるのかよく分からんかったが)
半沢の正義って何なんだろ。
第9回までも最後は声を荒げるって振る舞いは好きじゃなかったけど、まあドラマ歌舞伎だしと思って観ていたけど、やっぱ最後のあれはないよ。
これがブコメに上がってて、なかなか的を射た指摘に思えた
ようは未だに日本文化はスピリチュアルに汚染されて、死ぬことによって一種の浄化が行われるっていう社会の妄想があるように感じる
自殺が多いのもこれな
これが賛成派(この中でも本当にアホと思えるのは、「私は死刑を仕方ないと思っているだけで賛成していません」とか言う間抜けな言説で、おまえ死刑を容認してる時点で賛成してるってことじゃないか。論理の破綻に気が付けないほどに脳内深くに死刑があることが自然で当たり前という、やべー思想を深く刻んでるんだけど、こういうこと言っても本人完全に脳が狂っていて悪いやつ殺すのは当たり前って思ってるし、この文章読んでも多分理解は出来ないと思う。)は、社会の枠組みが世界の真理であると錯覚しているというか、主観的になりすぎてて見えないんだろうな。
殺人を容認するのが野蛮。これにはどれだけの人が合意できるのだろうか。
条件付きなら人を殺して良い、ってのにはどれだけの人が合意するのだろうか。
自分の手さえ汚れなければ、条件付きで人を殺すべきだ、殺されて当然だ、殺されるのもしょうが無い、ってのはどれだけの人が合意できるのだろうか。
私刑としての殺人から、社会合意による殺人(死刑のことね)まで、グラデーションはあるだろう。死刑賛成派と死刑反対派もこのグラデーションの中で、どこに居るかにもよるんだろうけど、この手の話題だとそれぞれ相手の立ち位置を、極端に解釈して一方的に叩いてるように見えるんだよな〜
ちなみに、私の意見としては、自分の手さえ汚さなければ殺されるのもしょうが無いってのも、結構野蛮だし普通に死刑は反対。
可逆的なのもあるし、死刑よりも人権のほうが優先されるというイデオロギーがまともだと信じてるしそれが当たり前になってほしい。
監禁するのと死刑にするので死刑にするほうが軽い。みたいなサイコパスじみた感覚の持ち主が日本に多いよな〜って感じるのも、最初に上げたように日本にはびこってるスピ文化のせいで、なんか日本人は死んで目的を達成する、死ぬことで一人前の人生を終えてとにかく良かっためでたいぞ!みたいな心持ちの人が多い気がする。
私は人が死ぬのは人が死ぬ以上でも以下でもないし、死体とか燃やそうが土葬しようが鳥葬しようがどうでもいいし、人が死ぬことに意味づけとかして、死者を祭り上げて死者の栄光で他人を操作しようとしてるやつ見ると吐き気するんだけど、そういうのがまかり通ってるのが現代のこの国の実情で、
死ぬことに特殊な意味付けをしている人が多く、死ぬことで贖罪が行われるという、迷信の影響が色濃く残り続ける限り、(あってもしょうがなーいとか言ってる事象死刑反対派じゃない人も含め)死刑賛成の人が減ることは無いだろうな〜って感じです
お盆とかも止めたほうが良い気がするんだよなー。死者が戻ってくるわけ無いじゃん。やっぱり死を軽く見すぎていると思っていて、こういうと指摘された人はそんなこと無いって顔真っ赤にして否定するだろうけど、はたからみてたらやっぱり死後の世界とか先祖とか、そういうフィクションに多かれ少なかれ影響を受けていて、死を軽んじているふうに見える。
半額パンを万引きした貧困老人を、ボクシングチャンプのコンビニ店長が殴り殺すような奴だろ
J-CASTニュース 2007/10/ 4:万引き犯「殺人」続々 店員「怒り爆発」のなぜだ
https://www.j-cast.com/2007/10/04011960.html?p=all
07年9月には、船橋市本町のスーパーで万引きした男性に暴行を加えて死亡させたとして、スーパーの店長(40)が傷害致死罪で逮捕・起訴された。店長は9月4日夜に缶ビールを万引きした男性(56)を店の資材置き場に連れて行き、殴る蹴るなどの暴行を加え店近くの路上に放置し死なせた。
