はてなキーワード: 津田とは
表現の自由界隈「リベラルは過去にオタク表現を批判したから、津田大介への犯罪予告は自業自得」→普段は「表現の自由は批判されない権利じゃない」と言っているのに、それってダブスタじゃないの?
https://togetter.com/li/1383977
ネトウヨが津田大介氏の挑発に乗って、例のイベントを潰して、逆に策略が成功して以来、ブサヨ側が頭に乗りまくっているね。
今回、晒上げられて、揚げ足を取られている方々は個人的にも嫌いな人間もいるけども流石にこの纏めた方自体、悪意を感じるし、このバッシングしている連中はオタクはエロコンテンツしか守らないとか表現の自由戦士とか煽って、見下していたからこそ、逆にオタク層に愛想つかされた事にも気づかないのは皮肉としか言いようがない。
オタクは票にならないとか当時、軽く見ていたのは当時の与党側だけではなく、野党側でもあったのは今彼らのこう言う行動をみても良く判るよ。
そりゃ口先だけではなく、地味に落選中も活動していた山田太郎氏に54万票を持っていかれるよ。
嫌な言い方だけどな。
エロコンテンツ等のバッシングの手法自体、それこそ自民党が当時行った児童ポルノ禁止法や都条例でのやり口で、彼らオタクがその手の嫌がらせを受けて、散々嫌な目を見てきたんだよ。
それは彼らが最も嫌がる行為だよ。
そして今まさにリベラル側がポリコレ棒をもって、それでどつきまわしている事にすら、このからかっている連中は気づいていないのだから救いようがない。
いや、今ポリコレ棒ぶん回している連中は判っていてやってそうだけどもな。
こんな嫌がらせの様な行為をしてきて、野党の票が伸びるとでも彼ら思っているのだろうか?
本気で愚かだと思うよ。
今表現の自由戦士と彼等を叩いている連中は悪意をもってわざとやっているのかもしれないがな。
どうせこれで今表現の自由はどうでもいいのか?と言っている連中は当時も今も表現規制に反対していませんでしたって言うオチが見えるのもなあ。
揚げ足をこのネタでとれるから、言っている風にしか思えないのが何とも。
それに今回の山田太郎氏の件は完全に津田大介氏やブサヨの因縁付けとしか言いようがない代物だったからなあ。
何故か山田太郎氏を炎上させたネトウヨ側の頭のおかしさは置いといて、言い方が悪いけど、ブサヨ側もある種の当たり屋的な行為そのものの事をしていたからな。
どこまでこいつら図々しくて、面の皮厚いんだ?と言うのが正直な感想だよ。
本当リベラル側の考えで、表現規制反対の活動を当時からしているまともな人間はこういうポリコレ棒ぶん回す様な人間の方が遥かに迷惑だし、扱いにも困ると思うけどな。
これ見たら逆にそういう人らも引くと思うわ。
立憲とかの議員とかで規制反対して下さる人も普通に困る行為だろこれ。
ただこの自称リベラルのこいつらをみていたら、それこそ立憲はリベラルではないとか言い出しそうだから怖いわ。
正直、こいつら敵に弾撃っているようで味方ごと誤射しているからな。
そして無駄に敵を増やして憎悪を煽っている行為そのものだからなこれ。
これ、本当は規制を普段推進している様な連中こそ暴れているんじゃないか?
