はてなキーワード: 1956年とは
とか日記に記していて、
だから奥さん(45歳、淫乱)を満足させられないって悩んでるんだけど、
アラ還でこのペースって、そんなに衰えているんだろうか?
発表されたのが1956年で、「売春防止法」の国会審議で、石原御大のデビュー作「太陽の季節」とならんで
「最近の世の中はこんなに風俗が乱れとる」の例として引き合いに出されたっていうから、
相当話題になってたんだと思うけれど、
1956年当時の56歳って、そこそこ「ジジイ」の設定だよね。
波平が「10日に1回ではフネを満足させられん、どうしよう」って悩んでたら、かなり嫌だ。
当時の人たちは、その辺、とくにひっかかることなく、受け止めていたんだろうか?
正直、自分がそのくらいの年になった時には、週一のペースを守れないような気がするのだが、
昨今の56歳は、どうなんだろうか?
1952年2月 日米行政協定の締結のとき高松宮殿下のグループがラスク大統領特使に提出した安全保障構想で「徴兵制を導入」
1954年10月 木村防衛庁長官が「私としては徴兵制度の実施が望ましいと思う」と記者会見で発言。
1956年 竹田五郎 統幕議長 徴兵制をめぐる政府見解を批判。
1970年11月 防衛白書から「憲法上の限界から徴兵制は行えない」という表現を削除。
1980年 日向方斉 関西経済連合会会長が、関西財界セミナーの基調報告で「非常時に備え、徴兵制度の研究も必要だろう」と発言。山田稔ダイキン工業社長は「徴兵制をしいている国では人件費が少なく、GNPに占める防衛費の割合が小さくなっている点は注目すべき」と意見。
1987年 「現代社会」の教科書検定での指示内容に「志願制なので徴兵制の国に比べ人件費がかかる」という改善意見。
1992年10月 森喜朗政調会長、自民党の全国研修会の公演で「若者に国民奉仕隊のような組織に入ってもらい、ボランティア活動を通じて国家のことを考え、ポイントを取った人が大学受験で有利になる仕組みができないか、具体的に検討してみる必要がある」と発言。
1996年12月 衆議院の代表質問で森喜朗代表が「ドイツの国民基本法には徴兵制があり、忌避した場合、一定期間は社会奉仕を義務付けることになっている」「若者が学校教育の中で、ボランティア活動を必ず体験することが必要」と義務化を提言。
1996年12月 建設省国土地理院の幹部職員を対象とするディベート研修で、講師が徴兵制は必要と発言。
1998年5月 三重県鈴鹿市の加藤栄市長が「自衛隊鈴鹿父兄会」の来賓あいさつで「徴兵制度を見直す必要がある」「必要かもしれない」と発言。のちに「青少年非行の歯止めになっていたのではないかという意味」「精神訓練の場、と言えばよかった」と釈明。
1999年9月 鳩山由紀夫幹事長代理が群馬県の立会演説会で「侵略を受けた時は、有事法制や緊急事態法制のなかで基本的人権を守りながら個の権利を公共の役の前にどこまでゆずるかという議論はすべきだ。徴兵制はとらないことを原則としながら、万一足りない時は、緊急事態法制のなかで考えるべきではないか」と発言。
2000年9月 憲法調査会の欧州視察報告書で、ドイツの徴兵の代替役務について、中山太郎会長「社会活動の義務化は、社会保障コストを減らす知恵」と感心。
2002年5月 石破茂防衛庁長官が憲法調査会で「徴兵制は憲法違反だと言ってはばからない人がいるが、そんな議論は世界中どこにもない」と発言。
2002年6月 憲法調査会が札幌市でひらいた地方公聴会で6人の陳述者のうちの会社社長の稲津定俊氏が「国民徴兵制度」を明記した新憲法制定を提案。
2005年3月 衆議院憲法調査会の最終報告書案で国民の義務規定の積極的な意見として、国防の義務と徴兵制を追加すべきものとして挙げる。
2006年10月 教育再生会議の初会合で、国際教養大学学長の中嶋嶺雄氏が「韓国などの学生に聞くと経験を積ませるという意味合いが大きい」と徴兵制を評価。
2007年10月 東国原英夫宮崎県知事が建設業者との座談会で「徴兵制はあってしかるべき」と発言。後に「道徳や倫理規範の欠如が社会のモラルハザードにつながっている気がする。規律を重んじる機関で教育することは重要」と釈明。
炎が出ないのにお湯が沸く?