07年9月11日には墨田区のカードショップで漫画本1冊を万引きしようとした男性(29)が店員に取り押さえられ意識不明になる事件が発生。店員2名が翌日に傷害容疑で逮捕された。万引きした男性は漫画本1冊を万引きしようとしたところを店員に捕まえられ、殴りかかるなど暴れたため、押し倒して首を絞められた。男性は1週間後に死亡。警視庁は傷害致死の疑いもあるとして捜査していた。
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YouTubeの動画でスーパーの駐車場に斜めに車を停める車を一方的にナンバーごと移す動画がアップされていた。
自分が気に入らない行為を当てはめて「こんな輩は動画に晒し上げられて当然」といった晒し上げを肯定するコメントが多くてゾッとした。
自分が不快に思った人間は私刑としてネット上に晒しあげられるのだ。
誰にも他人に迷惑をかけて生きては行けないのだ。という考えの人間ばかりで吐き気がした。
秋葉原通り魔事件。宮崎勤の事件。ああいう事件で「抑圧されて育った人間の歪み」を見聞きするたびに、他人事ではないなと感じる。
母親は教育関係の仕事をしており、子どもを立派な大学に入れたスーパーマザーである。
しかし、その子どもは、無事に無い内定引きこもり無職(一応学生)となっている。社会性が育つ場面で極端に制限をかけられた子どもがどうなるか。20年をかけた壮大な人体実験の記録を一つ読んで欲しい。
1.恐怖で抑圧させて勉強させられてきた幼少期
私は物心つく3歳の頃から、毎日「ノルマ」を課せられ、やりたくもない勉強と向き合い続けてきた。母親が帰ってくる前までに母親の決めた「ノルマ」を仕上げないといけない。このノルマが終わっていないと、「指導」が始まるのである。例えば、「なぜ今日は出来なかったのか」について一時間、二時間、と向き合う。答えられず無言でいると「そうやって私を無視するのか」と詰められ、「バカだったからです」と答えれば「勉強が出来ないバカは家から追い出す」、「離婚したダメ父親の元に送る」、などが提案される。この「話し合い」は深夜にまで及び、「なぜできなかったのか」答えさせられる「自己批判」の時間では「どのように答えればこの人は納得して寝かせてくれるのだろうか」をパニック状態の頭で考えることとなるが、どれを答えても地雷。最後には不甲斐ない自分に関する悔し涙を流す。すると「反省しているポーズをとるな」と詰められる。涙を拭けとティッシュを渡され、鼻水を拭いたティッシュを丸めて置いておく。
「今日のノルマをやってから寝るよ」。勉強をしていて情けなさに涙をこぼすと、「泣くな!」と怒られ、鼻水を拭いたティッシュを口に入れられることもあった。彼女自身、子どもを支配するのに必死だったように思う。子どもの一日というのは大変長く、誘惑に満ちているので、ついつい遊んでしまうのだが、昨晩課された、あるいはノルマ棚に置かれたプリントを見て勉強をするほど私は賢くはなく、この「指導」の時間が辛く無駄な時間だったと感じる。
そんな物理的な圧で勉強に向かわせてくる母親であったから、うちはゲームが禁止だった。周りの友達が全員「たまごっち」を持っている中、買ってもらえずに輪に入れないということもあった。何度かお願いをしてみたのだが、ダメだったし、この人には何を言ってもダメだと分かっていたから、諦めた。現在、「スーパーマリオ」や「ポケモン」は基礎教養だと思うが、私はそれらで遊んだことが無く、アクセスできなかったため、それらに関する話題が出た時に全くついていけないのがかなり困っている。一生困ると思う。「ポケモンの金銀並みだな~」とかいう比喩表現を聞いたとき、「そうですね」とへらへらと笑って合わせていくスキルを20過ぎに身に着けたが、付け焼刃感というか、相手の言っていることが何も分からないので悲しい。
友達の家でやればいいというお声もあるだろうが、「母の目の敵にしているゲームを触ること」は私にとっては「大麻にトライすること」くらいハードルが高かったのである。今でもゲームをしている人を見ると謎の居心地の悪さを覚えてしまう。
