はてなキーワード: 先生とは
男です。
私は小さい頃から、頭も良く、ルックスも良く、運動神経抜群、芸術の才能もあり、面白くて、とにかくモテた。
よく色んな担任の先生からも不思議な才能、不思議な魅力があると言われた。
ただ、これは才能ではなく私があまりにもしつこいうえに、理論武装してるからだと思われる。そして、色んな状況に応じて平気で豹変できる。また、相手の利害も侵さないように説得する。
なぜここに書いたかというと、10年以上前の事を思い出したから。
とある有名バンドのライブ後に友達と大手チェーンで飯を食ってた。23時頃だったと思う。遠い席に3人組の親子がいた。男性60歳ぐらい、女性と子供はもう記憶にない。
その60歳ぐらいの男性が俺のほうをじっと見てた。何か嫌な予感がした。
君は天賦の才能があるでしょ。そういう人間は大成功するか大失敗するか、両極端に分かれる。
とにかくコツコツ努力することを忘れるな。
AIに仕事を奪われた絵師 のNoteを捏造だ創作だと騒いでる人、漏れなく藁人形か誤読なのはなんでだぜ?
よー清水先生まで「社会人として働きつつ趣味で立ち絵を年間200枚描くとかすごーい!」とか言っちゃってる。。
元の記事 https://note.com/tokume_kibo/n/n05017591b28b
ココナラとかSkebとかSKIMAとか、そういうコミッションサイトでフリゲーやTRPGやVtuber用の立ち絵イラストを1枚1万弱で売り捌いている、いわゆる「アマチュア底辺絵師」だった。(そう呼ばれる層にいた、という意味で「底辺」という言葉をあえて使う)
年間の依頼は200弱。最終的な当時の年収は160万くらい。
彼は、やがて定年退職し、程なく息を引き取った。
だが実は、モデルガンはM249、湾岸戦争で使用されたミニミ軽機関銃そのものだったのだ!
教師が持ち帰った軽機関銃に殺傷可能な弾が入ってたことを知る者は誰もいない。
装填されたマガジンは、全校生徒を静かにさせるのに余りある力を持っていた。
しかし結局、悪夢が実現されることはなく、銃は人知れず処分された。
さて。
彼に罪はないのか?
やった時点では問題なかったのに、事後に他人の行動によって「有罪」になるのは納得しがたい。
どこが分水嶺なのかの判断が難しいので、誰が「有罪」になったとしてもおそらくは納得できない。
いつでもそれに相当する人がいるわけではないし、どの時点から責任を問われるという点で上二者と同じ問題が生じる。
この例ならありなのかもしれないけど、「無視」が相互に観測不可能な行為だったケースでは疑問。
ちょっと違うけど冤罪裁判の後始末とかを見てるとこんなものなのか、とも思う。
でも、みんな他人には厳しいので、裁判所や検察が自分たちを裁くとき以外にはこの基準は選ばれない気がする。
前半→https://anond.hatelabo.jp/20240718232635
勉強なんてますますしてやるかボケとなり、母が理想としていた聡明で清楚な娘なんてぶち壊してやった。制服のスカートを短くして、私服も男っぽくして、寄り道買い食い、刈り上げにして、運動部で日焼けしまくって、口も悪くなった。母が嫌いなゲーセンにも内緒で行ってた。さすがに身売りとか夜の街とか借金とか法律に反するとかのやばいことはしなかったが、できる限りで親の理想と反対を行った。
学校の授業は楽しかった。一部の先生は母みたいな上から目線で嫌だったが、大体はみんな優しかった。上から目線でバカにする人はほぼいなかった。私立だったからだろうか。勉強以外で得意なことがあるならそれを伸ばそうという校風だったからだろうか。
そうなってからはカンニングなんて頭になかった。気が付けば追試の数が減っていた。追試になったときも同じ追試仲間と一緒に勉強するのは苦じゃなかった。学校で受けた全国模試では下から数えた方が早かったけど、得意科目は上から数えた方が早かったからそれでいいやと思ってた。小学生の頃は得意科目がよくてもメインの科目ができないといけないと思っていたがそんなんど〜〜〜〜〜でもよくなった。父と夜遅くまで遊び、兄弟と旅行や遊園地に行き、母に強烈に怒られた時は友人が「じゃお泊まりしよっか!」と友人宅に何度もお泊まりした。友人の母も「子供がいっぱい楽し〜!ふぅ〜!」なノリでよく花火をして、焼き肉に連れて行ってもらった。この友人の母は「留年しない程度に勉強すればいいじゃ〜ん。あそぼーぜ!」な考えで、影響されたと思う。
一度高校の頃、地学で満点近いテストを母に見せたが「学校の勉強なんだし当たり前じゃん。しかも地学って笑」と笑われた。それ以外覚えていない。くそな思い出。勉強しろ!とお小遣いで集めていた漫画やアイドルグッズを全部捨てられたときもあったが、それでも勉強なんかしてやるか!となった。
