はてなキーワード: モーツァルトとは
言い古された扱いになるがクラシック音楽と日本の伝統文化は共通点が多い
まず、落語は古典のボリュームの多さである。時そばやじゅげむのようなレパートリは
得てしてクラシックで言えばバッハやモーツァルトといっても過言ではない。
落語は噺家の解釈によって話の結末やちょっとした表現がかわるがクラシック音楽によ
っても再現性を大事にする研究や、古楽器を用いて当時の音や編成を再現するピリオド
奏法。
または逆転の発想として「もし今現在作曲家が生けていればこう作曲しただろう」という
解釈のもとに再現性よりも表現性重視のネオピリオド奏法なんてものもある
噺家によって解釈が変わるのはまさに指揮者が変わって表現が変わるクラシック音楽そのも
のといえるであろう。
言い古された扱いになるがクラシック音楽と日本の伝統文化は共通点が多い
まず、落語は古典のボリュームの多さである。時そばやじゅげむのようなレパートリは
得てしてクラシックで言えばバッハやモーツァルトといっても過言ではない。
落語は噺家の解釈によって話の結末やちょっとした表現がかわるがクラシック音楽によ
っても再現性を大事にする研究や、古楽器を用いて当時の音や編成を再現するピリオド
奏法。
または逆転の発想として「もし今現在作曲家が生けていればこう作曲しただろう」という
解釈のもとに再現性よりも表現性重視のネオピリオド奏法なんてものもある
噺家によって解釈が変わるのはまさに指揮者が変わって表現が変わるクラシック音楽そのも
のといえるであろう。
いきなり浅田次郎の『お腹召しませ』の跋から引用するんだけど「貴き母国語の司祭たる小説家は、その記す言葉の一句一行に責任を負わなければならぬ」って、これなかなかカッコイイこと言ってるけれども、浅田次郎の文章だってたいがいひどいときはある。語彙は豊富だけど脂っこすぎるから格調が損なわれちゃって、なんだか下品だなーって思っちゃう瞬間も多いよねってわりと共感してもらえると思うんだけどどう?
で、こういう話をしてると必ず横から口を出してくる手合いがいて、言うことには「最近の小説家は文章のレベルが低すぎる」。こういうやつには気をつけなきゃいけない、なにしろこいつはそんな侮蔑的なことを言いながらむかしの小説をあんまり読んでないからだ。たしかに百田尚樹はおそろしいくらい下手な文章を書くし、現在まで残ってるむかしの小説家の作品の多くはたしかに文章が上手くて、そのうえたとえば川端とか百閒とかの異常な怪物がぐーんと平均値を上げちゃってるもんだから勘違いする。ひどい文章を書く作家の作品は当然のように消費されただけで現在まで読み継がれてるものは本当に少ないってことくらい考えればわかるんじゃないの? 面白いことは否定しないけど、三十年後の子供が『永遠の0』とか『ビブリア古書堂の事件手帖』とか『容疑者Xの献身』とか読んでるわけないじゃん。だいたい残ってるひとでいってもひどい文章の作家ってのは残念ながらちゃんと存在していて、ほら太宰治とか田山花袋とか小林秀雄とか超ひどいじゃん。あ、でも内容は面白いと思うよ、田山花袋以外の2人はね。
まあ浅田次郎は「小説家なら上手な文章を書け!」とは言ってなくて、素直にちゃんと読むと「小説家の文章は日本語を使うひとにとってはお手本なんだから、せめて間違いのないように書かなきゃいけないなあ」って意味でしかないんだよね。だから話はもうとっくに逸れてるんだけど、なんか言いたいこと思い付いたから文章のうまいへたの話を続ける。
そもそも無機的な文章と小説の文章のうまいへたってぜんぜん別問題で、都市伝説レベルの話で好きなんだけどさ、三島由紀夫ってもともと官僚だったんだけどすぐ辞めたのね。ちゃんと東大出てたくせにぜんぜん仕事できなかったんだって。なんでかっていうと三島の書く文章がかっちりしすぎてて、官僚にとっての必須スキルである「余地を残す」文章を書くってことがまったくできなくて、まあ言ってみれば文章がうますぎて向いてなかったんだってさ。これはさすがに誰かが作った伝説というかいたずら話だと思うんだけど、三島の文章って異常に人工的でみっちりしてるから何となる「あーわかるー」ってなっちゃう。改めてなかなか好きな作り話だ。
たとえば誰だろう、最近でいうと朝吹真理子って年齢のわりに文章がうますぎてサラブレットってこういうことかあって感心するんだけど、このひとがふだんの小説やエッセイで使ってる文章で書いた報告書ってたぶん読みにくいよね。いや、なんでそこでひらがなつかうんだよって苦笑いしてる上司の図ってめっちゃ想像できてかなり笑える。だいたい文章(文学)ってのは芸術なんだから美しくなければ嘘でしょう? ってみんな大好き古井由吉先生も松浦寿輝との往復書簡でさらって書いてたけれど、まあそこまで大上段からカッコイイことは言えないけれども、まあ言ってることはわかるじゃん?