漫画は、年の離れた兄弟が大量に所持しており、そこからこっそりと借りることが出来た。捨てられたジャンプから、好きな漫画をカッターで切り抜いて、単行本を作っていた。ただし見つかると「私刑」である。生命活動を勉強時間に全振りすることで東大に合格できると思い込んでいた母親は、勉強以外の活動をしていると烈火のごとく怒った。弟の気に入って隠し読んでいた「純情パイン」は八つ裂きにされて捨てられてしまった。
幸いにして私は小説を読む方にはまっており、私のメインの趣味である読書は「推奨」される行為だった。(ただしノルマをやった後、寝る時間を惜しんで読書を優先すると叩かれる)図書館のお気に入りの本は読みつくしたし、母親の検閲(中身には興味がなく、文字かそうじゃないかが重要だった)をクリアする「涼宮ハルヒの憂鬱」等ライトノベルには大変お世話になった。グロ系や耽美、18禁のものも、「本」なので良かった。ここに関しては寛大な処置を頂いたと思っている。
そんな読書少女に育った私は、頭でっかちの、言語性だけが身に付いた、悲しいモンスターだった。小学生の頃、女子特有のクラスのトラブルに悩んだ時、最高指導者である母に相談してみた。すると「増田ちゃんはそんなレベルの低い子と無理して仲良くしたいの?」と一刀両断。そうか。周りの子はレベルが低いから、関わらなくていいのか。誤解した増田ちゃんは「基本的に物腰は柔らかいが、トラブルにすら巻き込まれないように一歩身をひく付き合い」を心がけるようになる。また、友達と遊ぶことは制限されており、家に友だちを呼んではいけなかった。新しい友達も「どこの、誰で、何をしている親の、どういう子」かを説明するという責任があり、母親に認められない子と遊ぶことは良い顔をされなかった。そんな中でも文通をしたり、こっそり会うといった方法で仲良くしてくれた友人には頭が上がらないのだが、やはり「友人と遊ぶ」ことがダメなので、せっかく仲良くなったクラスメイトとお祭りや、ショッピングなど楽しいイベントに出かけることは出来なかった。(そもそも自由なお金がなかったし、バスにも乗れなった)
高校では、最初は素敵な友人グループに属させてもらった。友人たちと仲良くしてもらって感謝しているが、その中でも「この間のショッピングモールで~」のような会話にはついていけないことが増えていく。ついに深い交流をすることは出来なかった。今でも交友関係を続けている同級生同士がとても羨ましい。
そういった抑圧の下で生きてきた結果、やはり20代半ばで実感しているのが、「勉強だけ出来てもダメ」ということだ。
最近の教育分野では「非認知能力(社交性とかもろもろ)」が重視されているが、詰め込みノルマ型の勉強の成果をどうにか形にしたり、就職して社会に還元したりする上ではこの能力が必須である。元々ASD傾向がある上に、社交の一切合切を無駄と切り捨てられて育ったことは大変大きな損失だった。そもそも母親も社交スキルが低く、同級生のママを見下しながら、自分が適応できないことの憂さ晴らしをしていた。母親も、社交スキルをどう教えて良いか分からなかったのだと思う。その結果、「コミュ強を見下す」という戦略に走ってしまった。結果はどうか。増田で長文を投稿し、コロナもあって友人関係が更に狭まり、就活で全滅の、「無敵の人」予備軍の出来上がりである。
母親は上記のようなことをほぼ忘れ、「でも〇大に受かったから、よくママ頑張ったでしょ」と承認を求めてくる。〇大に受かっていなかったら、今よりも肩身が狭い、バカのコミュ障が出来上がっていたかもしれない。
ただ、〇大に受かった後、うつになり、頭の良さがかなり下がったので、結局「何もできないコミュ障」が完成してしまった。
20年をかけ、社会的なコミュニケーション能力を切り捨てて詰め込み教育をするとどうなるか??うつになり、頭も悪くなる。
「アルジャーノンに花束を」のチャーリィよろしく、どんどん阿呆になっていく様を記録して後世に残すことが私の役目なのかもしれない。
追記のこの箇所:
一人の人間に受け止めきれないほどの誹謗中傷と批判を浴びさせて、SNSや創作の界隈で本人が培ってきたであろう人間関係を全て捨てさせるほど追いつめたのはただの暴力であり私刑だ
