はてなキーワード: 大風呂敷とは
俺は、男は中身だといわれて、なるほど哲学や文学か?って思ったけど。テーマ性が強い漫画が売れるとは限らないよね。信者はいるかもしれないが、やはり、ここで言う中身とは「付き合っていての面白さを提供できるフォルムや提供のしかた、コマ割」ってことだろうな。
② 「※ただしイケメンに限る」=「※ただし絵が汚いと読まれない」
確かに、ブサメン好きとか、下手な絵が逆に好きとかいるだろうな。
ただ、一般論として、汚い絵はそうそうメジャー誌に乗らないわけだ。
ブサメンが見られないどころか、最近はフツメンも見てもらえないのは事実だろう、だってイケメンがネット上で氾濫してるし、テレビもがんがん整形済み化粧済みの奴を流す。
細マッチョとかいって、シントールっていう筋肉をでかく見せるシリコンを植え込んだような腹筋を見せる。
最近の漫画は画力が上がりまくってる。それと同じで最近の整形とファッション、美容院システムはヤバイ。
③ 「顔だけよくってもね~」=「画だけよくってもねえ」
④ 「イケメンは観賞用、緊張するから雰囲気イケメンくらいがいい」=「大暮は絵だけ、話は大風呂敷だから、作画だけ集中して原作つけろ」
これもよく分かるって感じやな。
⑤ 「処女や若いころのセックスはイケメンにつくして、年とったら安定収入の男と結婚したい」=「若いころはコロコロなりジャンプで、年とったらヤンジャンやゴラクやモーニング」
なるほど感性が違うし、一番漫画を消費する世代でジャンプに行ってしまって、残りかすみたいな感性で青年漫画を読むわけだ。
一番いい時期を下らないもので消費してしまうが、それが漫画の楽しさ。性の楽しさ。
残りの楽しめなくなった時間は落ち着いてゆっくり読める感じで静かに当たり前の生活感を求めだす。
⑥ 「ブサイクでもいいから医者と結婚したい」=「ジャンプでエロ漫画みたい、矢吹はエロ漫画かけ」
自分がジャンプ楽しめなくなると、エロ漫画に来いという。当然矢吹サイド(医者)もそれが分かるが、行くわけにはいかない
⑦ 「結婚はブサメンの金持ち、子供はイケメンのタクラン」=「エロ漫画でストーリー性を求めて、ジャンプでエロを求める」
ちょっと違うか?w
⑧ 「ババアに興味ない、女は若さがすべて」=「IKKIとかいうマイナー雑誌に興味ない、マガジン、ジャンプ系がすべて」
高望みだろうが、そりゃそうだろ。有名雑誌で売れたいから漫画家になるのに、ぜんぜん読まれず収入も苦しいってメリットまったく無い。漫画家やめるわな、結婚やめるわな。結婚にメリット無いって。趣味で同人だけやる(風俗等)。
そりゃ深いテーマ性を読めない読者を叩いてたらだめだわなあw消費者はアホ、ってのと同じで女もアホと思って、ブリーチだのワンピースだのナルトだのの、クソほども面白くも無い漫画が大事なわけだ。
あれはまともな知能してれば面白くは無いが、テーマ性の低さと比べて圧倒的に過分な画力、構成、キャラつくりがなされてる。クッソつまらないがレベルは高い。
イケメンとか、いわゆるモテルやつってのも、ストーリー性っつーか、伝え方がうまいんだろうな。コミュ力とは別の。
肩書きも、ジャンプはないにしろ、モーニングくらいはほしいわけだ。(年収とか職業とかか?)
テーマの深さよりも、まずはネームのよさ、伝わりやすさ、基本を抑えてる表現、引きゴマとかをきっちり守って、表現手法を学んで来いと。女が喜ぶストーリー展開は決まってるし、そこに変化つけて個性見せていけよと。ビジュアル系バンドみたいな。
なるほどな、中身ってのは、ネームのことで。この面白さを磨けってことだな。決して高尚な何かではない。
ネームを磨くには、理屈をわかってまねすることだ。何がどういう理屈で面白いのか。自分のオリジナルで書いたものを絞っていって無駄を省く作業。
なるほど、デブがモテナイわけだ。多すぎるんだよな、主張が、分からないは女には。逆に細マッチョが指輪だのネックレスだので主張してくれれば分かるんだろうな。絞って主張してくれってことだ。油おとしてこいよと。
チビがモテナイのも、そこにストーリー性が湧かないからだ。恋愛ストーリーとかそういう圧倒的に楽しませてくれそうな感じ。扉絵とでもいうのか。
ここまでを総合すると。どうすればいいんだろうな。
やせろ、自己主張は系統だててくれないと混乱するからネームキッチリ絞って最低限で教えろ。せりふで説明されるとウザイから、コマ割(やさしい分かりやすい伝え方)で説明しろ。
みたいな?