芸術なんだから判断は割れちゃうんだよ。日本人はフェルメールが好きってよく言われるし、高校生はなぜか「はしか」のようにラッセンを好きになっちゃう時期を迎えるものだけど、美醜の基準なんてひとによって違って当たり前なのよ。モーツァルトとサリエリの格付けは「アマデウス」がしちゃったけど、ヴェートーベンとシューベルトのどっちが上って難しくない? って書くと「おまえさっき太宰が下手だって言ってたじゃん!」とかひどいのになると「山田悠介! 山田悠介!」なんて連呼されちゃうんだけど、山田悠介はうまいへたじゃなくて「間違ってる」からダメだよ。とかいうと「保坂和志! 保坂和志!」って返ってきそうでキリがないのでいいわけをやめる。
何が言いたいかって実はまったくの逆で、それでも文章のうまいへたって、きっと存在してるんだよね。いや少なくとも自分のなかでは間違いなくあるんだよ。同じことを何回も言わないで済ませられるかとかね。何気ない言葉の選び方とか、リズムとか句読点の位置とか改行のタイミングとか語順とかセンテンスの長さとかほんといろーんな要素が絡み合いすぎてて、たとえばリーダビリティって文章のうまさに入るのって言われちゃうともう答えはまったく出ない。でも個人的には入らないと思ってるって結論だけはちゃんとあるんだ。
そろそろみんな気付いてると思うけれども自分なりにうまい文章を書きたくて書きたくて、読み返して「わあ、おれって文章うめーじゃん!」って思いたくて自分なりに努力してきたんだけどまったくダメで、下手でどうしようもない文章なんだけど文章を書くのは好きで、だから深夜にこんな下らない長文を書いてストレスを発散しているんだけど、まーまず間違いなくこの文章は読み返さないよね。ひどいから。
文章書くのってなんていうか心地よい行為だと思うし、こんなところに文章書いてるくらいだからみんなもきっと文章を書くことが好きで、だからさー、なんていうのかな、小説家とか関係なくってこうやって日常的に文章を書いているおれたちなんかはさ、上手な文章を書きたいなっていう欲求を誰しも持っているんじゃないかって思うし、その欲求には忠実になってもいいと思うんだよね。
あー、文章うまくなりてーなー。
ブクマあたりでははてな村ネタとして消費されてるようだけど、似たようなこと時々考えてるのでマジレス。
とはいっても、俺は小説書いてるわけではなくて趣味で楽器弾いてる立場だから少し前提条件が違うかもしれない。それはあらかじめ承知してもらった上で読んで欲しい。
で、結論からいうと、あなたが斬新な発想が失われたと思っているのは別に「はてな」に出入りしているのが原因ではないと思う。単にあなたが大人になったからだよ。
ゲスパーを承知で言うと、あなたの若い頃の作品が「セミプロに近い実力」であったとしても、そこからプロのレベルに至るまでには見た目よりずっと大きな断崖があったはずで、あなたは現在その断崖にはまるべくしてはまっているだけだと思う。
例として、クラシック界では題名のようなことが言われる。全く当たっていない訳ではない。上手な子供はレッスンの課題で小学校高学年ぐらいでモーツァルトなんかを次々与えられて、なかなか魅力的な演奏をしたりする。一方で、超絶技巧の難曲を弾きこなす音大生に、古典的で簡素なモーツァルトを弾かせてみると機械的で散々な演奏になることもまたよくある。そうでなくても音大生の演奏って力任せで面白くないことが多い。結果、このあたりの曲には音大を卒業してからも苦手意識を持ちっぱなしという人が意外と多くて、巷のピアノ教師なんかじゃ、40代とか50代になってはじめてモーツァルトのような古典的作品のすばらしさがわかった、なんてことを言っている人が意外なほど少なくない。だいたい、中高生あたりの間にプロになるための修行に着手したあたりで、この辺の作品は練習課題にしか見えなくなってしまったりするらしいんだね。
ただ、聴き手の立場で言うとこれは理解に苦しむ現象ではあるんだ。モーツァルトって純粋で単純素朴みたいに言われるけど、聴いていて触発されるのは、憂愁とか諦念とか憤慨とか、なかなかどうして複雑な「大人の感情」も多分に含まれている。子供がこの辺の感情を消化して表現できることなんて到底できない以上、子供がどれだけ上手に演奏したって限界があるんだよ。
じゃあ子供がどうして音大生よりもマシな演奏をすることがあるかというと、逆説的だが子供は「何も考えていない」からだ。ちょうどあなたが超自然的なものについて突き詰めて考えずに感性で処理していたのと同じようなもの。そうすると、わからない部分は「適当」に弾くことになる。しかしモーツァルトの作品は音楽的に無理がなく自然に作られているから、「適当」でも一応それなりに形になってしまったりはするし、それを聴く大人は「深み」を勝手に読み取ってしまって、子供の演奏を褒めてしまったりするわけだ。実はその演奏にあらわれた「深み」は全部作曲者のおかげなのにね。
ところが音大生は違う。歳を食ってしまえば、怖いもの知らずでもはや「適当」になんか弾けやしない。一見なんてことなさそうな作品なのに、あれこれ試しても本質に触れた気がしない。だからこそ迷う。悩む。その結果何もわからなくなり、技術と理屈だけで無理押ししたような演奏になってしまう。そして聴き手からは「子供の方が上手だ」と酷評されることになるわけだ。
でも、これって退歩なんだろうか?違うよね。子供時代の、曲に乗っかっただけの「適当」な演奏が、自ら曲のよさを引き出す成熟した演奏に進化するまでの過程には、「曲に振り回される散々な演奏」という段階をどうしても通らなければいけないということでしかない(もちろん、その辺をあっさりクリアしてしまう人もいるのだけれど、そういう人は並以上の才能に恵まれていた一般化できない存在であることは明らかだから今はおいておく)。
あなたの今の状態って、そういうことじゃないの?「作品」という表面では長いスランプかもしれないけれど、あなた自身は過去より確実にものを理解できるようになった(「はてな村」がそういう訓練の場として適切か、についても言いたいことは大いにあるがこれも今はおいておく)。この状態で元の場所に引き返そうったって、戻った先に進歩があると思う?戻った先は「退行」じゃないの?
そうじゃなくて、あなたが今やるべきことは、強化されたあなたの頭で、あなたの過去の作品のよさと限界を冷静に分析することじゃないの?そして分析した結果、摩耗した感覚があったらそれを再度取り戻し、同時に過去の作品の限界を超える方法も模索していく。そういう格闘の先にしか、あなたの進歩はないように思えるんだけれど、どうだろうか。
と、全部あなたの話をネタにして自分語りしてみた。的外れだったら「ゲスパー乙」で片付けてもらって構わない。しかし、現在の気づきから再度ナイーヴさに逃避してしまうのではあなた自身の進歩を殺してしまうのではないかと心配になったんだ。
役に立とうが立つまいが、何かを考えるきっかけになってくれれば幸い。
なんで?誰がどうやってそう判断したの?
まず、その3人に共通することは、その時代のなかではかなりの金持ちの部類で充分な教育を受けられる環境にあったし
自由に色々出来たということ。
その上で、それぞれ非常に目立った業績を残して非常に多くの人の目にさらされている。
だが、別に誰かがサポートしないと人と会話ができないわけでもなければ自分で行動できないわけではない。
自分で行動してた。(モーツァルトになるとちょっと時代が違いすぎるので、「自分で」というのは貴族としてどこまで「自分」でなのかよく分からんが)
ただ、余りに有名になったため、ちょっと目立つ所で奇抜な行動するだけでそれをものすごく取り上げられ、やがて変人とまで言われる。
例えば増田が何か分からなくても何も気にしない。小学生程度の知識しか持ってなくても誰も何も気にしない。そしてそんな人は世の中の大半を占める。
だけど、アインシュタインが同じことを言ったら何か裏があるのでは?何が重要なメッセージ?もしくは、アインシュタインは天才なのにそういう所は理解できない障害があるのか?