おねえさんどうしたの?
この水車に水を流すと…
うわぁ。電球が明るくなったぁ!
これが水力発電よね。水の落ちる力を水車と発電機で電気に変える。
そうだね。沸騰しているやかんの口のから出る湯気に水車を近づけても電球がつくよ。
ちょっとやってみるわね。
うわぁ。点いた点いた。
これが火力発電の原理なんだ。石炭や石油やガスを燃やして、お湯を沸かして水車を回す。
水でも火でもないものから電気ができるなんて、おねえさん、よくわからないわ。
いいわよ!
じゃいくよ!
ここは?
紀元前2000年ころのインダス文明の古代都市モヘンジョダロだよ。
どーん。
キャー、すごい光と爆発だ。
どうしたの?
これは、ラーマーヤナという古代インドの書物に書かれていた大気圏内核爆発の瞬間だよ。
ラーマーヤナの雷(いかずち)ともいわれているよ。
今、近づくのは危険だから4000年後のモヘンジョダロにいってみよう。
たいへんだ。たいへんだ。
あの人はだれ?
石がガラスに?!
ちょっと解説しよう。石や岩はとても高い温度になるとガラスのように溶け出すんだ。
でも、石が溶けるには、1000度から1500度の高温になる必要があるんだ。
現代でもこの温度を作り出すには、たくさんの燃料を燃やさなくてはならないのに古代にそんな大きなエネルギーを発生させる技術があったとは考えにくいことなんだ。
そうそう。その疑問を解決する答えは、核です。
モヘンジョダロは核で攻撃を受けたのです。核を使えば、一瞬にして高温を発生させることができる。
石をも融かしてしまうことができるのです。
へー。核の持つエネルギーってすごいのね。
そうなんだ。原子が分裂するときに発生するエネルギーは、とても大きく普通に火が燃えるときと比べて莫大なエネルギーを発生させることができるんだ。モヘンジョダロが核攻撃を受けたことは仮説のひとつなんだけどね。
へー、原子の持つ力ってすごいのね。でも、原子ってどーんと爆発したりして怖いわ。
黒い鉱石の中から新しい元素を見つけたぞ!最近見つかった新しい惑星の天王星(Uranus)にちなんでウランと名づけよう!
そうなんだ。このころは新しい元素を見つけるのが流行っていたんだ。
次行ってみよう。
ここは?
1896年のフランスだよ。あの人は、物理学者のベクレルさんだよ。
これはすごいウランには他からエネルギーを与えられなくても放射線を発生する能力(放射能)があるぞ!大発見だ!
あの女の人はだれ?
ウラン鉱石を手作業で砕いて、不純物を取り除いているところなんだ。
ウランを手で触ったりして危なくないの?
このころは、放射能についてよくわからなかったから、最先端の研究者といえど何の防備もなしに放射性物質を扱っていたんだ。今では考えられないことだね。
1903年にベクレルさんとキュリー夫妻は、放射能発見の業績によりノーベル物理学賞を受賞したんだ。
この世紀の大発見により、光り輝く放射性物質は、人類に幸せをもたらす魔法の物質として一気に研究が進んでいくだ。
ベクレルさんもキュリー婦人も、そのあとによくわからない原因の病気で亡くなってしまっているんだ。
扱い方を誤ると放射性物質は怖いのね。
ここはどこ?