そこまでやれば、相手は信者になる。信者になった女は本当に楽に洗脳されるし、簡単に抱かれる。
なるほどなあ。
幕末ともなれば穀潰しを遊ばせる余裕も世情も無く、結局のところ彼は糊口を凌ぐ為に己の才能を切り売りした。
どうやら武に纏わる技芸はさほど優れたものではなかったようだ。さりとて彼には商売の才能はなかった。
しかし彼には類まれなる発想と、稀有な才能があった。
それは、勘定をし、その勘定結果がどのような未来を描くか、どうすれば違う未来を描けるかを、説明する才能だった。
今で言う、ファイナンシャル・プランナーである。
彼が歴史に名を残したのは単なる偶然でしか無く、江戸の醤油売から東北の豪商に至るまでそこここの日記や書付にその偽名が残るのみである。
幅広い人脈を築いた結果得られたものが何だったのかも、どこの誰だったのかも結局判らない。
しかし、大店の影にその人ありと実しやかに囁かれた風聞は、今も色褪せることのない伝説として語り継がれている。
分を弁えよ、ではない。
人が贅沢を夢見たり、買えなかったものが買えるようになるのは良いことだとした。
一定の石高を常に保証される武士にとっては、倹約を旨とすればその分貯まる。
武士にとっては、勤めを果たすことが上向く方法だからだ。後は倹約しか無い。
しかし、町人や商人は異なる。己の才覚で事業を行う必要があるからだ。
ケチケチと貯めるばかりでは、生活は全く変わらず何のための商いか分からぬ
しかし、稼いだ分を使ってしまってばかりでは、商いを大きくすることは出来ぬ。
こう、説いたのである。
すると、分相応な使い方は出来ないが、使え、と言っていることになる。
これはどういうことか。
貯めてばかりでなく使え、使ってばかりでは貯まらぬ。
そして、その加減は余人にも当人にも図りがたし。
だから、そもそも無いものとして考え、ある分を使えば良いと、こう伝えられている。
これは意外なことに好評だったようだ。
元々宵越しの銭は持たない気っ風の良さを心情とする江戸っ子以外にも、粋や趣味には金がかかる。
これを抑えるのではなく、存分に使えと言うわけである。
大圓朝の芝浜と偶然にも結果は同じことを言っているわけであるが、後世の創作を加味すると、村田の方が時代を先んじていたと言えよう。
使うと言ってもここでは、無かったものとした貯めた分のことである。
そもそも無いものとして生活せよ、とする場合、言ってみれば稼ぎよりも貧乏になれ、と言っているのと同じである。
誰しも貧乏よりは裕福が良い。
程度はあれど銭金があって困ることは少ない。
だから、如何に使うかを考え、決してあるものとして勘定してはならぬ、それは無いものだ。
なぜならば、使い処が別にあるからだと、こう言っていたようだ。
この使い方指南こそが村田の真骨頂であったようだが、商売の正に秘伝とも言うべき部分の事で、手に入る資料の中にはさほど面白い事由は残されていない。
さて、よほど複雑なものでもない限り、商売の基本は数を数えることになる。
いくらのものを、いくつ仕入れ、手間賃をいくら払って、いくらで売る。
この管理ができなければ店の維持も難しいが、といって、数を数えてピッタリに合わせるだけではそれこそ丁稚にも出来る仕事である。
まず数を数え、その数を増やすのか減らすのか、増やせばいくら儲かり、減らせばいくら損するのか。
安く仕入れ高く売れればそれが一番良いが、なかなかそうはいかない。
小さな損に怯えず、最後に儲かる為には使うことを恐れるなと、指南していたようである。
どうやら、村田は積み上げて説明するのが好きだったようである。
これは、昨今の結論から話せという風潮からすれば迂遠に聞こえるが、相手には伝わりやすかったようだ。
無いとはいえ実はある、だから理由をしっかり考えて手をつけるな。
使い処を考えるのであれば、損することを恐れず最後に儲かるようにせよ。
こう話していけば、ではどうすれば儲かるのか、と、儲かるためには貯めねばならぬということが前提として相手に伝わっている。
先に述べたように、実際の使い方指南は、秘伝として秘されてしまい、伝わっていない。
しかし、その大本の考え方自体はどうやらこういうことのようだ。
大風呂敷を広げるだけ広げてしまい、その穴だらけでボロボロの風呂敷の穴を、繕って埋めていけ、
小さく着実に繕っていけば、いずれ大きな風呂敷が完成すると、こういうことのようだ。
商売の形態は大きく変わり、今となっては古臭い考え方でもある。
しかし、こと家計に関しては、今も村田の教えを活かす部分は大いにある。
ボーナスでご褒美を買っても良いだろう、
偶には飲みに行くのも構うまいと、
人は自分がどれだけ使っても良いかを客観的に知り、それを見極めるのが酷く難しい。
高収入でも貯められないのは、その人が自堕落であるというよりも、使い方を知らないからだと言える。
余ったぶんを貯金しようという考え方では、貯められないというのは良く聞く話である。
勤労者に対して天引きで貯蓄を促すというのは、財形等で政府が主導した手法でもある。