などとなる。別に障害でも何でもない。「普通」の部分。もしくは、ちょっと目立つ所で面白いことを言ってみたかった、とか、その程度。
テレビの後ろに映りたがる中学生のような心、そんなことがちょっと目立つ形で出たら、あらたいへん、後世の人たちに発達障害呼ばわりされちゃった。
お前がその3人と同じような才能に恵まれて同じような境遇で同じように人から注目された時、冗談の一つも言わずに、正しく、高貴な、完璧な言葉だけを常に吐き出すと思うか?
少なくとも「普通」に生きてきた人間の感覚で、そんな有名になったらどう反応するかな?って思ったら、目立つ所でちょっとおもしろいこと言ってみたいな、とか思うだろ?
その程度のこと。それを発達障害呼ばわりとは、ほんともう。
4歳から高校まで習っていたバイオリンのレッスンを、30代も半ばになって再開してからはや半年。
この間、徹底的に直され、今でも直されまくっているのがボウイングだ。
バイオリンは擦弦楽器である関係上、弓の元から先まで均一な音を出すのが基本中の基本であることは、ほぼ確実だ。
言い換えれば、切る前の羊羹みたいな、テヌート的な音が「バイオリンでは」基本と。
子供のうちから習った場合、それできらきら星を弾くのがド定番だったりする。
ここまではいい。昔は練習嫌いだった自分でさえ習得できたので、これは子供の頃から習った人は全員体得すると言っていい。
しかしこれ、西洋音楽の本質に照らし合わせると、飽くまで「バイオリンにおける基本」に過ぎないのだ。
つまり固有の楽器の技術的な基本と、音楽的な基本が違っているのだ。
何しろ西洋音楽の音の基本は、頭にだけアタックが付き、そこから音符いっぱいかけて緩やかに減衰する、デタッシェという音だったりする。
これは擦弦楽器だろうが撥弦楽器だろうが管楽器だろうが打楽器だろうが全く関係なく、西洋人にとって最も自然に聞こえるから、という話。
即ち、テヌート的な音の出し方しか出来ない場合、まともに聴かせられる曲が、かなり限定されてしまうと。
嘘だと思うなら、例えばモーツァルトをテヌートだけで弾いたらどうなるか想像してみるといい。かなり暑苦しい、ともすると力任せの演奏に聞こえるはずだ。
これがメンデルスゾーンとかになると、1フレーズごとに表情を変えることが要求されるし、それが出来ないと非常に退屈でつまらない演奏になるのは間違いない。
しかしテヌートだけがベースの奏法では弾き方の引き出しが少なすぎて、こうしたロマン派の難しい曲には全く対応できない。
またテヌートがデフォな人は、必要以上に力んでいることが多いので、音色も硬く、場合によっては汚い、荒っぽいものだったりする。
結果的に、普通の人がイメージするバイオリンの音から大きくかけ離れてしまうのだが、本人はなかなか気付かない。
昔はあまり練習に熱心でなかった自分は、結局テヌート的奏法しか習得できなかった(させてもらえなかった)ので、今になって目を回しながら対応に追われている。
バイオリンは可能な限り力を入れず、かつ綺麗で芯のある音を出さないといけない楽器であることを思い知らされているというか。
そこで疑問なのだが、幼少からバイオリンを熱心にやっている人は、一体いつくらいに、デタッシェの奏法を習得するのだろうか。
保育園・幼稚園や小学校低学年の子にこういう難しいことが理解できるとは思えない。
反面、少なくともメンデルスゾーンを弾く前には絶対にマスターしていないと、発表会で「右手はまだまだだけど左手はいいんじゃない」といった微妙な評価をもらうことになるだろう。
よく分かったね。お察しの通りバイオリン。
今はオケと室内楽やってる。オケはブラームスとベートーヴェンの交響曲が好きかな。室内楽はアイネクレベルのごく簡単なのを遊び程度に。
チゴイネルワイゼンもモーツァルトもヴィオッティもフランクも無伴奏のホ長調もやったことないのに、身の程知らずもいいところだと我ながら思う。
ましてやパガニーニの協奏曲やネル・コル・ピウなんて、体の自由が効く年齢のうちに弾けるかどうか。
でも、どうしても弾きたい気持ちが抑えられなかった。特にシャコンヌは昔から好きで好きで、殆ど恋焦がれていたと言っていい。
パガニーニはとんでもなく難しいけど、それ以上に極上のカンタービレに惹かれてしまう。
大学の先輩方はエチュードでローデを弾いたり、パガニーニのカプリスやチャイコの協奏曲に憧れる人達だった(ただし冒頭しか弾いてるのを見たことない)。
甘くしなやかかつドラマチックな音を出す彼らは、つい適当に勢いだけの荒っぽい音で弾きがちな自分を全く評価しなかったけど。
ベートーヴェンやバッハは素晴らしい。多くの聴衆がそう評価する。
なぜ、彼らは素晴らしいのか。
それは彼らが音楽の形式や作曲法に関して歴史的に多大な影響を与えたから、だと私は思っている。
決してメロディーや聴き心地などという主観的なモノで学術的な評価がされているわけではない。
つまり彼らの価値は、音楽理論と音楽史が分かっていないと評価できない。
科学で言うところの、微分方程式やニュートン力学を発見したニュートンのような存在だと私は認識している。
当然、それらは高校程度の物理や数学を学んでいないと価値はわからない。
クラシック音楽を素晴らしいと言うことは、物理偏差値40にも満たない高校生が中二病をこじらせて、
波動方程式がどーのこーの、言ってるようにしか思えないのだが。
「バッハのシャコンヌは人生そのもの」とドヤ顔で語ることは、「クラナドは人生」と言うことと同じだよ。
多くの聴衆にとってミスチルもモーツァルトも変わらんよ。
75
74 バルトーク 協奏曲、ヴィエニャフスキー エチュードカプリース
73 ヴィエニャフスキー 協奏曲第1番、イザイ無伴奏Vnソナタ、ハチャトゥリアン 協奏曲
69
66
58
56 ヴィターリ シャコンヌ
55 フランク、フォーレ、ブラームス/ソナタ、ローデ/カプリス(~67)
51 バッハ/無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティ―タ(~69)
50 バッハ/協奏曲1番(a-mall)、クロイツェル・エチュード(~60)
48 バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲(第1ヴァイオリン)
47
46 ヴィヴァルディ 調和の霊感より第6番第1楽章a-moll、カイザー・エチュード(~54)
