はてなキーワード: クリアとは
映画の撮影で、監督が役者に向かって「違う!」としかダメ出しできてないみたいなケースってあるじゃん。
それって「じゃあどうすりゃいいのか説明すればいいじゃん」と思いがちだけど、実はそれが容易じゃないから、指導する方も「違う」としか言えないことがあると思う。
「正解として何がどうなっていればいいのかは見た瞬間わかるんだけど、そうなるまでに何をどうすればいいかが説明できない」みたいな話。
あるいは「説明してその通りにしてもらう」だと内容が多くなりすぎて指導者にも学習者にも現実的でないみたいな。
となるともう学習者が自ら気づくことでしか習得できないってことになるけど、そういうのって指導者は「違う」以外にアドバイスしようがあるのか?というのが最近気になっている。
例えばあらゆる運動や所作で大事になってくる「体の軸をまっすぐに保つ」とか、まっすぐに保つことが目的でなく、それを無意識でこなした上で、必要な運動や所作ができなきゃいけない。
だから説明してその通りにしてもらうのも、手本を真似てもらうのでも、簡単にできることではないよね。
特に学習者の運動神経がとても悪いケースとか、めちゃくちゃ大変そう。
しかもこういうのって、体得できたとしても、おそらく体得の仕方に個人差がある。
ある者は「楽に腹式呼吸ができていることを意識する」でクリアするかもしれないし、またある者はもっと抽象的に「リラックスが肝心」で済むかもしれない。
つまり指導者がかつて体得したやり方が通じる可能性は高くない。
さあどうする?
ソースはダイヤモンドプリンセス号で対応をしていた高山医師のFacebook
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=2708129445907212&id=100001305489071
以下、書き起こし
さて、多くの方が心配されていること。それはクルーズ船から下船した人たちより、発症者が出る可能性はないか・・・地域での感染拡大の原因にならないか・・・ということのようでした。
結論から言って、ほとんどの方は感染していないでしょう。しかし、発症する方が出る可能性はあると思っています。国内で自宅に帰られたのは970人ですが、PCR検査の感度が100%ではなく、船内の感染対策も限界があったことを踏まえれば、発症者を想定しておくべきだと私は思います。
では、公共交通機関で自宅に返してよかったのでしょうか?ここを指摘される方が多かったですね。私は妥当だったと思います。
PCR検査にて陰性かつ症状もないことを確認した方々です。前述のように偽陰性の可能性はありますが、あったとしても極めてウイルス量の少ない無症状性病原体保有者です。
症状がない人であってもウイルス量が上昇しており、感染力を有する原因になっているとの指摘があります(Lirong Zou: N Engl J Med. 2020 Feb 19.)。
そのような人がPCR偽陰性となる可能性は低いでしょう。よって今回下船した方々が電車やバスといった一時的な空間共有をしたとしても、感染を広げるとは考えにくいです。
今後、発症してくる方がいるとすれば、それは自宅に戻られた後、数日してから発熱や呼吸器症状を認めてくることでしょう。ですから、なるべく自宅で過ごしていただき、症状があれば保健所に連絡するようお願いしています。
実はこれ、いま市中で確認されている新型コロナの患者さんの濃厚接触者と同じ対応なのですね。市中における濃厚接触者は自宅で過ごすことを認めているのに、クルーズ船の乗客には隔離を継続するというのは、矛盾していますし、人権にも関わると私は思います。
繰り返しますが、ほとんどの方は発症しません。ですから、乗客の皆さんも、迎え入れた地域の方々も、ことさらに恐れる必要はありません。14日間の船内隔離に協力いただき、PCR検査で陰性を確認している方々なのです。市中における濃厚接触者よりも、よほど厳格な条件をクリアした方々であることを理解してください。
だったら、市中における濃厚接触者も隔離しろ!という声が聞こえてきそうです。そう、完全な感染管理を求めるのであれば、それが一番だと私は思います。ただし、日本は憲法に基づいて施政が行われる民主国家です。隔離というのは人権の制限であり、濫用すべきではありません。だからこそ、国会で議論したうえで感染症法が定められ、それに基づき入院勧告が行われているのです。法を逸脱して運用することは憲法違反です。
しかるに、日本では、濃厚接触者を隔離する法体系にはなっていません。外出自粛を要請するのが限度です。今回のクルーズ船では、検疫法に基づいて「手続きが終了するまでは入国を認めない」という法理によって、事実上の隔離を行ってしまいました。ですから、「あれは人権侵害なのではないか!」という声の方こそ、むしろ私は丁寧な説明が求められていると感じています。