結局、分相応が難しいのであれば、元々給与が少ないものとして考えるのが良いわけだ。
貯めるのが目的なのではなく、使い処を考えろということなのだ。
そして、しっかりと考えた使い処があれば、今月の呑み代に窮して手を付けることは無い。
逆に言えば、手をつける程度の使い処は、余りしっかり考えたとは言えないのだ。
ここが、昨今の風潮とは一線を画すると言える。
村田は、まずは数えよとは言わなかった。どうやらどんぶり勘定の相手もしていたようである。
家計簿をつけて家計を見直すのは、もっとずっと後のことだと、つまりはこう言っているわけである。
家計簿をつけるのが目的ではない、無駄を見つけて節約することだ、というのは良く言われることである。
村田は、手順としてそれは後のことだと言っているのだ。
無駄を見つけて節約するのは、無いものとして考えた残りで自由にやりくりすれば良い。
最初に、何に使うかをしっかり考え、それは最初から無いものとして意識から外せと、繰り返し言っているのだ。
そして、単純に今欲しい物を考えよとも言わなかった。
大風呂敷を広げよと、こう言っている。
欲しい物のために我慢するのは馬鹿げていると手を付ければ元の木阿弥なのだ。
これは、大風呂敷を広げるだけの甲斐性がなければ、貯める必要がないという突き放した目線でもある。
日々の生活に事欠く人間に、夢を描け無いものとして貯めよと言っても虚しく聞こえるのは重々承知の上だろう。
享楽に行き、明日路傍に倒れるとも已む無しという無宿人も多かった時代だ。
これは現代でも変わらない。
小さくとも庭付きの一軒家で犬と子供に囲まれた幸せな家庭を築きたい、今は何もかも欠けている。
その夢を描くには、何が足りないのか、何を足してどうなればそこに辿り着けるのか。
無いものとして考え、ある中で使ってやりくりをする。
まずは夢こそが大切であるのだ。
村田惣右衛門という商人は、夢を描く手助けをし、それを現実に落としこむ手腕が鮮やかだったのだろう。
現代にも通づるそのファイナンシャルの考え方は、まず夢ありきであった。
夢を見つけ、具体的な道筋を立て、その手段として帳簿を使う。
帳簿を使って無駄を探るノウハウを伝授しても、無駄に使ってしまっては何にもならない。
最後までお付き合いいただいた読者諸兄におかれては、
http://blog.tatsuru.com/2013/12/29_1149.php
内田樹が「コミュニケーション能力とは何か?」などと大層な大風呂敷をぶちあげているが、例示されている例を分析してみよう。ただ単に加齢により耳が不自由な事態が進行していて渦中の人間がそれに気がついていないだけだ。
「保冷剤をご入用ですか?」が聞き取れないほど耳が衰えていたらしい。
例1)レジに行ったら、女性店員に何か訊ねられた。なんとなく聞き覚えのある単語なのだが、意味がわからない。
郵便番号(code postal)という基本的な生活単語が聞き取れなほど(ry
年齢別でどれほど聴覚が衰えているかグラフで示す必要があるだろう。
http://h-amagan.com/abouthearing.html
http://www.widexjp.co.jp/deafness/what/decline.html
あとは各自で探されたし
日本人はとかくファッションの一貫性に欠けると叫ばれる。確かに日本文化は和洋折衷、何でもありの文化であるな。例えば、仏教国の1つでありながら、年末になると突然「ジングルベ~ル」などとバカ騒ぎしだすwそしてどういうわけか年明けには神社で初詣。おめでてーな正月。
で、世界的に見れば一貫性がない、主義主張の曖昧なことは「ダサい」「気持ち悪い」とみなされることは知っておいて損はない。これは単なる主観ではなく明確な根拠がある。日本のような画一社会(個人単位では一貫性に欠けるくせに社会単位ではある意味一貫性がある)では想像つきにくいだろうが、欧米は基本的に多民族社会であって、国内の民族間対立や隣国との民族間対立が深刻な問題であるから、こと人間関係においても相手がどんな人間か知ることが差し迫った課題になるわけよ。だから、「はじめまして」の次には「あなたの宗教は何ですか?」などといった話題がポンポン出てくるのが常なわけ。日本じゃ「ご趣味は?」などと言えば「お見合いかよ」と思われる始末で、相手のことはある程度「お察し」するのがお約束になってゐるが、海外のほとんどの国ではまず初対面の人には最初に相手の思想区分を分類する作業がお約束なわけだね。そんなわけだから、日本人のようなスタイルのよく分からない謎タイプのキャラというのは、文字通り「えたいのしれない」人間として扱われるのよ。だから、もし貴方が日本人でこれから国際社会で活躍したいなら、まずスタイルを一貫させること、そこから始まると言って良い。ビジネスで信頼を勝ち得るには、もちろん人間性やコミュ力も大切だが、実はそれと同じくらい明確なスタイルを持っていることが大事なんだ。そもそも日本文化とは何なのか?自分はどんな人間なのか?そこから考えてみたらどうだろう?
