妻がメシ作りたくない病を発症した。
何故かすき家に三人して来てしまった。
まあ良いか、祭りだし。
なんて考えてると、4歳になる娘が
「ぱぱ、あの人食べるのすんごくはやいよ」って俺に言う。
見るとカウンターには二十代前半とおぼしきスーツ姿の男が牛丼をかき込んでる姿が。
あれは俺だ、昔の俺だ、何にも考えず、ただがむしゃらに仕事して、未来の事とか幸せが何なのかとかから敢えて目を背けて、孤独を貪って世の中拗ねて生きてた頃の…
そんな俺の妄想に気付いているのかいないのか、男は尚一層のスピードで丼を空にし、ぼそりとご馳走様と告げると伝票を片手にレジへ向かった。
俺が娘に
「牛丼はああやって食べるのが作法なんだよ、特に一人の時はね」
って教えたら、妻が何馬鹿な事言ってるのって鼻で笑った。
君がどういうゲームをやっているかによる。
抜きゲはとりあえず頭悪いし、逆に頭悪くないとつまらない。
ビジュアルノベルはそこそこ読める文章を書くのがあると思う。
韓国のキムヨナが勝って金メダル、日本の浅田が負けて銀メダルを獲得する。その瞬間にCMが入る。そのCMに出演するのは浅田であり、CMは「浅田真央選手メダルおめでとう!」と浅田をこれ以上なく祝福する。ピンポイントでCMを作成する費用を考えれば、力の入ったCMであることは間違いない。しかしそのCMのスポンサー企業は在日韓国系企業であった。
韓国が勝ち日本が負けるという、よきにつけあしきにつけナショナリズムと韓国への敵愾心が盛り上がるこの瞬間に、韓国系とみなされがちな在日韓国系企業があえて日本側の選手を褒め称える。そこに韓国への敵愾心がまかり間違って自社へ向かないようにするための配慮と苦労を感じ取ったのは私だけではないだろう。
エロゲのシナリオライターってなんであんなに日本語が不自由なの?
「ビジュアルはダメだけどコンセプトが受けた」っていうエロゲはいっぱいあるみたいだけど
文章自体が上手いとか綺麗とかっていうエロゲある?
http://anond.hatelabo.jp/20100228223459
やあやあ
数ヶ月前にはてなに漂着したボクが色々教えてあげるよ
全部合ってるね
で、お求めの反応をどこでチェックするかだけれども
ここ、はてな匿名ダイアリーでのメインレスポンスははてなブックマークっていう右下に着く赤いサインさ
君の書いたエントリーが興味を引けば赤い数字がついて増えて行くよ お楽しみに
ないね
はてなは基本的に取り留めの無い内容が大好き
まあ本当につまらなければ流されるのみだけど
どこかにちょっとはてなーの自意識を刺激するポインツがあると反応が大きくなるよ!
いい年した女性の一人称がリリカルな響きのハンドルネームなブログやら
かなりキモめなアイデンティティを実装せずにはてな界隈で人気取ってるidなんかいないとすら言える
君は書く方だっけ、読み手としてもはてなーは厚いよ
書いてある内容や字面ほったらかしてすぐ書いてる奴の心理分析始めるお医者さんだらけ
だから君のさびしんぼ自意識はすぐ補完されると思う…
ごく普通の書き込みでも文章に粗があると叩かれるのか
実はあんまりそういう文章鑑定眼は高くないのがはてなーの平均だとボクは思う
てにをはが大丈夫なら問題なし あなたは問題ないよ、改行も出来てるしね
こんなことをいちいち気にするのは、私が打たれ弱いからだ。
勿論叩かれやすい嗜好・属性・思想、そういうのはあるけど
反応を得たければわざと非難が殺到するようなこと書く、ってのも大事だと思うよ
例示するなら社蓄プレイ、女を見下す傲慢な男プレイ、思い上がった小町女プレイ、このあたりはヒート買える
まあ匿名ダイアリーで一番反応を稼げるのはゆるい賛同を広く集めるエントリーだけどね
・自分の書いた文章を誰かに読んでほしい。賛同を貰えるだけでなく、あわよくば好意的に評価されたい
はてな全体としてはもう
ジェンダー、差別、あたりが賛同乞食には鉄板の支配側トピックだね
