はてなキーワード: 善行とは
自分も似たようなもんだけど
死体蹴りされたかろうが死んだあとでは自身でそれを認識することができない
生きてる間しか不幸になれない
どうしても身上に合った不幸に遭遇したいなら生きてるしかないな
蹴ってくれと言って寄ってくる死体蹴りしたい人は蹴りたくないけどとか前置きしたところで普通に死体蹴りたくて蹴る人であって、
べつにお前とそう変わらないし正しくも清くもないんだからそんなやつにわざわざ蹴られなくてもいいだろ
人相手にいいことしなかったしできる自信もないなら住んでる街とか保護猫とかでいいからなんかやってみたら
コンビニの募金箱に10円入れるだけだって他から来た多くの金の一部になって有能な人がどっかで役立ててくれるからそんだけでもいいじゃん
白杖の人がとあるお店の前でウロウロしていたから、入り口がわからないんだろうなと思った。
「こんちには。お困りですか?」
って声をかけて、やっぱり店に入りたいってことだったので誘導した。
で、何かすげー申し訳なさそうにお礼を何度も言われた。
ただ外出して店に行ってちょっと手伝ってもらっただけで、そうなってしまうのって日々大変なんだろうな、と思った。
というか、日本の、なんというか、世間様の目が神より怖いみたいな文化って生きづらいなって思ってモヤモヤした。
もうちょっと軽いノリにならんかね。若者たちの文化は変わってきていたりするんだろうか。
「この場所がわかんないんだよね」
「それは、ここだぜじいさん」
「おお、そうか。助かったよ。ありがとな。」
くらいの感じで良いと思うだよ。
俺だって自分が困ってたら誰かに助けてほしいから、誰かが困ってたら助けるだけで別に善行じゃないのよ。
過剰な敬語がいけない気がするのよね。関西人の方がフランクなのって、「〜しはる」で全部行けるからじゃねーかなって思っているんだけど、どうなんだろ。
標準語をそっちに寄せたらいいのに。
https://twitter.com/ElonMuskAOC/status/1675268446089773056
The reason I set a “View Limit” is because we are all Twitter addicts and need to go outside.
I’m doing a good deed for the world here.
Also, that’s another view you just used.
私が「閲覧制限」を設定した理由は、私たちは皆 Twitter 中毒者なので、外に出る必要があるからです。
また、これは先ほど使用した別のビューです。
俺ー氏も自殺したいと思っている。
から始まる一連のパロネタに社長への殺害宣言を混ぜたものを投稿しようとした所で「通報されたらマズいな」と冷静になって全部消した。
最近のインターネットはなにかあるとすぐにポリに電話したくなる奴らが大勢いるらしいから。(びっくりするかもだけど)
でもそう考えると自殺配信とかしてたら通報されそうなのになと思ってしまった。
嘘松だーとかいう話ではなく、なんかよく分からん正義マンが善行ポイント稼ぐためにレバガチャAボタン連打してたら救われてたのかもなって。
俺も多分、最初書き込んだときは「誰か俺にAボタン連打してくれー」みたいな気持ちがあったんだと思う。
でもふと冷静になると「いや、まだ早いな。ゆーて転職すればええだけやし。転職会議で★0にすればええし。マジで」と考えてやめた。
なんだろうな、その「通報すべき死にそうさ」のラインを見極める必要があるんやろな。
ぶっちゃけ特定班出撃でストーキングスキルでたまには命救ったれと思うわ。
人間みんな死んだことないからどこまでやると死ぬのか分からんしな。
構ってちゃん込みで自殺してるはずが深く切りすぎてガチで死ぬとか、完全に死ぬつもりだったけど計算ミスって生き延びるとかいくらでも聞くしな。
まあそのなんやろな。
答えはないな。
何したかったんや俺。
こんにちは、ニートです。躁鬱と自閉症を患っています。まともに働けないというか、もう会社の方が「頼むから来ないでくれ!」という感じなので、働いていません。工場で言えば不良品・不合格品です。工場ならそのまま処分されておしまいです。しかしありがたいことに、この世には障害年金という制度がありまして、このお陰で自由に使えるお金を確保できています。両親からも衣食住を施されており、生き長らえさせてもらっています。
