2019-08-06

OK芸術ルール説明する

やっぱどうしても我慢できなくなってきたから、じゃあズバリ芸術」と見なされるために最低限必要ルール説明してみる。

たったの2つだ。

ルール1: 芸術家は作品で語るし、作品評価される

芸術家も人間なので、主義主張はあるし、作品を通して伝えたい政治的メッセージもある。公にそれを語る人もいる。

しかし最終的に求めているのは「作品に対する評価」だけである。背後にどんな大層な思想があろうが、作品作品として評価されなければ丸っきり意味がない。そう考える人種を芸術家と定義する、と言ってもいいかもしれない。

現代日本でなら、漫画アニメの作者で例えるとわかりやすいかもしれない)

ルール2: 作品単独ではなく、過去から芸術文脈の中で評価される

芸術家は、自分作品が、個人的経験や思いつきを超えた、もっと普遍的価値に通じる何かだと信じている。

そうでなければ、何の実用価値もなく、美しくも楽しくも何ともないような作品に、人生かけたりはしない。

しか作品は常に「それは単にあなた意見ですよね?」と相対化される危険に晒されている。

から必ず、過去において普遍的価値を持つとされてきた作品と、自分作品とを関連づける。その形は継承であったり否定であったり様々だが、長い長い人類芸術歴史の一部なんだと立証することで、初めて

「これは"芸術価値"があるね、だから大勢の前で展示したり、高い値段で取引する正当性があるね」

と認められるようになっている。

(お気づきのとおり、芸術史とやらの価値証明する客観的手段はない。その価値は長い歴史のものと、現実社会に与えてきた影響の大きさによって担保されている)

表現不自由展」は?

以上が芸術と呼ばれる営みのルールだ。作品評価が全て。作品価値芸術歴史立脚する。たった2つだ。

では、津田芸術監督は、会見で何を語った?「問題について議論するきっかけ」だの、「物議を醸す企画公立部門でやることに意味がある」だの、「劇薬」だの……何だそりゃ?

まり作品を、社会に波風立てるための手段に利用しただけ、ってことだ。ただ純粋作品を鑑賞して評価してもらう、自分が惚れ込んだ作品の力を信じる……そんな考えはサラサラないらしい。

芸術史に対する言及もまったくない。つまり作品芸術的な価値をわかってもらおうと思ってない。芸術展の場なのに、だ!

まりコレは芸術の営みと認められない。芸術家にとってとんでもない侮辱と言っていい。

……

少女像他の作者が、そういう意味での「芸術家」かどうかは知らない。別に芸術政治活動より尊いと言いたいわけでもない。

ただ、芸術の場では芸術尊重しろよ、尊重する気がない人間運営に入れるなよ、そういう話だ。

(言うまでもないが、私個人の考えだ。暗黙的に感じられるルール言葉にしてみただけだ。きちんと証明する力量はない。ただこの意見を通して、芸術について何か一つでも「ああそういうことか」と納得いく点があれば幸い)

  • 個人的には、表現の不自由を完璧に表現したという意味で、今回の展示は完成したといえる。 完全に自由な表現など存在しない。立場の制限はもちろんだか、メディアの限界も、技術の...

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