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はてなキーワード: 意図とは

2023-07-18

日記12

今日は泊まり明け。帰ってきてから始めて妻に会う。普通ぽかったけど、、

今度共通休みの日子供は預けないでおこうかなーと言い出した。どういう意図なんだろう。ただ2人きりになるのを避けたいだけなのかな。

子供の前だと聞きにくいから聞けずじまいで今に至る。生理で出来ないからっていう理由だったら子供をダシにして避けるのはやめて欲しい。

この間生理だと聞いてから期待はしてなかったけど変に避けられたらモヤモヤするよ。

また無駄寝不足が続いてしまう。もう妻に期待するのは良くないんだろうか。

anond:20230718163454

増田の言う大声って「止まって」とか「ブレーキ」とか「危ない」みたいな運転邪魔しにくるやつ?

じゃあこの発言はどういう意図なん?

「止まって」という大声は運転邪魔になるって認めてる発言しか見えないけど

はてのさんのLINEスタンプ

ChatGPTやStable Diffisionでさえ訓練データの出処が怪しまれてるのに

謎の中国人が作ったモデルなんてそこらじゅうから無許可で集めた画像食わせてるとしか思えないんだが

しかもちびキャラ生成特化って訓練データ限られてそうだし、意図せず他人著作物パクリを出力しちゃいそう

プロジェクトとしては面白いからまり水を差すブコメはしたくないので、増田に書いておきました

anond:20230718003858

好きに作品意図価値を決定し、ただの一視聴者に過ぎないのに自分を一段高く置く所がウザがられてるのよ

ポリコレもそうだけどシンプルウザイじゃん

女性タレントAVを「作品」と呼ぶの違和感ある

女優本人は映像作品として真面目に取り組んでると思うしどう呼ぼうと勝手なんだけど

表のメディアAVとは無縁の女性タレントセクシー女優と対談してAVを「作品」として扱うのは違和感ある。

なんかこうAVを認めてますというか、映画ドラマと同じように作品として扱ってますみたいな態度がすごく嫌。

たぶんまともにAVを見たこともないんだろう。

セクシー女優パケ写はきれいだしグラビア映像ダイジェスト映像もきれいだし勘違いするのもわかる。

演技で作品を作ってるとか、きれいなセックス想像したら作品として認めたくなる気持ちもわかる。

でも実際の内容はもっとエグくて他人ちんこ舐めたり複数プレイだったり、挙げ句の果てには肛門を舐めてたりするわけで。

いくら演技だとか良いものを作りたいという姿勢があっても、見ず知らずの男のケツの穴を舐めるって何事?!「作品」とかそんなレベルじゃねーぞ。ケツの穴だぞ?恋人同士でもやらんわそんなこと。

タレントが真顔で「アナル舐めはこの作品の中でどんな意図がありましたか?」とか質問するなら許せるけど、汚い部分は見なかったことにして「作品」なんて呼び方するなよ。

anond:20230717225659

お前みたいな意見が恥ずかしいって言ってんだよ

制作者の考えが正解ってのが最大の勘違い

作者すらも何を作ったかわかってないというのが作品を読み解く際の大前提

作者の意図というのは解釈する上での一つのガイドしかない

「作者はこういう意図演出しているが、別の意味解釈することができる」ということは普通にあり得る話

"XXX"は海外だとエロを表す

ここ数ヶ月洋物エロ動画漁ってるんだけどさ。

"XXX"って単語英語圏だとエロを表してるっぽいことに気付いた。

それでさらに気付いたんだけど、俺今まで英語文章書くとき日本語で使う"○○○"とか"△△△"と同じ意味で"XXX"を使ってたんだよね。

未知を表すXだし意図は伝わるでしょと思って。

でもこれもしかしたらいきなり文章エロを混ぜ込むヤベえやつだと思われてたのかもしれん。

2023-07-17

anond:20230717163854

どういう意図で書くかの宣誓みたいなの一番萎え

anond:20230717135216

一切の悪意や侮蔑感情くそ形容を使うやつはいないでしょ

事実かどうかではなく、「他人侮蔑しようとする意図客観的に明らかであること」が名誉を傷つけるんじゃないの?

炎上してるICE BOX広告イラスト

あれを一切エロくない(作者に性的意図ない)って言うの無理があるような気がするんだけど、本気でそう思ってる人いる?