経済的には社会のお荷物以外の何物でもありません。真面目に働いてきたはずの両親の負担にもなっています。生きててすみません。しかし、生まれてきてしまったからにはそう簡単には死ねないわけで、どうにか死なないで済む理由を考えています。例えば、人間の価値はお金だけで決まるものではない、みたいなことはどこかの宗教家やリベラルな人たちが言っていそうです。ですが、そんなことを言ったって、僕のような人間を目の当たりにしたり、このような文章を読んだりすれば、「こんな奴に税金使う意味あるの?」という気持ちが湧いてくる人も少なくないでしょう。僕もそう思ってしまいます。ですので、もっと直接的でわかりやすい、自分が生きている価値のようなものがあると生きやすいなあと思います。
そんなものが果たしてニートにあるのかというと怪しいところですが、心当たりがないわけではありません。それは僕の彼女のことです。いえ別に俺は彼女いるから幸せだぜ細かいことは気にならんぜリア充だぜということではないです。だいたい僕は薬でちんぽが勃たず、勃っても中折れしまくり、ついでに三次元にあまり性的な興味を覚えないので、セックスで射精したことがありません。今の彼女以外に付き合ったこともないので実質童貞です。リア充どころではありません。いえそういう話ではなく、もうちょっと内面的な話になります。
彼女は鬱病などを患っています。付き合い始めた当初、彼女は希死念慮が強く、酷く落ち込んでしまうことが何度もありました。本当に死んでしまうのではないかと思いました。しかし、辛抱強く話を聞いて、一緒に悩む内に、少しずつ生きる元気が湧いてきたらしいです。まだすっかり元気になったわけではなく、ちょっと前にも死にたいと言って駅のホームに向かっておりました。そういう時は僕もいっしょに駅に向かい、苦しみを共有しようとします。僕は躁鬱なので、鬱の人の気持ちがいくらかわかるというのもあるかもしれません。躁鬱でよかった〜。こういうことを繰り返す内に、彼女は徐々に前向きに生きられるようになってきたようです。どんな人であれ、一人の人間の自殺を止めるというのは、それなりに価値があることなのではないかと思います。
他にもあります。例えば、仕事とは何のためにするのでしょうか。ドラッカーによると、会社とはお金儲けのためだけではなく、顧客にサービスを提供するためにあるものらしいです。とすると、その会社で働く人もやはり、お金のためだけでなく、お客さんに何らかのサービスを提供するために働いていることになります。ではそもそも顧客にサービスを提供して何がしたいのでしょうか。たぶんですけど、それはお客さんを幸せにするためでしょう。人は人を幸せにするために働いているんです。そうだったらかっこいいなあと思います。僕は働けないですけど。
しかし、人を幸せにするというのは、何も会社だけができるものではないはずです。もちろん、会社という組織を作り、大勢で力を合わせる方が、個人が行うしょぼい善行などよりも、遥かに力強く、よりたくさんの人に届く価値創造ができるでしょう。また、経済とは個人の欲望を全体の利益へと変換する強力なエンジンであり、お金という代えがたい報酬を提供することができる会社は、より大きな社会貢献ができるでしょう。会社と平凡な個人とではできることの規模が違いすぎます。だから普通の人は、働いた方がより多くの人を幸せにできると思います。残念ながら僕は普通未満の人間なので、まともに働くことはできませんし、というか「お前と一緒に働くとか金をもらってもやりたくない」とか言われる始末なので、働くことによって人を幸せにすることは難しいです。しかし、もしこういう文章を読んで、ああ働いている俺はこんなアホよりは価値あるわ働いてる俺エライ、と自己肯定感を高めてくれれば、間接的に社会の役に立っていると言えるかもしれません。また、インターネットの多様性をわずかに広めることができるかもしれません。もしかしたら誰かがおもしろかったとか、アホだなこいつwとか、何らかの感想を持ってくれるかもしれません。それはお金にはなりませんが、しょうもないながらも何らかの価値を生む行為であることは確かでしょう。