そういう人達に媚びる内容を書くのは短絡的にはいい手
あなたがはてなブログでやるなら差別反対方向のエントリを連打しながら
そのうちお友達グループの仲間に入れてもらえる
もしくはフェミニズムエントリ連打&フェミはてなーに星連打もいいけど
フェミお姉さんはサヨに比べ同陣営でもなあなあを嫌うから下手なこと言ってると問い詰められて泣くことになる
そのうちはてなのキングである今年30歳のイケメンがあなたの承認を得に擦り寄ってくる
色々と不安だけど、“はてな匿名ダイアリー 殺伐”でググったらこんな記事を見つけた。
不安なのは私だけではないようで、なんだか安心した。
左翼ネタ・差別ネタはあんまり拾ってもらえない、ブログやブクマに比べればね
あなたが女性だとすれば、彼氏との軋轢や彼氏いない歴やセクハラ被害体験談あたりを書けば絶対反応ある
それか「ワタシ女だけど、童貞ってどう言うこと考えてますか?」的な性差質問エントリ
「私はこうだろうと推測するんだけど」っていうのも書いておくと、
その認識とツッコミ者の考える現実とのズレを突っ込みやすくてモアベター
あとはそういう人狙いの飛び道具として、「○○が読みたい100冊」とか「○○の英語学習法」はメガヒット多いね
コメントの無い、あとで読まないのに「あとで読む」タグついたブックマークが四桁並んだりする
偉そうにアドバイスしてるボクは主に非モテネタで50~500ぐらいのブックマークを稼ぐ駆け出しだ
タイトルだけで良識ある人が眉ひそめるような酷いのをホッテントリにして楽しんだりしてる
書き上げたら反応予想をメモしておいて、実際の反応の流れとの違いをチェックする、修正、再トライ
という地道なことはやっぱりやっている
必ず全員には賛同されない(~~内は飛ばせ)
~~~~~
「生きてれば必ず良いことあるよ」と何も考えてない風に言ってのける
「他に解決する方法がある」と適当に言う
「若い頃は誰でもそう言うことを考えるものだ」と矮小化する
「倫理的でない、親や周りの人に申し訳ないの?」と問題をすり替える
だけど、だけど、だけど
「死ぬ事は原因療法」に変わりはないんだよー・・・といつも思う
「そんな事をあなたは言うけど、死ねないじゃん、矛盾しすぎプゲラw チキン乙www」
うっさいよ、そんなの分かってるよ理想論だよ
「死にたい言うくせに構って貰いたがったり、物欲性欲あったりして欲まみれってなんか変じゃね?上手く言えんが」
「本当は嫌じゃない」とかが半分あるのも気持ち悪いんだよボケ
「で、結局逃げなんでしょ?たらたら理屈垂らして、論理的に見せかけて現実から逃げてるだけじゃん卑怯者 何が理性的だ」
その通りだよ 論理的であろうとする事にも疲れたんだよ
意思の疎通が、自分の思考が、膨大な要因で正確性を落としていくことに我慢できない
あらゆる問題は山済みで、他者と共有する事も出来ず、解決の為の手段は見つからず、手段を探す手段もなく、蓄積されて負荷となる
こういう事を含めたあらゆるメタな部分でさえ制御できない要因が歪みを与えてると感じ
「ああ、もう何もかもは歪んで、何もかもは何にもならない」と思って
それならばと、感じたそのままを伝えようとするも、さらに歪んで
そして「多くの人の目に止まる場所に書けば誰かが・・・」と思っても
「この文読み返してみたけど、自分だったら全部読まないで他の読むなぁ」と感じ
「ああ、もうどうしようもないんだ」と感じた時
~~~~
「死ぬ事で、あらゆる問題は解決する」
なぜなら、考えたり観測する主体が存在しなければ、考えられたり観測されるものは存在しないと同じだからだ
「死んでも意識と記憶が残ってたらどうするの、天国とかあの世とか」って問題があるが
「ああ、願わくば魂的な物など存在しませんように」と毎日願いながら
こないだの朝生で
「よく失業者に対して
仕事を選ぶんじゃねぇ!仕事に自分のやりがいとか可能性なんて被せんじゃねぇ!とにかく働け!