ザイツ協奏曲は圏外
ご覧の通り、偏差値45以下は載っていない。
まあ、これより下のレベルは、早い人だと小学校上がる前にクリアしてしまう(そして中学校上がる前にメンデルスゾーンをやってしまう)し、クリアすると歯牙にもかけない人が殆どだからだろう。
今年は3月まで仕事忙しいけど、春になって暇になったら、アラフォーの手習いとしてバイオリンを再開しようと思う。
高校の時、バッハのコンチェルトを弾いて卒業したんだけど、その後学生オケやアマオケをやるうちに、再び先生にきちんと付いて、もっとソロの腕を磨きたくなったので。
でもいきなりは絶対無理なので、より演奏が容易な曲で鍛えてからになると思うけど、調べた感じだと
バッハ無伴奏のホ長調→ヴィオッティのコンチェルト→モーツァルトのコンチェルト3番→モーツァルトのコンチェルト4番→フランクorフォーレorブラームスのソナタ(ローデ併用)→ヴィターリのシャコンヌ→ブルッフのコンチェルト1番→ベートーヴェンのコンチェルト
と、ここまでやってやっとメンデルスゾーンらしい。
ちなみにラロとかスコットランドとか、チャイコやブラームスのコンチェルトはもっともっと難しくて、究極的にはパガニーニをエチュードにしつつバルトークのコンチェルトになるのだそうな。
ウヘァって感じ。バイオリンどんだけ奥深いんだ。
そしてこれらを高校までにやってしまうプロはどんだけさらってるんだ。
アマオケで弦をやって10年以上経つけど、未だに管の人達の曲の嗜好がよく分からなかったりする。
とにかく管の人達って、ロマン派後期から近現代の音楽をやりたがる感じなのだ。
近現代くらいからしか定席のないトロンボーンやチューバがこの傾向なのはまだ分かる。
ティンパニ以外の打楽器も、やはり近現代から積極活用され始めたので、これまたそっちをやりたいだろうと思う。
しかし木管やトランペット・ホルンまで含めて、総じて上に書いたような、言い換えれば「割と大編成志向」なのはどういうことだろう。
スコア眺めてる限り、モーツァルトやベートーヴェンやブラームスの管楽器パートだって十二分に面白そうなのになあ。
木管ホルンの深みのある印象的なアンサンブル、トランペットとティンパニのカッコいいアクセント、どれも弦じゃ絶対経験できないし。
ちなみに弦の意見として言わせてもらうと「オケは弦の豊かな響きが基盤」という意識が非常に強いです。
またヴァイオリンやチェロのメソッドは古典的な造りの曲や、バロックを基本としていたり。
なのでそれに沿ったオーケストレーションをする古典派~ロマン派前期くらいが、どうしても好みになるわけで。
一方、楽器の限界に挑戦するような、弾いててやたらくたびれる書き方をしているロマン派後期以降はちょっと・・・という感じ。
管打楽器の数も多いので、それに負けないよう人をかき集めようにも、曲によっては技術的に難しすぎて、ゲネ本しか来ないようなエキストラにはまず期待できないなんて事情も。
繰り返すけど、これよりは遥かにマシになるんじゃねーの?
楽譜浄書ソフトはおめーが思ってるほど使えないソフトじゃねーよ
「ベートーヴェンやモーツァルトよりはマシかも」というレベルの、超汚い手書きの楽譜だったと(当然コピー欠けやミスプリもバッチリある)。
横だが、少なくともこういう状況は避けられるんじゃないの
「ベートーヴェンやモーツァルトよりはマシかも」というレベルの、超汚い手書きの楽譜だったと(当然コピー欠けやミスプリもバッチリある)。
以前、某管楽器と弦楽合奏のための協奏曲を演奏したことがあったが、これが今までのアマオケ経験で最もキツかった思い出だ。
実はその曲をやることが決まった時点では、出回っているのはスコアのみで、ソロパート譜とピアノ伴奏譜以外のパート譜が存在しなかった。
それが出版社からのアナウンスによると、練習開始時期までには正規のパート譜一式がリリース予定だから大丈夫ということで、ゴーサインが出たのだそうだ。
しかし予定は未定であって決定ではないという言葉のとおり、必要なタイミングになってもパート譜は出版されなかったわけで。
慌てていろんな所のアマオケからコピー譜をかき集めることになり、それで練習予定は遅れに遅れ・・・。
どうにか用意できたパート譜も、自分とこのパートだけ「ベートーヴェンやモーツァルトよりはマシかも」というレベルの、超汚い手書きの楽譜だったと(当然コピー欠けやミスプリもバッチリある)。
お陰で何回練習しても音符を拾うのに難航して落ちまくりでパートのほぼ全員が苦しみ、まともに弾けたものではなかった。
楽譜の手配遅延で短くなった練習期間はあっという間に過ぎ、結果ソリストに大変な失礼を働いてしまったことが一番申し訳なく、それだけ取ってもこの演奏会は大失敗だったと、今でも思う。
あと、この曲はソロをやる管楽器ににとっては貴重なレパートリーらしいけど、伴奏する方にしてみると曲想からして微妙すぎる曲で、それに楽譜の件も合わさって「もう二度とやるか」というのが個人的な感想。
もし今いるオケで万が一選曲候補に上がったら強硬に反対してやろうと思う(IMSLPにもソロとごく一部の弦パートしかアップされていない)。
ちなみにこの曲の録音や映像は、一応いくつかある。
ということは、プロにはきちんとしたパート譜が出回っているようだけど、楽譜作成ソフトが普及した最近はともかく、昔はどうやって用意したんだろう。
スコアからコピーしたものを切り貼りしたくらいでは読みやすいパート譜が作れると思えないし、手書きするにしても大バッハの清書並に綺麗なものじゃないと演奏に支障が出そうだ。
「私のこと好き?ってきくと
好きだよって答える
その言い方がすっごくふつうで
結婚するとか「先のこと」はともかく、今その時は本当なんだっていう感覚はある。すごく「運命的」な感覚が。
壊せば壊れますけどねあっさりとね。壊れなかったり壊れないようにお互いに立ちまわったりできた例が「運命」なのかもわからんが、でも壊れても壊れなくても運命なんだなあって思わせ続ける程度の強度はある。
でもまあ、結局のところ感覚だから。最初はうっすら「そうかな?」くらいで知覚して始まるので、とりあえず確かめるためにお付き合いを始めてみたりするんだよ。
会ってすぐには一目惚れなくても、しばらく一緒にいろんなことしてるうちに相手のある一面を見て恋に落ちたりするしね。
このブログを読んで、音楽大好き人間のおれからすると、「あぁ、こういう人が音楽業界をダメにしたんだな」と思った。
