はてなキーワード: 私刑とは
https://anond.hatelabo.jp/20200902122828
「小児性愛行為」が卑劣だとは俺も思うし、だからといって「小児性愛者」が卑劣なわけではない
元ツイートはそれを理解して、だからこそ辛くて、そんでラブドールに救われたんじゃねぇかなぁ
しかし、小児性愛者は卑劣な行為を持ってしてしか自分の愛を実現出来ないわけで、それを理解せよというのは、論理的には正しくても残酷だよな
ここまで理解しつつ、この表現は危ないよって批判がツイートに対してリプで投げられる分には俺は問題ないと思うわ
だけど、小児性愛者の人格を否定するようなことを言うやつが多すぎて本当にうんざりする
あと、一点賛成しかねるのは
これ、そんなことねぇと思うわ。
今の我々の価値観なんて、局所的なもんだよ。20年前はおろか、10年前のテレビとか見ても価値観全然違ってビビるじゃん。
10年後20年後、みんなの価値観がどうなってるかなんて想像もつかないし、つくと思うのは傲慢じゃねぇかな。
今は表現も差別も人権も何もかも「正しく」あろうとして「正しい」範囲がどんどん狭くなってると思うけど、もっとおおらかに生きようぜって風潮になってるかもよ。
お互いに好き嫌いあって、人権侵害しあって、罵倒しあって当たり前じゃん。だから、俺も好きなこと言うけどお前も好きなこと言えよって。
そんで、小児性愛行為も合法にする代わりに、許せなかったら被害者家族からの私刑もありな。なんつってさ。
小学校の頃、好きでもない相手から「はてな君が、増田君が私の事好きって言ってたんだけど、気持ち悪いから本当に勘弁してね?」と伝えられたこと。今でも覚えている。
視線を向けるな、話しかけるな、お前と関係があると思わせるな、プリントを回すときにプリントに指を触れるな、言葉を変えて色んな女に言われてきた。俺がブサイクで、ブサイクに好かれたらブサイクとのカップルとして扱われ恥をかくから、と。
中学校では流石に状況が変わった。多くの女は理性を手にして、相手がブサイクなだけなら人間扱いをする必要があるということを理解した。基本的人権の開眼を直ぐ側で何度も目にした当事者だと言ってもいい。
同時に、それでもなおブサイクを人間扱いしない一部の女達は、成長により手にした暴力や知識や冷酷さを俺を社会から排斥する行為に活用し続けてきた。許せねえ。しかし、あんな女を許すかどうかについて精神エネルギーを使うのが人生の無駄なので、あまり盛り上がる気にはならない。
高校、大学、会社、状況は変わらない。相変わらず女達の中には俺を天性の加害者として扱い容赦のない「反撃」を繰り出してくる奴が紛れ込んでいた。ブサイクは罪なのか?
ブサイクは罪なんだろうな。これは、男達の中にも変わらずある心だ。ブサイクは罪だ。ブサイクの触った食べ物は穢れるから食べれないと語る男達を何度も見てきた。ブサイクと同じ空気を吸うことに耐えられないよなと話を振られ、嫌われたくないので俺も相槌を打つた。俺はブサイク故に犯罪者、そして俺もブサイクという誰かの罪を裁く顔面偏差値の憲兵。咎人を裁く咎人。俺の罪が許されるはずもない。
産まれ落ちた罪。生きてきた罪。同族殺し。ブサイクという犯罪。その加害者。私刑の礫。その加害者。だが神に許しはこわない。人が産んだ人の決めた罪に過ぎぬから。それがブサイク罪。
竹槍なんかで勝てるか!とかいうけど、竹槍の訓練をしていたのは
脱出したパイロット→逃げるさなかに民間人を銃撃→死亡したので自警団用の装備としての竹槍です。
民間防護の一環として竹槍での訓練をしていただけです。
何故竹槍だったのかってあんなもんそこら中に生えていて簡単に作れるからです。
また、B-29を撃墜とかってはなしも竹を使ったロケット弾なんかの話とごちゃ混ぜになっているだけです。
なお、イギリスでもドイツ軍上陸に備えてホームガードが槍での戦闘訓練もしてました。
銃の訓練もあったけど、物資の供出としてゴルフクラブなんかでも武装してたりしました。
ちなみに、この撃墜したパイロットが民間人を銃殺した結果、国民感情が悪化して
脱出したパイロットを民間人が撲殺するような事件も起きていて憲兵や警察なんかは敵パイロットの保護(捕虜)に苦労していたっていう記録もあります。
できるよ。
というか、(作者が)「加害者であることを理由に連載を打ち切ることはできない」なんてデタラメ、どこで学んだの?