アンチフェミらがこれがエロく見えるわけないだろって合唱してるのよくわからないし、広告から目を引くようにイラストレーターが得意の可愛い女の子露出を目立たせてるのは明らかじゃない?

「飯炊きオナホ」が悪口になる意味がよく分からない

専業主婦だけど、飯炊きオナホって言われてもはあ…なるほど…としかならない

飯炊きオナホバカにして勝ち誇る人の気持ちも飯炊きオナホと言われて怒る人の気持ちいまいちからない

男性は働きディルドだし子供うんこ製造機だし

そもそも人間なんて起きて働いて食べて出して寝るだけの存在だし

それの何が悪いのか分からない

なぜダメなのか教えてほしい

(追記)

ごめん、屁理屈言ったり嫌味言うみたいな意図は無かった

ただただ飯炊きオナホという言葉を使って人を傷付けようとしたりそれにイライラする意味がわからなかっただけ

そんなことするくらいなら散歩した方が有意義じゃない?みたいな

君たちはどう作るか

宮崎駿の最新作『君たちはどう生きるか』を見てきたんで、ある程度ネタバレありで感想書きなぐっておこう。

ネタバレありだからね。

正直、観る前に想像してたより悪くなかった。

テンポも悪くないし、人間関係に緊張感もある。

作画が徹底的に心象風景に寄っているのも、職人芸の趣があった。

火災とか草原の描き方なんて、ゴッホともセザンヌともなんだか判らんけどとにかく印象派的に歪みまくっていて、主人公の高熱に魘された夢のような心が伝わってくる。

田舎の家も、当初は主人公の内心の萎縮ぶりを示すかのように何もかも巨大で、玄関なんてどこの古刹の大伽藍かと見紛う巨大さであり、今に残ってたら家ごと国宝になりそうだ。

もちろん、本物はせいぜい田舎豪農レベルなのだろう。

心象風景として東大寺大仏殿並の巨大建築に見えているだけである

敢えて心象風景とわかるように表現している事で、主人公が実際には父の後妻を嫌っていない事も想像がついた。

なぜならすんごく清潔感のある優し気な美女として描かれているかである。嫌っているなら心象風景でそうはならない。

初対面から一目ぼれレベル主人公は慕っていたのだろう。

でまあ、作品は途中から塔の中パートと、塔の外パートという二輪構成で進んでいくのだが、

まあ、なんだ、ここから批判が多くなる。

まず塔の中パートだが、なんというか、とにかく意味があり過ぎる。

これは褒めてない。

宮崎駿もののけ姫辺りから、やたらと意味のあるものを描こうとするようになってしまってるように思える。

1シーン毎に意味があり、多分本人に質問すれば「このシーンはこういう意味がある」と全部答えてくるだろう。

まり寓話的で哲学的記号的で、イソップ童話とか不思議の国のアリスとか、そういう感じの、「意味の塊」として作品を作ってしまっているのが塔の中パートだ。

ハウルとか千と千尋とかでも顕著だったけど。

これの何が悪いって、妄想が爆発してないのである

ムスカラピュタの雷をぶっぱなしたシーンに意味なんてないだろ。王蟲がペジテのドーム食い破ったのも意味なんてないだろ。

あいう爆発するほど格好いいシーンに意味なんてないのだ。

「どうやお前らこんな凄えの見た事ないだろ。俺も見た事ないから作ってやったぞ。見て驚け。」

という作り手の妄想の大爆発なのだ

妄想を爆発させるためにそこには当然無理がある。歪みがある。そのシーンを効果的に描くために、他のシーンで入念に爆発物を積んでいる。

その無理、その歪みが、ある人には滑り、ある人には刺さるのだ。

本人が見せたいのは爆発の部分だが、関係なく歪んだ部分が受けたりする。それが創作快感である

ところが、この作品含めて後期宮崎はその「見た事ないだろ」をやらない。庵野もだけど。

なぜなら、名前が売れて裁量が大きくなった事で、作りたいものを作れるようになったからだ。作りたいものは作ってしまい、もはや「こんなの見た事ないだろ」が無い。

庵野はその無理のなさを、その歪みの無さを、オタク知識で埋めてシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作った。