http://kasakoblog.exblog.jp/18220333/
この人が言うのは、要するに「ある金の範囲で稼げ」「最高の品ではなく、売れる品を作れ」ということだろ。そういうふうに端的に書くと「そんなことは言っていない」と言いそうだが、端的に書くとそうだろう。「ビジネス感覚」というのうが、まさにそれを表している。芸術としての音楽じゃなくて、ビジネスとして音楽を見ているわけだ。そこには「売れれば良い」という思いしかない。
ちなみにおれは音楽家ではない。趣味で音楽をやっているけど、本当に趣味でやっている範囲だから収入など全くない。そんな身分から見ても、本当に昨今の音楽業界って終わってんだよ。で、なぜ終わっているかというと、ビジネス至上主義の氾濫に尽きる。音楽には消耗品と芸術品がある。消耗品というのは、アイドルの曲だ。芸術品とはアーティストの曲だ。例えばAKB48の曲は消耗品。ビートルズのように、解散してもなお歌われたり演奏される曲は芸術品といえる。
なぜAKB48を消耗品というかというと、一定期間経つと売れないからだ。これはCDショップをみれば分かる。AKB48のようなCDはある一定期間経つと売れない。それにリアマスターやらコンピレーションアルバムも出ないだろう。それは音楽的に価値がないからだ。有名なアーティストは曲そのものに価値があるから、リアマスターやらコンピレーションアルバムが出る。そして、解散した後でも売れる。それはアートならではといえるだろう。
まぁ、ぶっちゃけるとAKB48とアーティストを比べるのも間違っているが。AKB48は「アイドル」であって「アーティスト」ではないからだ。アーティストとは同じは畑で稼いでいるだけで、実際は別物なのだ。
で、ちなみに「売れれば良い」という企業やら業界は基本的に死んでる。「マスコミ」もその1つだ。売れれば良い記事を書き続けた結果、「マスゴミ」といわれるほど信頼を失った。ちなみに先ほどの挙げたブログの筆者も、ライターというマスコミ関係者らしい。なるほど、だから「売れれば良い記事」を書いたのか。まぁ、このライターが説くビジネス至上主義も、彼の立場上仕方のないものだろう。なぜかというと、ライターの記事も消耗品だからだ。ライターは「いま売れる文を書く」という消耗品を作成するのが仕事だからだ。ちなみに、これと相反するのは作家だ。作家は文学的芸術家で、「いま売れる文を書く」ということはしない。その結果、何年にも渡って読まれる文を書き上げる。音楽家も同じだ。モーツァルトのハイドン・セットは2年の歳月をかけて完成した、ベートーヴェンの交響曲第5番は作曲から演奏までに4年、交響曲第9番については、10年の歳月をかけて作られている。これは極端な例だが、アートというのはこういうものなのだ。
音楽業界が残念なのは、アートな部分を無視してビジネスに走って自爆したことだろう。ビジネスも大切だが、アートを無視しすぎた。ちなみに音楽業界では著作権のことが話題だけど、これも結局ビジネス的な発想なので、自爆するんだろうなと思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20110422235719
ブコメで「エヴァに呪われている」とか「エヴァ脳の恐怖」とか「エヴァをアニメの物差しにしている」といったコメントを見て、なるほど的を得ているなと。
そして残念ながらid:kyo_ju、ネタじゃない。マジで書いた内容なんだ…orz
てか自分でもマジでエヴァ脳だと思う。じゃなきゃ増田で書かない。
俺がこんなコメントを普通のブログに投稿してる奴をみたら、とりあえず全力で叩く。
何でだ?
自分なりに考えてみたんだが、エヴァに前のめりで楽しんでた人達、というか後ろに引いて見ることが出来なかった人達は、
エヴァが終わった後の娯楽としてそれぞれ別個の道に進んで行ったかと思う。
まずアニメという枠に傾倒する道。
アニメは当時の世相を反映してか「自分探し」のような内容か、あるいは「萌え」に特化した内容ばかりだった。
自分探し的な部分は十分エヴァで堪能したし、萌えは視聴者が勝手に後付けするものであって主食として作者が提供するものじゃないものと考えているので無理だった。
SFは─漫画だろうと小説だろうと、作者の設定自慢ばかりで人の営みが希薄なのが多かった。「イカにSの面白さを最大化するか?」が最大の関心事になっている世界だった。
Fだけでいいから人間ドラマが欲しくてSFの道には進まなかった。
※その中で何故か『BLAME!』だけは面白いと思ってた。我ながらかなり謎。
「設定?誰がんなもん語るか。察しろ。」というスタンスがよかったのかも知れない。
あるいは設定の説明がない分、人間(と愉快なクリーチャー達)の営みに思考が集中できたせいかも知れない。
自分は娯楽なしで生きられるような人間ではない。おそらくは他の人もそうだと思う。
大人になって仕事や家事に忙殺されても、アウトドアや人付き合い以外の何かしらの娯楽を大なり小なり楽しんでるんじゃないか。
人によって、それが映画だったり、ドラマだったり、推理モノだったり、歴史モノだったりすると思う。
自分は「エヴァの次の娯楽」として、最終的に「古いモノ」を選んだ。
小説に手をだし、散々色々な誇大広告に騙された結果、最低10年以上「これは良い」と語られる小説は、少なくとも個人の趣味で好き嫌いはあっても外れはないことに気づいたからだ。
そしてこの単純な法則が、小説という枠だけでなく他の枠にも当てはまることを知った。
「古いモノ」を楽しむコツとして、「その当時の世相や時代背景を同時に知る」ということ。
今ではやや物足りない部分があったとしても、当時としては革新的な技術や手法、あるいは独自の視点が盛り込まれていたために長らく語り草になることが多い。
それと同時に他人の解釈をガン無視すること。例えるなら、どれだけ権威ある人が「このキャラはツンデレだから萌え」と言っても自分が「ツインテールだから萌えであってツンデレなのはどうでもいい」なら自分の直感に従って楽しむこと。
こんな風に古いモノ、かつ娯楽として時代の振り落としを生き抜いたモノを、自由気ままなオレオレ解釈で楽しみ、アニメを見なくなった結果、自分はアニメの物差しはエヴァとジブリと千年女優だけになったorz
敢えて弁明、というか開き直らせていただければ…
だって仕方ないじゃん!1年間で1割より少ない程度で面白いアニメは出てると思うよ?