もし「私刑の禁止」という概念からあなたが自分で導き出したなら、あなたは法律のセンスが絶望的にないから、今後、自分で法律的な事柄について考えてネットで発表する、なんてことは控えた方がいいよ。更なる恥をかかないために。
できない。加害者であることを理由に連載を打ち切ることはできないんだよ。私刑の禁止といって犯罪を理由に直接的な被害を受けていない人は罰を与えることができない。それはそれでリンチ
私刑は慎むべきだが『投票棄権者は罰金刑にすべき』とは常々思っている
嬉々として民主主義を投げ捨てる人たちは本当に許しがたい
例えば資本主義にしたって徹底して資本主義を貫いている国はない、共産主義ですら徹底して共産主義を貫いている国はない
なので、ケースバイケースで、社会主義かな?国家資本主義かな?的な振る舞いをする
その振る舞いを決めるのが増田の一票だよ
いや細かいこと興味ないんだよなぁなら適当に入れれば良い、えんぴつ転がしてもいい
『適当に入れた票』の意味を職業として研究している人たちがいるので、彼らが政治家や政府にフィードバックする
しかしそれすらなかったら何も出来ない
なんだろう、ウソつくのやめてもらっていいですか?現状、強制投票制・投票義務制ではない、罰則がないだけですよね?
隙あらば民主主義を投げ捨てるのやめてください😡
anond:20200706142126 anond:20211030110419
たとえ、増田がリア充氏ねとか言われるような輝きまくった未来が約束された三菱地所に就職が決まった女子大生であっても
たった1人いなくなったくらいじゃ別に日本全体にはなんにも影響無いよね?
じゃあなんの影響も無いから居なくなって良いか?って言われたら勿論そんな事はないよね?
増田の一票も同じだ
逆に自分の意思が世界に反映されなかったことを証明できるのか?
自分の意思や行動が影響を与えないと判断するのは増田じゃないんだぞ
増田以外の誰かだ
誰がどう感じるかを判断するのはワイじゃない
冗談抜きにすべての人が意思表示すること以上に重要なことは無いので
はてなー含むネット民をギリギリ言わせたいからでもなんでもいい
anond:20200713192358 anond:20210909123337 anond:20240416190725
XXに投票したからという政治厨にマジレスなんだけどさ(おふざけは除く)
> 日本国憲法 第15条 4項 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
まず、『ダークナイト』は、フロイトの「自我・超自我・イド」の図式に当てはめると解釈しやすい映画です。
そもそもジョーカーってなんなの?というと、病院のシーンでハービーに言っていたように、「混沌の使者」(Agent of chaos)です。
ゴッサムに秩序をもたらそうとするハービーやバットマンに対して、人々の怒りや不安(防衛本能)を煽り、本能的衝動にしたがって行動させることで街の秩序を崩壊させようとするのがジョーカーです。
ここでの秩序とは何かというと、「父権制的な権力」を指します。
これは、明治時代など、近代以前の家父長制でも見られる、父親や「家」といった道徳や社会的信用に基づいて人々を従わせる権力を指します。
近代以前の社会では、家長同士の信頼によって地域コミュニティに必要な産業や社会制度が賄われており、それらの秩序を犯した者がいた場合、例え家族であってもその命を差し出す必要がありました。
父親のもたらす権力・秩序が個人の自由に優越していた時代です。
一方、近代の市民革命以降は、主権者が一般市民(国民)に移ったことで、上記の「父権制的な権力」に個人の自由が優先されるようになります。
コミュニティの構成員の間でも格差があったり、それぞれ価値観は異なります。
するとどうなるかというと、それぞれの権利の拡大やコミュニティの方針を決める上で争いが起きるようになります。