ここはスウェーデン。あの人は、物理学者のシーベルトさんだよ。
放射線は人体に危険なのです。核エネルギーを人類の平和のために使うには放射線の危険性をきちんと理解しないといけません。
シーベルトさんは、放射線が人体に与える影響についての研究で有名なんだ。
研究が進んでいくと役に立つところと危ないところが徐々にわかってきたのね。
どーん。
キャー。また爆弾?
放射性物質は核分裂を起こすと莫大なエネルギーを生み出す。この力を戦争に使おうとする研究がさかんになっていったんだ。
やっぱり、原子力って怖いじゃない。
そうなんだ。太平洋戦争のときに使われたのは、この技術を応用した核爆弾だったんだ。アメリカは、核の力で日本の長崎と広島を一瞬にして消し去ってしまったんだ。
ここは?
あの人はだれ?
あっちの人は、だれ?
あの人は、アインシュタインさんだよ。
えー、あのアインシュタインさん!
でも、ぼくはとんでもないことをしてしまった。
こんな僕だけど、許してください。
ぜんぜん、役に立つ原子力じゃないじゃない。アインシュタインさんでさえ後悔しているわ。
それじゃあ、原子力発電の元になる原子炉をはじめて作った人のところにいってみよう。
一気に爆発せずに核分裂反応を一定にすることに成功したぞ!やったーやったー!
フェルミさんたちは、黒鉛のブロックを積み上げた中にウランを入れ、核分裂連鎖反応を起こすことに成功したんだ。カドミウムから作られた制御棒を使って、出力が一定になるように調整できるようにしたんだ。熱をコントロールできるだけで、電気はできなかったんだ。
でも、すごいじゃない!フェルミさん。
そして、ここは、1953年12月8日、ニューヨークの国連本部だよ。
あの人はだれ?
歴史の何ページかには、確かに『偉大な破壊者』の顔が時おり記録されてはいる。ただし、歴史書全体を見れば、そこには人類の果てしない平和の希求と、人類が神から与えられた創造の能力が示されている。
アメリカは、冷戦下、ソ連との軍拡競争の中で、核ミサイルを中心とした軍事向けの原子力と生活に役立つ発電に使う平和利用の原子力の2本立ての核開発を行っていったんだ。
その方針の下、同盟国の暮らしを豊かにするために原子力の技術を使った発電を広めていったんだ。
そのあと、1956年にイギリスで、1958年にはアメリカで実用化されたんだ。
日本では、1966年に茨城県の東海村で日本初の原子力発電所がスタートしたんだ。
戦争で原爆を落とされた日本国内では、原子力に対して強いアレルギーがあったんだ。
反対運動もすごかった。
原子力は、石油・石炭、電気に続く「第3の火」として平和で豊かな生活に役立つものとして宣伝されたんだ。
新聞では「ついに太陽をとらえた」という原子力の平和利用をアピールする記事も掲載され徐々に原子力への期待が高まっていったんだ。
それが今の日本の発展につながっているんだね。
ちょっと待って、原子力が電気に変わる秘密を教えてもらっていないわ。
おねえさん、ごめんごめん。
原子力発電所では、ウランの核分裂で発生した熱を利用して、お湯を沸かしてタービンと呼ばれる水車のおばけを回しているんだ。
あれれー。やっぱり水車が回って、発電機を回してエネルギーを電気に変えるのね。
でも、原子力のすごいところは、1グラムのウランから、石炭3t、石油2000リットル分の熱を取り出すことができるんだ。
これはとてもすごいことなんだけど、実際は取り出したエネルギーの3割が電気に変わって、残りの7割は廃熱として海に捨てているんだ。ちょっともったいないね。
ただいまっと!