けどその1割弱を探すためだけにアニメの世界に飛び込めば、まさに「渡る世間は萌えばかり」、あるいは「前門の厨二アニメ、後門の監督が厨二の自称芸術unkoアニメ」ばかりじゃん!
アニメの作り手にしても、ちょっと成功して有名になるとすぐ芸術気取りしたり宮崎駿の後継者気取りしてばっかじゃん!
そんな中途半端なことをするくらいなら、いっそワーグナーみたく「アニメはただの芸術じゃない。神聖な祭事だ!」ぐらい突き抜けつつ「よろしい!私に投資する権利をやろう!」的なノリで資金調達&製造とかやれるだけの実力と人間としてゲスな気概を持って挑めよ!>ヤマカン、細田
特に'00年代は酷かったよ!観客の声を聞かずに監督が見たいアニメか、大向うの観客の声しか聞いていないアニメばっかだったよ!
「そもそも今客席にいない人を、どうやって小屋に来てもらうか」を考えている人なんて皆無だったよ!
00年代はまだブロードウェイ- ミュージカルの方が観客を呼ぶためのモノ作りをしてるよ…
例えば「Wicked」はファンタジーで低年齢児を釣り、女の友情で少女を釣り、あげくに社会派的要素で親を釣り上げる万能釣り竿だよ。
「Next to Normal」なんて狂気の中から家族愛を導き出すーそれも母親が主役でーっていう化け物ミュージカルだよ。
ミュージカルってさ、親しみが無い人には「子供が見るモノ」あるいは「軽いモノ」ってイメージがあるんだ。
酷いと「演劇と歌が同居する必要性がないんじゃねーの?」って言われる始末www
まぁ当然だよね。舞台としては戯曲という枠が、歌劇としてはオペラという枠が、ダンスはバレエという枠が、技巧も歴史も名作も持ってる。
けどミュージカルが子供やミュージカル自体にマニアックな人ばかり相手にしてたってお金にならない。
彼らが飯を食っていくためにミュージカルという枠のファンを増やすしか無かった。
かと言って技巧だけで挑めば間違いなく他の枠に負ける。
だから彼らはあらゆるものを取り入れ名作を作り上げた。
例えば古典の悲劇の恋愛をベースに、彼らの身近にあるダンスや風俗、そして身近にありすぎるマイノリティへの差別問題を注入したWSSとかね。
そういったことを繰り返し繰り返し続けた結果、今のブロードウェイミュージカルの地位が出来上がった。
アニメを作ってる側の人からも、「売れない、売れない」という声ばかり聞こえた。
けど自分からしたら、なんでアニメを作ってる人は「今、テレビの前にいない人」を捕まえようとしないんだろうと思ってた。
筋を古いモノから流用し、装飾や人々を今の時代に合わせ、最後の結末に自分たちのメッセージを盛り込む。
これだけでも十分面白いモノが出きるのに。
「守破離」の全部が大事なのに、今のアニメは「守」だけ「破」だけ「離」だけみたいに、個別の実装しかないものが多い気がする。
「魔法少女」っていう小さな視野で見ても、かなり綺麗に守破離してる。もちろん違う角度から見たときにも様々な守破離があるのがまどまぎの魅力。
けど、きっともう後16年くらいは守破離をしっかり出来たアニメは出ないんだろうなぁ…
まどまぎの脚本の人は「ロボットものを書きたい」って言ってるらしいから、おそらくロボットを書くのに夢中になって客席を見なくなるか、大向うの客席しか見なくなる。
そうすると悲劇が好き過ぎる人みたいだし、シェイクスピアを消化しないままシェイクスピアの再発明を得意気にしちゃったりするんだろうなぁ…
かといって他のアニメの作り手は、まどまぎのパラメーターだけみてメソッドを見ず、もっと酷いものを作るんだろうし…
「処女厨がウザい・怖い」的な発言をよく作り手側のコメントで見かけるけど、
なら小デュマみたく処女厨を逆手にとって、ビッチであることが生きるために必然である椿姫を処女厨の目の前に置いて、
「それでもお前らこいつを罵れる?」といけしゃあしゃあと言ってのけるような人は今までいなかったし…
海外のblogで初音ミクについて熱い(長い)文章を書き込んでいるのを見かけたので試しに翻訳してみた。無断翻訳なので匿名で。urlは以下の通り。
http://deliciouscakeproject.wordpress.com/2010/09/20/hatsune-miku-and-the-magic-of-make-believe/
=====以下翻訳=====
そこにはバルトロメオ・クリストフォリって名前のすげえヤツがいた。こいつの得意技は楽器を作ることだった。何でも作ったわけじゃない。当時はひどく弱々しいちっこいもので、しょぼい羽柄が並んだ弦を引っかいて金属的なチャリチャリした音を出すもの、つまり鍵盤楽器を作っていた。いわゆる「バロック・ミュージック」ってヤツだ。クリストフォリが音楽技師として、また機械技師としてやったのは、弦を異なる強さで叩くハンマーを使った仕組みづくりで、それによって演奏家は小さい音(ピアノ)や大きな音(フォルテ)で演奏できるようになった。だもんで皆それをイタリア語でピアノフォルテと呼んだ。もちろん、今ではお前も俺もそして誰もがクリストフォリの発明品をピアノと呼んでいる。
イタリアはピアノを発明することによって、日本が初音ミクを発明するための扉を開いた。
***
俺は今、ここサン・フランシスコの150席しかない小さな映画館で、秋のアイドル公演を待っている。チケットが完売した「39[ミク][[Sankyu!]] Giving Day」コンサートの上演を見るために、愚かな時間の無駄遣いをする連中が集まっている。コンサートじゃ電子的に創造されたポップアイドルつまり緑の髪をした女神が、ゼップ東京のコンサート会場で生演奏するバンドにあわせて踊り歌っている様子がスクリーンに映し出されている。それはまるで、一部はライブなんだが、本当はそうではなく、「本物」のボーカロイド・コンサートでお目にかかれるのに近いものだった。言ってみればゴリラズを見に行くのとそれほど違いはない。伴奏は本物のミュージシャンが作り出しているが、客が見ているのはいわば巧妙なごまかしの表層であり、音楽に命を持たせるために使われる動くペルソナだ。これがミクの魔法である。それは見せかけの魔法だ。
