2017-12-31

文かけない人

私に文才はない。というか、ある程度の文章を書いたことがない。いや、書いたことだけではなく、読んだこともない。なぜ読まないのか。それは読んでいても直前のことを忘れてしま自分の頭のせいだろうか。それとも、小説は読んでも何の足しにもならないと思っているせいだろうか。そんな理由ではなく、ただ単に読んでいると文字を読んでいると無条件に眠くなるからだろうか。とにかく、私は本を読むということができない。こう言うと、学校教科書とかは読めたのか?と聞かれるが、あれば大丈夫であった。多分、学校教科書の内容は、一行一行理解しようとして読んでいたし、所々に出現する練習問題のおかげで読めていたんだろう。私には小説新書のような本は、一行一行真剣に読むことができない。それは、学校試験のために勉強する切羽詰まった感もないし、小説は注意深く読むには長過ぎるし、注意深く読んでいると細かい表現統一感の無さに苛つく。では小説理解を確かめ問題があったらどうだろうか。さっき一瞬良いと思ったのだが、小説にそういうものがあったとしても自分は読まない。断言できる。新書にあったらどうだろうか。うん、読まない。教科書が読めた理由を考えて、それを小説新書適応したら、自分が読めるようになるかを考えたが、適応したところで読まない。教科書が読めた理由はやっぱり、やらなければならなかったからという気がしてきた。読めない、いや、読まない理由は単純であった、私は怠け者だから自分にそれが必要になるまで拒否していただけだったようだ。

いや、おかしいではないか自分は怠け者なのに、なぜこんな文章大晦日に書いているんだ。この文章を書く必要性なんて全く無い、むしろ、これを書いている時間テレビでも見てコタツで猫と遊んでいる方が、怠け者のあるべき姿ではないのか。怠け者と猫とコタツ。今すぐ手をとめるべきであろう。しかし、書き続けしまう。おお、もしやこれが世に言う承認欲というものを得んとする行為なのか。承認されたいと願う心は、こうも人間を動かすのか。

本当に承認されたいだけで、こんな文章を書いたとは思えなくなってきた。おそらく承認されると人は気分が良くなるのだろう。その気持ちの良さを得たいがために、承認されたいよーと思うんだろう。ここで、推量を使っているのは、自分がまだ承認されることが気持ちが良いということをネットでも現実でも体験をした記憶がないかである現実で認められたことがないんなんて可哀想な人だなと思われるかも知れないが、可哀想なのだ12月31日にこんな文章を書いているんだから現実の方はお察しだろう。ネットの方でも、twitterinstagramアカウントをとってから、一度も投稿をしておらず、好きなユーザー投稿をおっかけることだけに使っている。twitterinstagram自分から投稿しない理由を考えてみるに、自分には人との繋がりが乏しく、どうせ投稿しても誰も見ないだろうという考えを持っているのでは。ということは、見てくれる人がいれば、投稿しそうな気もする。この見て欲しいという欲求承認欲では無い気がする。なぜなら、私は、見てくれるという行為だけでいい。見た結果、何とも思わなくても良い。ただ見てくれただけで嬉しい。コメントなんかで批難とか批評とか反応してくれたら、もっと嬉しい。貶されても良いと思っている、この思いは承認欲求がなすわざなのか分からない。

自分はタダのかまってちゃんなのか。少考し違うと結論。例えばこの文章の総閲覧者数が見えたとして、それが「3人」だったとしても、この文章を書いて良かったと思える。上にも書いたが反応は無くても構わない。その上、おそらくその3人は誰も最後まで読んでいないのだろうと思うが、一部分だけでも目を通してくれたことを嬉しく思う。では閲覧者数が「0人」だったらどうだろうか。かなしい。1人でもいいから、この文章存在たことを認識して欲しい。10秒で記憶の彼方にいっても構わないから。この0人は悲しいというところから、この書くという作業が楽しくて楽しくてやっているわけではないことになる。

ここらで怠け者の本分がでてきて、めんどくさくなってきた。猫と寝ようっと。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん