はてなキーワード: 自由主義とは
そもそも日本においてなぜ共産主義や社会主義が保守派の目の敵にされたかといえば、それらの思想が天皇を頂点とする国家観を脅かすものとして見なされたからなわけで。その意味でアメリカにおける資本主義と共産主義、自由主義と社会主義のような構図から出てきた反共と日本のそれは全く違う。
なので、アメリカの保守派が文一族を頂点とした疑似家族的共同体の中に全人類を包括することを目的とする統一教会と、反共を基点に結託することはまだ理屈が通る。
しかし、日本民族のアイデンティティとして皇室の尊重を掲げる日本の保守派が統一教会と結託することは、本来であれば彼らが反共という態度を採っている理由ゆえに容認されえないはず。
したがって、自民党にはそもそも反共とか保守とかいうイデオロギーは存在せず、ただ金と権力の維持にしか興味がなくそのためにはカルトとも結託する極めて俗物的な政党と考えたほうが理屈が通る。
0か100かの極端な議論をするのはよくないですよ。
自由主義の立場で1を主張しているなら、将来的には100を見据えていることも表明すべきでは?その立場で「選択的なんだから大丈夫ですよ(姓の意義は残りますよ)」って主張をするのは、現状維持派の人を騙してますよね。
0か100かの極端な議論をするのはよくないですよ。
https://anond.hatelabo.jp/20220823232252
そもそも姓って血統や家系を示す記号なわけであって、親や本人の意思で自由に決められないものなわけですよ(少なくとも国際婚を除けば同姓にはしなければならない)。別の言い方をすれば、本人の意思で自由に決めるのであれば、それは「姓」である必要がなくて、ただの名前の上半分ですよね。「姓」ってのは不自由なこと(同姓であるという制限)自体に意味がある概念なんで、好きな姓を選べるようにした時点で姓じゃなくなるんよ。
ここに強烈な違和感があって、「姓を選ぶ自由をくれ」って主張は、奴隷が「好きな鎖を選ぶ自由をくれ」って言っているのに近い。いやいや自由が欲しいなら主張のしどころが違うやろと。鎖を外してくれ(姓をやめましょう、あるいは、結婚制度をやめましょう)ってなるのが正しいでしょうと。
選択的別姓をテコに姓を無意味化して、将来的に鎖を無くしていくことを見据えた主張なんだ、ってなら筋は通ってますが、どうもそうじゃなさそうで。「自分の姓に思い入れもあるし、自分の親と同じ姓を結婚後も名乗れたらいいよね」、って感覚で素朴に主張してる人がはてなでも結構多そうに見える。そうなると、今度は子世代との不平等がでてくるよね。
「子供のころから家の記号として名乗ってきた姓には価値がある」って前提でいくと、別姓を選んだ世帯の子からすれば、親のそれよりも、「姓」の価値が毀損されてることになるわけですよね。随分と親に都合のいい制度になるよねそれ。次世代に負担を押し付けている構造とも言える。
「子供のころから名乗ってきた、思い入れのある姓を結婚後に変えなければならないのは辛いので、別姓が選べるべきだ」
→あなたの子供には「思い入れのある姓」が遺せませんが、世代間不平等ではありませんか?
追記20220826
それな。後出しですまんけど、「そもそも姓って血統や家系を示す記号なわけであって、親や本人の意思で自由に決められないものなわけですよ(少なくとも国際婚を除けば同姓にはしなければならない)。~「姓」ってのは不自由なこと(同姓であるという制限)自体に意味がある概念なんで、」に訂正するわ。括弧内が追記ね。でも論旨には影響無いで。選択的同姓でも家系を示す記号としての意義は損なわれないからね。
なので「選択的夫婦同姓」が仮に主張された(まあ制度上は現時点でそうなんだけど)とすれば、それは筋が通ってると思うし賛同するよ。姓の意義を毀損しないで、姓をよこせって主張だからね。選択的夫婦別姓は姓の意義を毀損しながら、姓をよこせって言ってるのが矛盾してない?って言いたいわけだから。同じ理由で、入籍時の創姓や廃姓の主張も妥当だと思うよ。家系記号としての姓の価値を認めないという点で一貫してるから。
国際婚はどうなんじゃいって話も出てるけど、文化が違う両者をすり合わせるための調整措置であって、姓の記号としての意義が(少なくとも日本国内においては)同姓制限に依拠しているという主張には影響しないと思う。問題視してるのは日本国内における世代間不平等だから、海外がどうってのは論旨には影響しないかな。でも海外で同姓から別姓に移行した国がもしあるなら前例としては反論・参考になると思う。知ってたら教えてください。
あと大前提として男女の不平等よりも、親子の(世代の)不平等のほうがより重篤だと思ってます。子には責任ないからね。男女平等目指したいのは同意するけど、子に負担押し付けちゃだめでしょ。
「親の家の姓を名乗りたい」っていう現代のあなたの気持ちがあると思うんだけど、仮に、あなたの実家が夫婦別姓だったとしたときに、まったく同じように「親の家の姓を名乗りたい」と思うかどうか、という話なのよ。まったく同じではないなら(少なくとも僕はそうだけど)、それは親であるあなたが得して子が損する構図で不公平なんだよ。そもそも男女の話ではなくて、親子の話。
(選択制だって言ってるだろ!系のトラバもついてるので書くけど)さらに言えば、この不平等は夫婦別姓を選ぶ世帯が一定数発生するだけで(仮にある子の両親が同姓だったとしても)発生する話だと思う。姓は世帯で単一のものである、という考え方が社会からなくなるわけだから、多かれ少なかれ、「姓とかよくわからんからどうでもいいよね」って発想に子世代は寄っていくはずだ。もし、それでもいいじゃん、と思うなら、現世代の我々が先に姓を捨てるべきじゃないですか?という話。だってどうでもいいんでしょう?
