はてなキーワード: Instagramとは
私が毎日通っているスポーツジムにいるインストラクターのお姉さん
こういうお姉さんになりたいなって、いつも思ってる。
Instagramでも相互フォローしてて、コミュニケーションとってる。
そいつが、ある名前を連投していた。その名前を見てインストラクターのお姉さんは真っ青に。
すぐ配信は止められた。
釣られてはいけない、と思いながら連投された名前で検索してしまった。
そこにあったのはインストラクターのお姉さん。
に、酷似した女性、いや、ほぼご本人と言っていいほど似ている女性のアダルトビデオだった。
どうやら、インストラクターになる前になん本か出演していたようで
ここまで追いかけてくるのは最低だと思う。
見てしまった私も同罪だ、
年に1、2回程度会う知人。
アクティブにSNSを使ってる人なんだけど、TwitterでRTしたネタ画像をわざわざ保存してFacebookとInstagramに投稿してるのがなんかすっごく違和感がある。
本人は別に自分で撮影しましたとうそぶく気もなくて「みんなにオモシロをシェアするぜ!」って無邪気な感じなんだけど、画像保存したらアウトな気がしてて。
悪意なく引用元がロンダリングされてしまっているというか、なんというか。
ただ自分もSNSでリプライにネタ画像を使うこともあるから同じことだよなとは思ったり。ただ、いまバズってるネタ画像と、ある種定番の三国志の一コマだったら違うんじゃないか、いや盗用という部分では同じかなとか悩んだり。
仲のいい友人なら「ネタ画像ロンダリング良くないよー」って気軽に言えるんだけど、おもしろい人ではないけど悪い人でもないし、微妙な関係性だし、付き合い的にフォロー外せないし、Instagramはミュート機能ないし、現時点ではなんで良くないのか自分でも根拠がよくわかってないから話が伝わらなさそうだし、だけど自分の中ではこれアウトなんじゃない?って違和感がずっと拭えなくて。
そうしてる間に知人は「チーフがパンティの雑誌画像」とか「紅葉が卍、超絶見ごろなうのコラニュース画像」とかをわざわざTwitterから画像保存してせっせとInstagram/Facebookに投稿してる。無邪気に。
アメリカでは超有名番組で、日本でも海外セレブが好きな人には有名。リアリティ番組なんだけどすっげー面白いの。元検事で現在弁護士の木川さんも7シーズン見てしまうくらいハマったと語っていたり(http://judiciary.asahi.com/corporatelaw/2017040100001.html)、米女優ジェニファー・ローレンスも大ファンで撮影所に「カーダシアン・テント」を作って息抜きしたり、現在のInstagramのライク数一位の人物がこの一族だったりと、とにかく良くも悪くも世界中を引きつけている人たちの番組である。
俺もめちゃくちゃハマって、たまに1から見たくなるのだが日本語ではシーズン8からの放送しかない。どうしても見るなら英語を鍛えてアメリカの配信サイトで見るしかないが、そこまでの英語力がない……見たい……どっか配信シテくれねーかなあ
西欧においては、お金持ちが大きなお屋敷のだだっ広い壁を埋めるために作品を買う
そこに置かれた作品は、来客者が観ることになるので、どんな作品を買ったかセンスを問われる
若手のこれから売れそうないい感じの作品を飾っておくことはステータスであり(目利き&教養アピール)
実際に人気が出たときに売れば、価値がついて儲けることもできる
あと、作品をたくさん買って美術館等に寄贈すれば税金対策になるとか、そういうのもあったような気がする
学校での「美術」の時間は日本のように制作がメインの授業ではなく、美術史を勉強する
日本においては、有名な作品や作家名はみんな知っているけれど、なぜそれが有名になったのかは分かっていない
けれど、海外に顧客を持つことは現在かなり簡単(例えばINSTAGRAMに作品を掲載すると、DMでコレクターが値段を聞いてくる)
私が大学生活で学んだこと
人はひとりひとり違っていること
そしてひとりひとり正誤などないこと、ひとりひとり認められること