いわんや、下船させて検疫手続きが終了した方々について、さらに長期間の隔離を継続するなどできません。症状を確認いただきながら、外出自粛をお願いすることが法的な限界ですし、感染対策上もそれでよいと私は考えています。
以上、私見を述べさせていただきました。それぞれの専門家が立場を離れて、自由に見解を述べられる社会であって欲しいと思ってます。
ソフトチケット2枚セットで買ったがこっちの方がハマってしまった…
全てにおいて、全ての流れが心地良い誘導をするゲームデザインだ…
特に行きたい場所をマーキングしてそこに向けて一直線に進むというのはものすごい事。
それにしても、ものすごい難しい。
理不尽な難しさではなく、納得してしまう難しさだからハマってしまう。
ゲームがものすごい得意とは言わないが、初見で中盤くらいまではゲームオーバーを繰り返さない自負はあった。
時オカや、神トラで慣れると雑魚敵に何回ぶつかられても死ぬことはないと思ってたけど、
あと、武器と盾の耐久値があるゲームなのに、ストレスが良い塩梅に調整されている。
自分自身、武器や盾が途中で破壊されるゲームは結構ストレスだった。
せっかく育てたのに壊れてしまうとプレイヤーキャラのレベルに追いつく武器を探すのが非常に面倒だから。
だから、武器の強さよりプレイヤーキャラの腕と知恵で戦う必要がある。
加えて無数の武器が存在していて、物語上、それなりに強い武器は再入手可能。
そう考えると、武器は使い捨てでその時に強い武器を使って勝つのが正しいと思える。
世界を歩き回るのが楽しすぎて、1体倒した後に図鑑を解放した自分もヤキモキしなくてよくなった。
あと、祠につけたマーカーが、クリア後消えるのは地味にストレスがない。
全てが計算尽くされてる。
ああ、楽しすぎて、衣食住が疎かになる。
性欲すら湧かない。
確定申告の準備しないといけないのに…
艦これ、サービス開始した年の秋に登録し、時々離れたりしながらも5年くらいはずっとやってます
自分の属するコミュニティで「艦これ面白いぞ!」という話になり、友人が続々登録し出したので流れに乗って開始したのですが
その頃プレイしていた層はイベントで甲乙丙の難易度設定がなされる前に難しすぎて離れたり、つまらなくなってやめたりしていて
その理由を書いておきたい
他にも登録してしばらくプレイしたゲームはあるけど、基本的にずっとイベント!この期間を逃したら報酬もらえない!やつが多すぎて疲れた
艦これは何もない期間が比較的長い のんびり資源をためたりレベリングしたり改修したりできる 準備期間とイベントとのメリハリがあるのがすき
イベント期間も2週間以上と長いしね 忙しくても低難度にすれば数日でクリアできる
低難度のステージを楽々100回周るのはダルいけど、高難度のステージを6回踏破(全部で20~30周)するのは燃える
最近やっと大規模イベントの最終海域甲が安定してきました 遅すぎ
駆逐艦:夜戦・対潜・対空CI 空母:制空・昼火力 戦艦:昼火力・砲撃2巡化
などなど…
ただただ攻撃力の強いキャラを並べて敵を殴っていけばいいというわけではないのがゲーム性が高くて燃える
戦艦では潜水艦は殴れない。雷巡では地上目標に有効打が出ない。
空母出撃不可のステージで制空を取るために水戦・艦戦搭載可の艦を連れていく…
戦術の幅が広い。テンプレ編成ももちろんあるが、それ以外を見つけた時の高揚感。
ソロモン何度目だよ、とか言われるかもしれないけど、航路は毎回違うしモチーフになってる時期も違うっぽいのでやりがいはある
わたしが言いたいのは大阪城何回掘らせるねん、とかそういうことです
艦これのほうが海に出て敵を殴るだけっちゃだけなのに、飽きないのはなぜなのか…
その理由はおそらく前述してきた要素にあると思う
とうのLOVE以外もね、「イベント」なのに特別感ないんだよね
艦これは、よっしゃ!今回も骨のあるステージやで~!って盛り上がるのになあ
艦これの全てを称賛するわけではないです
それでも縛り編成提督がたくさんいるのがまた楽しくもあり
完全に個人の感想です
他のことやりながらでもキャラロストしないゲームをポチポチ100周するほうが楽って人もいるし
そもそもオートバトルが性に合わなくて自分で操作できるアクションゲームがいい人もいるし
艦これ要素多すぎて覚えるの大変だよね、多分わたしが初期から少しずつでも続けてきたから楽しめてるんだと思う
あと「ゲームの戦略」自体をああでもないこうでもない、とSNSや攻略サイトや掲示板でたくさんの人が情報交換しながら進めている、
この光景が好きだ
数年前に話題になったDoki Doki Literature Club!(DDLC)を今更ながらプレイした.と言っても最後までクリアしたわけではないが.