この原動力が、ジョーカーの象徴する「人間の生理的欲求・本能的衝動」です。
『ダークナイト』の公開された2009年はアメリカがイラク戦争の泥沼にどっぷりハマっていた時期で、ジョーカーの爆破などテロ行為と合わせて、この映画をイラク戦争批判と見る人もいました。
私はこの映画がイラク戦争批判だとは思いませんが、「人々の防衛本能によって事態が混沌に陥った」という点では共通していると思います。
イラク戦争の発端は、アメリカを攻撃する大量破壊兵器がイラクにあり、「先制攻撃」の対義名分で侵攻、泥沼に陥りました。
この映画でもそうで、人々が防衛本能によって親しい人物を裏切り、ジョーカーに加担することで一連の計画・悲劇は進みます。
終盤もジョーカーが市内に仕掛けた爆弾から逃げるために船に乗り込んだ一般市民が船内の爆破を免れるために、囚人船の爆破との二択を迫られる展開となります。
終盤の二択のシーンは、人々が社会的信頼や道徳(善)に基づいた振る舞いをすることで危機を免れるわけですが、ここでも生存本能を脅かす不安(本能的衝動)と社会的信頼(父権制的権力)の葛藤が起きているわけです。
この二者の葛藤を説明する概念が、フロイトの「自我・超自我・イド」です。
これらの概念は、父親のしつけを通じて内面化された父権制的権力と動物的欲望・本能的衝動の葛藤の間で揺れ動く人間の自我のありようを表すものです。
この三者の関係を表すものとしてよく触れられるのが、ギリシア悲劇の「オイディプス王」やこの寓話を受けた「エディプスコンプレックス」の概念です。
エディプスコンプレックスの概念によると、幼児期の男児は母親との結婚を望むが、父親と結婚しているため、その願望が叶うことはない。この時、男児に母親との結婚をタブーとする父権的な「規範」(秩序)が生まれ、男児は精神的な去勢を経験するとされます。
要は、母親と結婚したい男児の欲望と、それを男児のモラルとして彼の心の中で禁止する父権制的な権力との間で葛藤する男児の自我の揺れ動きを表しているという話です。
実際、この映画では、ハービーは社会的信用を守る地方検事で、ブルースの幼なじみであるレイチェルの恋人役です。
ブルースのレイチェルへの性欲を抑圧し、彼自身が望む秩序を体現する存在で、ブルースの「超自我」の象徴と言えます。
一方で、ブルース自身に目を向けると、幼い頃に両親を奪ったギャングに、自分自身の幼児期のトラウマである「コウモリ」のコスチュームで私刑を加えることで、彼らに自分と同じ畏怖(トラウマ)を植え付けようとしています。
ブルースが「コウモリをシンボルに選んだ理由」と「なぜシンボルが必要か」(逐次制裁では模倣犯が出るため、模倣犯が出ないよう、悪漢を怖がらせる、畏怖の対象となるシンボルが必要と考えた)は、前作の「バットマンビギンズ」でブルースによる上記そのままの説明があります。
つまり、「ブルース自身が彼の超自我(父親の象徴)であるコウモリになろうとしている」という話で、先述のエディプスコンプレックスにある、父親の座につこうとする男児の精神と合致します。
また、ブルース自身の葛藤として、彼は街に秩序をもたらすという公益性とは別に、Mob(ギャング)への個人的な恨みで制裁を加えている側面があり、この個人的な恨みが暴走してしまうのではないか、そもそも自身の行動はただの私刑(リンチ)ではないかという懸念がついて回っています。
ジョーカーが焚きつけようとしているのは、ブルースのこの個人的な怒りです。
ブルースがMobの制止と社会秩序の実現という社会道徳ではなく、個人的な怒りでバットマンの活動を行なった瞬間、彼はただの犯罪者になります。
ジョーカーの目的は、このバットマンの大義名分を取り払い、自分やスケアクロウなどの怪人や、Mobのようなゴロツキと変わらない存在に陥れることです(この企てに成功したのがハービートゥーフェイス)。
取調室でのバットマン・ジョーカーの尋問シーンで“You complete me.”(プロポーズの慣用句です)と言っていることからも分かる通り、ジョーカーはバットマンが半ば自分と同じ本能的衝動で動いていることに気付いています。
(だから、“You and I, are destined to do this, forever.”となる。)
長くなりましたが、パーティーシーンについて。
このシーンでは、老紳士が父権制的道徳を象徴する形でジョーカーに反抗したため、ジョーカーから“You remind me my father, I hate my father!”(お前見てると俺の父親を思い出すんだよ、大っ嫌いな父親をな!)と反感を買います。
ここでレイチェルが止めに入り、ジョーカーが口元の傷の由来を話しているのが、この場面の一番重要なポイント。
ここで何をしているのかというと、レイチェルを象徴的な意味で自分の女にしようとしています。
というのは、上に書いた通り、ジョーカーはバットマンの片割れです。
すると、ジョーカーにもレイチェル的な存在がいてよい、いるはず、という話になります。
それがジョーカーが”D’you know how I got these scars?”で始める「傷の由来の話」に出てくる「ジョーカーの悪妻」です。
レイチェルをこの悪妻に重ねているのは、逸話に入る前に“I had a wife, very beautiful, like you.”と言っていることから分かります。
ではその悪妻がどのような女性かというと、レイチェルのように慈愛に満ちている反面、ギャンブル狂で、口を裂かれた彼女に寄り添おうとしたジョーカーを拒絶した女性です。
ハービーと同じ検事職にあり、貞淑さを象徴するレイチェルとは真逆の存在です。
ジョーカーのしようとしたのは、レイチェルを自分の別れた悪妻と重ね、彼女と同じ傷をつけることで、レイチェルをその悪妻と同じ側に落とすことです。
おそらくこの逸話自体は嘘です。この場面以前にもGambolのシーンで傷の逸話がありますが、別の話をしています。病院のシーンでハービーに「俺が計画して動く男に見えるか?」(”Do I look like a guy with a plan?”)と言っていることからも、彼がポジショントークしない人間であることが分かります。
レイチェルを殺したり、ただ傷物にするのではなく、その前にこの逸話を挟むことで、その傷は彼女へのマーキングの意味を持つようになり、シンボル的な意味でレイチェルはジョーカーの女に堕落します。
彼女はやがてジョーカーにさらわれて殺されてしまいますが、面白いのは、その時ジョーカーが指定した彼女の居場所です(実際にいたのはハービーですが、言葉の上で彼女と結びついていたのが重要)。
ジョーカーは彼女の居場所を“She’s at avenue X, in Cicero.”と指定しています。
Ciceroとは、共和制ローマ末期の弁論家・政治家・哲学者で、彼の政治思想で理想とする統治機構は「共和制」でした。
「共和制」は、国家主権が人民に存する統治機構で、国家元首(王)により支配する独裁制とは対立する統治機構です。つまり、父権的制的権力とは対立する概念。人民の動物的本能に公共善による秩序をもたらそうとするもので、超自我とイドの調和が取れた状態と見ることもできます。
つまり、超自我とイドの葛藤に揺れるブルースが、本来身を委ねるべき安息の場所にレイチェルがいた、と比喩的に表現されているのです。
(その場所にハービー(父親)を置いとくあたり、徹底してジョーカーは底意地が悪い)
とまぁ、パーティーシーンは、これらの葛藤の舞台となる場面です。
直前でスリロ判事・警察長官が殺されて、ハービーが殺されればゴッサムの司法庁崩壊でその王手がかかっていたり、それを阻止すべく大急ぎで対応するブルースと迫るジョーカーのサスペンスだったり、ヒースレジャーのセリフ回しだったりで見所がいっぱいある、個人的にも好きなシーンです。