はてなキーワード: はしごとは
付き合ってる時から野球ファンなのはもちろん知ってて、自分も年に1回くらいビール飲むために球場に着いていくくらいの関心度合いだった。
結婚して同棲するようになり、今自分は95%くらい在宅勤務なのだけど、だいたい18時半くらいに仕事を終わってリビングにいくと絶対野球。
昼間リビングに飲み物を取りに行くとメジャーリーグ。夏の間はずーっと甲子園。
試合後は同じような内容を流しているスポーツニュースのはしご。
夜外食してもラジオで野球。移動中は一球速報。好きな球団の調子が悪いと罵詈雑言。
元々無関心だったのもあるし、相手が好きなものに口出すのも良くないなと思って黙ってたけど、ついに嫌いという感情を持ち始めた。
といっても別に野球そのものが嫌というより、自分の気分があまりノッてない時にリビングにいくと野球がついているのにイラッとする感じ。
人間の脳とはどうにも不便なもので、積み重ね続けているはずの明るく優しい記憶はその隙間に挟まる嫌な記憶に塗りつぶされてしまう。古来より経験から学習して危機を回避するために必要な仕様なのだと考えれば理解はできるのだが、現代に慣らされたわたしにとっては、ずっと自分を縛り続ける鎖のように重苦しい。
虐待、という言葉は日常的に――さまざまなニュース、ネットの記事、大学の授業、書籍なんかで――目にする。その程度に軽重はなく、そしてその辛さに貴賎はなく、当事者が辛かったと感じ、または自覚なくとも傷つき、倫理と法に照らし合わせたときにそう判じられたのなら、それは虐待になるのだろう。
多くの人が、まずぱっと想像するのは保護者から子への虐待であろう。母から、父から。扶養者から。祖父母から。近年では、養護者による高齢者に対する虐待も問題視されている。わたしのiPhoneに標準搭載された辞書によると、虐待とは「むごい取り扱いをすること」。調べれば、厚生労働省による児童虐待のページも出てくる。それによれば、児童虐待は「身体的虐待」「性的虐待」「ネグレクト」「心理的虐待」の四つに定義されるらしい。なるほど、思いつく大体はさらっていそうだ。長くなるのでそれぞれの具体的な例は省略するが、暴力や言葉による脅しなどが挙げられている。
そして、本題である。
寓話だと、シンデレラの義姉が一応それに当てはまる。義理の兄姉、弟妹、そして実のきょうだいからの虐待、である。
わたしは未だ、自らのそれを虐待ということに疑問を覚えている。確かに暴力があって、辛い言葉があった。けれどやっぱりきょうだいだから、そして自分でも信じられないことに、生まれてこの方家族のことを明確に「嫌い」になったことがない上、いくつかの発端は自分に非がある喧嘩だった覚えがあるために、はっきりとした定義づけができないのだろう。
でもたぶん、あれは虐待だった、と言っていいのだと思う。
わたしには、四つ上の姉がいる。はっきりとした実感では思い出せないが、間違いなくわたしは姉が好きだった。生意気だったし、変な子どもだったけれど、姉のやることをいつも真似して、遊んでほしがった記憶がある。面白いと言っていた漫画を読んで、図書館で本を借りて、拙い四コマを描いていた。女の子のお人形やミニチュアが家にあったから、それで一緒に遊んでほしかった。まあ姉は真似されるのを嫌がっていたし、あまり遊んではもらえなかった気がするが。母に諸々が露見するまで部屋も一緒で、二段ベッドの上下で眠っていた。
ひとつ、間違いなく自分に非がある発端として思い出せるのは、借りた本のことだ。当時姉はあるシリーズの小説にはまっていて、それをわたしも読んでいた。今思うと意味が分からないのだけど、ホラー作品の影響か、知らない内に血痕が増えていたらおもしろいだろう、と、当時のわたしは考えた。ちょっとした騒ぎになることで、家族の気を引きたかったのかもしれない。馬鹿な思いつきで、抜けた歯かなんかの血液を、本のページになすりつけたのだ。