一部とは言ったけど、はてなでは大半と言っても良いかもしれない。
夫婦別姓関係のブコメとか見てるとだいたい上位コメは「保守ガー」「家父長制ガー」みたいなコメで埋まっているけど、こういう風にまともな議論を避け、自分と意見の異なる相手に対して何か「時代錯誤で邪悪な存在」というレッテルを貼ることで主張をキャンセルしようとする姿は心底醜悪で邪悪に見えるわ。
最近は、統一教会の話題を引っ張って「壺ガー」とか盛り上がっていて、本当に目に余る。
この前の自民の意向が現れた設問内容で問題になった世論調査は論外にしても、夫婦別姓の賛成者はだいたい六割いくかいかないか、かなり賛同者多めの調査結果でも7割、逆に低めだと4割くらいだよ。
そんな中でじゃあすぐに保守がどうとか言い出す人達は、残り4割程度の人々は皆、自民党保守派のような旧態依然とした価値観や思想を持ち、あるいは何かよからぬ宗教と繋がっているかもしれないと本気で思っているの?
子供の苗字問題とか夫婦別姓のデメリットなんてググれば即座に出てくるレベルだが、それらを重視して反対している人々は「異様な家族観を押し付けてくるクズ共」と扱って良いって風に考えているの?
適当に今のはてブの人気記事にあった夫婦別姓関係の記事の上位コメから引っ張ってきたけど
統一教会問題がこれだけ騒ぎになったので、夫婦別姓などのリベラルな制度を進めやすい環境になったといえるのでは。ヘタに反対すると統一教会関係者と思われそうだし
統一教会騒動を利用して夫婦別姓反対派の口を塞ぐことができるじゃん! と堂々と言っているわけだ。
(一応、俺個人の立場を明示しておくと、そもそも別姓・同姓どちらもメリット・デメリットあって必ずどちらかだけが正しいと言えるモノでもないし、賛成者が多いなら政府はそれに合わせるべきなんじゃない? くらいには思っている。ただ俺個人として別姓制度は嫌だなと思っているし、少数派だからって反対の声をあげることは悪いことだとは思っていない)
※追記
はてブの方を見ていたら、昨夜書いた自分の増田が人気記事に出ていて驚いた。
ただ、それよりも驚いたのは
そんな中でじゃあすぐに保守がどうとか言い出す人達は、残り4割程度の人々は皆、自民党保守派のような旧態依然とした価値観や思想を持ち、あるいは何かよからぬ宗教と繋がっているかもしれないと本気で思っているの?
子供の苗字問題とか夫婦別姓のデメリットなんてググれば即座に出てくるレベルだが、それらを重視して反対している人々は「異様な家族観を押し付けてくるクズ共」と扱って良いって風に考えているの?