なーんだ。核融合とかプラズマとかすごいことしているのかと思ったら、原子力もお湯を沸かして発電していたのね。ちょっとがっかりしちゃったなぁ。
この夜景は原子力の賜物なのね。やっぱり原子力ってすごいのね。おねえさん、ロマンチックな夜景を見て、原子力を見直しちゃった。
なんとなーくゴールドフィンガーとかロシアより愛をこめてとか一部だけ聞きかじってた程度だったけど、Wikipedia見て鼻血出そうになった。
全部かっこ良すぎる。
イっちゃいそう。マジで。
カジノ・ロワイヤル Casino Royale (1953年)
死ぬのは奴らだ Live and Let Die (1954年)
ダイヤモンドは永遠に Diamonds Are Forever (1956年)
ロシアから愛をこめて From Russia, With Love (1957年) 映画版の邦題は「ロシアより」であるが、小説は「ロシアから」である。
わたしを愛したスパイ The Spy Who Loved Me (1962年)
女王陛下の007 On Her Majesty's Secret Service (1963年)
007は二度死ぬ You Only Live Twice (1964年)
黄金の銃を持つ男 The Man With the Golden Gun (1965年) 映画版の邦題は「黄金銃」であるが、小説は「黄金の銃」である。
バラと拳銃 For Your Eyes Only (1960年) 旧邦題『007号の冒険』
危険 Risico
珍魚ヒルデブラント The Hildebrand Rarity
オクトパシー Octopussy and the Living Daylights (1966年) 旧邦題『007/ベルリン脱出』
オクトパシー Octopussy
これを読んで、なんでアメリカは5000発しか予備がないのか不思議に思ったので調べてみた。喫緊に危機が迫っている韓国軍の予備弾が少ないのはもともと戦闘を想定していなかったというのは納得なんだが、しかし2000発程度しか予備がないとの情報もあり、なぜ各国で予備弾数がこんなにも違うのかというのはやはりわからなかった。
で、いろいろ調べてみたんだが、まずPKOでは兵站は一元管理しているようだ。
http://www.pko.go.jp/pko_j/liaison/liaison13.html
私は、2011(平成23)年9月よりハイチの首都ポルトープランスのデルタ・キャンプにある国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)軍事部門司令部兵站部において「兵站幕僚」として勤務しています。編成は7名、国籍はチリ、ブラジル、アメリカ、ヨルダン、フィリピン、ハイチそして日本とバラエティに富んでいますが、これだけ異なる国が揃うと仕事のやり方もそれぞれ異なることは言うまでもありません。兵站部では、具体的にはCOE(派遣国保有装備品)及びUNOE(国連保有装備品)の定期的な現況調査、使用弾薬の管理、国連車両の管理、派遣部隊に対する任務支援(主に輸送任務)、補給品調達及び生活環境の構築・改善等を行っています。2010年10月よりコレラの流行が問題となり、特に生活環境(汚水処理施設やゴミ処理方法)については適時確認、改善させる等、万全の態勢で臨んでいます。私のこの他の任務としては、MINUSTAHと日本隊との連絡幹部的役割を担ったり、本邦とMINUSTAH関連情報のやり取りを実施しています。
その兵站支援の方式としては平和維持軍に参加する一国が担当する一国支援担当方式、相互依存の原則に基づき複数の参加国が他国分担方式、地域ごとに担当区域を定めて行う分権方式がある。[13]
と思って調べてたらばっちし兵站部のひとの話があった。
http://www.pko.go.jp/pko_j/liaison/liaison22.html