単純に汚いし、本当に意味不明だ。弁償しろと言われたらそうすべきだし、怒られたら謝るべきだ。
姉は怒った。当たり前だ、妹が自分の本を読んでいたと思ったら、返ってきたときに謎の薄茶けた汚れが付いていて、あまつさえそれが不衛生な血液なのだから。生理的に拒絶して責められても仕方ない。
それで、姉はわたしを蹴った。蹴って、床に置いてある座布団の上に転がして、そこで背中を踏みつけた。座布団の上だったのは一縷の優しさなのか、当時の部屋は恐ろしく汚かったので、床に放置された物ものをわたしの身体が潰すのを嫌がったかもわからない。とにかくそんな感じで、わたしは泣いて謝って、しばらくののちに姉は怒ったままひとまず足を退けた。本をどうしたかは覚えていない。
そんな調子だった。二人とも通っていた小学校の校門前で、下校時刻にみぞおちを蹴られて――これは何が原因だったか忘れてしまった――動けなくなり、野次馬にじろじろ見られながらどうにか帰ったこともあった。姉はさっさと帰ってしまったので、持っていた傘を杖にして耐えていた。わざとかどうか分からないけれど、的確にみぞおちへ爪先が入って、ちょっと吐きかけた。
ここで弁明しておくのだが、両親は見て見ぬふりをしていたわけではない。というのも、わたしたちは鍵っ子で、昼間は父母ともに家にはいなかったのだ。そういったいざこざが起こるのは大体ふたりが帰ってくるまでの時間帯だったので、そしてわたしは姉に言い含められ、かつ自分の受けているダメージの深さに無自覚だったので、親にあまり言い募ることもなかった。父母の見ている前で姉の手が出たらさすがに止められたし、姉は叱られていた。まあそれによって機嫌の悪くなった姉の言動がさらに悪化することもあったのだが、とにかくそういうことだった。
契機は、特に姉の機嫌がひどい夜だった。母は父を迎えに行っていたので、両親ともいない。子どもは夕飯もお風呂も済ませて、あとは寝るだけという時間だった。
「ねえ、電気消して」と言われて、わたしは断った。前述したが、わたしたち姉妹は二段ベッドの上下で寝ていて、付け足すと姉が上段、わたしが下段だった。部屋の照明にはよくある紐が付いていて、天井の真ん中から垂れている。姉のいる上段からは手を伸ばせば届くが、わたしは一度ベッドから出ないと届かない。舌打ちが聞こえた。電気消せよ、と言われて、お姉ちゃんの方が近いんだから自分で消してよ、ともう一度断った。それで、姉は怒った。
足音を荒らげてはしごから降りてくる音に身体が強ばった。怒られるんだと思うと本当に嫌で嫌で、それでも、今日ばっかりはわたしは悪くないのだから、と頭の中で唱えていた。電気をどっちが消すかなんて、どう考えても至極どっちでもいい張り合いだ。変な意地は、それでも道理に合わないことに従いたくない一心で、そのあとに予期される出来事よりも優先されてしまった。
ぎゅっと身体に力を入れ、壁側に背中を向ける。お腹は内蔵に直接響いて辛いので、せめて背中側ならという発想だった。ベッドから引きずりだされるのが一番怖くて、でもそうはならずに、背を向けたわたしへ、そのまま足が飛んできた。電気消せよ、消さない、の、文字だけだと死ぬほどしようもない、馬鹿みたいなやり取りをしながら、ひたすら泣いて背中を蹴られていたと思う。どれだけやってもわたしが動かないことを察したのか、姉は苛立たしげに身を引いた。そして戻り際、「絶対チクんなよ」と残してはしごを再び上がっていった。電気はそのままだったので、結局どっちが消すかなんてやっぱり大事じゃなくて、「妹が自分の言うことを聞かずに口ごたえしてくる」ということがとにかく気に食わなかったのだろう。
