はてなキーワード: 法則とは
1、2はドラマ設定上複合している事が多い。
死亡すると即ゾンビになったり、ドラマ展開都合で、後半はゾンビになるまでの時間がやたら早かったりと
1、2と複合しているというかあいまいな事が多いけど、
死亡を挟まず即転移しているのが違い。
この場合、大幅に喰われまくって死亡したら普通に死ぬだけでゾンビにならないのでは??
→寡聞にしてウォーキングデッドでしか知らないけど、多分大気中にゾンビ因子が浮遊している的なやつ。
意外と珍しい?
映画のラスト近くだとゾンビがウワーって大量にゾンビ達にたかられるわけだけど、
ああなると細切れになっちゃってゾンビにならずに食べられたまま終わるのかなってなるけど、
案外体残ってる状態で後でゾンビとして出てきたりするのにモヤモヤする。
どこの時点まで相手を食べるのだろうか。
「あっ、そろそろ不味くなってたわ、やーめよっと」ってなるのだろうか。
平和を愛する諸国民の公正さにおいて我々(日本人民)は名誉ある地位を得たいと思う
だっけ
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
どりゃ!って書き殴った増田に1ブクマが着くじゃん、やったー!ってほくそ笑んでると、あれ?急激にブクマが増えてくぞ!?新着にのった!?で、アレヨアレヨって間にホットエントリー!3桁ブクマきたーーー!!んんくーー、承認欲求ーーーギュンギュン。こうなりゃ4桁狙うでしょ!!追記してターボをかけたる!
これって、追記でエントリーにあった初期リピドーな勢いがなくなっちゃうからなんだよね。あと、追記前と後じゃコメントの意味合いも変わってくるから、コメントの流れも変わってくから。
読み返して、例え誤字や矛盾を見つけたとしても、煽りコメントに答えたくなってもぐっと我慢。
これが一番だと思うんよ。
知らんけど。
自分の卑小な欲のために被写体や周りの迷惑も顧みず、場合によってはルールを守ってる仲間を巻き込んで、理解されにくい趣味に突っ走ってたら、そうなる。
喫煙者だってゴミとか健康とかでイメージが悪くなり始めたあたりから、携帯灰皿持ち歩きとか分煙とか、それこそJTが後押しするように広報してきた。それでもイメージ改善とまではできてない。
ようやく、喫煙者の言い分も認められ、喫煙所で吸うなら良いんじゃない? くらいの意見を言ってもらえるようになってきた程度だよ。
撮り鉄など、鉄道会社から敵視されてるのに、その他の人から理解してもらえるようになるわけがない。
信頼を構築するのは何年もかかり、壊すのは一瞬っていうのに、信頼されるような行動が全く見られないのだから、「撮り鉄=迷惑者」の法則はこの先改められることはないよ。
早晩、カメラの取説に「軌道敷地内などでの無許可撮影はやめましょう」などと書かれ、駅のベスト撮影ポジションは全て封鎖され、無断で立ち入られたり草木を無断伐採されたりした土地の所有者からは姿を見られる度に警察を呼ばれるようになるから。
https://togetter.com/li/1103527
別のまとめだけど、ここでは以下のように説明されているみたい。引用すると、
みちかは「下がり眉毛で頬を紅潮させ、体をくねらせ、物理法則に反するレベルで衣服が密着している」けど
レーティッシュ鉄道の方は「はつらつとした表情でぴしっと敬礼をし、体のラインが見えないルーズな制服」
だかららしい。その理由が「公共」だからってのはちょっとよくわからないけど、まあ一理あるのかも。
でも、その後のツイートでも「レーティッシュ鉄道のほうがむしろ興奮する」って声が、政治家からも上がっているように、
だからといってレーティッシュ鉄道ならいいってことに果たしてなるのかは疑問だと思う。
そもそもみちかは「大人の女性」でレーティッシュ鉄道のほうは「ロリ」なんだよ。
まなざし村に限らないが、「ロリにピシッと敬礼させる」ってのはある意味オタクの征服欲を示していてけしからんみたいに言う人が出てきそうじゃないのか?
特に「海外の標準」を持ち出すなら、20代30代の大人の日本女性でも、今回の萌えキャラのような貧乳だと実年齢無視でロリと扱う場合もあるし。
むしろみちかのほうが「ロリではない」を強調しててその点はマシなのでは?