だから与野党問わず、どっちの規制反対の人間を潰しにかかっているとしか思えん。
当時の経緯や表現規制反対界隈の苦労を知っていれば、表現の自由戦士はエロコンテンツどうのこうのなんてバッシングの手法なんて間違ってもするわけがないからな。
個人的にはどちらかと言うとリベラル寄りの考えの人間だったけど、流石に今回の一連の騒動はブサヨ側が被害者面して大暴れしているのはおかしいとしか思えないよ。
そもそも津田氏の声明見たら、この手の反対している人はイベント中止させてはいけないと言う事を織り込み済みでやらかしたのは目に見えるしな、本当。
だからこそ、こいつらブサヨが被害者面しているのが本当に気に入らない。
イベント潰させたのは確かにネトウヨだけど、こいつらブサヨは発端の加害者であるのにね。
一番の被害者はそれこそ、普段から表現規制に反対していた人達の界隈や創作界隈、そして絵画展やコンサートなどを行うイベンターの方々だよ。
お前らブサヨじゃないんだよ。
報道や各種メディア、個人が様々な媒体で伝えているこの事柄に対して、私個人のごく私的な見解など、どうしようもない話の一部になるのだろうけれど、つらつら書いてみようと思う。
・検閲
今回発生した問題は検閲の問題ではない。現在紙面やネットで騒いでいる検閲という問題は、当事者の手を離れた部外者による場外乱闘であった。扇情的な展示に対して、権力を扱う不用意な政治家が、自制せず権利を侵害する発言を行ったことは大問題であるが、ここまでくるともはや展示云々ではなく、国家、自治体による権利侵害(の実行又は脅迫)という、大事な問題だが、別方向の問題として切り離して考えるべきで、後述する問題を覆い隠してしまうことになる。展示を取りやめたのは、大量の抗議や脅迫、犯罪予告により、芸術祭にかかわる方々の安全を確保できなくなったという状況に陥り、該当展示の実行委員会(実行キュレーター)の同意なしで中止に至ったという顛末と理解している。
芸術市場が大きい欧米諸国に対し、日本国は元々芸術品の売買に対して諸国のような減税優遇措置をとっておらず、バブル期を除き、民間のギャラリーを経由した売買や、流通操作で伝統工芸品を大型百貨店の展示場で、国内のみ通用する相場で販売する程度であったが、バブル期~90年代の大型公共投資の連続からハード面での地域振興策が資金、コンプライアンスの両面で実行が不可能になった自治体における「少額で、短期間で既存のインフラを活用でき負担が少なく、運が良ければ国際的な知名度を上げることができる。」ツールとして、この10年雨後の筍のように芸術祭が乱立する事態となった。そこでは、ノウハウのない自治体が、自称地域文化の担い手である新聞社に丸投げ、そこからコネ採用された力のないキュレーターは、自身の貧弱なコネクションで囲い込んだ微妙な作家しか呼べず、投下した税金の割に貧相な芸術祭になった場合。自治体が運悪く山師に金を預けてしまい、多額の不適切支出で泣き寝入りになった場合。など皆さんが思っている以上に税金を使用したイベントにはトラブルが多い。税金が投入されるイベントは前提条件として・補助金申請等の手続が煩雑・大小の自主規制や、地域ルールに縛られる・税金が原資なので、疲弊した財務状況の自治体では開催不能、批判を招く場合がある。税金は芸術より生活政策に資金が回されるのは当然である。所詮流行りの水物なのだが、皆さんが思っているより所謂コスパの良い地域振興策なのでなくならないだろう。
今回の問題では、アートと異なる展示がなされているという意見が多く出ているが、大きく表現の自由と括られる中でも、その自由の元に「どの媒体で」「どのような手段で」「どの程度の深度で」、成果物として表現しているかは人それぞれ、所属する社会により異なるという点。またアートは政治と不可分であるが、極端な扇情(アジ)を行わなくとも、その行為がそもそも自由を行使しなければ表現できない、自由で平和な状況でなければ創作活動はできず、人の創造性を発揮できない点が大前提であり、自由の中で個々人が世界との関わりの中で何らかの美醜混じった真理を見つけ、それを昇華したのがアートとすると、今も表に出ない問題の一つ、表現の自由を行使する媒体と手段の衝突という背景が見えてくる。
新聞社や論壇を中心とするジャーナリズムは、文字を用い、抽象化している諸概念を文章化し、権利と自由を、守り、啓蒙し、扇情したりするわけだが、小説などと異なり「直感的に察する/察させる」機能は弱く、相手を文字化、文脈という論理化してしまった問題に対し、「同意するか」「同意しないか」の二者択一を求めてしまう。そして問題となった展示は、実行委員会の多くが学者又はジャーナリズム出身という状況で、同じ表現の自由でも、性質が異なる表現を行ったことが原因にあり、一般市民が考える「アート」とイコールにならなかった。「これはアートではない」という声である。表現はしているが、アートではないと。
アーティストと名乗る作家にも問題がある、この「ステートメント芸術」と揶揄される表現は、業界に詳しくなれば詳しくなるほど根深く、呪いともいえる。