ほどなくして、父と母が帰ってきた。ただいま、と言って部屋に入り、声をかけてくる母からわたしはとにかく顔を隠した。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、それでもうまく強ばった身体は動かない。異変を察知した母にどうしたのと問われても「なんでもない」で通した記憶があるが、声が震えてぼろぼろだったので、そんな嘘はあっけなくばれてしまった。
そのあとは、わたしはリビング、姉はそのまま自室にと引き離され、事情聴取が行われ、部屋はやっぱり離すべきだ、という結論に両親が落ち着いた。そのあともしばらく姉の気性は荒かったが、思春期の前半を過ぎて彼女が高校に入ったあたりから本格的に落ち着いて、そんな騒動はぱったりと止んだ。ギターで頭を殴られたりだとか、背中にものを投げつけられたりだとか、怒って一瞬包丁を持ち出されたり(見せられただけだったが)だとか、壁に首を足で押さえつけられたりだとか、まあ色々あったが、そんな感じだった。
「口ごたえするな」「使えない」「気持ち悪い」「何で生まれてきたの」――そしてまた、言葉というのは厄介で、簡単に口からこぼれるのに、言われた側はその感情まで受け取ってずっと抱えてしまう。身体に対する物理的なあれこれは間違いなく痛くて、それも勿論辛かった。でもたぶんその根本にあるのは、自分がそういう扱いをされていること、そうしてもいいと思われていること、好意や情の非対称性だったのではないかと今は考えている。お前は愛されていない、だめな人間で、嫌われていて、いない方がよかった。それの真偽はともかくとして、真正面から突きつけられるには痛すぎる。身体的な暴力は衝撃的に覚えているけれど、思い出したときにじわじわと首が締まっていくのは言葉のほうだ。そして、日常的に放り投げられるのにいつだって避けようがなかったのも、言葉のほうだ。
姉はいわゆる癇癪持ちというやつで、怒ったら自分で制御ができずに手が出てしまっていたのだという。でもそれが友人に向くことはなかったし、たぶん妹は格下の、彼女にとってそれをしてもいい人間だったのだろう。自分の中で、怒ったら手が出てもいいし、ひどい言葉を投げてもいいし、言うことを聞かないのはおかしい存在。何なら、日常的に何を言ってもいい存在。
幼い頃から培った「この人と自分は平等ではない」という意識は根深い。何ならそれは今でも、姉妹揃って無自覚に残っている。実は現在、姉妹間の仲はそこそこに良好だ。ただその前提に、姉は大人になったけれど、間違いなくわたしのことは下だと思っている。わたしは大きくなったけれど、姉に対して嫌に思うことがあっても諦めているし、そういうものだと思っている。そういう暗黙の了解が存在しているから、比較的穏やかな日常が保証されるようになった。
でも、色々なことがぼやけてしまった幼少期の記憶の中で、ぐちゃぐちゃとした嫌なものばかりが輪郭を持ち続けて、わたしはそれを手放せない。姉と笑顔で話しながら、ふっと影がよぎるみたいに、昔のことを思い出してしまう。やっぱり、した側が覚えてなかったとしても、された側は覚えているものらしい。
この文章は間違いなく恨み言だ。でも、これを姉にぶつけたいわけじゃない。やっぱり姉のことを嫌いになりたくなくて、でも傷ついた自分のことも認めてあげたくて、好きなものが好きでいたいだけだ。だから、取り残された感情や記憶を吐き出して保っている。
わたしは今も、生まれ育った家で姉と共に暮らしている。実家を出ようとはあまり思っていなかったのだが、最近になってふと、「この人と一緒にいたら、わたしはこの先もずっと自尊心を削られつづけるんだ」と悟って――そのうち、家を出なければならないことに気がついた。母は姉を出すと言っているものの、姉を一人暮らしさせてうまくやっていける気がしない(わたしもあまりできる自信はないけれど)ので、全員の健康を考えたらそのうちここを離れることになるのだろう。