と怒りまくってるオヤジがいるけどさ、
だったらエントリーシートなんて書かせるなよな」
という発言があって笑った。
増田の記事みて思い出した。
俺も元増田みたいなことを小学校の時やったことがある。確か参観日だった。
掛け算か何かの授業だったんだけど、当時の自分はまったくわからなくて、ちょうど元増田のように、今まで習った方法で何とか答えをひねり出した。
そしたら先生は発表してくれた。確か。
そのときは、皆と同じ解き方ができない焦りの後、一人だけ違うように発表されて少し嬉しかったような気がする。
良い先生にめぐりあったのかもしれないなぁ。
勉強には良い先生や参考書、やる気がもちろん必要だけど、それと共に独自で発見したり(既成の公式だったとしても)、それに感動することが一番勉強を促進するのかもね。
まあ誰と結婚しても、また別な文句言って死にたがってそうだけど。
「履歴書の空白はなぜですか」
「我が社が他のひとでなくあなたを採用することで、我が社にはどのようなメリットがありますか」
「空白があってもあなたを採用すべきだと言える理由を教えてください」
…については、説明が必要だろうな。
「自分の考えの甘さだったと思っています」
「生活サイクルは普通です。体は丈夫なので、雇ってもらえたらしっかり働きます」
「基本的には真面目にこつこつ努力するタイプで、勉強は嫌いではありません」
「御社の仕事分野について今興味を持っているのが志望理由です」
くらいのことが言えれば、なんとかなるかもな。
ガンバレ。
ただの惚気ー。
付き合って二ヶ月の彼氏と初めて手を繋いだ。
所謂恋人つなぎっていうやつ。
26年間生きてきて初めてのことで、焦るやら照れるやら、嬉しくて泣きそうになってしまった。
生きててよかったーと大げさだけど思った。
科学技術が進歩するとそれぞれの独立傾向が高くなると嘯いてみるテスト
現代においては、仕事をするには外に出て集まってコミュして・・・と色々と動くことがある
けどそう言うのがなくなって、自宅だけで人生が完結出来るようになったら・・・と考える
必要のない事、楽な方に流れるのはいつもの事だ
勿論、そういう技術の発展には、それを望んでる人が相当数居る事が必要だけど
一例
http://d.hatena.ne.jp/karaimonokirai/20100225/1267111952
客観的に見て、筆者に「あらかじめ偏見や悪意があったわけではない」とは思う。だが、筆者はこれらの光景を「自分の目で見て、素直に判断して、とある一国の文化(あるいは「国民性」とか言い換えても可)が『嫌いになった』」と発言している。
あるいは、多くの人が「何が問題なの?これはこれで正当じゃん」と思うかもしれない。だが、そう言う人は、たとえば捕鯨問題についてどのような感想を持つのだろうか?
たとえばとあるアメリカ人が、自分の「印象」に基づいてこんな記事を書いたとする。
自分は日本は好きでも嫌いでも無いし、別に環境保護について強い関心があるわけでもない。だが日本を旅行中、食堂などで捕鯨問題を取り上げたニュースがあると、それを見る人は大抵「シーシェパードは頭がおかしい」とか「所詮金のために環境保護を利用しているだけだ」とかいったコメントばかり言い、「鯨を殺すのはおかしい」という意見については自分の経験した範囲では一度も耳にしなかったことに驚いた。街中でも鯨肉など提供しているところは見ないしほとんどの人は日常的に鯨を食べないのに、鯨を殺すことに対してどうしてこれほど寛容なのか。残念ながら、自分は日本人というのは非常に残酷な民族なのだという感慨をもって日本を後にすることになった。
これは公正(fair)な議論だろうか。
私は、残念ながらこれは差別だと思う。彼は、鯨を「食物」と見ない文化から訪れており、かつまた自分たちの文化が過去にどれほど鯨を殺したかも知らない。彼の問題点は、物事に対する歴史的視点や、自分の背負う文化に対する批判的観点というものが欠如していて、自分の「素朴な感想で世界を見ることに全く無批判」である点だ。
「彼」は一応架空の存在である(よかった)。しかし、彼が今後日本に関する問題について、常にこの「見方」を「事実」として自分の判断根拠に採用することはほぼ疑いない(残念なことに)。彼は、パールハーバーも、太平洋戦争時のアメリカにおける日系人差別も収容所のことも、あるいは貿易摩擦から生まれたジャパンバッシングも知らないかもしれない。だが、何も教えなくても彼は、とある民族をひとくくりにして、unfairな意見に基づいた判断を下すようになった。これは立派に「偏見」であり「差別」ではないか。差別や偏見は、このように日々誕生するのであって、過去の差別について「教えなければ消える」というものではない。