アートという行為、物質/空間/映像/音楽で意図が伝わるよう、意識を特定のベクトルへ向けるよう誘導し、表現しなければならない所なのだが、その実力がない作家の中に、延々とそれらしい説明文を付けて意味づけする行為や、文脈という補助要素を主要素に持って来て、実態だけを見ても理解不能となる。そのような作家は大体退場していくのだが、言葉が主戦場のジャーナリズム界隈と親和性が高いので、変な形で融合してしまうことがある。
「文脈を追うのが現代アートだ」という解釈の誕生である。一面では事実だが、全てではない。
ビジネスの世界でこの行為を言い換えた表現としては「ストーリー」という言葉がある、そしてこれを最大限活用した米国の企業、セラノスの末路は多くの人を巻き込み凄惨なものであった。
・何が問題だったのか
①監督が芸術キュレーターの経験がなく、自身の分野であるジャーナリズムの文脈で解釈した表現を、芸術祭にねじ込んだ為、酷く食傷を起こしてしまった。
②食傷を起こしてしまった後の対応が、構造を理解している人の不足で収まっていない。
①食傷を起こした理由は長々と書いた。経緯として自分たちが表現の自由の最前線で、他の作家は何も考えていない。ように捉えられてしまうキュレーション(自由の世界におけるジャーナリズムの優越性)をしてしまったのが原因にあると考える。結果、津田氏がFM番組で発言したように「自分一人ならナイフで刺されてもいい覚悟だが、関係のない人を闘争に巻き込んでしまった」という発言につながっている。
表現は自由であるから、闘争を持ち込むなとは言えないが、徹底的なゾーニングと仕掛(言語化できている主張表現に容易にアクセスできる導線を作る)ことが必要であった。言語化できている(と思われる)主張表現に対して、実態が追い付いていなかったのではないだろうか。
不特定多数の威圧行為は、少数で行う創作活動にとって凶悪な暴力であり、過去も多々あり、これからもなくならない。すべての事柄に寛容な社会など来ないし、永遠に付き合わなければならない。
②をわざわざ書いたのが、今回の騒動で最も被害を受けている、他の参加作家に対して謝罪と対策を行っているのかよくわからない状況だからである。
・誰が最も被害を受けたのか
昨日声明文を出さざる得ない状況に追い込まれた、他の参加作家である。それぞれの表現を深化させて今日を迎えているが、キュレーターがバランスを取らず、独自にプレイヤーとして創作活動を我田引水した結果。必要のない状況で、自身の作品を見てもらうという重要な事柄を達成されないまま原理原則論の確認や主張を行わされたのは、イベントの主催者として責任が重大である。表現の自由は大事だと言うに決まっている。また、作品を撤収せざる得ない状況に追い込まれた海外からの参加者に対して、展示機会を奪った結果になった事も忘れてならない。マスコミが何をキーヴィジュアルとして記事にするか理解して、扇情的な人形を配置しているのは明白で、記事を見た輩が抵抗/抗議を通り越して、挑発と解釈してしまった訳である。撤収した2人は、必要のない場面で・積極的に日本側の行為に抗議を行う・無視した場合に自国内で起きている扇情的民族主義の標的になることを避ける。2者択一の判断に迫られた。
昨日声明に協賛したのは参加作家全員でないだろう、検閲を受けたわけでもない、こういうキュレーターのミスによる騒動に対してのスタンスは作家ごとに異なるのは当然である。
・なぜここまで注目が集まったのか
芸術は本質的に生活必需品とは言えない。生活環境が改善し、可処分所得と余暇がある状況下で初めて人は関心を持つようになる。今の日本、問題は起きているが、ネットで百家争鳴する位この国は文化的に成熟しており、得体の知らない世界に関わりを持ちたい気持になったのは素晴らしいと思う。物事の全ては飛び込んでこそ妙が分かる。威圧や脅迫はださく醜悪である。そしてアートはこんな長文も飛び越えて一瞬であなたの感性に突き刺さる力を持っている。
何やら津田大介が叩かれてるらしい
でも俺は何があっても津田大介を支える
今から5,6年前のことである インターネット協会MIAUのニコ生放送があった
ミャウもマイナーな団体だし誰も観に来てないマニアックな放送だった
津田が「堅苦しいのはやめて好きなAV女優の話でもしましょうか」と言ったので
俺が「萩原舞」とコメントしたら「萩原舞いいですね」と返してくれた
その時に俺は誓った この男は何があっても支えようと
今でも萩原舞で抜いたあとにふと思う時がある
過去に「ヘイトは表現の自由の範囲外」と称して表現弾圧を行っていた点、
本件最大の被害者は、津田にヘイトスピーチをされた日本国民であり、
結論はタイトル通り。選挙で選べるのがナチスかソ連の2択だったら答えは「投票行かない」になるのも仕方ないよ。
ナチスは安倍自民やネトウヨのことだが、じゃあソ連はというと津田やしばき隊といったパヨク連中が当てはまる。
人の写真燃やして喜んでるような連中ははっきり言って下品だし暴力的だ。
もちろん表現の自由はそういった下品さや暴力的表現もできるだけ守るべきだが、表現する側が自覚するべきでもある。
しかし津田たちは自分たちの下品さ・暴力性に自覚がないか、自分たちに都合のいい「正義の暴力」は許されると思ってるのだろう。
津田の活動はどんどん政治寄りになってきてるのでそのうち議員に立候補してもおかしくないと思うが、
もしこういった暴力性に自覚がない連中が政権を取ったとき、ソ連のようにならないと誰が言える?