そもそもみちかが「エロに分類」されるからけしからんって言ってる人が多いわけだけど
レーティッシュ鉄道のだって、まいてつのに近いって指摘があるのにそれはエロに分類されないってのはどういう理論なのか。
物理法則的に不自然かどうかっていう話、たしかにみちかは不自然だ。
静かなファイターが孤独に飯食ってるのがギャップとして面白いのに
弱きサラリーマンが孤独に飯食ってたら寂しいばっかりじゃん、面白いけど
本当は強いし確固たる信念持ってるオッサンが心中で失敗したとか思いながら飯食ってるのが面白いんであって
保護しないといけなさそうなリーマンがごちながら飯食うのはコンテンツとしてもはや別物
それが孤独のグルメが他の飯漫画と明確に線引きできる要素だったと思うんだよ
生活基盤そのものが孤高であり、孤独ってのはまあ、自虐的なニュアンスで付けてるから
だから違うんだよな
手放しに褒められない
まあ、昨今は底辺にすり寄って主人公のスペックを落として共感しやすいほうがいいって法則があるから
おそらく増田にいるほとんどの人には理解しがたいことだと思うけれども書く
ご存知の通りBLというのには攻めと受けというのがあって、それらは簡単に言えば少女漫画のヒーローとヒロインの役割を果たしている。
でも少女漫画にも様々なヒーローとヒロインがいるようにBLにも様々な攻めと受けがいる。
少女漫画ならばくっつく二人の性別でヒーローかヒロインかを見定めることができるけれども、BLではそうはいかない。ではどうやって攻めと受けを決めているのかというと、セックスだ。セックスでつっこむほうが攻めでつっこまれるほうが受け、そう決めているわけだ。これほどわかりやすいこともないと思う。明確な基準があるのはいいことだ。トラブルを産まないし、pixivでのタグ付けに困ることもない。
この世には単純なヒーローヒロイン以上の性癖が存在してるのに女性向けには全然その性癖タグ付けがされていない!!!!最後まで読まないとどんな性癖が飛び出してくるのかわからない!!!!!R-18 攻め×受けとしかタグ付けされてない作品なのに最後の最後で受けが「次はオレが攻めにつっこむ番だぞ」とか攻めが「受けの童貞はオレの尻で卒業させてやるからな」とか言いだしたりする!!!!!!!殺すぞ!!!!!!!
こういった作品に当たったときの私の悲しみはS女×M男物を読んでいたはずなのに最後に女がちんぽに負けてしまう男性向けを読んだとき以上だ。
でもこれらはまだいい。なぜかというと、明確に説明不足だからだ。これらの描写は攻め×受けの法則に反している(いやまあ口に出しただけで実際つっこんでないからセーフと言えなくもないけれども、ほとんどの場合ではアウトとみなされるし、注意書きがなければ不満が出ることが多い)。
もっとややこしいのは、いわゆる百合ホモだ。百合ホモって言うと百合好きにぶっ殺されてしまうので、ここでは受けBLと言う。受け同士のBLだ。
BLでの攻めと受けっていうのはおそらくBLに触れていない人からすると想像以上に男女の役割に当てはめられている。攻めは男らしく、受けは女らしく。攻めは外に働きに出て、受けはお家で家事洗濯。ともすれば今の普通の少女漫画よりもはるかに旧時代的だ。…という説明が当てはまったのは少し前のBLだ。今のBLの攻めと受けは、上で書いたように、多種多様だ。受けが働きに出て、攻めが家事をする。そんなBLもあるんだろうきっと(私の趣味ではないから見てないけど)。「受けすぎて逆に攻め」「攻めすぎて逆に受け」なんて言葉もよく見る。ようするにかわいい男の子攻め×男らしい受けというわけだ。
別にその趣味が悪いってわけじゃない。ガチムチ受け上等だ。問題はそこではなくて、書いている人がその攻めと受けを、受け同士的(百合的)視点で見ていることがあるのにも関わらず、その注意書きがないことだ。上で書いた通り、攻めと受けは男女の役割が当てはめられている。特にセックスの場面ではそれは顕著だ。ヒロインがヒーローのケツにつっこみたいと思うことがないように、受けは攻めのケツには興味を持たない。ヒーローの乳首に興味を持たないように、受けも攻めの乳首に興味を持たない。モブ男は受けを狙うことはあっても攻めのケツを狙うことはない。攻めと受けっていうのは、要するにそういうことだからだ。
でも攻めや受けの趣味や個人の性癖が様々になっていくにつれ、そこの境界線が曖昧になってきた。攻めが受けよりも激しく喘ぎだしたり、受けが攻め乳首に興味を持ち出したり、攻めが突っ込んではいるものの受けのほうが優位そうだったり。一応突っ込む方突っ込まれる方という攻め×受けの基準は満たしているものの、受け同士っぽかったり、むしろ逆っぽい作品が増えてきた。種類が増えるのはいいことだ。多くの人の性癖を満たしてくれる。一種類しかないエロ本よりも百種類のエロ本がある世界のほうが素晴らしい。
でも注意書きやタグ付けをしてくれよ!!!!!!!!!!!!!たとえ攻めが受けのケツに突っ込むだけだとしてもモブ男が攻めのケツを狙う描写があったりとかするならせめて注意書きをしてくれ!!!!!!!!!!!!!攻めが過去に男に掘られてる描写を入れたいのはわかった、でも注意書きだけは忘れないで!!!!!!!!!あと受けBLも!!!!自分が攻めと受けを受け同士っぽい視点で見てるっていう自覚があるならお願いだからそういう注意書きをしてください!!!!!!!!!!!自覚してない人は今すぐ自覚して!!!!!!!!!!!!!!