誰かに嫌なところがあったとしても、その人そのものを嫌いにならなくてもいいこと
本当に困った時に助けてくれる人が、思った以上にいないこと
しかし自分のことを分かってくれたり、認めてくれたり、あるいは叱ってくれたり、救ってくれたりする人が、たとえ瞬間的だとしても、確かに存在すること
丁寧な人間関係
世の中で「正しいとされること」が必ずしも正しい訳ではないこと
たくさんの夢と希望と野望を抱えて上京してきたあの春から、4年が経とうとしている。
いま、卒業を前にして、私はいくつの夢を捨て、希望を失い、野望を諦めただろう。
考えると虚しくなるくらいには、だ。
オシャレなレストランやカフェで働きたかったけど軒並み落ちて、ようやく受かったバイト先はブラックだと友人に教えられた。
思えば変な雰囲気が漂っていたけど、初めてのバイトで何も分からない私は普通に頑張った。
別のところで働いている友人の話を聞いて初めて、半畳ほどの狭いロッカーで立ったまま賄いを食べることが当たり前ではないと知ったし、「誠意」を示すために30分前に出勤したり閉店後3時間も残る必要なんてないことを学んだ。
3年目まで頑張って、辞めた。
旅先から思い切って「辞めます」と店長にメールをした後、連れていかれた深夜の喫茶店で、辞める理由を問い詰められて叱責されてる間、とにかく泣きながら黙って耐えた。
計画では片手間にやろうとしていたサークルにしっかりハマって、部長もやった。
いろんなことを後回しにして、蔑ろにした。
中学からの趣味を続けようと思っていたけど、サークルのほうが楽しくなって時間もお金も回らなくなったから、就活を理由にして辞めた。
本当は就活なんてまだまだ始めていなかったのに。
そんなサークルも同期と揉めて、辞めた。
4年になってからはそれこそ就活が始まったけど、一度ビックサイトに行って遠すぎるし交通費もバカにならないので合説に行くのは基本的に止めた。
志望している企業の説明会や講演にはそれなりに通って、だいたいどこの説明会でも同じ内容を繰り返してるんだってことを学んだ。
座席は先着順だったので、2時間前に行って一番前に座るぞと意気込んでいたけど、普通に遅刻した。
最前列ではなかったけれど、ずっと社長に向かって「採用してくれ」ビームを出した。
講演が終わった後、スカウトされてしまうのではないかと思ったけど、当たり前に私に目もくれず退室していった。
力みすぎて背中が痛かった。
社長がランニングで肌を焼いて採用されたと話していたので、それ以降もサークルに打ち込んで、思う存分肌を真っ黒にできた。
締め切り当日の夜9時、私はまだESを書き終わっていなくて、立川のバーミヤンで必死に空欄を埋めていた。
まさかのペンのインク切れ、かつ準備が悪いので予備のペンなど持っていなくて、慌ててバーミヤンを出てローソンでボールペンを調達した。
またバーミヤンに戻るのも面倒だったので、残りは郵便局で書こうと思ったのだが、立川郵便局がまさかの臨時休業。
本来なら宛名などを書くためのカウンターで立ったまま必死に手を動かしながら、隣の男の人が同じ企業へのESを書いているのをチラ見した。
もしあの時インクが切れていなかったら、0:00ギリギリまで立川のバーミヤンにいて郵便局が開いていないなんて気づかないで、間に合っていなかったと思うと、神さまはいるんだろうと思う。
びっくりするぐらい何も話せなかった。
神さまはいるけど、実力が足りなければどうしようもない。
今は、たくさん落としてきた単位を回収するべく、4年間で一番一生懸命、大学に通っている。
4年生は私だけ、という授業がたくさんある。
ちゃんと聞くと面白い授業がたくさんある。
レポートにテスト勉強と、やることもたくさんあるんだけど、ちょっと休憩したくて、初めてますだを書いている。
これまでの4年間を振り返っている。
気づけば何も残っていなくて、私の4年間は何だったんだと思うことがある。
Facebookでバイト先の後輩や社員から花を贈られて笑っている友人の写真を見るとき、Twitterでサークルの仲間たちと旅行先で笑っている友人の写真を見るとき、Instagramでオーストラリアにて念願のスカイダイビングをしたという友人の写真を見るとき、昨日の綺麗な夕陽の写真ぐらいしかアップするものがない私の日々は、何だったんだと思うことが。