兵站幕僚は、UNMISS軍事部門司令部(Force Headquarters(FHQ))兵站部(J4)に配置されています。FHQは司令官(Force Commander(FC))以下約90名(23カ国)から成る、UNMISSの中で唯一軍人だけで構成される組織で、兵站を所掌するJ4はチーフ(オーストラリア陸軍中佐)、副チーフ(オーストラリア海軍少佐)、部員2名(スウェーデン海軍少佐と私)の計4名で構成されています。
派遣部隊との業務上の関係については、UNMISSに派遣された部隊は全てFCの指揮下にありますが、FCが運用権限を有するのは歩兵大隊(インド軍、ケニア軍、ルワンダ軍、モンゴル軍、ネパール軍)に対してのみで、支援部隊に区分される派遣施設隊の運用権者はFCではなくミッション支援部長(文民)になるため、直接的なつながりはありません。しかしながら同じUNMISSという枠内で活動する自衛官として、日本の現地支援調整所や施設隊とは定期的に情報共有を図っていますし、新規部隊の派遣・展開といった他国部隊の動向に関する情報はFHQに集約されますので、情報収集の観点からも自衛官をFHQに配置している意義はあると考えます。
というわけで、日本・韓国の兵站は独自にやっているもよう。ちなみに兵站はかなり困難な状況のようだ。
http://blog.livedoor.jp/takami_neko_shu0515/archives/67027137.html
さて、それで実際どの程度の武力を持つことができるのかというはなしだが、Wikipediaには
無撃的武力は車両による道路封鎖など、加撃的武力は小火器の使用などが挙げられる。最終的手段としての加撃的武力の行使は自衛戦闘においてのみ認められている。自衛戦闘とは兵士個人または部隊の一部が危険に陥った場合、対立勢力の一方が平和維持軍を撤退させようとして平和維持部隊の安全が危険となる場合、武力で平和維持軍の武装解除を行おうとする場合、平和維持要員を逮捕・誘拐しようとする場合、平和維持軍の資産を武力で侵犯した場合がある[12]。
という記述がありかつ、FCの指揮下にいるので、各部隊には予備弾などのルールもあると思われる。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/dragoner/20131224-00030921/
これでみると日本は330人位(二個中隊?)、韓国は273名(一個中隊)、アメリカはよくわからん。予備弾1万発を330人で分けると一人あたり30発(弾倉1個分)。どれくらい予備弾を保持するのが可能なのかと推測すると一人あたり弾倉2個くらい?予備でないの含めると弾倉3個が一人あたりの分配なのかなという感じ(自衛隊は首都にいてUNMISSも近くにあるので全部渡しちゃったのか?だとすると弾倉2個が持ち分の可能性もある)。とりあえずアメさんが出してきた量からアメさんの人数を想定するとおそらく150人程度(一個中隊)かな。韓国も同じ割合で保持しているとすると、約2万5千発(うち予備約1万6千発)を保持、今回足りないかもで足した分が1万5千発。だいたい予備が二倍になったくらい、かな。
重武装の反乱軍部隊1000名(しかも戦車もいる)のに、小火器で弾倉五個(下手したら四個)というのはかなりつらそう。まぁ三個しかないよりはマシだが。
~~~追記~~~
色々見てたら自衛隊の予備弾薬8万発、韓国の戦闘員は40~50人という情報も出てきた。
たしかに工兵中隊は文民扱い文民指揮下だから、戦闘員40人x弾倉2個(60) = 2400発。だいたい整合性が取れる感じ(追記2万発の間違いくさい。たびたびすみません)。これを非常時ということで工兵にも分配したらそりゃ足りないわ。1.5万発は本当にありがたいだろうね、現場の人的には。そしてそれくらい切羽詰まってるってことでもあるような気も…。しかし自衛隊の予備弾薬多いな。一人あたり弾倉8個分か。兵站が困難なことが予想されてたから予め多めにおいといたのか。
アメリカは戦闘員しかいないので、自衛隊と比べてはいけなかったな。多分一個師団くらいできてるよなぁ…
http://www.mod.go.jp/j/approach/kokusai_heiwa/s_sudan_pko/pdf/gaiyou.pdf