やつらが反対勢力の表現の自由を保障してくれるとはとても思えない。
やっぱどうしても我慢できなくなってきたから、じゃあズバリ「芸術」と見なされるために最低限必要なルールを説明してみる。
たったの2つだ。
芸術家も人間なので、主義主張はあるし、作品を通して伝えたい政治的なメッセージもある。公にそれを語る人もいる。
しかし最終的に求めているのは「作品に対する評価」だけである。背後にどんな大層な思想があろうが、作品が作品として評価されなければ丸っきり意味がない。そう考える人種を芸術家と定義する、と言ってもいいかもしれない。
(現代日本でなら、漫画やアニメの作者で例えるとわかりやすいかもしれない)
芸術家は、自分の作品が、個人的な経験や思いつきを超えた、もっと普遍的な価値に通じる何かだと信じている。
そうでなければ、何の実用的価値もなく、美しくも楽しくも何ともないような作品に、人生かけたりはしない。
しかし作品は常に「それは単にあなたの意見ですよね?」と相対化される危険に晒されている。
だから必ず、過去において普遍的な価値を持つとされてきた作品と、自分の作品とを関連づける。その形は継承であったり否定であったり様々だが、長い長い人類の芸術の歴史の一部なんだと立証することで、初めて
「これは"芸術的価値"があるね、だから大勢の前で展示したり、高い値段で取引する正当性があるね」
と認められるようになっている。
(お気づきのとおり、芸術史とやらの価値を証明する客観的な手段はない。その価値は長い歴史そのものと、現実社会に与えてきた影響の大きさによって担保されている)
以上が芸術と呼ばれる営みのルールだ。作品の評価が全て。作品の価値は芸術の歴史に立脚する。たった2つだ。
では、津田芸術監督は、会見で何を語った?「問題について議論するきっかけ」だの、「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味がある」だの、「劇薬」だの……何だそりゃ?
つまり作品を、社会に波風立てるための手段に利用しただけ、ってことだ。ただ純粋に作品を鑑賞して評価してもらう、自分が惚れ込んだ作品の力を信じる……そんな考えはサラサラないらしい。
芸術史に対する言及もまったくない。つまり作品の芸術的な価値をわかってもらおうと思ってない。芸術展の場なのに、だ!
