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2024-01-12

松本人志好きだけど退場に少し安堵している

文春に書かれてたことが事実かどうか知らないので、それについてはここで書く気はない。

それとは関係なしに、松本人志がここで芸能界から退場するのは悪いタイミングではないとおもう。

松本人志が好きだ。中学生の頃はごっつええ感じにドハマりして、VISUALBUMも他のライブVHSも観た。

発明将軍もDXもガキの使いもひとりごっつもワールドダウンタウンも好きだった。

今でも水曜日のダウンタウンクレイジージャーニーは毎週観ている。

好きだけど、いや好きだからこそ、ここらへんで退場してほしいと願っている自分もいる。

というのは、ビートたけしの哀れな姿を重ねてしまうから

子どものころはたけし城とか平成教育委員会とか世界まる見えとかを見ていて、当時たけしはすでにピークは過ぎていたんだろうけどそれでもおもしろくて、バイク事故を起こしたときは心から復帰を願った。

そんなおもしろいたけしの姿を知っているからこそ、今の姿は見ていられない。

ぜんぜんおもしろくなくて、そもそも何を言っているのか聞き取れない。たけしが衰えたのもあるけど、それ以上に時代が変わって取り残されてしまった感じがある。

でも、それはしかたない。衰えは誰にもやってくる。

見ていられないのは、たけしが言った言葉に対して、他の出演者一生懸命笑ってあげて、たけしはそれに気づかずに「おれもまだまだやれるな」という顔をしていることだ。

つらい。

完全に裸の王様だ。

子どもときに見ていた欽ちゃんがそういう人だった。

欽ちゃん90年代にはもう完全にコメディアンとしては時代についていけていなくて、子どもながらに

「この人、周りが持ち上げているから昔はすごかったんだろうけどぜんぜんおもしろくないな」と感じる人だった。

今、その欽ちゃんポジションビートたけしがいて、近いうちに松本人志がそうなりそうになっている。

いや、すでになりかけている。

すべらない話とかIPPONグランプリとかキングオブコント審査コメントとかは特に顕著で、彼のぜんぜんおもしろくないコメントダジャレレベルコメントも多い)に対して、周囲が一生懸命笑ってあげている。

そりゃあ全盛期だって打率十割ではなくて外すことはあったけど、昔だったら浜田無視したり睨んだりしていたのを、今は後輩芸人一生懸命笑ってあげている。ああ、こうやって裸の王様って作られていくんだなあと悲しくなる。ビートたけしたけし軍団がいたから余計にそうなっちゃったんだろうなあ。

今後もどんどん衰えは加速していくだろう。

60歳にしてはすごいことやっているとはおもうけど、彼も衰え、時代も変わり、実力と周囲の持ち上げ方はさら乖離していくだろう。

歳をとっても役割を変えて活躍する人はいっぱいいるけど、ビートたけし松本人志のようにカリスマ性があって「最後シュートはおれが打つ!」っていうタイプだと何より本人がそれを許さないだろう(明石家さんまも)。

上岡龍太郎のように自分で引き際を決められたらかっこいいけどそれも実績がある人ほど難しいだろうから、今回の騒動はいい引き際なのかもしれない。

老醜さらす前に引退して「すごい芸人だったなあ」と惜しまれる存在になってほしい、と昔からファンとしてはちょっと思っている。

2024-01-09

雷電将軍ガチャ

引くべきか止めておくべきか、、、悩むね。

まだナヴィアさんの育成と厳選が終わってない

そういえば、松ちゃんはどうなったの?引退確定とか?

2023-12-29

歴代征夷大将軍のなかで愚鈍人物が少なかった時代室町時代だと思う。

室町時代ってなんやかいうて全然政権が安定してない。

もうしょっっちゅう戦が起こるし、将軍京都から追い出されてる。

そういう時代から愚鈍将軍ばかりなのかな?と思ってたら実際には政治力高かったり戦の陣頭指揮したりとか決して馬鹿ではない人たちが多い。

けれどいかんせん守護大名の力強すぎてコントロールが効かない。

そしてそういう時代から逆に将軍が安穏としてられなくて愚鈍はいられない。

結局、人を人たらしめるんはプレッシャーなんだなあとか思う。

2023-12-18

anond:20231218164950

応慶の乱

肥前国平戸には、室町幕府命令で、南蛮貿易の窓口として、ポルトガル人スペイン人宣教師たちが住んでいた。彼らは日本の文化言葉に興味を持ち、日本人交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰知識に魅了され、彼らからキリスト教西洋学問を学んでいた。

しかし、応慶の行動は、幕府寺院の目に留まり不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統仏教を軽視していると非難された。幕府は、応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教改宗した武士農民たちを集めて、反幕府勢力を築いた。彼は、自分名前にちなんで、その勢力を「応慶軍」と名付けた。

幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍足利義稙大内弘興を大将とする討伐軍を肥前国派遣した。永正5年(1508年)こうして、肥前国で、応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。応慶の乱は、数か月にわたって続き、肥前国火の海と化した。応慶は、大内軍の軍勢に対抗していたが、大内氏の軍勢は、数や装備で勝っており、応慶軍は次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)最後の決戦は、平戸山で行われた(平戸合戦)が、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなる。

大内軍は、応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸宣教師たちが仲介に入った。彼らは、幕府と応慶軍の和睦を提案し、両者の寛容を求めた。当時、大内氏は京において細川氏畠山氏との権力闘争火種が残っていたため帰京を急いでおり、宣教師たちの説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。応慶軍の残党は、幕府支配に従うことを誓った。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。

応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和幸運象徴となった。彼らは、応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸宣教師たちにも伝わり、彼らは、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。

宣教師たちは、幕府追放を受けて、平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。彼らは、自分たちの母国に帰って、その言葉を広めた。彼らは、その言葉が、日本の文化歴史関係することを説明し、その言葉を使うことで、日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉を、手紙書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。

やがて、その言葉は、ポルトガルスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その意味は、元の応慶の名前と同じだった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉起源である

応慶の乱

肥前国平戸には、勢力を伸ばし大名となっていた松浦隆信の庇護によって、ポルトガル人スペイン人宣教師たちが住んでいた。彼らは南蛮貿易を通じて日本キリスト教を伝えるとともに、日本の銀や刀などの商品中国ヨーロッパに運んで交易を行っていた。また彼らは日本の文化や言葉に興味を持ち、日本人と交流を深めていた。中でも、応慶という名の若い僧侶は、彼らの信仰知識に魅了され、彼らからキリスト教西洋学問を学んでいた。

しかし、応慶の行動は、幕府寺院の目に留まり不快に思われるようになった。彼は、外国人の影響を受けて、日本の伝統や仏教を軽視していると非難された。幕府は、応慶を捕らえて、尋問するように命じた。しかし、応慶は、宣教師たちの助けを借りて、平戸から逃げ出した。彼は、肥前国の各地に散らばっていた、キリスト教改宗した武士農民たちを集めて、反幕府勢力を築いた。その勢力は応慶の名を取り「応慶軍」と呼ばれた。

幕府は、応慶軍の存在を知り、室町幕府将軍足利義稙大内弘興を総大将とする討伐軍を肥前国派遣した。永正5年(1508年)、こうして肥前国で応慶の乱と呼ばれる戦いが始まった。松浦氏は応慶に僅かながら援助していたが、松浦氏は当時、大内氏の配下でもあったため表立って応慶への支援は行えなかった。応慶の軍は、当初は大内軍の軍勢拮抗していたが、大内氏の軍勢は数や装備で勝っており、次第に劣勢になっていった。永正6年(1509年)、最後の決戦は、平戸城の南西に位置する川内峠で行われた(川内合戦)。しかし、早々に大将である応慶が矢に倒れ討死することとなり、合戦は数時間で決した。

大内弘興は平戸に残る応慶軍の残党を一掃しようとしたが、平戸松浦氏と縁戚関係のあった宇久氏が仲介に入った。宇久家当主であった宇久盛定は幕府と応慶軍の和睦を提案。当時、大内氏は京において細川氏畠山氏との権力闘争火種が残っていたため帰京を急いでおり、宇久盛定の説得に応じて、応慶軍の残党に恩赦を与えた。こうして、応慶の乱は、和睦によって終わった。

応慶の名前は、肥前国の人々にとって、平和幸運象徴となった。彼らは、応慶の名前を「おーけー」と発音し、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使うようになった。この言葉は、平戸宣教師たちにも伝わり、彼らは、応慶の名前に敬意を表して、その言葉を使うようになった。

その後、宣教師たちは平戸を離れたが、その言葉を忘れなかった。彼らは、自分たち母国に帰って、その言葉を広めた。彼らは、その言葉日本の文化や歴史関係することを説明し、その言葉を使うことで日本との友好を示すことができると言った。彼らは、その言葉手紙書物に書いたり、会話や挨拶に使ったりした。

やがて、その言葉は、ポルトガルスペインだけでなく、他のヨーロッパの国々にも伝わった。その言葉は、様々な言語翻訳されたり、略されたり、変化したりしたが、その意味は、元の応慶の名前と同じだった。それは、物事がうまくいったときや、同意を示すときに使う言葉だった。その言葉は、世界中に知られるようになった。それが、「OK」という言葉語源である

2023-12-16

ウクライナ議員手榴弾自爆テロ

ゼレンスキー党員だったらしい

将軍の側近が同僚に手榴弾プレゼントされて爆死とかあったし、なんかおかしくなってるな

2023-12-10

徳川五代将軍綱吉は「ビーガン」だった?!