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クリストフォリがピアノを発明した頃、J・S・バッハは平均律クラヴィーア曲集を書いた。そこでは要するに鍵盤楽器の各音程間で一通り数学的な調整をすれば、突然どのような調号でも十分演奏できるようになるということが言われている。言い換えれば、何か妙なことをしようとした際にいつも調子はずれの音を出すのではなく、初心者から中級までのピアノの生徒がやらかす糞を抑えるような5フラットとか7シャープとかそういったことが完全にできるようになる。これによって18世紀の鍵盤楽器は初めて、いちいちくそったれな調律をしなおすことなく新しい楽想を試すことができる原始的なワークステーションとなった。
数十年後、ようやくピアノの価格が下がり十分なほど生産できるようになったことで、それは非常識なほどの大金持ちだけの特別な楽器ではなくなった。代わりにそれは有名な王族たちのような常識的な程度の金持ちが購入できるものとなり、彼らは好んで地元の作曲家を雇い自分たち(とその客)を楽しませるために音楽を書かせた。こうした作曲家の一人があのヴォルフガング・A・モーツァルトであり、彼の特別な才能は主に下ネタと女性の音楽生徒に対する性欲の面で発揮された。もちろん鍵盤楽器からふざけた音を引き出す才能もあり、その短い人生の間にモーツァルトは最も好きな楽器をピアノに決定した。彼が書いた27のピアノ協奏曲(本当に素晴らしいのは最後の10曲ほど。アニメのシリーズのようにモーツァルトのレパートリーは後半になるほど良くなった)は、単に協奏曲の形態にとって画期的な礎石となっただけでなく、ピアノ音楽の基礎を築いた。モーツァルトの協奏曲はこう言っているようなものだ。「これこそピアノにできることだ! ピアノだけでなく、オーケストラと一緒でもいい! まさか今更ハープシコードに戻ろうってんじゃなかろうな?!」
モーツァルトより後の時代の人間は皆彼に同意した。ひとたび音量の大小を調整できる鍵盤楽器を手に入れてしまえば、弱々しいチャリチャリした機械になぞ戻れっこない。これが230年ほど前の出来事だ。ミクへの道は一日にして成らず。
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ミクの公演にやって来たファンの男女はいろんな連中の寄せ集めだ。彼らの5分の1ほどは当然ながらボーカロイドのコスプレをしている。何人かはケミカルライトまで持ち込んでいる。コンサートは全長1080ピクセルの巨大なスクリーンで始まり、全劇場用サウンド・システムが炸裂し、観衆は最初はためらいがちに見ていたが、最初のいくつかの歌の後は雰囲気が盛り上がってきた。彼らはスクリーンの中の群衆と一緒にリズムに合わせてケミカルライトを振り、曲が変わると歓声を上げ、各ナンバーが終わると拍手をした。単なる録音と録画じゃねえか、などというたわ言は知ったこっちゃない。理論的にはゼップ東京の群衆だって同じように録画を見ていたんだ。本当に「ライブ」で演奏される音楽など、現代においてはクラシックのオーケストラと民族音楽の演奏くらいしかないし、それにシンフォニー・ホールですら今日ではマイクが使われている。誰もが電子的な助けを借りて音楽を聴いている。ひとたび電子機器を楽器として受け入れることを覚えてしまえば、ミクを愛するのは簡単だ。彼女がモーツァルトの魔笛のアリアを歌っている動画を聞いてみよう。
http://www.youtube.com/watch?v=gr9fbQzNpqA
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19世紀欧州で、もしお前がピアノの演奏ができない作曲家だったとしたら、お前は存在していなかっただろう。それはもはや単に大小の音量で演奏できる楽器にとどまらず、巨大な和音構造物であり、多音パッセージワークであり、一人の演奏家の手で「あらゆる音符を見ることができる」ものとなっていた。もしピアノがなければきっと「2人のバイオリニストとビオラ及びチェロ奏者各1人をかき集めて旋律が上手く行くかどうか調べにゃならん」てなことが起きていただろう。そしてもちろんチェリストは、ある音符について「どぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん」と演奏するようお前が何度も何度も何度もお願いするのにうんざりして1時間後にはそこを立ち去ったことだろう。
少なくともピアノがあれば、お前の小さな指以外に迷惑をかけることなく「どぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅんどぅん」とやることができる。
かくして1800年代においてピアノは中心的な作曲道具となった。そして同時に社会の中産階級が暇と屑な時間を持つところまで進化し、そしてもし彼らがスポーツやゲームを発明しなければ、彼らは音楽その他を演奏したいと望み、そんでもって家に持ち込むためピアノを注文できるようになった。欧州だけでなく日本でも、少なくともウィリアム・ペリーが彼らを開国して西洋化が始まった後には、同じことが生じた。基本的にピアノは文明化の証と見なされ、そして有名な山葉寅楠ってヤツがイケてる連中のため日本製ピアノを作り始めた。
19世紀末と20世紀は音楽制作にとって黄金時代だった。楽譜を買って他人の歌を演奏する方法で「音楽を作る」こともできたし、あるいは作曲と理論について十分に学び自分の曲を創造するというやり方で「音楽を作る」こともできた。そうした取り組みの多くはピアノの周辺で起きた。ピアニストが力を得た。鍵盤があれば、お前はスターになることができた。
そして、とんでもないことが起きた。
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ミクだけじゃない。巡音ルカとリンとレンも公演に出てきたぜ! 全ボーカロイドのパーティだ。彼らの異なる声質と、ミクと組む様々なやり方は、見事な音の見本集になっている。他のキャラクターが登場するのを見た観客たちは熱狂している。異なるシンセサイザー・プログラムのマスコットに過ぎないにもかかわらず、彼らはまるで我々の友であり家族であるかのようだ。ようつべとニコ動を使って彼らを我が家へ招待しよう。彼らの声を我らの生活のサントラにしよう。電子的に作られたアニメキャラが本当のミュージシャンになれるのかって? おk、ならお前に聞いてみよう。魂のない箱がお前の周囲の空気を震わせているけど、それは本当の音楽なのかい?