あのときと比べて、身体はずいぶん大きくなったし、精神も成熟したところはあるはずだ。それでもわたしはまだ、自分の中にずうっと、声を殺して泣いている子どもがいるような気がしている。
『誘拐ドラマがダメなら、殺人ドラマも強盗ドラマもダメってこと?』と言う人がいますが、ここには決定的な違いがあると思います。
殺人や強盗は『悪いこと』という共通認識、不動の前提がある一方、誘拐に関しては『悪いこと』と認識しない人がいるのです。
例えば、現実で殺人事件が起きたときに、『殺害された方も喜んでる』なんて言う人はいませんが、女の子が誘拐されたとき、『誘拐された方も喜んでる』『家出した女子を家にかくまっただけ』『女子も男の心につけこんで、いい思いをしていた』などと言う人が出てきます。
『誘拐は、被害者の意思に反している』『被害者は、怖くて誘拐犯から離れられなかった』という当たり前のことを、当たり前だと思えない人がいるのです
https://www.cyzowoman.com/2018/06/post_190588_2.html
電通でパワハラ自殺した女の子がいたがあれはその後電通社内では面倒ごととして扱われあの事件以後の新卒社員はしごきづらいと古参社員からは疎まれて孤立している。電通社員は基本的に働くことが大好きで働くことが趣味だというような人間が多いため長時間労働やパワハラに厳しくなる原因を作り出した自殺者を内心恨んでおり内輪で話すときはそれを隠すこともしない。パワハラで自殺したところでただ疎まれるだけなので意味はない。トップを殺すことで世界は変わっていく。他人を不当に扱えば殺されるかもしれないという恐怖が人々の行動を改めていく。その昔そのような恐怖は神により与えられていたが無宗教な現代で神の恐怖を与えるのは殺意を持った弱者である。
ブックオフいった
いや未読なのは4巻だけだったけど
GWにブックオフを5,6こはしごしてもみつからなかったのが、こんなにあっさりみつかるなんて
結構駆け足感はあったけどまあ満足した
設定協力?のところがはりきりすぎてた感はあったけど
前者はあったけど570円くらいで高かった
後者はなかった
ほしいなーとおもったけど値段高すぎてやめた
1500円て・・・
あとはふるいゲームでいいのないかとおもったけどなかなかいいのみつからず
PS3の無印RDRにしようかと思ったけどぐぐったらDLC全部入りのとかあるらしいからかうならそっちがいいなと思ってやめた
外出たら雨がぽつぽつきててあせった
空模様だけみたらとても雨がふる感じじゃないのに
いそいで帰った
あと今週のフリプのバイオショックの購入ボタンがずっとロード中のまま押せない・・・
めんどいけどデスクトップPCでやるしかないかなー・・・わすれないようにしないと
バイオショックはボダラン2に続いてやった2つ目の洋ゲーでPS4で12インフィニット全部やったけど、
世界観かなりよかったんだよなー
今まで食べることしか楽しみないレベルで食べるの大好きで、暇さえあれば何か食べてたのに1ヶ月以上食欲全然ない。
食べるの大好きとは言っても外食で美食を極めたりしてるタイプではなく、寂しい時、イライラした時に食べ物に慰めてもらってた。
食べ物買いに行く時だけはものすごいスピードで支度して買いに行って食べてたし料理もそこそここだわったりして作ってたし、1日3回の食事+おやつは必須だしどれも100点に美味しくないと割と気が済まないし、夜中にラーメンとか当たり前に食べてた。
目当てのものが売ってなければ、スーパーコンビニはしごして買いに行ってた。
一体なぜ!?