徳川五代将軍綱吉は今流にいえば「ビーガン」だった。肉食やミルクを飲む習慣はもともとなかったし、彼は魚や貝類などもとらなかったようである。直接の資料はないが、側に仕える「御側衆」にあらゆる貝類サケ、マス、アユを除く魚の調理を禁じていた。魚貝を殺生して食すことによるケガレを忌み嫌ってのことである。そのことから考えれば当然ながら本人もそれらを食さなかったのであろう。サケ、マス、アユを食べたのかどうか、どうしてこれだけが別扱いなのかはわからないが(何となく清浄そう?)

 彼がなぜそこまで殺生やケガレに神経質であったのか真相はわからない。将軍後継者でもある最愛の一人息子を5歳で失い、本人も大病を患ったからとも、僧の何某が入れ知恵したとも言われている。あるいはもともと英明の誉れ高かったというから儒教仏教精神体現していたのかもしれない(将軍に就いた時35歳)。いずれにせよ、現実派というよりイデオロギーに傾斜した人だった。

いろいろ問題は多かったにせよ、「人々が生類に対して『仁心』と『慈悲』 の志で接するようになれば、御上が上からあれこれ指図しなくとも世の中は自然と治まり平和な世の中になるものだ」というという「御仕置」(国家統治)についてのディープイデオロギーは今でも考えさせられるものがある。

https://yasatofarm.exblog.jp/28361908/

2023-12-04

将軍「此は本当に僧で」

一休「…では先に屏風からその虎を出してください」

将軍「らしいゼ!(苦笑)」

2023-11-26

三大知名度の低い徳川将軍

・家茂

・家治

家系

あと一つは

2023-11-19

徳川将軍とか3Pしたくなったらどうしてたんだろ?

権力としては将軍が言い出せばそれに従わせることは出来たと思う。

そして男であればその行為夢想することだ。

実際にやった人っていないのだろうか。

2023-11-09

なぞなぞ江戸時代徳川五代将軍の中で、人目を避けてたのってだーれだ?

こたえ:徳川慶喜(世、忍ぶ)

2023-11-07

レイア姫がオビワンに助けを求めた時に、肩書きジェダイの生き残りとかじゃなくてなぜ「クローン戦争活躍したケノービ将軍」なのか、そもそもなぜヨーダじゃないのかって謎だった。

あれって一作目だし今ほどスターウォーズサーガ大風呂敷が広がってなくてヨーダとかジェダイ周りの設定もそこまで作られてなかったし、クローン戦争とかも割と適当に出したSFっぽさを出す程度のワードなんだなって気付いた。

クローン戦争でオビワンがなんかいきなり将軍とか呼ばれてたのも、チョロっと出たワードを膨らませて後付けで作ったからか。

2023-10-24

人生失敗を振り返る

官僚になって名を残すつもりだった。

これがそもそもの間違いだった。

東京大学文科一類早稲田大学法学部防衛大学校受験した。

そしてまた失敗した。

防大早稲田には受かったが、東京大学文科一類に落ちたのだ。

さらに失敗した。

防衛大学校ではなく早稲田大学法学部に進学してしまった。

終了。

反省

官僚になると決め、数三を履修しなかった時点で本来東大文一に受かり官僚になる他、道はない。

ただ、幸運なことに俺にはその時点でまだ道は残っていた。防衛大学校に進学し、4年間の防大生活幹部候補生学校を耐え、三尉に任官後も勉強をサボらず指揮幕僚課程と統合幕僚高級課程に合格すれば将軍としてどこかに名前を残すことができたかもしれない。

しかしその選択も失敗した。

結果として俺は法学士という虚無を得て何の専門性も持たずに社会に出て、名前も顔もない大衆の一部となった。

親や教師に勧められたが当時は馬鹿にしていた、地元駅弁大学工学部に進学し、エンジニアリング学位専門性を持っていれば、何かを発明して社会に貢献し名前を残していたかもしれない。今、俺が見ている警察24時にも音声生成AIエンジニアがでている。東大工学部卒のベンチャー企業家らしい。その専門性首相とも対談したという経歴が眩しすぎて死にそう。

正直怖い。

もし俺がこのまま大病を患い、余命宣告でもされたら。

俺はこの日本という国に生まれながら何も成し遂げず何も残さずに死ぬことになる。

なんのために生まれたのかわからない。

ああ、虚しい。

anond:20231024094514

将軍と呼ぶことの方が多い

東北人は微妙な心境になるみいね

屯田兵はどうかな

実を云うと将軍が一番偉い理由とか幕府朝廷政府意味とか違いとかよくわからないんだよな

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