あとは僕はネットで人を集めてフリーゲームを作ったりもしました。サクッと遊べるゲームで、ありがたいことにいくらかバズったりもしました。この活動はそこまで組織だってはいませんでしたし、お互いに手弁当で作ったゲームなので、会社のような強い価値創造ができたとは思いませんが、燻っている個人に活躍の場を作ったり、誰もが自由に遊べるものを作ることで、インターネットを少し豊かにすることができたのではないかと思います。
働く目的が人を幸せにするための価値創造なのだとしたら、規模の大小はさておき、僕も多少はそれをできているかもしれません。働いていないなりに社会貢献ができていたらいいなと思います。
と偉そうなことを言っていますが、僕はそんなしょぼい活動などよりも真っ先にやらねばならないことがあります。それは両親を幸せにすることです。家族の形はいろいろでしょうが、少なくとも僕は両親にかなりお世話になりましたし、今もお世話になっていますので、恩返しはせねばなりません。世話になっている両親すら幸せにできないで何が価値創造だという話です。
で僕に何ができるかというと、それはやはり自立することだろうと思います。それも経済的自立です。いえ現実問題としてそれはかなり難しいわけですけれども、僕のような奴でも何とか働けるところは全くないとは言い切れません。今は就労移行支援施設に通いながら、とりあえず障害者雇用でバイトできるところがないか探しているところです。よいところが見つかったら嬉しいです。もしあなたの職場に僕が来てしまったら、大変申し訳ないのですが、とてもお世話になってしまうかと思われます。今のうちに謝っておきます。すみません。
僕は人間の歩留まり率のようなものを考えることがあります。何%かはわかりませんが、経済的価値を生み出すことが難しい人間は出てきてしまいます。工場なら不良品はポイして終わりですが、人間をポイすることはあまりよくないことだと思います。少なくとも寝目覚めのよいことではないでしょう。僕もその何%かに入っている人間なので、できればポイされるのではなく、何とか意味のある人生を送れるようにできたらいいなと思っています。
僕と似たような境遇にある人たちは、自分は生きる意味があるのかとか考えることがあるかもしれません。社会のお情けで申し訳ない顔をしながら日陰で生きてろと言われたら、そうするしかないかもしれません。僕も現実社会ではそうしています。でもまあこんな匿名のインターネットでくらいは、人を傷つけない限りは好きに振る舞ってもバチは当たらないだろうと思いますし、あと僕はインターネットがわりと好きなので、インターネットが自分にとって居心地のよい場所になってくれたら嬉しいです。
ゼルダの多様性: 黒人のゼルダ姫の必要性
プリンセス・ゼルダは、助けを求めるお姫様から、力強い政治家、研究者、魔術師、戦士、リーダー、そして伝説へと成長した多面的なキャラクターです。その複雑さによって、ゼルダはゲームごとに性別の役割を打破する、刺激的な女性キャラクターです。シリーズ35年の歴史を通じて多くの変化がありましたが、ゼルダは常に白人であるという点は残念です。これは遺憾なことですし、有色女性に彼らが伝説的な存在になる可能性を示すための逸失した機会でもあります。
アメリカの黒人女性は現在、彼女たちが重要ではない、劣っている、尊敬に値しないといった内容や声に絶えずさらされています(社会の最高層まで)。黒人パワーの象徴は、これらの攻撃を和らげるために大いに役立ちます。そのため、黒人のプリンセス・ゼルダは、黒人女性が単なる脇役や敵対者ではなく、重要な存在であり複雑な英雄的な人物であることを伝えるメッセージとなります。
変化の必要
ゼルダとリンクが常に白人として描かれることは、白人だけが世界を守ることができ、そして正当にそれを支配しているということを暗に示唆しています。これは、任天堂のゲーム制作者たちの意図ではないかもしれませんが、制作者の間に暗黙的な偏見がある可能性を示しているかもしれません。この変化は、同じキャラクターが毎回登場するのではなく、主要な三人組が時間を超えてトライフォースの独自の具現化であるこのシリーズでは特に可能です。さらに、元の女神、勇者、邪悪の存在と血のつながりを要求する解釈であっても、これらの人物により多様な表現が排除されるわけではありません。なぜなら、血統が時間を超えて全く異なる人種間の交配を経験しないとするのは非常に不可能だからです。また、過去の存在とは異なる人種的な体を持つ同じ精神が宿ることはできないとは言い切れません。