毎日毎日牧場の朝のヨーグルト、クノールのコーンスープだけで生きてる。
でも全く平気で怖い。
吐き気がしたり食べ物を見たくないって感じじゃなくて、本当に食べ物がいらない感じ。
食べなくていいかな?ってのがずっと。
でも毎日ポテナゲ食べたいなーとか、ラーメン食べたいなーとか思ってる。ホロホロチキンカレーも食べたい。でも別に食べたくないっていう不思議すぎる気持ち。
薬飲まなきゃ行けないから何かお腹に入れないと!なんて思う日が来るなんて人生で来るなんて…。
元がデブだから痩せるいいチャンスなんだけど、食べないダイエットと同じだからリバウンドやばいことになりそうだから、もっと食べなきゃと思うのに全然食べたくないし食べられない。お腹の容量が少ない。
リバウンド前までよりも太るという焦りが余計に食欲を失せさせているのか。
自律神経が乱れてる症状に当てはまりまくりだけど治し方もわからないし、食欲がない状態っていうのが時間もお金も得するってこの1ヶ月で分かっちゃったから治らなくていいやと思っちゃう。
うまくはしごして生きていってるように見えるけど…
トラウマを刺激されたらどんなひどいことを言ってもいいって聞いたので毒親の元で育ったアダルトチルドレンについてひどいこと言ってもいいよね。
私は毒親経験者の被害で大学生活の大半をめちゃくちゃにされた人間だけれど、この人たちはほんっとに救いようがない。
・毒親の話を美化するのやめてほしい 母親は終始自分勝手で娘(咲良)の気持ちなんか全く考えてないし父親はなに思ってだか知らないけど子どもから部活の話聞いて第一声がお金かかるの?はないでしょ
・中盤まで毒親への怒りが沸騰してて、最終ページでいい話で一瞬飲み込みかけて、読後やっぱこの毒親どもをいい話で済ませたらだめだろとじわじわ怒りが蘇ってきた。
・俺はダメだこれ。別に作品はストレス発散のためにあるわけじゃないのは分かるけど、母親に抱いた怒りのやり場が無くストレスだけが残った。ドーナツは卑怯だと思う。思い出を人質に取ってるよ、打算が透けて見えるね
あーいけません。こういうコメント見るだけでトラウマが刺激されちゃう。あー傷つく、あーつらい。あーこういうコメント見て心が傷ついてしまうわ(棒)
あのさあ。
毒親経験者はもうちょっと自他の区別をつけて。 何様のつもりだ。不愉快なやつすぎるから規制しよ。
この人たち被害者意識が強すぎる上自分の感情が何よりも考慮されてしかるべしっていう傲慢さがにじみ出てて最低すぎる。
毒親との関係で傷ついたこと自体はお気の毒だと思うけど、そのつらさを理由にして他人に迷惑ばっかりかけ続けてお前ら自分が毒だって自覚がない。
自分が被害者だったらほかの作品まで検閲できる資格があるという思い込み何とかならんのか。死んでくれとまではいわないけど消えてほしい。
昔hashigotanがこういうことを言ってたときは「あの人おかしいだろ」ってみんなわかってたのに今ははしごたんのクローンみたいな人間が増えすぎて、だんだん自分が異常であることがわからなくなってきてる人が多くて怖い。 さすがにやばいよ。
毒親経験者たちには日本語が理解できないだろうから馬鹿でもわかるように3行にまとめる。
・被害者の被害感情自体は別に否定してない。お気の毒だと同情する気持ちはある。
・だが、被害経験者と作品で描かれてるのは別の話。別の話なら別の結末があるのは当たり前。作品はお前の願望をかなえるために描かれてるわけじゃない。
・そういうのがやりたいなら金払ってグループセラピー受けて。お前らがそういう発言して一般人に迷惑をかければかけるほど毒親被害者はもう手遅れだから毒親と一緒に焼却処分したほうがいいって気分になる。
私は毒親経験者のメンヘラにストーキングされまくった経験がある。
結局警察沙汰になったが、結局最後まで毒親というだけでなんでも許されると思ってて最悪だった。
毒親経験者であることを克服すべき過去と考えずに、悪魔のパスポートみたいに使うメンヘラはマジですべてこの世から駆逐されてほしい。
お前らのことが死ぬほど嫌いな人間がいるってのもちゃんとわきまえてほしい。お前らは絶対正義じゃないんだよ。
どうせたわわの件もこれと同じ現象が起きているんでしょ。
たぶん怒ってる人たちは確かに男たちによって嫌な思いをさせられたんだろうしそれでトラウマが刺激されてつらい気持ちになるのはそりゃそうかもしれない。
だったら、たわわと切り離して自分のつらかった思いを語ればいいのにそれができないから発狂してるだけ。
まともに取り合う価値なんかないよ。
まして若い女の子が同じように傷つくはずって喚いてたけど調査結果で否定されてんじゃん。
「女の子たちはみんな自分と同じ感覚にならなければいけない」だとかさあ
「私がキモイと思った男はフィクションでも断罪されなければならない。そこまで描かない作品は私の傷つきに配慮がたりない」だとか。
よくそんなことが言えるよね。 自分の子供でもない人たちに毒親しぐさしてるわけだけどわかってる?