という俺の問いに対して、直接言葉にしなくても「そうだよ、世の中には少なくない数の夫婦別姓反対論者がいるけど、そいつらは皆、歪な価値観を持つクズ共だよ」と堂々と肯定するようなコメを残している人が少なくない数いて、なんかもう自分とは感覚が違い過ぎてビビったわ。
うんまあ、そこまで真っ向から言われると「それはもう認識の違いだよね」以上のことは言えないや。
俺は全く賛同しないし、一般的な価値観を持ったフツーの夫婦別姓反対論者はいくらでもいると思うけど。
あと、今回の俺の言いたかったことは『夫婦別姓の賛否』より『議論に対する誠実性』の話なので、その観点でブコメに対して気になった点で
inmysoul 選択制って言ってるんだから好きにすりゃいいんだよ。何で「俺が反対だから全国民同姓にしろ」って思うのかが謎なだけ。君は同姓にできるんだよ。
この手の「選択制だから良いだろ」って意見は間違ってはいないけど、手放しに賛同して良い意見ではないと思う。
「貴方に強制するわけではないんだから良いだろう」という理屈を肯定するならば、ブコメにもあるがまず近いところで当然、重婚はアリになるだろう。
(近親婚もという意見もあったが子供の遺伝的リスクを考えると、これは生まれてくる子供の権利の問題になってくるので、ちょっと違う話題に思う)
名前の自己決定権の話なら、変更の自由とか使用文字の自由も国に制限されず、「その名前を使うのは貴方ではなく私なんだから黙っていろ」が成立し得るか?
あるいは、自己決定権を国に侵されるべきではないという考えをより広範な社会分野に当てはめれば、例えば、「俺は障害になったら野垂れ死ぬから、私の社会保障費を障碍者福祉に使わせない」みたいな自己決定の尊重も十分、延長線上として考えられるようになってくると思う。
まあ、程度による線引きもあるし一足飛びにそこまでいかなくても良いかもしれないが、ただそれでも「選択制だから良いだろ」という考えはあらゆる社会分野に関してかなり覚悟のいるラディカルな自由主義方向に舵を切る思想だということの自覚は必要になる主張だよ。
そういう覚悟が決まってる人が「選択制だから良いだろ」って主張するのは(賛否は別として)主張としては完全に正当だと思うけどさ。
ただ、とてもそんな覚悟があるようには見えず、夫婦別姓反対論者の反論をかわすためだけに軽々しく「選択制だから良いだろ」って言うのは、議論における主張としてはどう考えても不誠実だよ。
そして、ブコメにはそうとしか見えない人がたくさんいた(中には本物の覚悟ある自由主義者も見受けられたが)。
社会制度というマクロ目線での影響などについても考慮した上で、やはり夫婦別姓で問題ないという主張するなら全然問題ないんだが、選択制の三文字でゴリ押すのは(覚悟ある自由主義者でない限りは)馬鹿か卑怯者のやり方。
そもそも消極的自由主義(縛りや邪魔がない)積極的自由主義(自分の意志で好き勝手にできる)とがあるので。
消極的自由主義だと、政府無しで権力がある金持ちが強い社会になるんだよ。失敗社会。
自由主義といった場合どちらの自由主義かをまず考えないとならない。また積極的自由主義は人と人との権利の調整の重ねゆえに実現できるもの。税制や財政や金融含めてな。
自由主義は、政治やその舵取りをする国家と相性が悪いとされている。
何らかの対立が極度に達すると政治的闘争に発展し、それには物理的闘争(暴力)の可能性を内包しているからだ。
そして国家には、その闘争を正当化し、命じることができる交戦権がある。
暴力は、自由による競争や個人の財産を侵害するため、自由主義者としては回避したい。
だから自由主義者は、政治や国家に対して自由の妨げになるようなものは扱わないでほしいと思っている。
また、特定の思想や宗教などに肩入れすると自由にも偏りができるため、それも批判の対象によくしている。
だが、政治的対立から逃れながら社会を維持し続けるなんて無理がないだろうか。
経済的だったり、倫理的だったり、個人的だったり、つまり「政治的ではない何らかの領域」に押し込める。
これで政治的な問題に言及されても、「これはそーいう問題ではなく、こーいう問題だ」というロジックで回避できるわけだ。
はてブのコメントでも、似たようなロジックを使う人はちょくちょく見かけるから、何となく分かる。
ただ物事ってのは往々にして多側面的であるため、都合の悪い指摘を回避するために多用しすぎると詭弁になりやすい。
シュミットとかも「政治的なものを回避するために、結局は闘争に加担していないか」といった様なことを指摘している。