それとは別に、一貫性を持つことは実を言えばとても気持ちの良い生き方だということも知っておきたい。一貫性がないとは裏を返せば裏表があるということで、表の時に裏が気になり裏の時に表が気になるという状態だ。遊んでる時に仕事が気になり、仕事の時に遊びが気になる。そんなんではダメだろう?いくら仕事ができてもダメ。遊びがいくら楽しくてもダメ。仕事も遊び、遊びも仕事と思えて初めて一貫し、そこで初めて心の平安が訪れる。断っておくが、ここまで来ると日本人だけの問題ではなく、全人類の存亡がかかった問題とさえ言えるものだ。この先人類が生き残るには、スタイルの一貫性いかんにかかっていると言っても過言ではない。というのも、今の情報社会において「気になる」ことが大きな文明衰退の原動力になっているからだ。最近スマホでソシャゲをやっている人をよく見かける。ソシャゲも一貫したスタイルの一部に組み込まれているなら良いが、多くの人はそうではない。「気になる」から続けてるのだ。古くは「mixi中毒」と言われた社会現象に始まる。本人は「遊び」「気分転換」でやってると主張するがその内実は全くことなる。「気になって仕方ない」のだ。GMailのinboxも気になって仕方ない。ケータイメールも気になって仕方ない。神経症は現代人共通の病と言っても過言ではなかろう。心の整理が我々人類の急務なのである。1つのことに落ち着いて集中できず絶えず気になることに囲まれた生活が本当に健全と言えるのか。それを今こそ問い直すべき時期に来ている。
問題を叫び立てるだけではあまり意味がない。ここに解決策を提案しよう。その前に一貫性の定義を確認しておこう。勘違いされがちなのだが、一貫性とは無駄なものを削って1つに絞ることではない。一貫性一貫性と繰り返していると、近視眼的なイメージを持つ人もいるようだから、このことは強調しておく。例えば、目標を1つ決めてそれに自分の全てを費やす人生はいかにもアメリカ的成功哲学で受け入れられないと拒絶反応を示す人がいるが、そういう話ではないんだな。それはむしろ最初から一貫性を諦めて、一貫性から外れた「気になる」ことがあっても気にすまいと頑張る行為だから、一貫性とはある意味真逆とさえいえる。「仕事一筋」「柔道一直線」と言えば聞えはいいが、それは微粒子レベルのシビアな見方をすれば一貫性とは言えない。なぜなら簡単なことで、厳密には仕事のことだけ、柔道のことだけ考えていては、生きていけないから。もう分かっただろう。そんなまがいものの一貫性を目指してはならない。一貫性というのは、既にあるものに「統合性」をもたせることでなくてはならない。
であるから、解決策もおのずと見えてくる。統合的な目的を持てばよいのだ。目標ではなく目的。低いレベルでは相容れないものどうしを高いレベルで統合させるにはそれしかない。ウメハラが著書において「目標はもたない」と書いている。目標をもたないのに何故彼のスタイルは一貫しているのか?それは高いレベルの目的があるからである。彼の場合、日々の成長がそれにあたる。とても簡単なことにみえる。だが、考えれば考えるほどやればやるほどこれが簡単ではないのが分かってくる。先ほど一貫性の定義を確認したのはそのためだ。ただ単に、成長のために全ての人生をなげうつ、持てるエネルギーの全てを投入するだけではダメ。それだけでも難しいじゃないかと思うかもしれないが、それだけ出来ても1%も出来たことにはならないという話である。無駄な努力乙というやつで、まるで方向性が違う。早い話、今日から成長という統合的な目的のために生きてウメハラになるぞと思った時点で、君は自分の多くの「無駄」を捨てるだろう。それは自分を削って見せかけの一貫性を作っているだけで、実際一貫性でもなんでもない。ハリボテのエレジーである。ハリボテだから必ずしわ寄せがくる。今日からソシャゲをやらないと決めた所で気になるものは気になるのである。ソシャゲ自体は気にならなくても形を変えて繰り返し噴出してくる。だから我々は「捨てずに」統合する必要がある。捨てて統合出来ましたと言ったってそんなの出来て当たり前であって統合でもなんでもない。
さらにもう一点、オレの目的は毎日の成長だといくら声高に主張したところで、中身が伴ってないと意味がない。我々のしないといけないのは広い目的のもとに自分という人間を「再整理」することであって、大風呂敷を広げることではない。何を整理するか?自分の全ての行動と状態である。それをパソコンのファイルを整理するように整理していく。ルートディレクトリにあたるのが先ほどの統合的な目的だ。そこに全部入れてそれでおしまいというわけにはいかない。それでは整理にならない。なぜ整理しないといけないかというと、殆どの人は自分の行動と状態を支離滅裂な判断でしか決めていないからである。人間完全に合理的な生き物ではないが、少しは整合性を持たせないとダメである。