一次ソースを読み直してみたら、武器数はちゃんとかいてあった(自衛隊の)。今回の弾薬提供に関係する武器は89式小銃と5.56mm機関銃MINIMIなので、計302丁。所持弾薬数8万発の話がほんとだとすると、一丁辺り260発。でもたぶん機関銃が100発ずつ確保するとなると、200発弱ぐらいというところか。弾倉7個程度なので平和維持活動をすると考えるとまぁそんなものなのかなぁ…普通どの程度かがわからない。
なお、10月から自衛隊は組織改編して増員(5次要因)している途中で12月末をめどに400人になる予定だったようだ。入れ替えで陸路を通らないといけないということでちょっと多めに予備を持っていたのかもしれませんね。
~~~追記ここまで~~~
しかしこれで反乱軍部隊におそわれて弾薬等を奪われてしまったら危険だなぁ。大丈夫なんだろうか。中立ルールにのっとって大量虐殺を阻止できなかったボスニア・ヘルツェゴヴィナやルワンダのようになってほしくはないが、かといってヒャッハーせんそうだぜぇ!を国連が許すとは思えないし、とっととPKFで介入しろというのが結論の気がする。
なお弾が足りないとか公言したらむしろ危ないだろなどというコメントが散見されるが、地理的に近い+UNMISSが関与しているので、閣議決定された時点で弾薬の受け渡しが開始され、それが済んでから発表されたのでは?というか閣議決定される前から動きはじめていたのでは?という感じだなぁ。現場のことはわからないけど。海外ニュースではちょろっと日本が初めて他の国に武器をあげたよっていう話題は出ているが、それほど大きく取り上げられてはいないので、あちらさんには弾が足りないとかいう情報は殆ど伝わってないだろうし。そもそもガラパゴスな日本語と韓国語の応酬だからなw
余談だが、弾薬提供は逆に戦闘力があると見做されて攻撃を受ける可能性を作る事になりかねない、ってのを見かけてちょっと笑った。いやいやいや…たしかにPKOで武器をできるだけ持たないのは現地民からの反感をかわないためだが、避難民が狙われている状況ではむしろきちんとした装備を持っていることをアピールしないとまずいですよね。
なんか申し訳ない感じなので一応まとめておきます。間違ってたら指摘してください。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_sudan/data.html
もとは1956年に独立したスーダン共和国の一部。二回の内戦と一回の紛争の後、2011年に南スーダン共和国として独立した。
4世紀頃からキリスト教徒が多い国だったが、その後エジプトの支配が強まり、北のほうからイスラム化、途中エジプトが英国領になった影響でそのまま英国領になった。で、19世紀の後半にイスラム教徒が蜂起して乱を起こし、国家を設立。この時に噛んだのが多分フランスで、その後はフランスとイギリスの代理戦争の場となる。
一応その騒ぎは収まって結局イギリス保護下になったんだが、北側は独立の意思が強く、南北で分断して統治をすることになった。これが今も南北で仲が悪い遠因らしい。北は独立するために自治政府をつくり、第一次内戦をへて56年に独立、以後イスラム系が強い国になる。
が、石油が南部で発見されてしまったため、北部の人たちが無理やり地域区分を変えて利権獲得に奔走したり、イスラム原理主義に走ったので、これに南側の非イスラム系が反発してまたもや内戦勃発。この後はウガンダとかエチオピアとかマリあたりもごたごたしてぐっちゃぐちゃしてるのでようわからんが、とりあえず最終的には2003年にイスラム系と非イスラム系の間で紛争がおこり、暫定政府を作ってようやく集結……かとおもいきやナンバー2が事故死してカオスになったりしつつも、2011年にようやく南スーダンが独立することに住民投票で決定した。
ほとんどはイスラム系と非イスラム系の戦いではあるが、一部部族間抗争だったり、二回目の紛争の遠因になった油田をどっちの国にいれるかでもめてたりなどするので、単純な宗教対立ではない。南側は地下資源が豊富だというのもキーポイントのようだ。どこの国でも同じですね。