(まあシュミットが嫌っているのは自由主義そのものではなく、政治的闘争に加担していながら政治を否定する姿勢のほうらしいけど)
時期を失ってしまったが、来年以降も続くことだし、書いておこうと思う。
某大手スーパーの惣菜売場勤め。今年も土用丑の日はうな重などを売る。たくさん予約をとり、たくさん製造し、たくさん値引きをし、そこそこ廃棄した。
夏の土用の丑の日に「う」のつくものを食べると無病息災なんていうのは単なる迷信に過ぎないし、分かった上でそれに乗るとしてもわざわざ絶滅が危惧されるものを喰う必要はない。うどん、梅干し、ういろうと「う」のつくものはいくらでもある。夏バテ防止の栄養がというのも、さまざま代替はあるわけだ。
土用丑の日にうなぎを食べるというのがいつ始まったのか知らないが(源内関係ないんだってね。すっかり騙されていた)、コンビニやスーパーなんかでガンガン宣伝して大量に売るようになったのはここ10年20年みたいな話を聞く。この自由主義経済社会においてもともと存在しなかった需要を掘り起こしたのは偉いことだけれども、結果として絶滅するまで喰い尽くしてしまうおそれがでてきたのは残念なことだ。しかし、いったん掘り当ててしまった金脈をみすみす捨て去るのは難しい。
とはいえ、それでもこれは客が自主的に買ってるものだ。店側の宣伝に煽られ乗せられなので必ずしも自主的とはいえないという見方もできるけど、自分で選んで購入しているというのは事実。一方で、押し売りとでも言うべき半強制の販売・購入が店内で行われている。これは主体性のかなり低いものだ。
スーパーやコンビニでは、土用うなぎに限らずクリスマスのチキンやケーキ、節分の恵方巻など、季節もので大々的に売り出す商品は予約販売をしている。予約期間になると担当部門の若手が店内をまわり従業員から予約をとって回る。もちろん強制ではない。断ろうと思えば断れるわけだけど、断れねえよ、こんなん。みんな買ってるしお互い様だし。というわけでクリスマスにはケーキを食べるし、母の日に花を贈り、父の日は肉を買うことになってる。青果のは果物をギフトに使い、鮮魚からは別にうなぎを予約した。こういうの惣菜が1番多いからね。土用丑のうな重、クリスマスチキン、おせち、恵方巻。買ってもらうには方々にいい顔しなくっちゃならない。もちろん自分でも予約する。目標は去年の数字超え。
製造業でも自社商品を購入したりするっていうし、なんだかんだ新人の店内コミュニケーションになったりするし、こういうの必ずしも悪いだけの制度ではないとは思う。正直やめて欲しいけど、仕方ないのかなとあきらめの気持ち。
ただ、うなぎはやめようよ。絶滅しそうなんだし。土用丑の日はうなぎを食べようという宣伝で強引に需要を掘り起こしてるのでもかなり問題だと思うが、事実上強制的に購入させ、たいして喰いたくもないのに無理に消費させているという、さらに無茶苦茶なことが行われているというのはさすがに酷い。せめてこの押し売りだけはなんとかならんかなあと思う。ほかの商品はともかく、せめてうなぎだけは。
反共産主義だけを掲げる連中も現代ではいらないな。反共産主義で自由主義/新自由主義になっても停滞を招く。食い物にできる餌がいないかいないかとピエロ共が蠢く社会。
対消滅すべきだな。
「あれもこれも宗教だから統一教会だけでなくあいつもたたけ!」にみえるな。
共産主義ことマルクス主義と、ケインズ主義はその前の自由主義の中で生まれた。自由主義は一度経済停滞を迎えると企業が設備研究投資をしなくなりため込むことにより、格差が拡大し貧困者が増大する。
そこでマルクスとケインズが解を出した。ケインズは雇用と金利、貨幣流動を重視した。資本主義と言われた国もケインズ主義を採用して、累進課税や労働力不足により賃金上昇と格差縮小がなせた。
スタグフレーションという単純なインフレなら金利上げというのが通じない局面があって新自由主義に乗っ取られた。しかし、新自由主義を採用して失われた30年を作っている。スタグフレーションには、足りない供給を狙っての増産が必要だ。
一方マルクスも格差拡大を問題にしたが、暴力しか解がないと思ったから暴力を使っただけのこと。自由主義の問題に対する解がない時代故の解だが、昔なりの解ではあった。
統一教会や国際勝共連合は反共産主義を掲げたが、「ではどんな解がよいか!」は勝共連合たちは持っていない。共産主義を叩けば良い社会になると思ったが今の失われた三十年だ。