それが出来て初めてスタイルが一貫してくるのであって、単に「オレの人生は全てカネのためだHAHAHA」といったところでまるで一貫性は保証されないわけよ。だから、自分の(行動と状態の背後にある)考えを統合的な目的のもとに整理しなきゃ。そうして初めて、1つのことだけを考えれば良くて、他に何も気にしなくて良いタノシイ状態になれるのである。また、「君のこの行動はどんな意味あるんですか?」と聞かれた時につねに論理的に説明ができるので、「ああなんてスタイルの一貫した美しい生き方をした人なんだろう」という感動を呼ぶのである。これを少しゆる~く解釈すると、人生の限定的な場面において一部の価値観しか扱わずに済む時があって、そのときは一時的に1つのことだけを考えれば済むこともある。そういうときは、柔道一直線が真の意味で実現して、一見美しい生き方に見えることもある。ただしそれは一時的であって、まやかしの一貫性だということだな。これを永続化させるのが我々日本人の責務いや人類の責務と言えよう。
コメントありがと。
言葉足らずでゴメン。
海外にいた時は日本の選挙には特に興味なくて、在外投票していたわけでもない。
日本に帰ってきたのが丁度選挙前でテレビ見てて疑問に思っただけ。
各党ごとのサイトを調べて比較検討するほど熱心でもないんだ。マニアだけでしょ、そこまでやるのは。
テレビで各党代表が並んでインタビューされてるのに一番重要なことが聞かれないのはおかしいと思ったんだ。
既存のサイトで系統的に網羅してて、過去の公約とその実績とかきれいにまとまってるのは無いでしょ?あれば教えてください。
ぜんぜんタイムリーな話ではないけれど、久しぶりに参議院選挙を見て思ったこと。
・TPPどうする、原発問題どうする等のスタンスが報道されるだけで、選挙公約が報道されていない(自分の見たかぎりでは)。
そのため比較検討しづらい。選挙公約なんてあって無いようなものだから、と言われてしまえばそれまでだけれど。一番重要なところだよね?
・池上彰の選挙特番が部分的にネットに挙がってて見たけれど、皆が絶賛するのがよく分からない。単に彼個人の好悪を見せつけられているだけで、
インタビューされている立候補者の政策方針とか、まったくと言っていいほど聞かれていないようだった。自分の言いたいことだけ言ってインタビュー
を切り上げるやり方も嫌。選挙のエンターテイメント化という点では成功なのかな?あんなの見て喜んでるようじゃダメだぜって言いたい。
・政治家は昔と変わらず大風呂敷を広げている。そんなのはぜんぜん必要でなくて、政策を細かなセグメントに分けて「まあ、これだけできれば万々歳じゃないですか」
なんて控えめに言ってくれる政治家がいれば投票するんだがなあ。
そんなことを思ったわけですが、これとは別に民官共同で選挙サイトみたいなのを作ればいいのになと思った。
http://copipe.cureblack.com/c/35112
1 名前:名無しさん:2012/09/01(土) 23:59:26 ID:3PhY68g2
ふーん。何とでも作れそうな話しだよね。
2 名前:名無しさん:2012/09/02(日) 00:15:41 ID:hmQMkRhx
そうだね
でもお前には無理だよ?
1のような人でも作れるように、手順をマニュアル化してみよう。
①時代設定は数年~50年前といった、あまり昔過ぎず、かといって容易には検証・再現できないくらい遠い過去を選ぶ。
②登場人物に異常行動をとらせる。
ポイントは、日常生活で行われる行為をちょっとずらした程度の異常行動にとどめておくことです。
「大声をあげて、全裸になり、包丁を振り回して発狂した」などはわざとらしすぎて、創作であることがばれてしまいます。
また、「人物」と表現しましたが、無生物の異常現象でもかまいません。
うまく使いましょう。
霊や怨念、この世のものではない存在を容易に結びつけることで、恐さを演出することができます。
④今現在も何らかの影響があることを臭わせる。
「それでこの話はおしまい」だと、「なーんだ今は何ともないんだ。」と読者に安心感を与えてしまいます。
「今でも、時々女のうめき声が~」などのようにその怪異が続いていることを示し、読者に恐怖の尾を引かせます。
その際は、大風呂敷を広げ過ぎないように注意。
早速実例を。
今から5年くらい前の話。
電子レンジが壊れたので、新しいのを買おうと思っていた。
しかし金がなかったので、できるだけ安いレンジを探していたら、ネットで中古の安いレンジを見つけたので購入。
届いたレンジは問題なさそうだったが、飼っていた猫の様子がおかしくなった。
レンジのある台所になかなか入ろうとしなくなったし、
レンジを使うときには、毛を逆立てて、レンジを威嚇するようになった。
前のレンジではそんなことなかったのに。
しばらくして、動物虐待で、ある男が逮捕されたというニュースを見た。
男の名前になんとなく見覚えが・・・確認して見ると、電子レンジを買った相手だった!