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大学受験期に差し掛かり、母がまた中学受験の時のようにテストの点数点数点数となった時期。入りたくもない塾にいれられ、難しすぎる授業を受けた。宿題・予習の量が尋常じゃなく、難しさも相まって何もわからない。学校の点数も口うるさく聞いてくる。親が金を払っているからさぼる事はしなかった。塾の授業も遅刻せずに真剣に聞くが授業スピードはかっとんでいくのでわからない。
その時の塾の先生は優しかった。すっごく初歩的なことを聞いても「わからないの?」と責めて来ない。しかし優しすぎてずっと何度も質問するのがなんだか申し訳なくなってしまった。
せっかく中学で治ったと思った小学生の頃に身に染みてしまった質問は恥が邪魔して何度も質問に行けず悩んでしまう。
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母は教えてくれない。教えないくせに「こんなの聞いていればわかる」「私はできた」と責めてくる。「あんたはやる気がない」「大金を払っているのに」「私は自力で大学に入った」と武勇伝も出てきて家では口を開けば喧嘩だった。点数点数偏差値偏差値検定検定順位順位ばっかりだった。当時の私の偏差値は34で高校3年でようやくギリギリ英検3級が取れた(一敗している)。バカなのはわかってた。学校のテストは大丈夫だが、受験となるとレベルが違う。全くわからない。
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そんな中、塾で模試を受けたとき、ふと横の人をカンニングしてしまいそうになった。目が横に動いたと意識した瞬間に前に戻した。カンニングという選択肢が常に頭にあることに気が付いた。小学生の頃に常態化していたカンニングが邪魔をしてくる。
それから模試の最中は目の前の答案用紙ではなく、自分との戦いだった。駄目だ駄目だとペンを握る。時間を見ようと顔を上げたときに他の人に目がいってしまう。そして自分を責める。カンニングの文字が頭に浮かんでしまう。結局集中できずに模試が終わる。
自分はこんなにもカンニングがすぐ思い浮かぶ人間だったのか。最低だ。でも点数が悪いと怒られる。否定される。もう親は自分に関係ない!と言い聞かせても思い出すのはあの冷ややかな目。「あ、今から怒るな」とわかる表情。思い出すだけで耳が痛くなる甲高い声。早くこの受験戦争から脱しないとカンニングをしてしまう。絶対にしてしまう。早く脱したい。でもどうやって脱するんだ。だめだ、だめだ、だめだ、と模試を受けるのが怖くなった。その後も模試を受けたがカンニングしては駄目だという戦いをしていたことしか思い出せない。いつも終わった後はお腹が痛かった。
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勉強してカンニングしないようにすればいいと勉強しても「カンニングしちゃえば楽なのに」と悪魔のささやきが頭にこだまする。勉強しても頭に入らない。覚えられない。勉強していると何故か頭が痛い。喉が苦しい。お腹に激痛が走る。自習室にいるのに母に怒られてしまうと怯える。母の視線が怖い。怒っていない時でも怒っているんだと毎日思う。あの耳が裂ける金切り声でキレてくる。突然来る。負けないぞと立ち向かおうとする。でも朝「おはよう」とあいさつするのも精いっぱいだった。「おはよう」から何に転じて怒られるかわからない。同じ屋根の下というだけで朝から晩まで、いや寝て意識が飛ぶまで怯えていた。「おはよう、そういえば模試の結果まだ届いていないの?」と言われるのではないか?「おかえり、今度テストだよね?」と言われるのではないか?眠くなって自室に戻ろうとすると「受験生なのにこんな早く寝るの?!」と怒鳴られることがある。母の気分次第だ。
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そんな時、行きたいなと思った大学のAO入試を知った。自分は勉強と指定校推薦は無理だったので早急にAO入試にシフトした。論文と面接は楽しかった。自分の考えを丁寧に文と言葉として落とせばいいので、公式を覚えなくていい。面接も自分の会話ペースに引き込んで、延長するくらいには自信があった。
大学は有名どころに受かったので母は喜んでいた。「あんたはしゃべりがうまいからね!」とドやっていた。「何自分手柄にしてんだよくそが」と反抗期真っ只中の私はキレていた。今までさんざん「勉強できないあんたは大学なんか行けない。受験を舐めている」と言っていたくせに都合のいいやつと思っていた。私が成人した現在は「あの中学に行かせてよかった」とほざいている。お前のせいでカンニングしたという過去が存在しているのになと時たま思い出してしまう。