そこにはTVエヴァのような溜めに溜めた便秘解放のような妄想の爆発は無く、無い物を何とか絞り出した感のある細長いウンコしかない。

一方、宮崎駿はそれを哲学記号で埋めてこの作品の塔の中パートを作ったのだ。これは最早宮崎駿のバランス感覚のみで構成された世界から、やたらとデジャヴがある。

もののけ姫と変わらずに「鎮まりたまえ~鎮まりたまえ~」とやってるし、千と千尋と変わらずに仕事やらされたり禁忌に触れて怒られたりしている。

でてくるのもやたら思わせぶりな妖怪連中である。思わせぶりなだけで、記号であるために特に伏線とかない。どういう存在説明されてフェードアウトする。

エンタメに徹するなら、塔の中はクトゥルーばりの別の星・異星文明でも良かったはずだ。せっかく宇宙から飛来した謎物体的な設定があるんだから、一気にスターウォーズ世界になっても良かったのだ。

そこから進めて、「現代日本主人公の迷い込む異世界として描く」まで手が伸びても良かったはずだ。

ところが、そういうエンタメに走らず、やたら寓話的な見たような話で埋めてしまうのが今の宮崎駿である

ブチ切れるセンス・オブ・ワンダーではなく、賽の河原の石積みみたいなひじょーに心象的なもので埋めてしまうのが今の宮崎駿マイブームである

そういう「意味」だけで構成されたパートからストーリーなんてあって無きがごとしである。断片的な寓話職人芸でつなぎ合わせた取り留めのないタペストリーである

一方、塔の外パートは違う。庵野と同じく、オタク知識で埋めている。

人力車描写一つ、言葉遣い一つ、看板一つ、食事のお膳一つから、「当時はこうだったんだぞ」という聞いてもないのに披露されるオタク知識臭がする。

多分、キャノピー実在ナントカ式とかそういう裏打ちされた設定があるんだろう。田舎がどこの県のどこの地方かも絶対決まってるねありゃ。

っつーことで塔の中パートより終わってる感のある塔の外パートだが、そこで主人公父親が妙な存在感出してるおかげでかなり良くなっている。

というのも、この父親ある意味主人公と後妻という二人の問題元凶と言える一人であり(まあ、亡くなった実母の方がより存在感は大きいが)、更に経営者であり金持ちで何でも自分で決めてしまタイプ

というジブリ作品ちょっと見ないタイプキャラからだ。

こういうタイプは、通常は出て来ても悪役なのだが、この作品ではそれを悪役として描かない。塔の外の部外者として描く。(大叔父と血のつながりもないし)

そんなわけで、このキャラについては宮崎駿の才能の爆発が感じられるのである

経営者であり第一線でもある、という後期宮崎駿が手にした立場意図せずに作り上げた鬱屈爆薬になってこのキャラに込められているのだろう。そのせいで、後半になって妙に生き生きしている。

主人公の心象にだけフォーカスするなら、後半の塔の外パートは要らなかったはずだ。少なくとも、もっと小さくなり、警察とかが来て事務的に進むのがセオリーだったはずだ。

しかし、おそらく宮崎駿はこの父親を描くことに創作快感を感じたのではないかと思う。

なんかもう藤井聡太ばりに全く失着を犯さず最善手を打ち続ける主人公の代わりに、

この父親勝手にやらかすし勝手決断するし部外者でありながらガンガン行くしで、

前半には明らかに狂言回しだったこキャラけが、後半に「キャラ勝手に動いた」を感じさせるのである。作中で唯一、記号を感じさせないのがこの父親である

そんなわけで、ち密に意味を積み上げて作り上げたであろう全体の印象を、後半の父親がぶっ壊して変になっているが、その父親がぶっ壊した所こそが個人的には最も見ごたえがあった、という何とも評しがたい作品である

まあ、悪くなかったよ。

でもね、道徳副読本を作りたいんでもなければ、作品作る時はもっと一点の妄想・一点の美意識に全賭けしましょうや監督

anond:20230716235636

そもそもなぜ「なるほど」自体が失礼なのか、そもそもそれ自体侮辱意味合いはないだろ

定型発達者は何もなくてもデフォルトで全ての物事に「意図」を感じ取るから。その傾向が強い奴は存在しない意図をも感じ取っちゃうんだよ。霊が見えるとかそういうのと同じ話。端的に言えば頭がおかしいということ。