だから物語の結末を知らないし,このゲームの批評をあーだこーだ書こうという気も毛頭ない.
では何故こんなところにこんな駄文を書き連ねようと思ったか,それは今になってこのゲームに触れたこと,途中でプレイを諦めてしまったことにも関係がある.
まあ,一言で言ってしまえば自分の心理的な状態,気持ちの整理である.
普段は長文を書く習慣も無けりゃ読書もロクにしないことに加え,自分の感情を外に向けるといったことが出来なかった人間が整った文章を組み立てられるとは到底思えないが,どうしても書き留めて吐き出さないといけない気がしたのでこの場を借りることにする.
このゲームが話題になった当時,自分は鬱状態にあった.正確には医者にかかり鬱と診断されたのは2018年くらいのことなので,当時は自分が鬱だという認識は無かったが,振り返ってみればかなり酷い生活を送っていたと思う.それでも,精神状態が良くはないという自覚はあったようで,SNSの評判やnot suitable for those who are easily disturbedの注意書きを見てプレイはしなかった.
そして現在.未だに服薬中ではあるが一時より処方量も減り,身の回りの不安要素も軽減されて気分も上向きになり趣味や勉強に関わらず色んなことをやりたいなあと思っていたこともあって,思い出したようにDDLCをダウンロードした.正直,グロテスクな表現は好きではないがそれほど苦手というわけでも無かった(前情報がその程度の認識だった――これは大きな誤りだったが)ので,どんなもんかと軽い気持ちで起動した.
そこからは普通のギャルゲとなんら変わりなく読み進めていた.完全に自分の好みでナツキルートにするような形で進めたが,作中で文化祭が近くなってきた頃,主人公の幼馴染であるサヨリの様子がおかしくなる.これも,主人公のことが好きな気持ちを抑えきれずに他のヒロインに嫉妬してしまうよくある構図かなと軽く構えていた.が,主人公がサヨリの部屋を訪ねるシーン.彼女の部屋のインテリアは数年間ずっと同じまま.そこは酷く散らかっている(これはこの場面以前にも語られていた.)何かを隠し通そうとする言動.そして,朝起きられずによく遅刻をする,明るく元気に振る舞っているのは主人公の前だけ,という彼女の質や今までの言葉が脳裏に駆け巡ったとき,次のテキストで彼女が何を告げようとしているのかがハッと思い浮かんだ.鬱だった.まさに僕自身がそうではなかったか.自分を繋ぎ止めていたものが意中の異性ではなくとあるコンテンツであったという違いはあれど,自分がこの世に必要とされていないのではないか,何も出来ず生きているだけで周りに迷惑を掛けている自分に果たして価値があるのか,といった地獄のような疎外感(という表現が適切なのか分からない.僕はこの鬱屈として捻じ曲がった気分を表せる言葉を知らない)の中でもなんとか生を見出す理由になるものがどれだけかけがえなかったか.それがあるから頑張ろうと出来たことって沢山あったのではなかったか.そして自分が不安定なことを周りに悟られぬよう,自分で自分を騙し通すことの苦しみはどれほどのものだったか.どうしてもサヨリに自分を重ねてしまい,この辺りからゲームどころではなくなった.
幸いにも僕の場合はそれが自分の元から逃げ去っていくようなことは無く,いつでも逃避の先になってくれたし荒んだ気持ちを多少なりとも癒やしてくれた.安っぽい言葉ではあるが本当に心の支えとなるものであった.それは今も変わらない.しかし彼女はどうか.彼女は主人公自身の幸福に拘っていたが,実際のところはいつまでも自分の隣に居て欲しかっただろう.求めたら求めた分だけ応えてくれる存在でいて欲しかっただろう.そして何より,信頼していた人からの理解してあげたいという上辺だけの言葉は一層胸を深く抉っただろう.壊してしまったと言っていい.比喩ではなく本当に命よりも大切な存在を失ったとき,心の弱った人の行く末は.
そして一番ショックだったのが,他の誰でもない自分がこの選択の手助けをしてしまったということ.作中では,他人の趣味を馬鹿にするな,嫌な気持ちや恥ずかしい気持ちは他人と共有する,といったような他人を尊重し合うことの大切さが説かれていたのではなかったか.それでも僕は自分のためだけに好みの子と恋仲になるための選択を重ねていた.もう少し思いを巡らせて別の選択が出来たのではないかと思ってしまう.