すべてに意味がある、全部無駄ではなかった、ということにすることもできると思う。
そしてもちろん、すべてが無駄だった、ということにすることもできる。
本当は、意味があってもなくてもどっちでもいいし、無駄でも無駄じゃなくてもどっちでもいい。
ただ、私は4年間を過ごした。
最高の4年間でも、最悪の4年間でもどっちでもいい。
価値を決めることは楽しいかもしれないけど、というか、そうやって序列を決めることで安心できる人もいるかもしれないけど、そんなことをする必要は全然ない。
大事なことも、矮小なことも、駄目なことも、幸福なことも、楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、悔しかったことも、辛かったことも、全部、ごまかさずに、何かの価値の中にまとめてしまわずに、なるべくそのまま持っておきたい。
分かりづらいと思うけど、それが、私が大学生活で学んだことだと思うし、得たことだと思う。
学ばなくてもいいし、何も得なくてもいいけど、4年も過ごしといて何だったんだって思っちゃう自分を励ますために、強いて言うなら、そうです。
twitter+Instagram+Facebookのフォロー数を足した数を戦闘力とする(2018年1月時点の数字)
―(スーパーサイヤ人の2倍)―
―(フリーザフルパワー1億2000万)―
https://lab.syncer.jp/Document/Twitter/Follower/
http://www.talentfb.com/follower/12/
特に何を主張するでもない駄文です。1級暇人の方はどうぞお読みください。
昔々ある人間たちが、誰の目にもとまらないような陽の射さない地下で他人との交流を細々と持っていた。顔も見えず声も聞けないそのコミュニティには、陽の当たるところへは出せないような声が星の数ほど集まって、カオスな文化が生まれた。
それは大抵の場合は根暗で、ウジウジドロドロして、「何だこんなもの」と地上の人々に馬鹿にされていた。が、確かに光るものがあったこともまた事実で、そんな一期一会のフラフラした心地よい集まりを求めて多くの人間が暗がりへとやってきた。
おとぎ話ではない。他者との交流ネットワークが一般に拡がり始めた頃の話である。
インターネットが私たちの生活に深く入り込んできてからの年月はまだ浅い。日本へ今の形の原型となるネットワークが入ってきたのもたった30年ほど前。それ以前からあった今は亡きパソコン通信も、全盛期は2、30年前あたりだ。ましてや冒頭のような光景が掲示板などで繰り広げられていたのだって、(今の現役ネット世代の若者が考えるとけっこう昔に思えるが)20年やそこらではないか。
パソコン通信というクローズドネットワークからインターネットというオープンネットワークに時代が移る中、個人サイトやら電子掲示板やらがぽつぽつと栄え始めた。顔も見えない声も聞こえない文章だけのコミュニティは、この時地上の現実からひとつ階層を落とした地下世界を構築したのだろうと思う。決して表には出せない愚痴も嘲笑も争いも裏事情も何もかもを内包したカオス空間だ。
まもなくインターネット上にはその場の思いつきや便所の落書きレベルからなぜ本気を出したと言わんばかりの美文やイラストや企画まで、さまざまなものが漂流し始めた。地下世界はスラム街のような様相を呈し、いわゆるオタクを中心に物好きな人間たちを取り込んでブクブクと膨れ上がっていったわけである。
その頃の地上世界では「ネットなんて」「掲示板なんて」「オタクなんて」みたいな認識が当たり前だった。相手の顔も見えない世界なのに、現実を見もしないで貴重な時間をムダにして、と。基本的に地下世界の住人も生身は地上に置いているから、そんな後ろめたさを背中に抱えて、それでもただのらくらと面白いものを求める。
漂う気配には地上世界で吐き出せない陰があり、カキコによる争いは絶えずどこかで起こって燃え上がり、でもたまにいいものを見つけて嬉しくなるような、全くもってグチャグチャの空気が流れていた。