黒人女性への影響
黒人女性は何でもできる存在であり、私たちが共有するメディアもそれを反映すべきです。『ブレス オブ ザ ワイルド』のゼルダは知識欲の旺盛な頭脳派であり、彼女に自分自身を重ねることで、黒人の女の子たちも同じように知的好奇心を持つようになるかもしれません。特に、ゼルダは家族やコミュニティに献身的であり、制度的な不平等に立ち向かおうとする多くの黒人女性と同じように、重い負担を背負っています。ゼルダの政治的な手腕も彼女のキャラクターに自己を反映させる素晴らしい要素であり、幸いなことにアメリカの政治もそれを反映し始めています。
ゼルダが一般的に超能力を持つことも重要です。黒人女性は、黒人のゼルダが光の矢を放つか、スーパースマッシュブラザーズで競争相手を圧倒する姿を見ることで、自分たちも力と魔法を駆使できる存在として感じるでしょう。そのため、プリンセス・ゼルダが黒人であれば、スピンオフ作品やカメオ出演、マンガ、ファンアートなどで彼女が黒人である可能性が出てきます。この重要なキャラクターが黒人として描かれることは、単一のゲームや単一のメディアでの表現以上の意味を持つかもしれません。
このシリーズは、最も重要なキャラクターの人種を変えることが比較的容易でありながら、ほとんど説明を必要としません。ただし、プリンセスの人種を物語の一部にすることを避けるとは思いません。彼女の性別は過去に問題になったことがあり、兄が自分自身がトライフォースの力を持つ権利があると考え、ゼルダIIでは彼女が男性のシーカーに変装しなければならなかったことがありました。したがって、ハイラルの王族の一員が黒人である場合、任天堂が人種の問題を繊細に扱うことに関して、任天堂がためらいを示すことはないと思います。
話は変わりますが、ハイラル王国を統べる王族を黒人として描くことは、黒人が王族として描かれる数の増加に貢献します(『ブラックパンサー』、ビヨンセの『Black is King』、『She-Ra and the Princesses of Power』、『ブリジャートン』など)。これらすべてが、黒人であることが特定の経験に限定されるものではなく、人々に白人によって伝統的に描かれてきた役割を占めることを許してくれるものです。
広い意味での影響
同じ質問をリンクについても簡単にできます(実際、2013年に行いました)、その分析結果も似たような結果となり、黒人男性を勇敢で決断力があり、忠実で親切で、時に愚かで善行を行う人物として描くものになるでしょう。これらの質問は特に意義深いものとなります。トライフォースを持つ唯一の非白人キャラクターが権力に飢えた敵役として描かれる場合、メディアでは人種やLGBTQ+の個人を陰謀を企てたり、非道な攻撃者として描くことがよくあります。人種の異なる人々がよりポジティブな役割で描かれることは、ステレオタイプの払拭と、それらを代表する人々の自己イメージの向上に大いなる助けとなるでしょう。
アメリカにおける黒人と白人の関係がこの文化的瞬間にどれほど困難であるかを考えると、黒人のプリンセス・ゼルダを見ることは、勇敢で優れたヒーローである黒人女性を堅く認めるものとなるでしょう。それは任天堂からの連帯の声明であり、また、ビデオゲーム業界ではしばしば十分に評価されていないコミュニティに対する、非常に目立つかつ大きな影響力を持つ肯定的な表現となるでしょう。最終的には、プレイヤーに黒人の女性キャラクターに共感し、彼女を気にかけ、彼女が重要であると認めることを促すでしょう。
「ゼルダの多様性」は、レジェンド・オブ・ゼルダが包括性に取り組むアプローチを紹介し、関連するキャラクターを重視し、マーガライズされたコミュニティのゼルダのファンと対話するシリーズです。このシリーズのインストールメントが開かれた心で受け入れられ、読者間での建設的な議論が奨励されることを望んでいます。
「NEED」を「SHOULD」と捉えてるんすか?