2023-07-16

AIイラストに対する違和感の正体がわかった気がする

2次元イラスト風に限るけど、光の当たり方や影の付き方に意図が感じられないことだと思う。

服の皺みたいに細部までしっかり描かれているのに影には表現したいものが宿ってない。

明るい表情なのに斜め後ろからの光源で顔に影がかかっているとか、光で演出したいものが見えてこないところなんだと思う。

東大様の考える『迷惑』と底を這う我々ウジ虫の『迷惑』は全然ちゃう

継続的に誰かの家のドア蹴るとか

並ぶとか概念無いんか?ってくらいに乱暴に我先に行くとか

なんかずっと朝から夜中までなにかにつけて文句をつけてくるとか

人ん家のものを我が物にして悪びれずそもそも悪いことだと認識してないとか

乳児にアメを無理やり食べさせるとか

ベビーカー蹴ってくるとか

宿泊所のベッドに意図して放尿するとか

人の家の前で脱糞するとか

ずっとブツブツ言っててうるさいとか(そんでいきなり叫ぶ)

夜通し歌を歌い続けるとか

少額でもお金をせびり続けるとか


普段ひとのために働いてるけど怪我病気でやむを得ず人の世話になるとか、仕事を完遂するために誰かを頼るとか、生まれつき障害があるとか、そういう次元の話じゃないのよ「人に迷惑をかけるな」ってのは。

そんな高尚な助け合いを引き合いに出して「迷惑かけていい」とか言わないでほしいのよ。

そういうことじゃないの。そういう次元じゃないの。そういう視界で話さないでほしいの。

あんたらの世界の「迷惑」をここまで届く声で叫ばないでほしいの。迷惑から。本当に。

anond:20230716162905

何でそんなこと言い始めたとっていう意図理解できないから俺は文が理解できないと言ってる。

だいたい文単独文脈意図とか一切度外視してどういう意味かわかるかどうかだけで怪文書認定したらだいぶ既存怪文書怪文書と言えなくなるだろ

anond:20230716154750

文法的に失礼にあたる」って意味がわからなくてすまん

文法ロジックで「正しい」「間違い」くらいしかなくて、「失礼」みたいなお気持ちは含まれないと思うんだがどうか

例えば意味の一つである自分の感動を伝えるという意図でもやはり失礼にあたるか。(繰り返すが文法的に。受け取り方や印象の話は一旦しないで)

なるほどですね」の何が文法的にまずいのか誰か解説してくれ

https://anond.hatelabo.jp/20230715174621

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230715174621

相手不快に感じるとか、こういう印象を受けるというのはおいといて、文法的にどこがどうまずいかを私の日本語知識だと理解しきれないので誰か頼む。

Togetterブコメを見るとざっくりと「なるほどは相手を敬う意味がない」「なるほど+ですねは文として成立していない・俗用の日本語である」「ですねは同意を求める意味であるので失礼にあたる or 意味が通らない」というのが主な理由として挙げられているように見える。

この後ろ二つの理由イマイチ正確に理解できない。

主な疑問や考えは以下。

・「なるほど」という副詞(もしくは感嘆詞場合でも)に助動詞です+終助詞ね が続くのは本当に日本語文法的おかしいかおかしいなら、なぜおかしいか

・「ですね」は別に同意を求める意味ばかりではないと思うが、例えば意味の一つである自分の感動を伝えるという意図でもやはり失礼にあたるか。(繰り返すが文法的に。受け取り方や印象の話は一旦しないで)

私の中学生並みの国語知識では限界だ。日本語に詳しい増田ブクマカ頼む〜

君たちはどう生きるか ネタばれあり・見たけど意味わからんかった人

追記

たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章から申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。

・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリメタファとする解釈はこの児童文学作品矮小化していると思う。あまり好きではない

→全く同意見で、書いた通り普段テクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿最後作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品のもの解釈海燕さん他書いているのがよかった。

映画も見てないし原作も読んでないけど、なるほど(以下略)

→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。


一般向けではないというけど、次世代へのバトン家族の話って極めて普遍的で、ジブリ宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ

→この辺りは宮崎駿自己言及普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。


・あの作品登場人物実在ジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。

→おおむね同意見で、自分ホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。


前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)

しろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分感想本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。



追記ここまで


初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由最後に書く)


見た人の多くは、ラストにかけてのメインストリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。

個人的結論を先に書く。(自分普段テクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)

まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。

オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿トトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラ鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。