当時の地下世界において人々の理性や社会性は普段より3~8割減っていたと見ていいだろう。感情の赴くままに場を荒らしてはゲラゲラ笑い、煽られては顔真っ赤にして怒る、老若男女が子どものように感情を表せる場だったと言える。そこに地上世界の倫理を持ち込むのはお門違いなのであった。
嘲笑・叩きはお構いなし。グロ画像やら有名人やら見知らぬ一般人の写真までもがジャンジャン流れ、肖像権何それ美味しいの状態である。淫夢の語録やクソコラなども、そのあたりの流れによって大きくなったものがニコ動などに共有されて爆発したようなものだろう。そういうアングラ文化は電子掲示板界隈からニコ動・mixi・Twitterといった拡散力の強いサイトへ流れこみ、2000年代に大きく盛り上がった。
さて、今は2010年代もそろそろ終盤である。この日記のタイトルで、かつて私たちは地下に暮らしていた、と書いたのは、今やインターネットは地下世界ではなくなったのだと個人的に思ったからだ。
インターネットで出されたコンテンツが瞬時に世界中へ回る時代。昔だってそうだったが、今では拡散のスピードが違う。LINEやFacebook、Instagramは若者たちのコミュニティを作る。「微レ存」が女子高生にまで浸透したりして、一般人といわゆるオタクとの境界線も昔に比べると曖昧になりつつある。
もはや掲示板にもTwitterにもニコ動にも、陽の当たらない場所はほぼない。全てが地上世界に引き上げられ、インターネットはれっきとしたひとつの社会として君臨するものになったのだ。
れっきとした社会として認められるということは、当然利用する人々の意識・行動にも倫理や理性、ルールが付きまとう。今もかつての地下のノリは受け継がれ、クソコラも炎上も煽りも健在だが、「そういうのはどうかと思う」というような理性的な意見によって自主的に規制されることも増えた。
だからと言ってそれが悪いと言うつもりは全くない。むしろ当然の結果である。人間が一つ所に固まれば、そこに独自のルールが生まれる。ルールは文化となって拡がり、人が大きく増えればひとつの社会になる。そうなれば法や倫理が、社会における不都合を放っておくはずはないというものだ。
ただ少し寂しいとは思うが。
冒頭で言ったように、私はこれに関してどうこう主張したい訳ではない。ある日何となく「ネット窮屈だな」と感じ、地下世界の文化の流れを思い、ちょろっと考えをまとめてみようか、となっただけの戯れ言である。批判も意見も大いに結構だし、むしろここまで読んでいただけていたらそれだけで驚きだ。よっぽど暇なのか。
これからもインターネットはひとつの社会として、ちょっとの闇を内包しつつ地上世界に在り続けるだろう。さらに月日が流れて、今の世の中では想像もつかないような新しいネットワークが出てきたら、また物好きな誰かがそれを使って地下に新しい世界を開拓するかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20180110201536
1年ほど前、バツイチ40過ぎの自分は彼女が10年近くいない状態だった。
今まで女性と付き合ったのは2回ほどで、サークルの中で自然にひっついた的な付き合い方だったので、社会にでて出会いが少なくなった状態でどうやって彼女を作るのか皆目見当もつかないという状態だった。
まず惹かれたのは彼女の能力だったのだが、打ち合わせで話をする度に「あれ、この人の雰囲気なんか良いぞ」と思うようになってきた。
Twitterを遡りTwitterからInstagramを遡り、どうやら現在はフリーらしいということとお酒が結構好きなこと、若干シモネタなどもいける口っぽいこと、そして猫を飼っていることなどの情報を収集した。
そんなある日の夕方、打ち合わせの後唐突に「よかったらこの後ご飯でも食べましょう」と誘われた。
正直、心の準備をしてからこちらから飯にでも誘おうと思っていた頃で、願っても居ないチャンスだが少々その先を考えると不安であった。