受かった後に、とある大学入試を本気で真面目に解いて、マーク試験なのに200満点中18点だった時は父は大爆笑、母は呆れていた。「択一式なのにwwwwwま、真面目にといて?wwwある意味天才だwwww」といった父の言葉。なんだかその時に呪縛が解かれた気がした。
母は既に大学に受かっているという体があったから呆れで済んでいたと思う。それか父と兄弟がその点数で大爆笑していたからか。怒られなかった。
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AO入試を受けさせてくれた母には感謝している。大人になってから聞くと「AO入試なら受かると思った」と。「お前にとりえなんてない。おしゃべりがうるさい子。反抗期長すぎて親を何だと思っている」とキレていたくせに。母には感謝している部分とぶん殴りたくなる部分がある。
中学受験についても感謝している。受験させてくれたことには。小学生の終わりかけのころはいじめられていて、近所の公立に行ったらそのままいじめられ続けていたと思う。受験で救われることもあったから、受験を完全なる悪だとは思わない。むしろ受験をして出会えた素敵な人たちがたくさんいる。
当時、いじめられていると母に言ったら「あんたが弱弱しくするからだよ。勉強で見返せば?」と助けてくれなかったので、ま、いじめで受験させたのではなく、母の自己満だろう。それでも私は良かった。複雑な感情だ。
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大学生時代の時は授業と勉強が楽しすぎて単位上限を超えたので聴講もしてずっと大学にいた。
そして検定を好んで受けた時、カンニングを意識することはなかった。自分のペースで勉強するのは楽しい。誰にも怒られず、自由に勉強して好きに試験を受けるのは楽しいので、カンニングなんて微塵も思わない。試験が楽しくて試験中は解くのに夢中になっている。落ちたって「あちゃー」と自己責任で終わるからプレッシャーもない。
検定で〇級受かったと母にいうと「まだその級なの」とバカにしてくる。そんなもんだ。
勉強以外では仲良くしている。受験も就活も終わったからか母は丸くなった。怒らなくなったが、勉強の話になるとこんな感じだ。
社会人の今は帰りに図書館に寄って気象の勉強をしている。今度は地震の勉強でもしようと思う。
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カンニングしたというニュースを見るとカンニングをした子が心配になる。ニュースだから家庭環境は知る由もないけど、気になってしまう。カンニングをしてバレてしまい、退学、そして親から怒られるのだろう。思春期に親から怒られるあの形容しがたい恐怖と不安は自死すら考えてしまうだろう。詳細は分からないが、「この子がカンニングした理由が私と同じならかわいそうだな」と思う。カンニングは悪いことだ。悪いことだという大前提での話だ。金銭の取引をしているようなカンニングは知らん。
ましてやカンニングで責められて自殺、親が学校を訴えるなんて察するものがある。なんで子供がカンニングしたのか親はわかっているのだろうか。(処分の内容は一旦置いといて)
出来心だったとしても何でカンニングという行為をしてしまったのか。いじめとか、学校側がカンニングを仕向けて嵌めたのなら訴えるのはわかるが、そうでないのなら親がどんな思想で訴えたのか、何となくわかってしまう。子供の心情を察する。
定期的に話題に上がる教育虐待を受けて親を殺してしまった女性までは酷くないとはして、テストの点数によって怒鳴られ・責められる子はたくさんいるのだろう。バレていないだけでカンニングをしている子もいるだろう。
それを思うだけで辛くなる。私も反抗期がこなかったらカンニングを続けていたかもしれない。親に逆らえない性格だったらと思う事がある。勉強以外を認めてくれる人に出会わなかったらどうなっていたか。父、祖母や兄弟も私を勉強でいじめはしなかったという家庭環境も助かったと思う。
カンニングをする子は本人の意識の問題もあるかもしれないが、環境も強い気がする。カンニングが悪だとはわかっているが、少しでも点数を良くしないといけない事情がどこかにあるのではないかと思ってしまう。私はモラル<親の優先順位になっていた。悪だと思ってもやらなければいけない。そんな環境があるのだろう。
点数を気にしない人と出会うしかない。そんな環境にしないと抜け出せない。どうにかしてその環境から逃げ道を見つけてほしいと思う。カンニングをしてしまった事実を消すことはできないが、その子がカンニングを続けないという選択肢を選べる環境になってくれ。そう願うばかりだ。
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カンニングした人、ごめんなさい。カンニングした私は最低です。カンニングだと気が付かずに点数を付けてくれた先生たち、ごめんなさい。