「人命救助と言う最大レベルの善行においてすら女の被害者意識で悪者にされて社会的に裁かれたり訴訟されたりするリスクがある!ぼくちんたちは被害者だし女やフェミはまことにクソだから助けねー勝手に死ね」って話
だからさあ
その「俺が助けなきゃこの女は死ぬんだ!この女の命は俺の手に委ねられている!!」ってのが歪んだヒーロー妄想なんだよ
その前提ある時点で当然相手は若く美しい女だろ、ババアなんて放置で勝手に死ねで終わる話だしな、ババアの人命救助しようと考えるほど真っ当な人間じゃないだろお前ら
いやきみ本当になんていうか低能だな
君はその若い女性を裸に剥いて~みたいなイメージでハアハアしてんのかもしれんが
はてブのコメント欄見てくりゃいいけどフェミ側の一番攻撃的な人達でも
君みたいなトンチンカンな論点でどうこうというのは言っていない
アンフェ側や弱者男性側が言ってるのは
「人命救助と言う最大レベルの善行においてすら女の被害者意識で悪者にされて社会的に裁かれたり訴訟されたりするリスクがある!ぼくちんたちは被害者だし女やフェミはまことにクソだから助けねー勝手に死ね」って話
どちらのチームも君みたいな論点で戦っていない
君は要するにみんなが何を言ってるか捉える力が完全に欠如してるわけだから
>確かに、法律とか倫理とかいう観点からすると、自分の行いは正しいし、あの市役所の連中は間違ってる。〔…〕でも、それは理念のうえでの話であって、現実は違う。
先に厳しいことを言うが、正しいことをしたら得をすると思ってたんじゃないか。なのに損をした。だからショックを受けてるように見える。
気持ちは察するけども。
世間を見渡せば明らかな通り──行いの善悪や正誤と、そこから損益のどちらを得るかは、ほとんど無関係だ。正しいやつを苦しめるバカはどこにでもいるし、司法も警察も天罰も悪行の全てを裁きはしない。
もしそうであれば幾つかの面で生きやすい世界かも知れないが、実際はそうではない。
『正しいことをしたのに損をした』と感じてしまいがちだが、『のに』なんて前提がただの浪漫(だったらいいな)だ。
『正しいことをした。そして損をした』だけのことだろう。で、それは何が問題だ?
助けたいと思った。だから助けた。良いじゃないか自己実現だ。しかもそれは善行だった。どこを悔やむ?
もし助けていなければ。
今もその職場で、今みたいな惨めな気持ちにならず、働けていたと思うのか? そんな同僚がいる場所で?
離れて正解じゃねーの、と見えるが。
アニメ化したのが必ず合うわけでもなく。
話長いのだと途中からダレてくるのもあったり。
とりあえず面白いと思ったのを置いとく。
「自分のやった事なんて誰にでも出来る」という意識だけが先行して、達成感がないです。
失敗した時は「誰にでも出来る事を失敗するダメな俺」
成功した時も「誰にでも出来る事をやっただけ」
主張すべき時も発言力とか、自分の発言に対する裏付けがないような気がしてしまって萎縮しました。
自分が嫌いなんだから、自分と一緒にいる人間は不幸にしかならないと考えてしまいます。
そうしたら、そんな環境に好ましいと思う異性を置きたいと思うでしょうか?私は思いませんでした。
自分が好ましいと思う人からは逆に距離を取って迷惑をかけまいとするだけの人生でした。
結局、飼い殺しにしてくる上長とか、お店で1hいくらで話を聞いてくれる水商売の人とかが話し相手になります。
「この人は私と話す事で他にメリットがある」という安心感を得られるからです。
・好きな事を好きと言えない
自分が嫌いなので、自分が話す事はネガティブな印象を持たれてしまうと考えます。
結果人との話題は無難などうでもいい話題だけになりますから、楽しい会話というものはあまり出来ません。
・目に見える善行にハマる
地獄の沙汰や死後の審判があるかどうかは私には分かりかねますが
少しでも自分をいい人間に思おうと、形に残る善行を積もうとします。
献血や髪の寄付、募金やゴミ拾い。そういった事をして少しでも自分がいい人間であると自己肯定感を得ようとしますが
そういった浅ましい心で行っている自覚はしっかりとあるため、焼け石に水です。