今回の事件の元凶は自民党と統一教会が繋がっていたことと、同時に弱みに付け込まれて破産して家族を守れないほど実体のないものに金を注ぎ込んでしまった事例である。そもそも日本には信仰の自由がある。現金を巻き上げるカルト宗教を取り締まれと言っても「お布施は個人の責任、個人の意思で支払ったのだから合法」と言えばどうしようもないし、支払った本人が満足しているなら金の使い道を外野がどうこう言うことはできない(という理屈ははてな民が大好きな理屈だ)。たとえそれが洗脳によるものだとしても、洗脳であることを100%証明することはとても難しいし、洗脳だったと本人が認めることがかなり残酷でもある。
実体のないものに多額の金銭の支払いを求めること自体を違法化するなら、次はソシャゲのガチャが規制される。骨董品なんかも原価から程遠い額のものは規制されて、有名なアンティークだとしてもその価値も数値化できないので宗教と同様になる。骨董品はガラクタとなり、コレクターは拝金者として嘲笑される。おもちゃ博物館なんかも「そんなもの取っておいて維持費ばかり大変」と次々取り壊しにあう。
推し活と行って給料全部を推しに注ぎ込む行為もグレーゾーンになり、商業的にグッズもなかなか作れない状況になる。ファンの行為も宗教的と見なされて跡部景吾生誕祭なんかは完全にカルトの領域として「国家転覆を企む隠れ蓑になっていないか」と公安から監視され、薄い本やネットの夢小説まで検閲が入ることになる。
もちろんアイドル業界も大打撃を受ける。総選挙や握手券などで無駄にCDを買わせるなど言語道断。ファングッズなども原価での販売を強いられ、集客が出来ないということで歌やダンスというパフォーマンスはどんどん先細っていく。人々を扇動するという理由で反体制的なロックやラップは規制され、歌手は国家を讃える歌しか歌えなくなる。それすらも気持ち悪いというクレームが相次ぎ、歌を発表する人もいなくなる。
同様にかわいい動物や漫画ゲームのキャラクターも次々と自主規制が始まる。「信仰の対象」を捨てることがブームになり、本やグッズの大量廃棄が相次ぐ。ペットショップは閉鎖され、里親を探しても「かわいいからという理由で動物を飼育することは宗教に該当しかねない」と世話を拒否する人が続出し、社会問題になる。結果野良ペットが街に溢れることになる。
単純な趣味すら宗教と見なされ、車やバイク、登山やアウトドアなどの趣味は白い目で見られるようになる。「弱者を優先させずに個人の快楽に興じた」という風潮になるので、レジャー施設は軒並み閉鎖されてそこで動いていた金は障害者福祉へ回される。「自分の好きなことより弱者へ金を回そう」が合言葉になり、「施し」がブームになる。
これにより「弱者集団」が台頭し、事故で障害を負った者が「弱者集団」を形成して施しを受け取ることが奨励される。公安も「施し」なら良いと目こぼしをするようになる。
人々は労働に明け暮れ、趣味を持つものは宗教的と見なされ公安にマークされるようになる。レジャー産業や広告業界、芸能界は廃れて悪の拝金主義者と見なされる。テレビも公安の検閲が入り、ネットではファンサイトは死滅する。動画配信など以ての外だ。男女の出会いの場も減り、婚活業界が盛んになる。
やがて「施し」に過度な金銭の動きが見られるようになる。「うちの子はこんなにかわいそうなんです!お金を恵んでください!」「こっちは難病で死にそうです!かわいそうでしょう!」「余命宣告された母に美味しいものを食べさせてやりたい!母は牛丼という庶民的なものをよく食べます!」「キモくて金がないオッサンだから配偶者を恵んでください」「理解のある彼くん募集中」など金銭に留まらず様々なものが「弱者」という名目で巻き上げられるようになる。「弱者」の中でもアピールできる層とそうでない層で分かれ、「お前はまだ弱者アピールできないんだから恵め」と言われる。
次第に「弱者」は働かなくても生きていけるようになる。親は子供を弱者にしようとわざと事故を装い障害者にすることが流行し、エリート弱者になることが推奨される。どれだけ馬鹿でどれだけ弱いかが大事になるのだ。勉強なぞ以ての外。勉強なんかしたら「施し」がもらえないんですからねと甘やかされた子供が増える。ちなみに子供は無条件で弱者になるので一世帯50万円が毎月支給されるようになるので子供の数は増えた。
そんな中老人は「目先の欲のためにそんな弱者になることばかり考えていると痛い目に会うぞ、自分の好きなことをして生きろ」「こんな世の中は間違っている、実力行使しかない」と警告をするが、「国家に仇なす自由主義の手先」と公安にマークされて投獄され、山奥の作業所で監視されながら考えを強制される。「万歳!弱者優先の国家万歳!私たちの考えは間違っていた!自由など愚か者の考えだ!我々は弱者のために奉公しているにすぎない!この壺を原価で売って奉仕をするのだ!」