捕鯨に関してだけではなく、とあるものごとについて、それをめぐる政治的状況、文化的文脈(コンテクスト)といったもの、状況性や歴史性や文化性を全く無視して(更に言えば自分自身の背負っている状況性や歴史性や文化性について全く批判的でなく)発言するとき、常にこのような危険は発生する。「率直で素直な感想」と称されるものは、非常に危険なのだ。
「自分がそう思ったことは事実であり何がわるいのか」といったヒラキナオリ、つまり「率直で素直な感想」と本人が認識しているだけに、こういった感想に基づく「意見」が修正されることは少ない。実際、「率直な感想は絶対であり、それを修正することなど出来ない」と多くの人は思っている。だがそれは大きな間違いだ。歴史性や文化的コンテクストを学ぶことで、ものの見え方や風景など簡単に一変するからだ。ある人の背景(たとえば「強がりをせざるを得ない状況や過去」)を知ることで、「ツン」な行動が可愛く(「デレ」に)見えてくる、という現象はとみに知られているが、それも同じである。「学習」は「印象」を大きく変化させる。
そもそも我々は、様々な状況性や文化を背負うからこそ、物事を認識できるのであって、「率直で素直な感想」といったものなど、本当は存在しない。どんなに直感的感情的判断であっても、何かを判断するとき私たちは必ず何らかの「知識」を土台にして判断している。学ばなければ、私たちはほとんど何も感じず、表明することもない。生まれたばかりの赤ん坊は、自分を取り上げる産科医や両親の「美醜」を「判断」したりはしない(子どもがそういうことで悩むのは、おおむね思春期の頃である)。
我々は、互いに離れた土地に住み、そして相手のことをよく知らない。知らないことは恐れを生み、行き違いや偏見を生む。そして差別が始まる。かつては川一つ、山一つ隔てるだけでも、そうであった(「○○村の奴らとはクチをきいちゃなんねえ」的な)。教えるから差別が持続するのではない、教えないから差別は発生するのである。ただし、それは「かつてはこんな差別がありました。差別はいけませんね。以上」といったことを教えるということではない。
従って、たとえば人権について学ぶプログラムは、以下のように進められなくてはならない。
低学年……「作法」として、「陰口を言わない」で「みんな仲良くする」ことを学ぶ
中学年……「作法」として、「素直で柔軟な発想を大切にする」「賞める」ことを学ぶ
高学年……「作法」として、「文化を大切にすること」「おせっかいと勇気は違うこと」を学ぶ
中学校 ……「知識」として、「色々な価値観、文化が存在すること」を学ぶ。
現状、人権教育にこういう見通しがないことはとても残念である。小学生に(イイトコだけ見せるような)異文化体験を推進したりしている人は、将来その子が「欺された!小学校の教師なんて嘘つきだった!」という感想をもつ可能性について全く想像していないのだろうか。私は、上のような準備が子どもにできないうちから安易に異文化体験を進めることは、百害あって一利無しだと考えている。
最初の文章の筆者に対して、どのようなメッセージがあるわけではないが、もし可能ならば、今回の件を踏まえた上で、単純に隣国を「嫌う」のではなく、「なぜ『今の日本』に住む私は、『今の韓国』の文化にこのような感想を抱くのか?」ということについて、調べたり考えたりしてくれるといいな、とは思う。これを読んだ後、たとえば図書館で戦前の日本の大衆雑誌とか読んでみるだけでも、私が言わんとすることは理解して貰えるだろう。
まともな人に会いたい
すがってしまうから、誰にも会いたくない
もうだれにも迷惑かけたくない
世界にはこんなにたくさんひとがいる
だから大丈夫
空気みたく人を求める
あのこはそんなにやさしい顔をしていたか
すごく久しぶりに君をみた気がする
きっと楽しいことも大変なことも飲み込んで
あのこなら半泣きでも笑ってくれる
ぼくのかみさまにいやなことがおこりませんように
需要が無くなる事について
それぞれの独立性が高くなったからな気がするんだよなぁ・・・
音楽でAというグループがあったら、Aの商品はAの他の商品にしか繋がらないようになった
ほぼ無限である商品の中から、いきなり「コレが良い!」と決めるのは難しい
選ぶって言うのは、一つ一つを実際に触る必要があるから出切る事であって
選ぶ物が沢山あると、人は逆に選ばなくなる
別に最初から興味がないわけでも、過去の体験でもって嫌いな訳でもない
ただただ、膨大な選択肢から自分の条件に合うものを探すのが大変過ぎるだけだ
けど、余りに多い選択肢と、それを選ぶ人々の条件の多さに潰れた
だから、ネットは広告やらマスメディアの新しい可能性だと感じる
究極に八方美人な事も、究極に条件に適したことも出来る
恐ろしく手軽に、恐ろしくアクセスされやすく、恐ろしくあらゆる人に
自分の最も条件の合う所を一回でも見つければ、そこに居るだけで良くなった
それでも選択肢は狭まらない、諦めは無くならない
けどそれについてどうやって知って良いか分からない
なら諦めて何も知らないほうが良い」
悪魔の証明は誰にも出来ない