男は頻繁に虐待に使用する道具を買い替えていたらしく、古くなったものはネットで売っていたという・・・
電子レンジを替えたのは言うまでもない。
あれ以来、中古品を買わないようにしてる。
いかがでしょうか?
皆さんも恐い話を作ってみて下さいね。
彼女がDVDを何枚か買ってたんだが、その中にクローズ2があった。
ヤンキー映画とか縁遠い感じの彼女だったので正直びっくりした。
あのさ、常々思ってたんだけど、昨今の日本のDQN推奨風潮なんなの?
教師がヤクザの娘だったり、ヤンキー集団の高校野球だったり、そんなの見ておもしろいの?
まぁ、面白いんだろうけど。
でももっと他に表現することがあんだろ、とか思うのはおかしいの?
僕はヤンキーが頑張る話より、普通に頑張ってるヒトの話が見たい。
普通に頑張ってるヒトの話、そんなことも表現出来ないほど日本のエンターテイメントは腐ってしまったの?
なにその設定ありきみたいな話。
別にヤンキーに対してそれほどコンプレックスがあるわけじゃない。
これ言うと歳がばれるけど、中学生の頃はご他聞にもれずそういう漫画を見て育った。
「ゴリラーマン」「ビーバップハイスクール」「クローズ」「カメレオン」「しょうばく」「今日から俺は」「ろくでなしブルース」「グレアー」
ボンタン(笑)はいてくわえ煙草みたいのがかっこいいと思ってた時期もあった。
今思えば恥ずかしい限りだけどね。
だけど、そういうのって、決してエンターテイメントではなかった。
そいつらにはそいつらの倫理感がありますよ決してマスではないしそれを万人にわかってくれとは言わないけどまぁ僕らはこれがかっこいいと思ってんすよ、みたいな。
そいうのが良かったし、そういうモノだと思う。
それをエンターテイメントの土俵に引っ張りだして、青春ドラマに昇華させちゃう日本すごい。
見境いない。
んで、それが高視聴率たたき出しちゃって。
アホかと。
青春野球漫画なら絶対「プレイボール」や「キャプテン」の方がドラマチックだし、誤解を恐れず言うなら「かっこいい」。
おまえらが学校さぼってゲーセン言ってようがタバコ吸ってようが喧嘩で怪我しようが知らんがな。
自業自得だろうよ。
教師は教師で、そんなんにかまってる暇があるなら、もっと意識の高い生徒に力注げよ。
バカを救うなとは言わないけど、そこに焦点当てる意味がわからん。
なんだこのヤンキー賛歌。
かっこいいか?
まぁ、結局「振り幅」の話ってのはわかってんだよ。
確かにマイナスからゼロへの方が1から10への振り幅よりは大きく見えますよ。
だけどさ、なんだろうあん、納得いかないのは、それをこうも大風呂敷広げてやりますか、と。
トレンディードラマ(ええ、死語でしょうけども)でやるならもっと違う方法があるんじゃない?
もっと言わなきゃいけない事ってあるんじゃない?