ノベルゲームなんて筋は決まっているし,(分岐を抜きにすると)そこにプレイヤーの意思が介入することは無い.よって誰が見ても自分のこの思考は頭がおかしいんじゃないかと思うだろうし,自分でもそう思っている.恐らくゲームに向いていないんだろう.
だから,DDLCというゲームの登場人物として生み出された以上,サヨリというキャラクターの運命は決まってしまっている.どうあがいても避けられない結末がある.僕にも,他の誰かにもどうすることも出来ない.
この文章も,このどうしようもない罪悪感を打ち消すために書いているのかもしれない.それもまた自己中心的であるが.
とは言っても流石にゲームと現実の区別がつかないほどアレではないので,この体験をきっちりと消化出来れば良いなと思っている.他人に寄り添える人間でありたい.
何より,この一連の過程で迷惑を掛けている人が居ないのが幸いである.いや,こんな怪文書を不特定多数に発信している時点で迷惑極まりないな.
以上.
毎日多くの人・時間を費やしているが議論する場にはならなかった。より文字数を少なくし共感を得るためだけのツールとなっておりメリットよりもデメリットの方が多い。
裁判のように過去の事例を参照せず、すぐに流れてしまうため議論を深めることもない。
SNSやヤフーニュースが出始めであれば、実験ということで済ませばいいが、
多くの炎上では1次ソースではなく、メディアによる発信を再送信しているに過ぎない。
政治への監視に有効だという意見もあるだろうが、その場合は効力を持たないネットのSNSよりも、直接政府機関へのパブリックコメントに出すべきである。
これ、仕事の話にしてるから「そもそも仕事はしたくないもの」みたいなバイアスかかりやすいけど、好きでやるゲームとかでも同じなんだよ。
だから人間にはいろんなのがいて、そこはどうやっても変えられないことで、それぞれのスタイルにあった集団やポジションについて住み分けするしかないと思う。
ゲームでも、成長したくない自称エンジョイ勢と上手くなったり強くなるのが楽しくてやってる他称ガチ勢の対立(対立煽ってるのは双方の一部でありほとんどはうまく住み分けしている)というのがありがち。
成長したくない人の集団にそうでない人が割り込んでいって「何故あれをしないのだ」「何故そんな装備なの」「その成績で満足してるの?」というのはどっちも不幸になる。何が楽しいのか何を求めているのかが違うんだから。
逆に、これをクリアしよう練習するぞってやってるとこに「ゲームなのに本気でやって、努力とかして何が楽しいんですか?」と冷やかしたり「俺はゴミ装備で放置でいいや」と寄生したり、ここのムーブはああした方がよかったんでは?等とやりとりしてるところに「仲良くしてください!」(こういう人はディスカッション等を敵対的行為と思いがち)と勘違いで割り込むのもどっちも不幸になる。
生活に必要ない個人の自由でやってるはずのゲームでさえこうであり、それぞれのスタイルで満足しているならお互いの陣地を荒らさず住み分けしておくのが一番楽なのだ。
仕事であれば、失敗してもいいからやるぜというプロジェクトに「どっかのパクリやって楽してたいです」って人きても双方がいい気分にならないだけだし、人命に関わる設計で寄生根性で手抜き仕事する人いると会社の命運に関わるし(経験あり)何も考えず言われたことだけやる人を沢山集めたい所に無駄に頭まわる人がきても困る人間がいる。
まぁ、それはそうとして、改善することや上達することが楽しい人種からすると、進歩のない旧式の効率の悪い方法で延々とやり続けるようなスタイルは苦行のように見え、辛くないのか?と思うのはゲームでも仕事でも日常生活でさえもよくあることだ。
まぁ、そういう人間にとっては情報を集めたり学んだり文章を読んで理解したり新しいことをやるリソースに生命力を費やすというのが重荷で辛いことで、または成功体験がなくそれによって見込める得が全くないと感じるために、天秤にかけると賽の河原で石を積み上げていた方が楽なのだと思う。
辛くないのか?と思う人間には賽の河原で石を積み上げる仕事は苦痛なので棲み分けるのが双方ハッピーなのだ。
とはいえ、仕事の場合は社会全体を考えると少し話は面倒になる。
あまりにも効率化されない会社は不当に仕事を水増し、労働の単価が下がる。えげつない言い方をすれば、能力の低い人間をある程度割り切って切り捨てないとブラック企業はなくならないみたいな感じ。まぁ、実際は賽の河原の石積みでいいという人向けにブラック企業はなくならないのかもしれない。ずっと未来までこうなのはあんまりなのでなんかいい感じになって欲しいけど、そう思ってるのも石を積みたくない人種だけかもだからなー。