なにせこちらは10年以上もご無沙汰で、そもそも以前交際した方々もダラッとした時間の中で仲良くなってきたような感じだったので、ご飯の先のステップアップとかノーアイデアノープラン。
都市伝説のごとく飯を食ってその日に一発決めるのか?とか考えたが、飯からお酒を入れて「この後ホテルでもどう?」というような口先のテクニックはもちろん皆無である。
では普通にお互いの資質を見極めて次のデートへつなげるか?となると仕事を口実に数回飯を重ね「じゃあ付き合いましょうか」みたいな流れに持っていくのか。
色々考えたのだけれども、最終的にはまあ流れに身を任せるしか無いよねという事になった(年をとるとこの辺りがいい感じでどんとこいになる)。
というわけで飯を食べたのだけど、事前リサーチの通り彼女は酒が僕よりも強く、僕は一軒目のカレー屋でいい感じでベロベロ。
んで「せっかくなんで2軒目行きましょう!」となり、多分いわゆるいい雰囲気というものになった。
当然色恋の話になり「増田さんは気になる人いるんですか?」と聞かれて、ベロベロの僕は「ぶっちゃけ〇〇さんに興味があるんですよねぇ〜わははは」と言ったら「まあうれしい」みたいな好感触があり、その後話がエロい方向へ向かってポリネシアンセックスをしてみたいみたいな話になり、んじゃぁしてみますか?しましょうしましょうみたいな感じで結局最終的に普通のセックスをした。
で、その後付き合うことになってわかったのだけれども、実は彼女もネットストーカーで僕のTwitterやブログをチェックしていたということであった。
https://twitter.com/noraworld_jp/status/908173542923001856
最近マストドンをやっていると至るところで彼の名前を目にするので超絶うざい。
Twitter にしろマストドンにしろ、他人の幸運話やうまくいっている話を見るほどイライラすることはなくて、そういう話題が TL にあふれているとなんで俺は自分から SNS を見に行って精神を摩耗しているんだという気分になる。
そういう理由があってここ最近は Twitter を全く見ていない。見なくてもいいものをわざわざ見てイライラするくらいなら見ないほうがいいでしょという極めて単純な理由。
「他人の不幸は蜜の味」とはよく言ったもので、他人の幸運や人生うまくいってる状態を見るほど鬱陶しいものはない。
他人の幸運を好意的に受け止められるのは、本当に仲の良い間柄だけであるが、本当に仲が良くても事柄によってはそれで関係が切れることもあるので、所詮、人間、自分が一番可愛いのである。
SNS 疲れというべきものか、SNS に対する鬱憤が深刻化していて、将来的に SNS を見なくなる可能性が出てき始めた。Twitter やマストドンは見なくなるかもしれない、Instagram は元々見ていない、Facebook は死んでどうぞ。
私に文才はない。というか、ある程度の文章を書いたことがない。いや、書いたことだけではなく、読んだこともない。なぜ読まないのか。それは読んでいても直前のことを忘れてしまう自分の頭のせいだろうか。それとも、小説は読んでも何の足しにもならないと思っているせいだろうか。そんな理由ではなく、ただ単に読んでいると文字を読んでいると無条件に眠くなるからだろうか。とにかく、私は本を読むということができない。こう言うと、学校の教科書とかは読めたのか?と聞かれるが、あれば大丈夫であった。多分、学校の教科書の内容は、一行一行理解しようとして読んでいたし、所々に出現する練習問題のおかげで読めていたんだろう。私には小説や新書のような本は、一行一行真剣に読むことができない。それは、学校で試験のために勉強する切羽詰まった感もないし、小説は注意深く読むには長過ぎるし、注意深く読んでいると細かい表現や統一感の無さに苛つく。では小説に理解を確かめる問題があったらどうだろうか。さっき一瞬良いと思ったのだが、小説にそういうものがあったとしても自分は読まない。断言できる。新書にあったらどうだろうか。うん、読まない。教科書が読めた理由を考えて、それを小説、新書に適応したら、自分が読めるようになるかを考えたが、適応したところで読まない。教科書が読めた理由はやっぱり、やらなければならなかったからという気がしてきた。読めない、いや、読まない理由は単純であった、私は怠け者だから、自分にそれが必要になるまで拒否していただけだったようだ。