あとよければタグ付け!!!!!!!!!頼む!!!!!!!!!!!タグ付けさえしてくれればタグミュートできるし興味ある人はすぐに検索できるから!!!!!!!!!!!!!!!
読んだだけで行動もアウトプットもしてなかったらまぁそうなるわな。
ちなみに、多読が必要な理由は「たくさん読まないとどれがいい本かわからない」から。逆に言えば、たくさん読んでも良書に出会えなければ意味がない。
で、ある著者曰く、「良書に出会ってその成果が本当に出るのは10年後」。
成果を出すために必要な年数の目安として、1−3−10の法則。
1年後ー微細な、小さな成果
3年後ー平凡だが実のある成果
10年後ーとてつもなく大きな成果
ちなみに、凡人の多くが成果が出る手前で挫折してやめるそうだ。
あと、書籍って言ったって、自己啓発書やビジネス書の他に「専門書」とか「実用書」だってあるだろ。
自己啓発書やビジネス書は胡散臭いのも多いけど、専門書や実用書が役に立たないわけがない。
追記。もし「書店」というのが小型書店のことなら、「そりゃそうなるわ」って思う。小型書店は売れない本を置く余裕がないから、売れる本しか置かない。売れる本の殆どが「誰でも理解出来るレベルの内容の薄い本」で、その殆どが、既存のロジックの焼き直し。希に良書がベストセラーになることもあるし、長年読み継がれている良書ももちろん置かれているが、小型書店でひたすら本を探し続けても、特にベストセラーにフォーカスして買い続けると、「入門以外の目的では読まなくていい本」を大量に抱えることになるだけ。
菊池誠という人がいて、一時はてな論壇においてそれなりの存在感を放っていた。
現在では一山いくらのネトウヨおじさん程度にしか認識していない人もいる。もはや過去の人であると断ずる向きもあるだろう。
しかしながら、彼について再考することで、論壇で今も跋扈する科学対非科学という対立軸を新たに捉え直す機会を持てる気がする。
というわけで彼の言説とその評価の変遷を追っていきたい。
2000年代後半。ニセ科学批判という社会運動が産声を上げた。
これは、自然科学に関する嘘をエビデンス棍棒で殴打するというシンプルかつ大変に社会的意義のある運動で、その倫理的な正しさからはてな市井で好評を博した。
この運動には様々な人が加わり、皆それぞれの専門分野に関する多種多様な嘘デタラメを殴り倒していた。
また専門分野のない人は、非専門分野に関する言説の妥当性をいかに評価すべきかということについて学んでいった。
よくわからんという人はid:NATROM先生がたくさんいたと考えてください。
ニセ科学とはなにか。誰が、なぜ吹聴するのか。このあたりは先人の素晴らしいテキストが山程あるのでそちらを参照するのがよい。私も一応書く。
ニセ科学批判の対象となったニセ科学は多岐にわたる。多岐にわたるがざっくり2つに分ける。
証明されていないことを証明されたと言うか、証明されたことを証明されていないと言うか、である。
科学的知見というものは往々にしてひっくり返るので、この宇宙を縛る法則から演繹していった時に実はニセ科学が正しかったということは有り得る話である。
しかしながら個人が霊感で獲得した宇宙の真理よりも、定められた手続きを踏んで得られた結論(宇宙的には間違っていたとしても)の方を評価するというのがニセ科学批判のスタンスだ。
営利企業や大学教授や特定の肩書のない個人的なブログ、政党や国そのものである場合もある。
彼らは何故嘘をつくのか。その動機を大きく4つに分ける。経済的利益(金銭)・社会的利益(名誉)・思想的利益(党派性)・倫理的利益(善意の施し)である。
どのニセ科学もこのいずれか、もしくはそれらの組み合わせから生み出されていると分類できるだろう。
例えば近藤誠や武田邦彦の動機は金と売名だし、安倍晋三や下村博文や共和党の言動は党派性の発露であり、有象無象のブログが代替医療で他人の癌を根治しようと試みるのは無知に基づく善意による。
ニセ科学批判は党派性から最も遠いところにいるとは菊池誠の言葉であるが、定義上これは正しい。
また、個々人のレベルで見ればその批判対象の選択において党派性が働くこともあるだろうが、運動を総体として捉えればそれは働かない。