そしてここから感じたのは、宮崎駿人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。


ていうことで、物語の根幹と宮崎駿人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。

結論から書けば、空から降ってきた大岩宮崎駿の才能、ギフト宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリのもの。その血を引く主人公宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面宮崎駿投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面告白、なんだと思う。つまりスタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。


昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。

時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。

ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界ジブリ後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)

関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑

そして物語ラスト吾郎ジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリ崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラスト宮崎駿は表したかったのだと思う。

総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的感情も整理しながら、比喩的な物語人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。

主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後最後告白し、汚れているか自分は継げないとジブリ世襲拒否するシーン。

あれはなんかほんとに個人的事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。

でもここは、ちょっと未整理。

まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。


ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。

個人的にはここから作品本質だと思っている。

子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス配慮)が欠けている。

はっきり言って、一般向けではない。大衆子供映画を作ってきた宮崎駿ジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)

しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。

そして、これと同時に、自分のような批評する目線映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。

以下に、その理由を書く。自分感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと

宮崎駿生理的表現がほんっとにうめぇな」

となる。

例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人うそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます

これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物感情や、物語における人物立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。

作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。

で、それらの生理的表現が今作で上げる最大の効果は「生理的感覚として、見る者に言語範囲外で意味を伝える」ことだと思う。

自分新海誠映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)

はっきり言って、中盤以降は物語テンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモア人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。

理解として言えば、言語範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント

たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白ヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。

から意味深がセリフ物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。

自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語理解拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。

プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報多寡しかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。

「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しか生理的理解している。

自分最初考察意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分勝手感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。

一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明エヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリ崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから一部の人批評感想特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。

君たちはどう生きるか商業映画として健全じゃない

あの映画ストーリー破綻しまくってるので逆に心に引っ掛かりを残して、見た後に誰もかれも監督である宮崎駿を読み解こうとする。

原液であるとか、走馬灯であるとか。

これは商業映画としてとても健全とは言えないのではないか

鬼滅の刃を見て、原作者がどうのとか監督がどうのなんて話は誰もしない。

新海誠の君縄以降は売れ線志向でも監督深読みされることもあるが、素直にエンタメとして楽しむことが本道であるように思う。

翻って君生きは、エンタメとしては煮え切らない不発弾に過ぎず、宮崎駿を知らない人間にはまったくとるにたらない駄作に映ることだろう。

いいや宮崎駿はそれほどの人間なのだから自分表現の終着点としてああい作品はあってしかるべきだ、というのも分かる。

意味を深く読み取ったものには名作たりえることもあるだろう。

あとは見たものにゆだねるから勝手にいろいろ読み取って自分だけに映画にしなさい、という意図もあるかもしれない。

であるならば、岡田斗司夫蛇蝎のごとく嫌ってSNSカラーと結託してディスったのは蛇足だったなと思う。

岡田斗司夫的な物語の読み解きがこれほど必要になる映画もないからだ。

今起こってることは、映画鑑賞者の総岡田斗司夫化だ。

誰もかれも深読みしてSNSに私はこう読み解いた、あれはこういうことだと思うという「答え」が並ぶ。

皆答えを探しているので、有名無名に関わらずそうしたSNS感想へのview数も増えていく。

いや案外目論見どおりなのかもしれない。

これはSNSバズを狙ったプロモーションであり、巧妙な岡田斗司夫しなのかも。

だってもうこの後に岡田斗司夫が何を言おうが、たぶん自分の中の答えがある人には自分のほうが正解になるから

いずれにしても商業映画としてはどこかいびつで健全でないと思う。

そしてアオサギ鈴木敏夫投影であるのはほぼ間違いないと思うが、鈴木敏夫のくちばしの穴に挿さった栓を握ってるカンヤダには、ぜひその栓を一思いに引き抜いてもらいたいものだ。

(以上はすべて私の妄想であり正しい解釈ではありません)

anond:20230715230429

承知した」ははっきり同意意図があるし、貶しの意味合いが無いから良いんだよ

2023-07-15

anond:20230715174621

九州弁だからいいだろ」という主張が見られるが、九州以外での会話の中で唐突九州弁を繰り出す意図が謎。

anond:20230715175639

なるほどですね

を最も分かりやす問題のある言い方に言い直すと

「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」

が近いと思う。

こういう、「存在しない裏の意図」を勝手に感じ取ってネガったり怒りだしたりする奴って、定型発達脳が暴走してるという意味発達障害一種だよねって思う。

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