で、このスーダンと南スーダンは近年落ち着いてるかって言うと、全然そんなことはなくて、未だに国境ラインでもめている。
スーダンは内戦と紛争で荒廃しきっているので、とりあえずインフラ敷設とかやろうというわけでPKO派遣が決まった。決まったと言っても未だごたついている地域なのでそれでいいのか、なんだがまぁやっちまったもんはしょうがない。日本がスーダンへの派遣をきめたのは2008年の福田首相の時、実際に派遣が始まったのは2011年7月からなので菅首相のとき。現場はあんまり乗り気でないムード(要出典)だったみたい。
http://blog.livedoor.jp/takami_neko_shu0515/archives/67027137.html
南スーダンPKOへの自衛隊派遣における最大の障害は、兵站上の困難さである。自衛隊の要員や物資は、ケニアのモンバサ港から陸揚げされるが、自衛隊が活動拠点とすることを予定しているジュバは、そこから1900キロの、いわば陸の孤島である。陸上輸送ではジュバまで1カ月以上かかり、空輸であれば、大型輸送機がジュバの空港に着陸できないため、隣のウガンダで中型機に積み替える必要があるという。そして、自衛隊の南スーダンにおける活動は少なくとも5年は継続される。このような長距離輸送は、今までに経験したことがないと、自衛隊幹部は指摘している。政府は、ジュバ周辺の安全性ばかり議論しているが、真の困難は兵站にある。(図参照) ジュバ周辺の治安に不安があるという理由で武器使用基準を見直すなどというのは、後付けかつ極めて的外れである。
政治が、自衛隊派遣の政治的目的を明示し、それにかかる軍事的コストを自衛隊側ときちんと擦り合わせるというプロセスが、全く十分であったように見えない点が大問題である。本来、それこそがシビリアン・コントロールの重要な機能である。
このように兵站が大変ということは最初から自衛隊幹部は指摘していた。実際現地からの声にあるとおり、雨季は道がつかえずかなり苦労している模様。竣工式などは和やかにおこなわれているみたいなので、ここ数日で急激に情勢が変化したんだろうなぁ。
韓国軍がいたのはボルという街で、ネパール軍とインド軍がその警護にあたっていた。インド軍は医療部隊も持っていたけど、韓国軍は工兵中隊なのでPKOでは文民。
日本がいるのは首都のジュバで、ルワンダの部隊に警護をしてもらっている。ボルからは真南に15km150km(桁間違えましたすみません。高速道路でいけるらしいです)だそうだ。日本がやってるのは道路の整備とかコンテナ住居の設置とか。
で、今月15日に反政府軍がクーデターを企図、一応未遂にはなってるみたいだが、火花が散れば燃える国なので戦闘が継続している。なんでか特定民族の殺戮も行われていると言う話だが、これはどこまでほんとかは微妙。
http://www.afpbb.com/articles/-/3005548/12849717
戦闘は、サルバ・キール(Salva Kiir)大統領を支持する政府軍の部隊と、7月に解任されたリヤク・マシャール(Riek Machar)前副大統領を支持する部隊との間で行われている。
キール大統領は、マシャール前副大統領がクーデターを企図したと発表したが、一方の同前副大統領は、同国部隊同士の対立を利用してキール大統領が粛清を行ったと主張している。
大量殺人から逃げ出したとする証言者2人は、自分たちがマシャール前副大統領と同じヌエル民族であるために狙われたと話している。一方の殺害行為を行っている兵士らはキール大統領と同じ多数派民族のディンカ人だという。
ボルのそばでもこの戦闘が行われており、インド兵が死亡するほどだった。しかも睨み合っていた政府軍がとつぜん反政府軍に寝返り、ヌエル族の殲滅にうごいているようだ。それでインドとネパールはやや退却したんだけど、施設に避難民がきている韓国軍は撤退するにできずとどまっている。難民の数は1万~8万との情報があり、ここに反政府軍が雪崩れ込むと大変に危険。今朝の時点ではまだ接触はない、みたいな感じだったが、夕方には迫撃砲が基地のそばに着弾したとのことでなんとなく時間の問題な感じがする。