だって、あれ見てヤンキーに憧れるやつはいても、こうなっちゃいけないな、もっとおれ頑張ろう!って思う奴はいないよね。
例えばさ、負の部分をテーマにしたドラマとかだと「不倫」を題材にしたドラマとかあるよね。
そういうのがアリというか、まだいいなって思うのは、結局帰結するところが否定だから。
美化してるところが多少あっても、結論で肯定してるドラマってそう多くないと思うの。
まぁ、そんなドラマ見ないからもしかしたら多いかもしれんけど、そこはソースないのでわからん。感覚。
でも、「不倫賛歌」みたいな映画やドラマばっかだったらどうよ。
なんかさ、わかんないけどさ、「努力」とか「青春」を描くのに、ヤンキーじゃなきゃできないってのは情けないよ。
そんで、それをバカみたいに賞賛してるヒトたちも情けない。
言ったけどね。ショックだったとは言わないけど、僕はこう思うよって。
要するにフットワークが軽く、時勢に合わせて方針転換をいつでも迅速且つドラスティックに行える会社。出来る事なら、罹ってる会社と同じかそれ以上の距離でお付き合いしたい。こういう会社は第三者からの評価や成長性もいいんだけど、商売相手としては関わりたくない。方針がコロコロ変わって振り回されてる周辺が全然ハッピーになれてない状況をよく目にする。
社長自ら「これはいけますよ!3年後には黒字化確実!」と大風呂敷広げて複数社巻き込んで1年がかりで準備して、スタート直前に「やっぱり止めます。バブル弾けたみたいだし」とCCメール一本で全ての協力会社に凍結を通達。このためにわざわざ社内で教育してた新人も各社に多数いたらしいが、全てがパー。
話に聞けば、社長はこの1ヶ月協力会社に支払う違約金の金策に走り回ってたらしく、各所でそれを武勇伝のように(違約金払わず会社潰してトンズラする奴に比べて俺って超義理堅くね?!)吹聴してるとか。そしていけしゃあしゃあと翌週に「○○がこれからブーム来ますよ!一緒にビッグウェーブに乗りましょう!」とかメールを寄越してくる。
孫正義 @masason の発言に就活生らが猛反発。#softbank
ニュース・時事 softbank ソフトバンク 孫正義 糞電波 就職活動 【編集】 .就活生の47.1%がiPhoneを使っている、という日経の記事に対して、ソフトバンク孫正義社長「さすが就活生は、感度が高い。」とツイート。
しかし、まず「iPhone(ソフトバンク)の感度(電波)は低い」と総ツッコミ。加えて「スマートフォンで常にチェックしてないと説明会の予約が取れないなど、今の就職活動は異常な状態。経営者から変えていくべき事なのに」「感度うんぬんではなく、使わざるを得ないだけ」「ソフトバンクの電波圏外で内定取れなかった人もいる」などなど、就職活動をしている人から猛反発。
そもそも母数が600程度、携帯(ガラケー)から答えられないアンケートの結果を記事にする日経もアレですが、都合の悪いことはスルーしつつ、こういったことには即座に反応する日本のトップ経営者。記事読んでたらこういう発言になってないと思われますが。
いや、本当にトップの経営者なんですかね? こういう人が日本をダメにしていっているように見えます。
あ、ちなみに「大学の電波良くします」と今年宣言してiPhone売ったのもソフトバンクです。
http://mb.softbank.jp/mb/special/network/college_report/
要望の多さに対して進展は恐ろしく遅く、11/30でページの更新は止まっています。こういう有言不実行をするから問題なんですよ。.
改善努力は常に行っているでしょうが、それが現場にまでどの程度届いているのかはなはだ疑問。
キャパ(現場力)を超えた状況で電波状況改善が追いつかない→大風呂敷を広げすぎな証拠
いい感じに大風呂敷を広げて、気持ちよくなってるとこにごめんね。
べつにホモ・サピエンス・サピエンスやホモ・サピエンスまで進化しなくても、子供の成育に非常に時間がかかる種はいるぞ。
メスだけでは子孫を育てることが困難になってきた。
少なくとも日本には夜這いというシステム(嫌だけど)があったし、パートナーでなく部落単位での子育てという地域もある。
「パートナーと子育て」っていう概念は、むしろキリスト教とか西洋的なモンだよ。
村落や長屋全体で育てるという意識のあった地域は例外なのかい?
2 その後、そのメスが他のオスと生殖しないようにする
DNAには刻み込まれてないだろう…。
少なくとも、他のオスの子を自分が育てるのは嫌だという意思なら、それは社会制度であって、DNAが関与する業ではない。
むしろ浮気するという事実が、パートナーを一人に絞らないで子孫を残そうとする、DNAに刻み込まれた本能だろう。
京大に「折田像」が今年も登場したが、今年もずいぶんと良い出来であった。例年この二次試験の時期は雨が降り、ともすれば無残な姿を晒しかねないハリボテは、しかし雨を受けてもなお一点の色落ちもなく、見事なものだ。投入された技術は、たしかに数年間の制作の経験が生かされているのだろう。ニュースにもなったし、受験生の目にもおもしろいものとして映ったに違いない。
ところが、である。
京大生の一人として、今年はついに像に対して「憔悴」に近い感情を覚えてしまった。
理由はただ一点。
「誰にでも作れる像を造って、どうするのか?」ということだ。
折田像の歴史は、「誰にも考えつかないことをやってきた」歴史である。塗り替えるだけでは飽きたらず、着せ替え、かぶせ、はては像そのものまでねつ造してきた。それは、真に驚くべき創造力の歴史だ。だからこそ折田像はいまや京大の象徴としてニュースにも取り上げられるほどの知名度を誇るまでになった。毎年毎年、誰ともわからぬ匿名の、それも非公式に建てられた像が、これだけ全国区に有名になったことはかつてないことだろう。まさしく、「創造力」のなしえたことだ。
しかし、だ。この数年に、はたしてその「創造力」が存在しただろうか?