そんなに毒親が嫌いならまず最初に鏡を見て、自分も毒親になって他人に迷惑をかけてることを悔いて自分の始末つけろ。
もっとも、同じ毒親経験者と思われる人でも大半はちゃんと区別がついてるのが救い。
その区別がつけられないくらい心が弱ってるなら、自分のためじゃなくて周りの人のために治療を受けてね。
でも、こうやって説得しても警察がいるときは素直にうなづいたふりして実は全然反省してなくて監視がなくなったら迷惑かけるんでしょ。わかってんだよ。毒親経験者で認知がゆがんだ人は一生治らないんだよ。お前らはそのまま一生怒りに振り回されて消耗しつくしてさっさと病気で苦しんでみじめにむごたらしく野垂れ死にあそばせられるのですわ。
とにかく一生許さないのでそのまま苦しみ続けててね。
OSK日本歌劇団のレビュー「春のおどり」を見てきた。こういうの。 https://enterminal.jp/2022/03/osk100th-harunoodori-tokyo/
かげきしょうじょとかスタァライトとかでアニメでも宝塚っぽいのが最近よく出てくるから、ここらで一丁レビューってのはどんなものなのか見ておくのも悪くないかなという気持ちで見に行った。なお自分は、かげきしょうじょもスタァライトも序盤だけ見て合わないなと思って投げた。
OSKの存在自体よく知らなくって、宝塚以外のなにかが存在するらしいというのだけはうっすら知っていた程度。今年創立100周年らしい。調べてみるとだいぶ紆余曲折というか艱難辛苦を乗り越えてきていて、一度は完全に潰れたりもしていた模様。そもそも少女(女性)歌劇というジャンル自体が絶滅危惧種で、宝塚は相当に特殊な事例らしい。
今回の場所は新橋演舞場。ここは銀橋はもちろんないけれど、その代わりちゃんとした花道のある舞台。花道あるなぁと思っていたらレビューでガンガン花道活用しててびっくりした。渡辺さらさはこっちに来ればよかったのでは。
レビューは2部構成で、前半が和風、後半が洋風になっていて、特に前半の和風レビューは印象が鮮烈。日本舞踊から始まって吉原を舞台に歌舞伎の名場面をモチーフにした殺陣。集団での群舞と続く。舞台も衣装も歌舞伎のようなしつらえなのに、かかってる音楽はわりとロックで、しかも当然全員女性。なんだかとても不思議なものを見ている気がして面白かった。花道ではしごを二つ組んで脚立状にして、その上に登って見得を切るのとか派手で良かったし、途中で「しゃらくせえ」が口癖の写楽が出てくるのだけれど、そのあたりはちょっとストーリー仕立てになっていて飽きさせない工夫を感じた。
個人的には踊りだけをずっと見続けるのはちょっと飽きるので、多少お芝居的な要素がある方が好きだなと思う。後半はほぼ踊りだけだったので、少し退屈さも感じてしまった。
お客さんはわりとご高齢の女性が多い印象。ただこれは行ったのが平日だったからかも。あとは本拠地が関西だから、そっちではもっと若いお客さんも多いのかも知れない。
100周年のチラシで昔の写真見ると、若い子をたくさん並べて当時にしては露出多めな感じのショーも見せるような雰囲気もあって、昔はちょっと前のAKB(ポニーテルとシュシュとか、ヘビーローテーションとか、下着みたいな衣装でMV作ってた頃)みたいな雰囲気だったのかも。実際、浅草に本拠があったSKDなんかはセクシー路線に傾倒した結果、女性人気が獲得できずに解散したってウィキペディアには書いてあったりしたし(youtubeで探してみると、こんな感じ https://www.youtube.com/watch?v=-kfAuAzmG_Q)。ラインダンスは今回もやっていたけれども、あれって本当に今でもやる意味があるものなのだろうかとも思ったりした。まあ、バニーガールっぽい衣装で踊る人たちは迫力があって、それはそれでよかったとは思う。