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それこそが実際に起きたとんでもないことだ。録音された音楽。録音された音楽こそ、音楽史の中で起きた最悪の出来事だ。
ひとたび蓄音機を、ラジオを、レコードプレイヤーを、カセットプレイヤーを、CDプレイヤーを持ってしまえば、音楽を楽しむのに「音楽を作る」必要はない。コンサートホールのチケットを手に入れる必要もない。単に座って、電気を使った箱にお前を楽しませればいい。ピアノは専門家のための道具に成り下がった。それは淑女が結婚に必要な才能を覚えるためのものに、あるいは子供が(1)それを憎んでいることに気づく(2)両親が子供に才能があることに気づいてプレッシャーを積み上げ始める――まで稽古を受けるものとなった。もし(2)の現象が起きたなら、最後にはピアノを本当の演奏楽器あるいは作曲用の道具として使うようになるだろう。しかしそれはもはや「音楽制作」の中心にはない。
さらに悪いことにロックがギターをポピュラーにしてしまった。ギターが人気になり、ピアノは役立たずとなった。お前が鍵盤楽器を学ぶのは、ビートルズにしてくれるものを持てずバッハやベートーベンにしがみつくしかないある種の意気地なしだからだ。誰が決めたルールか知らねえが最低だ。10代のころ、俺はピアノを使ってランキング上位40の曲を弾けたおかげで女の子たちに「いくらか」いい印象を与えられた。けど、結局はクラスの野郎どものうちその曲をギターで弾けるヤツがいつも勝ちやがった。くそったれ。
だがここで思い出してくれ。俺は、イタリアがピアノを発明したことが日本の初音ミク発明への扉を開いたと言ってきただろ? ピアノは21世紀に飛び込むときに今一度変革に見舞われたんだ。
http://www.youtube.com/watch?v=-7EAQJStWso
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もし音楽を生み出す小さな電気の箱が「本物」であるなら、録音済みのコンサートに向かって「アンコール! アンコール! アンコール!」と叫ぶのは極めて正常だ。その音楽はお前を感動させたんじゃないのか? もっと聞きたいと思わないのか? というわけで映画館の観衆はもっともっとと叫び、そして彼らはアンコールを聞けることが分かっていた。なぜならそういう風に録音されていたから。ミクが公演を終わらせるため最後の舞台に出てきた時、もう一度鑑賞力のある人々から歓声が上がった。それは人工的なものだが、とことん楽しむため我々はそれを本物だと見なした。まるでドン・コッブが[ネタバレ注意!!]インセプションのラストで回転するコマから歩み去るかのように。ミクは夢のような存在だ。サウンド・エンジニアとCGアーティストと音楽家が作り上げた美しい夢であり、決して卒業することも年を取ることもスキャンダルを起こすことも業界から追放されることも惑星上から姿を消すこともない完璧なアイドルだ。彼女は実際、いくつもの「映像」を持っている。我々は皆、この音楽的見せかけの共犯者だ。過去の聴衆がモーツァルトのオペラを、ガーシュウィンのミュージカルを、あるいはかのすさまじいレ・ミゼラブルを本物であると信じたように。我々は十分深く信じられるようになるまで偽りの世界を本物だと信じるふりをする。その世界を感じるまで、見せかけの魔法を感じられるようになるまで。
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真空管からトランジスタを経て迷宮のような電子回路まで。もしピアノの鍵盤が「あらゆる音符を見る」ことのできるインターフェイスだとしたら、それは作曲家に最も未来を感じさせるインターフェイスだ。そして我々にはシンセサイザー・キーボードとMIDIコントローラーとワークステーションの世界が与えられており、そこでは遂にピアノが単なる「楽想を試す場所」から超越した。ちょっとした波形の調整によって、ハンマーと弦の機構に制限されることなくこれらの楽想を正確に響かせることができる。新しい音を作り上げることもできる。楽想の断片を記録し、他の楽想をその上に並べて電子キーボードを個人的な架空のオーケストラに仕立てることもできる。ピアノはピアノを超えた。それは作曲家の手の延長どころか、作曲家の心の延長となったのだ。
一つだけ欠けているものがあった。声だ。
そして、ご存知の通り、日本は日本であり、彼らはやってのけた。彼らは人工物を誰よりも巧みに操った。彼らは本物の料理だと見栄えが悪くなるからという理由でプラスチック製の小さな食品サンプルを作った。本物の労働者は間違いを犯しがちだから製造ライン用のロボットを作った。本物の音楽家を家に入れるのは大変だから編曲家のために電子キーボードを作った。そして、人間の声を合成する技術が十分に発達した時、そしてそれが人工音声のためのペルソナを創造するというアイデアと衝突した時、ミクが見せかけの音楽における21世紀のスーパースターになるのは当然のことだった。
中にはボーカロイドというアイデアが音楽家の全てを破壊するという人もいるだろう。全ての仕事をソフトウエアがやってくれるのに、誰が人間を必要とするんだ? 俺が思うに、ボーカロイドってのは偉大なる民主化の旗手であり、音楽家のために沢山の扉を開いてくれるカギなんだ。過去において、もしお前が作曲家、編曲家あるいはプロデューサーになりたければ、まず自分の曲を書いてそれから演奏家を探し見つけ出すしかなかった。何しろお前の傑作に生命を吹き込みたければ、5人編成のバンド、20人編成のオーケストラ、そして3オクターブ半の音域を持つ歌い手がいないとどうしようもなかったのだから。マジ悲惨。だがミクがいれば誰もが作曲家になれる。誰もが自宅のスタジオで曲を作り、正しい機材があれば、電子機器を使った完全なポピュラーソングを生み出せる。ボーカロイドは音楽家の仕事を奪うわけじゃない。それまでミュージシャンには決してなれないと思っていた人々の中からミュージシャンを作り出すんだ。動画投稿サイトで毎日そうしたことが起こっているし、こうしたコンサートではそれまで決して聞いたことのないような人々が突然電子王国の宮廷音楽家になれる。非常識なほどの大金持ちだった王家の人々の手にあった手製の楽器から、平民たちの手に握られた緑の髪の女神へ。それがこの大きな3世紀の違いだ。
何であれ多くの人々が音楽を作ることは、単に大人しく聞いているだけよりもいいことだと俺は信じる。俺は魔法を、ボーカロイドを、ミクを信じている。
=====以上翻訳終了=====
誤訳は当然あると思う。でも面倒なので修正はしない。