組織を持たない草の根運動であるため、一貫した思想により運動員を抑えつけるということが原理的に不可能だからである。
運動自体に対して外部から党派性を見出す人は多々いるが、それは往々にして自身の党派性を表明しているに過ぎない。
例えばid:finalventにはニセ科学批判が左翼的活動に見えるそうだし、反原発派の中の放射能デマを吹聴するクラスタからは当局におもねった保守的な運動であると批判されている。
ニセ科学は大きくデマという概念に内包される。デマの分野を自然科学に絞り、真実性の判定に科学的手続きの有無を利用している場合それをニセ科学と呼称すると言い換えても良い。
ここからニセ科学批判の方法論を他分野のデマの払拭に利用できるのではないかと考えられる。特に人文科学系や社会科学系等の他分野の学問においてはその応用が容易いだろう。
ニセ科学と人文科学や社会科学系のデマとは地続きの問題であり、ニセ科学批判がニセ科学だけを取り扱うのは、単にそれが自らの領分だからというだけである。
ニセ科学批判の参加者が自然科学系以外の言説に対して取るべき態度は、専門分野外の自然科学系の言説に対して取るべき態度と同一でなければならない。
そうでない時、その価値判断には先の4つの動機のいずれかが作用しているのである。
「えー、じゃあさじゃあさ、なんで菊池さんはネトウヨおじさんなんて扱いを受けるの?だってさ、人が科学的事実を前にした時にどういう要因が認知を歪ませるのか、またその考え方は自然科学分野以外でも応用できるってことを誰よりも分かってるはずでしょ?ネトウヨなんてポジショントークが凝り固まって人型を成しているような存在じゃん。おっかしーぜ、それ。一個人が党派性から逃れることは出来ないにしても、自覚を持っていてその都度自己補正に努めればそこまで極端なことにはならないでしょ。オレ、納得できないなー」
そうだね、たかし君。じゃあ次の章では菊池誠の言説とその捉えられ方の変遷を時系列に沿って見ていこうか。それから菊池誠の言動が本当にいわゆるネトウヨ的な物なのかということもちゃんと検証してみよう。
さて、ここから菊池誠とその周囲の言説を掘り返し、断片的な事実を拾い上げ、時系列を整理し、推論を検証し、STS辺りも総括し、ニセ科学批判史とも絡め、最初のテーマに関して結論を出さなければならない。
でもなんか今週入ってから超体調悪くて、鼻は詰まったり止めどなく流れたり、体はとにかく熱っぽくて横になっているのも辛い。
よく考えたら私は菊池誠の親族でも知人でも生徒でも何でもないわけで、果たして病体にムチを打ってまでこの駄文の執筆に労力を割くべきなのだろうか?ここは潔く挫折する。
でもこのテーマ自体は割と意義があると思うので誰か調べてまとめて書いといて欲しい、個人的にはid:ublftboさんが適任かなと思う。でも多分やらないだろう。面倒くさいし。
どうやらこの記事の続きは執筆されないことが確定したため、以下に執筆時の構想諸々を記しあとがきに代えるものとする。
・7年ぶりくらいに菊池先生の名前を目にしたら、なんか凄い扱いになっていたので驚いて、矢も盾もたまらなかった。
・菊池誠に対する周囲の評価の変化点は2つくらいありそうだと思ってる。震災とそれから1年以上後。
・2009年から現在に至るまで菊池誠はネトウヨおじさんではない。ただ看過できない発言は多々あるし、愛想を尽かす人もいるだろう。これは年を追う毎に悪化しているように見える。今の立ち位置はid:hazumaにちょっと似てる。
・2009年頃と現在で、周囲から投擲される評価は明らかに変質しているわけだけど、それは菊池誠と周囲のどちらかあるいはその両方が変わった/変わっていない結果なのかという大枠の問いがあって、これは菊池誠が変わったというよりは、周囲に今までいなかった(少なかった)人種が現れたからだと思う。
・逆に言うと震災以前にもある種の題材を絡めてその手の人種と邂逅する機会があったら、今よりもっと早くこうなっていたと思う。今の状況はなるべくしてなったと言える。
・どうしてこうなったかは意思疎通が上手く行かなかったから。上手く行かない原因は個人でなく構造に求めないと仕方ない。専門家と非専門家の間にはクッションが必要になると思うんだけど、IKEAが布にガラス片を詰め込んでこれはクッションですと言い張ったり、あるいはクッションそのものを用意しなかったりするから、専門家自身が夜なべしてクッションを作らないといけない。彼らは裁縫の専門家ではないので、その出来は個々人の技術によって大きくムラが出る。ところでIKEAはSTSである。