ちなみに反政府軍が狙っているのは避難民なので、韓国軍はがんばればたぶん撤退できないことはない。撤退したらスレブレニツァコースだが。
で、工兵隊の韓国軍は弾数足りない!誰か送って!となったわけですね。
本来ならインド・ネパールが蹴散らしてくれるはずだったので、装備にそれほど気合入れてなかったのかな。どの程度の武器を所持しているのか調べきれていないのだが、相当の備えをしていても厳しい局面であるとは思う。というかよく避難民残して退却するという選択肢をえらばなかったなというくらいの状況だ。武力行使が起こる前に補給が間に合うか、PKFで介入するほかないのではないかと思われる。
現地の状況(英語多し):http://matome.naver.jp/odai/2138774124472690501
なんかー…
TBとかTBのTBとか一部ブコメとか、なんで韓国と日本のことばっかり言ってるのかわからない。今現在起ころうとしてる民族浄化がどうにかできないかって思わないのかなぁ。なぞだ…
何ごともなく自体が収束すれば、それでよいじゃないですか。なにごとかがもし起こってしまったとしても、それは当事者国の問題でしょう。犠牲者が出たことを悼みはするけど、こちらはせっせと働いて人道的支援のための金を捻出するくらいしかできることはないし、それだけでいいんだと思う。現場の人には無事でいて欲しいし、全部終わったあとに第三国の人間がなにをいおうとどうでもいいよ。
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
昨年度おおくの反対意見を押しきって強行された全国一斉学力テストが、はたしていかなる結果を生じたかを検討する慎重さを持つことなく、文部省は今年七月ふたたびテストをおこなう準備をすすめている。それは全教育の体系を国家権力に従属させようとする意図がますますあらわになって来たことである。
私たち日本文学協会は、前回の場合にも、教育の問題は一行政的見地から取り上げられるべきではなく、教師をはじめとする自由で民主的な国民的教育の場において推進されなければならぬことを主張して来た。
いったい学力とは何か、いかに伸ばされるべきかということは、子どもたちの自主的な判断力・活動力と、全国民の未来への望みの上に具体化されるはずのものである。一片の答案を、それも機械的にあらかじめ思考の範疇を限定した回答を選択するといった、受動的・偶然的そして知識偏重の結果のみを拠りどころとする学力の判定は、いかに子どもの未来をあやまるものであるかは明らかであろう。
私たちは日々の教室の現場で、教師の主体的な活動力が働くとき、子どもたちは生き生きと学力を伸ばすことを身をもって知っている。この方向こそが学力向上の唯一の進路である。
だから学力の問題は、学者・実践者がその総意をもって築き上げ、慎重に進められるべきものである。しかるにふたたび学力テストを強行しようとするのは、こうした国民の真の要求をいささかも取り入れず、行政権力を教育内容にまで介入させようとすることにほかならない。
私たちの態度はおのずと明らかである。今回の学力テストに反対し、その撤回に向かって働きかけ、もって未来の教育をその基盤から築いていこうとするものである。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080406-00000016-rcdc-ent
以下、コピペ。
■その1
1956年 メルボルン五輪 選手団が現地に到着後にボイコット(理由は台湾問題)
1964年 東京五輪 ボイコット(理由は台湾問題)■■開会式当日に合わせて核実験強行■■
1976年 モントリオール五輪 ボイコット(理由は台湾問題)
■その2
彼らこそが本物のスターだよ
日本の自称スター達の様子を見てると飽きれるね
普段は狂ったようにラブ&ピース(笑)を謳う
声明を出さないんですか?
そりゃあそうだよな?所詮偽善者の謳うラブ&ピース(笑)なんて
売り上げのための宣伝売名活動にすぎないもんな?
お前らが活動するときは事が終わって完全に安全になってから
お前らには心の底から失望した
抗議した人達こそが真のスターだよ