いや、おかしいではないか。自分は怠け者なのに、なぜこんな文章を大晦日に書いているんだ。この文章を書く必要性なんて全く無い、むしろ、これを書いている時間はテレビでも見てコタツで猫と遊んでいる方が、怠け者のあるべき姿ではないのか。怠け者と猫とコタツ。今すぐ手をとめるべきであろう。しかし、書き続けしまう。おお、もしやこれが世に言う承認欲というものを得んとする行為なのか。承認されたいと願う心は、こうも人間を動かすのか。
本当に承認されたいだけで、こんな文章を書いたとは思えなくなってきた。おそらく承認されると人は気分が良くなるのだろう。その気持ちの良さを得たいがために、承認されたいよーと思うんだろう。ここで、推量を使っているのは、自分がまだ承認されることが気持ちが良いということをネットでも現実でも体験をした記憶がないからである。現実で認められたことがないんなんて可哀想な人だなと思われるかも知れないが、可哀想なのだ。12月31日にこんな文章を書いているんだから、現実の方はお察しだろう。ネットの方でも、twitterやinstagramはアカウントをとってから、一度も投稿をしておらず、好きなユーザーの投稿をおっかけることだけに使っている。twitterもinstagramも自分から投稿しない理由を考えてみるに、自分には人との繋がりが乏しく、どうせ投稿しても誰も見ないだろうという考えを持っているのでは。ということは、見てくれる人がいれば、投稿しそうな気もする。この見て欲しいという欲求は承認欲では無い気がする。なぜなら、私は、見てくれるという行為だけでいい。見た結果、何とも思わなくても良い。ただ見てくれただけで嬉しい。コメントなんかで批難とか批評とか反応してくれたら、もっと嬉しい。貶されても良いと思っている、この思いは承認欲求がなすわざなのか分からない。
自分はタダのかまってちゃんなのか。少考し違うと結論。例えばこの文章の総閲覧者数が見えたとして、それが「3人」だったとしても、この文章を書いて良かったと思える。上にも書いたが反応は無くても構わない。その上、おそらくその3人は誰も最後まで読んでいないのだろうと思うが、一部分だけでも目を通してくれたことを嬉しく思う。では閲覧者数が「0人」だったらどうだろうか。かなしい。1人でもいいから、この文章が存在したことを認識して欲しい。10秒で記憶の彼方にいっても構わないから。この0人は悲しいというところから、この書くという作業が楽しくて楽しくてやっているわけではないことになる。
ここらで怠け者の本分がでてきて、めんどくさくなってきた。猫と寝ようっと。
取材先でそう耳にする機会が増えた。企業のプロモーション担当者は、どのSNSで若者にアプローチをするか頭を悩ませている。
実際に高校生や20代の女子に聞くと、「気付いたらLINEを使わなくなった」と“LINE離れ”を口にする。
「LINEが久しぶりに鳴ったかと思ったら、『広告かよ』って」(27歳女子)
彼女たちがアクティブに使うのは、もっぱらインスタグラム(Instagram)だ。「インスタのDM(ダイレクトメッセージ)で連絡を取るようになってから、あまりLINEを使わなくなった」そうだ。しかも、彼女たちは独自の手法でインスタを駆使している。
都立高校の女子高校生(17)の日常は、スマホとともにある。帰宅後は終始、インスタ→ぶつ森(どうぶつの森)→インスタ→YouTubeのサイクルを回す。
「気が付けば、LINEを使わなくなった。前は未読も既読も溜めなかったけど。LINEはすぐ返す方が少ない。友人には未読が30~40件溜まっている人もいる。未読スルーを嫌がる人もいると思うけど、今は当たり前になっている」と話す。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171214-00010002-binsider-sci