・STSとは、何の生産性もなく相対主義ぶって科学者を腐してあてこすりで飯を食ってる人間の屑が集う旗印である、というのがこれまでなんとなく聞いていた印象なんだけど、いくらなんでもそんなものが何十年も学問として存続するわきゃないと思う。思うので、この際ちゃんと調べて、その社会的役割と意義と実際のところを自分の中で明らかにしておきたかった。震災時に(震災時でなくとも)彼らが求められる役割を十分に果たした結果がこれなのか、あるいは十分に果たせなかった結果がこれなのか。またそれはなぜなのか。
・つまり不幸な例であるところの菊池先生の件を足がかりにして、自然科学分野における専門家と非専門家とのディスコミ問題をアレできるんじゃないかと思ったというところが発端です。
・ブクマにニセ科学批判ってもっと前からあったでしょと言う指摘があったんだけど、前出の"ニセ科学批判史とも絡め"というところで今現在ニセ科学批判とされる運動の形はいつごろ成立したのかも調べておきたかった。書籍で探すと、訳語としてニセ科学を当てはめてる物は結構前からあるんだけどこれは定義が今と違っていて、今使われている意味でのニセ科学という用語はwebだと2004年が初出だと思う。ニセ科学批判についてはgoogle先生になんとなく尋ねるレベルでは天羽さんとかid:kamezoさんの2005年位のログしか出てこない。水伝での田崎さんと天羽さんは運動の拡大に大きく貢献したよねとか海外情勢(主に米キリスト教福音派系の)はid:Kumicitさんの忘却からの帰還が強かったとか、ニセ科学批判史は最終的に年表にしたかった。
以上が主観的になんとなく思いついた推論なので、これらを補強あるいは反証する材料を沢山探して、結果何かがまとまる予定だったのだということを言い残したかっただけの年度末だった。
ちゃんとビタミン強化とか書いてあるの買え。1パック99円とかダメだ。消化に使うエネルギーの無駄。
安い卵と栄養強化の高い卵。頭の働きが外から見てわかるくらい違った。
本人に自覚はなかったが、安い卵を食べた日はボーっとして物忘れが多く、受け答えもはっきりしない感じだった
しかし、高い卵を食べた日はシャキッとして、受け答えもハキハキ。晩御飯も比較的凝ったものが出た。
その法則に気づいてから、ちゃんとした朝食(卵かけ御飯以外のものをね)を食べさせるようになったが
卵の栄養差と、それによる人体への影響を目の当たりにしてから、卵はなるべくいいものを買っている。
「なるべく」だ。ヨード卵とか買えねえ。
ニューエイジか科学か、これは空間を持たないネットワーク空間のようなもので動く物理法則に、ロックがかかっているかどうかだ。
だからどちらも論理的にあり得て、俺が見ている世界は本当かもしれないしそうじゃないかもしれない。
しかし不思議だ。どうして言語学者はベーシックイングリッシュを研究してないのか。
俺に都合が良すぎやしないか。
音象徴の研究は豊富にあるだろうが、ここまで細かい単位で、しかも「こういう単語が多い」にとどまらず、一般的に、音素に「意味がある」と主張する研究は、広く受け入れられているものの中にはないんじゃないか。
よく知られている音象徴は例えば、英語だったらglで始まる単語は光に関する単語が多いとか、曲線の多い図形と直線の多い図形を見せて、「どちらがブーバで、どちらがキキか」と聞くと、母語に関わらず曲線の多い図形がブーバだと答える人が多い(ブーバ・キキ効果)というようなもの。
あと、これはどの程度学説としての妥当性があるのか知らないけど、「怪獣の名はなぜがギグゲゴなのか」という本を出した人もいた。
何れにしても、なんらかの音がなんらかのイメージを想起させるというような現象であって、例えば「集合論」というような、厳密に定義づけられる言葉が当てはまるようなものではない。
しかもこの増田は、「この子音を持つ単語はこれに関する言葉が多い」というにとどまらず、「音と意味には関係がある」と言って一般的な法則を示そうとしているように思う。