「タケシ」の像に、「誰にも考えつかないこと」の一つや二つがあっただろうか?
皮肉なことに、「よりよくできた像」を作れば作るほど、「創造力」は失われているんじゃないだろうか。今年の像だが、自分の目には、「クォリティが高いものを作っていれば、みんなが喜ぶだろう」という傲慢さだけが目についた。それは言うなれば日本の「モノづくり」の象徴であり、今日本が抱えている問題そのものだ。「作れば売れるだろう」「技術力が高ければ売れるだろう」という傲慢さ、である。日本の家電メーカーがなぜ行き詰まっているか。高い技術力を誇っているのに、なぜ韓国に後れをとっているのか。なぜうまくいかないのか。なぜ沈没しようとしているのか。その問題の象徴が、あの折田像にあるんじゃないだろうか。
日本のものづくりの歴史は、ある意味自らの破壊そのものだった。よりよいものを作るために、これまで常識とされていたスタイルさえ破壊し、新しく、革新的なものを提案していった。それはまるで折田像が汚され、被され、そしてあまつさえ新しく作り替えられた歴史とうり二つだ。そして今、京大にはただ単に「よくできた」というだけの像が建っている。なんのおもしろみもない、ただの像が。技術力と、過去の知名度だけで名をはせる、まるで空虚なあの像が。
それは、完全に行き詰まった日本の姿、そのものではないか。
京大当局は、像をなし崩し的に認め、いや、今や、推奨すらしているかもしれない。いずれ当局の「支援」が行われるかもしれない。「伝統」という名の保護主義のために。その先には、死んで腐った創造力でもたらされる、ただ単に見た目だけがよい、うつろな幻としての折田像が残るだけだろう。そしてそれすら残らなくなる。あとに残るのは、一地方大学として細々存続する京大の姿だ。ああ哀れなり京都大学。日本ナンバー2として、東大と並び称され、「変人」を排出することで知られた大学は、ただのありふれた大学に成り下がるのだ。いや、悲しもうじゃないか。それは世界における、将来の日本の姿そのものなのだから。
ばかばかしいとは思う。あんな像ひとつに、日本の将来を予言させるなんて。でも、危機感を持って欲しい。たたえるだけではなく、新しい創造を行って欲しい。日本を変えるような、すさまじい力が欲しいのだ。
しかし、現実は、少なくとも京大生には――あの像を造った京大生には、その力がない、ということだ。
そろそろ、あの像の姿に、絶望しても良いんじゃないだろうか。
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相変わらず爆釣だぜ、と。
で、お前さんは「折田先生像」に勝る何かを生み出したの?
はい。
しかしそれは「折田像」という形としては結実しなかった、そういう話です。
やってない奴が何を言っても無駄
本気でそう思うんやったら、こんなわかったようなわからんような文章書いてる暇があったら来年は自分がやったらええやん。
その気がないんやったら、要するに君は自分が言うたことを別に本気で信じてへんいうことやろ。
むろんアジテーションの趣が強いかと思います。
しかし「もののたとえ」は、どんなものにでも当てはまる。必ずしも崩壊は大きな音を立ててやってくるわけじゃない。
そして残念ながら、自己保身と、それから私にとっての「折田像」に忙しくて、私にはリアルの「折田像」を作っている暇がなかったのです。
現在、日本が陥ってる最大の問題は、この日記のように努力を無駄と切り捨てることではないだろうか。
だから、私は「折田像」の制作に関して一切の手出しもしていないし、また、完成した像を汚すこともしていません。
ただ、「そんなことをしていてはダメなんじゃないかな」と言っているだけです。
あまり京大生だから、見た目によくできているからといって擁護するだけでは、何も生まれませんよ。
それこそ護送船団の中で腐るだけです。
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学生のお遊びごときに「没落日本の象徴」とか、おおげさ。「匿名で学生のお遊びに文句を付けるチキンが出るようでは日本も終わったな」とか言われたら、君はどう思うのかね。「俺は別に日本を代表してねーよ」とでも言うんじゃないのか。
さておき、学生のお遊びならFランでも誰でもできるような「タケシ」の像を京大生がわざわざ造ることに意味はない。
そういう意味で、自らさえぶちこわすような新しい提案をすることは、すでに京大生ですら不可能なんだ(日本第二位(笑)の大学のはずなのに)、絶望しようじゃないかって話です。
「文句をつけるな」などと批判されて、像を精神的に壊すこともままならないなら、残された道はただ物理的な破壊しかない。
「俺達は黙って働いてるのに、文句言うな!お前も黙って働け!」っていうのとまったく同じ。
革新派は、調和の名の下に握りつぶす。びっくりするほど日本の抱えてる問題と同じ構図だね。
その点で、誠に残念ながら、「俺は完全に日本を代表してものを言っている」。
予定調和最高や!自由なんか最初からいらんかったんや!