つまりコレは芸術の営みと認められない。芸術家にとってとんでもない侮辱と言っていい。
……
少女像他の作者が、そういう意味での「芸術家」かどうかは知らない。別に芸術が政治活動より尊いと言いたいわけでもない。
ただ、芸術の場では芸術を尊重しろよ、尊重する気がない人間を運営に入れるなよ、そういう話だ。
(言うまでもないが、私個人の考えだ。暗黙的に感じられるルールを言葉にしてみただけだ。きちんと証明する力量はない。ただこの意見を通して、芸術について何か一つでも「ああそういうことか」と納得いく点があれば幸い)
俺はリベラルだけど、流石にあれはないと思う
天皇に火をつけていやこれは美術館に燃やされたことを表現したアートなんですは通らない
逆に、百田あたりが慰安婦の写真燃やしてこれは戦争が終わった時に焼き殺された慰安婦の怒りを表現してますとか言っても通らないでしょ
ましてやそこに税金使われてんだよ?あり得ないよ
税金を一銭でも使ってる時点でアウト。
政治的中立性を求められる場(テレビ放送など)では「政治的偏り」はたしかに問題だが、それ以外の場ではいくら偏ろうが問題にはならない。個人的な好悪とは別にしてね。
「政治的偏り」が問題になるというのは、「多数派の政治的主張」以外は犯罪になるということであって、そんな世界は自由であるとは到底言えない。
構図としては「ヘイト」が「政治的偏り」を隠れ蓑にしている場面の方が多い。「政治的偏り」には当然「表現の自由」が適用されるからね。
ちなみに愛知のアレは…「ヘイト」ともまた違うと思う。津田個人に関しては「悪ふざけ」の域を出ないだろうし、まあ彼の主張が「ヘイト」と断じられようがどうでもいいんだけど。主催者と作品の製作者の主張はまた分けて考える必要があるので。
まず慰安婦像に関しては、普通に「政治的偏り」であって「ヘイト」ではないでしょう。同意をするかどうかは別として。
それから天皇の写真については、これは富山県立近代美術館絡みで色々背景があるらしいので、「過激」ではあっても「ヘイト」とは違うと思う。その過激さに悪感情を持つのは人間として当然だとしても。また故人に名誉毀損が適用されるかというと微妙だし、さらに天皇には人権がない(これは日本国憲法のシステム上の仕様)のでさらに微妙。
https://togetter.com/li/1384272
https://togetter.com/li/1384350
明確なプロパガンダ
「政治的に一番ヤバいことをやる」「天皇に火をつけてるけど二世代前なら問題ない」など言っている。
特に前者の発言が重要。「政治的に一番ヤバいこと」という目的意識がそこには表れてる。
さらに、当初学芸員が選んだアートを津田が却下して選びなおした(その際、盟友である東の関係者も多く含んだ)こともある。
津田による、津田とお友達のためだけのプロパガンダ。それが表現の不自由展。
さらに言うなら、「表現の自由が侵害された年表」にも左側が侵害した例は全然掲載されてないことが有志の調査で明らかになっている。
https://twitter.com/sPOBXWeNVX4wvlC/status/1158333013446418432
津田「ただー、これの炎上はね、男女平等(あいちトリエンナーレのアファーマティブアクション)とかじゃないくらいの炎上がおそらく起きるとおもうので、大変なことになるだろうなーと思ってます。ま、今から・・どーしようかな?みたいな。今だから僕、アマゾンにいって、防弾チョッキとか(笑)あのー、ナイフでブスッと刺されても大丈夫なように、いちおそういうの、やっとくかなーみたいな」
聞き手の女「備えあれば憂いなしみたいな」
https://twitter.com/sPOBXWeNVX4wvlC/status/1158323058651758592
津田「まあ現物を、公立美術館で撤去されたものを、表現の不自由展っていう展覧会を持ってくる体にして全部展示してやろうっていう(笑)そういう企画で。おそらくこれみんな全然気づいてないんだけどこれが一番ヤバい企画になるんすよ。政治的に」
東浩紀「・・やっぱりー、・・天皇が燃えたりしてるんですかぁ?」
津田「まー天皇というのが一つタブーになって撤去されるという事例がある。それは広く知られているので、それはこの展覧会のモチーフになる可能性は、(小声で)あります」
東「ええええっ!こんな令和でめでたい時に!?」
(中略)
津田「(ニヤニヤしながら)二代前じゃん!」
「俺は芸術監督として指名されただけで決めるのはあくまで実行委員会だ」という責任逃れとも取れるふやけた弁明を先週末ラジオに電話出演して話していた津田だが
この動画を見て記者会見の時の憔悴した津田とだいぶイメージ違って浮ついてるなあと思った。この展示をぶっこむことのリスクを本当に正しく把握はしてなかったんだね。
ネトウヨを挑発できておもろいやんくらいには考えてたことは上の動画から明白
電話対応に追われてメンタルがやられつつある職員を見てこれは無理だなと津田は思ったそうだが、正直これくらいの抗議が来ることは当然予想しておくべきだし、そのつもりでやってたのだと思ってた 3日で引っ込めたというのもそのへんの腹のくくり方の甘さから来てたのだと苦言を呈されてもしかたないんじゃない?