本人は問題になったツイートのみを削除し、謝罪文のようなものを掲載しただけ。
垢を消したのはTwitter。おそらくは多数の通報を受け、規約に基づいて違反と判断し、凍結した。
本人は新垢を作り、人間関係を維持しようとしたが、新垢もTwitter運営に凍結された。
だと思う。
日本ヲタク界のこれぐらい平気じゃろ問題ないという雰囲気に馴染み過ぎ、児童の性的搾取表現に対しTwitterが抱く危機感への認識が甘過ぎたのではなかろうか
冒頭に「未成年は閲覧禁止」という一文が入ってるのでゾーニングへの配慮はされていたと思う。
問題となった「実在の幼児に手を出す前に」という文言だが、ここの認識がまずズレているのではないだろうか。
とりあえず理解を深めるために、ツイッターではない場所の幼児ラブドール愛好者のコミュニティをいくつか覗いてみた。
まず、そのようなコミュニティでは人形性愛者と小児性愛者のふたつのタイプがいて、人形性愛者はリアルの代替にしている者をあまり好んではいなそうだったが、同じものを愛好している情報交換の場のなかで多少の軋轢はありながらも共存していた。
そして、小児性愛者はラブドールがあることで自分たちは欲望を抑制することが出来て救われたと考えている人たちが多かった。
実際の子供への性犯罪が起きたニュースに対しても、この犯人がラブドールの○○ちゃんと出会っていれば犯罪者にはならなかった可能性が高いと語られていて、性犯罪の再犯を心配し、出所するときにはこのようなものがあるという情報を教えた方が社会の為にも子供の為にも本人のためにもなるという会話がなされていた。
「治療」という言葉が出てくるコミュニティもあり、そこでは治療は役に立たなかったことやホルモン投与で性欲減退させるだけであるなどが語られていた。治療は無駄だったが自分を社会から逸脱させないでいさせてくれたラブドールに出会えて良かったと。
そのような前提のなかでひとりの小児性愛者が「実在の幼児に手を出す前に」とラブドールを推奨するのは、同じ性嗜好の者に対して100パーセント善意のプレゼンなのではないかと思う。
犯罪の一歩手前でギリギリ立ってる人がラブドールによって実在児童への加害を抑制することが出来ている。だから「ラブドールを買おう」と同じく犯罪に一歩手前でギリギリ立ってる人に呼びかけることは、十分に責任ある行動であったのではないかと思う。
冒頭の「未成年は閲覧禁止」は「禁止」でなく「注意」であるとブコメで指摘があったので訂正する。
ゾーニングがなされていなかったというのは同意するのと、ツイッターの規約違反であるというのも同意する。
そのうえであの漫画そのものは<合法で販売されている物によって自分が体感した欲望の救済方法を、同好の者にプレゼンした>漫画でしかないと思っている。それを外部の者の目にも触れさせたのは迂闊であったというだけだ。
私が怖いと思ったのは、問題がある思った人がRTで拡散に加担していたことの方である。
規約違反であると認識したらそのままツイッター社に通報すれば良い、それだけの話しじゃないんだろうか。
あの日に日本のツイッターで「ラブドール」と「小児性愛」をトレンド入りさせたのはあの作者ではない。ゾーニングを求めるならばなぜ拡散に加担したのかと疑問でしかない。
当事者に「異性愛者である」と言わせたことも暴力であると思う。それが本当でも嘘でもだ。
一人の人間に受け止めきれないほどの誹謗中傷と批判を浴びさせて、SNSや創作の界隈で本人が培ってきたであろう人間関係を全て捨てさせるほど追いつめたのはただの暴力であり私刑だ。
「正しい」は私刑の免罪符にはならないのと、正当な批判であると考えたとしても既に同じ趣旨の発言をしている人が何人かいるのならば、控えることも自制心のひとつだ。数は暴力だ。
私達はSNSが人を殺せることを学んでいるし、攻撃はいつだって「正しい」と思っている側が行っていることも学んでいる。
それなのに迂闊であっただけの人を殴り続けることを正しいと思っている人が大勢いた。そのことの方がよっぽど怖い。