あくまでリストラされない、給料が下がらない、大きな病気で働けなくなるなどがないことを想定して。
俺35歳妻30歳、共に大卒で働いて一人暮らし、から2年前に結婚。現在2歳の子供1人、今年生まれる予定の子供がもう1人。
さすがに子供が2人になったら今の家は狭くなるので転居、もしくは家の購入を考えている。
現在時点で貯蓄は株式外貨投資信託等で1200万、現預金が800万、確定給付企業年金が500万くらい。
年収は世帯で1200弱くらい、妻は今時短でこのあと産休育休、復職してもまたしばらくは時短。
子供は2人でいいか、という話をしている(2人目の性別によっては3人目も)。
将来のことを考えてお金貯めておかないとね、と言っていたが
子供に毎年平均で100万円かかる想定(1人育てるのに2000万という話があるので)でも結構な額の資産になる。
(どれだけ悲観的に計算しても60歳時点で持ち家と3000万円以上の資産が残る)
家の購入が人生で一番の買い物(総額で6000万円ぐらいを予定)で、
「話が通じる」「話が通じない」とよく言うが、そもそも話が通じるとは何なのか。その2つの間の違いは一体なんなのだろうか。
話が通じるというのは、お互いの間に概念が共有され、価値観が理解しあえるということだろう。これは、相手の意見に納得するという意味では必ずしもない。相手の認識を理解し、尊重することを意味している。
***
ところで、まず人に話をする際に意識することは、相手に伝えようとすることだ。まずはこの点なしにはただの啀み合いにしかならない。ネットの上の言論は、まずこの点をクリアできないことが多い。そのため、話は通じない。相手に伝えようとする努力というのは例えば、相手と自分の共通する観念をもとにして、相手の理解を深めるという努力だ。
この共通する観念が少ない、あるいはないと、話は極端に通じづらくなる。あまり適切な例が思い浮かばないが、例えば盲目の人に色を説明するようなものだ。色をあらゆる言葉を使って説明しても、色それ自体を認識できるわけではない。
***
あるとき、国会でX議員が理屈の通らない、全くもって意味不明な答弁をしたとしよう。それも、明らかにその者は無能と認定できるような答弁としよう。Z新聞はこう報じるだろう。
はてなブックマークでもよくわかるように、本文を読まないでタイトルだけで記事を読んだ気になって、その感想を他人に共有する者は多い。(データはないが、少なからずあるだろう)
しかも、新聞ではわざわざ意味不明な発言を全て書き起こすということをしないし、あくまでも文章であるので、読んでいたとしても、その答弁の様相の全てが伝わることはない。
前述したように、明らかにコミュニケーションの能力がなく、コミュニケーション能力上「無能」と認定できるような発言をしたのであるから、無能と認定されて然るべきなのだが、残念ながら新聞を読んだ人間にはその無能さが伝わらない。
無能を無能と理解できるのは、この議員の答弁を動画で見た者である。動画には発言の全てがあり、例えば表情の変化や抑揚、顔色、声色などがわかる。
***
話が通じないのは共通する観念がないからだ。例えば、動画を見た人の間で生まれる共通認識としては、「意味がわからない」だろう。例えばX議員の例のように、「意味不明な答弁」と糾弾する非支持者と、動画を見ないかねてからの支持者との間では、X議員の無能さについての議論は通じづらいはずだが、動画を見た人々の間では「意味不明である」という共通認識が共有できる。
https://twitter.com/knife9000/status/1222876809483546626
例えば意味不明な答弁が行われたときに、これを問題にするか、問題にしないかはまた別の問題だ。無能であることを認めずに問題にしない、というのは無能であることを見抜けなかった受け手の問題はあろうが、だが無能であることを認めて問題にしない、というのはおかしい。後者の場合は、「無能が国民を代表している」ことを認めているから、衆愚政治の信奉者か、国家の崩壊を心待ちにするアナーキストくらいしか適切な人物像が思いつかない。
***
結局この文章も人に伝える能力の点で無能には違いないのだろうし、論理的な無能さを露見するものにはなるし、またその無能を認識しながらこうして文章を書き殴るのもまた無能だが、結局言いたかったのはお前ら国会見てる?