今は勉強をすることが苦ではないです。大学に入ってから勉強が楽しくて仕方が無いです。だから昔の分、大学生から今まで勉強しています。カンニングなんて、ニュースを見なかったら思い出さないくらいには存在を忘れています。今は勉強が楽しいです。自由に、好きに、勉強できるのが楽しいです。
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カンニングは卑怯であり、姑息であり、やってはいけないことだ。大前提である。
長いけど吐きたくなった。本当は墓場まで持って行くべきだと、ずっと思っていた。
だけどカンニングのニュースを見て以来、ずっとモヤモヤしていた。過去の清算をしたくなってきた。そんな年齢なのかもしれない。
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私にとってテストの点数なんかどうでもよかった。友だちと遊べて、学校の行事に楽しく参加できればそれでよかった。だけど親は違う。成績が全てだった。普段は優しくて褒めてくれるのに、点数を見たときは怒ってる。だから低い点数なんか取るわけにはいかなくてカンニングした。誰にもバレない上手いカンニングをしていた。
こんなことを言えば「カンニングをするなんてクズ」「性根が腐ってる」「カンニングした奴はぶん殴れ・退学」みたいな意見が出ると思う。そうだろう。自分もそう思う。そう思っててもカンニングはやめられなかった。やめたら点数が悪くなる。そうすると親に怒られる。第三者から指さされるより、自分の母に怒られるのだけは死ぬほど嫌だった。
「なんでこんな低いの?」「なんで勉強をもっとしないの?」「遊んでいるからだよね?」と責められる。
でも当時の私はそれに「はい、ごめんなさい」しか言えなかった。小学生だった当時の自分は「なんで?なんでがわからない」としかならなかった。しかし言えば「ふざけてんの?」と絶対に怒鳴る。怒鳴らなかったとしても頭悪いと思われるという事実が嫌だった。怖くて怖くて怖い。母が自分を否定してくるという事は、小学生の自分にとって死ぬことの次に嫌な事だった。母がキレたときの金切り声が嫌だった。
そして勉強しようと机に向かう。何もわからない。何をどうすれば覚えられるのかわからない。あ、そうだ、聞けばいい、そう思っていたのは最初だけだった。今思えばやらなければよかった。
小3くらいの時、学校の先生に「これがわからない」と聞く。先生は小ばかにしたように「こんなのがわからないの?!」と大声で驚く。クラスメイトに丸聞こえ。クスクス声が聞こえた。「わかんねーから聞いてんだよボケカス」と思った。「ひたすら書けばいい」と言われた。どうしても根本的な説明が欲しくて何度も聞いたが「あー、はいはい。これは教科書のここみて」と言われただけだった。先生はそのまま1軍のグループと一緒に遊んでいた。
また塾で算数の範囲が簡単でどんどんレベルアップして、学校で習っていない割り算に突入した時がある。初めてみる記号でわからない。いつも親切に教えてくれる信頼していた大人が休みだったので、別の人に「教えてください」と言ったら「は?!こんなのわからないの?!」と言われたのが今でも鮮明に思い出す。「えと、初めてみる記号で…」と怯えながら言うと「ぷwwww割り算なんて簡単だよ。ほら6÷2は、鉛筆6本を2人で割るんだよ」と。明らかに面倒くさそうな態度だったから「あ、はい、わかりました」と切りあげた。"割る"という概念すらわからなかった私は適当に解いて採点に出す。全部バツだった。泣きたくなった。全部バツは人生で初めてだったからだ。
中学受験期、受験用の塾に通い始めた。わからないことを塾の先生に聞いた。「この程度で質問しにくるの?こんなとこスルーしていい」と言われた。「この程度もわかんねーから聞いてんだよ」と思った。教えてくれたけど「こんなの簡単。余裕だよ。試験になんかでないよ」と言う。私にとっては本気で悩んで本気でわからなかったことだった。それは簡単なことで質問する質じゃない。自分の質問することは簡単すぎて馬鹿にされる。そう思うようになった。
親に聞く。「塾(または学校)の先生に聞きなさい」と言われた。怒られるかもと思い何度もお願いした。しかし母は上から目線で「ねぇ、なんでわからないの?こんなに説明しているのに?聞いてる?」と言った。私が「どうしてそうなるの?」「なんで?」と聞きすぎたのかぶち切れた。「理由より覚えろ!」
積み重ねによって、わからない→この程度もわからない・簡単と言われるだろう→自分は馬鹿→なら勉強したって意味ないじゃん。といったループになってた。
解説を読んで「なるほど」と思っても、何も見ていないと何もわからない。テキストを解いても見たことある問題だなで終わってしまう。そして解説を見て「あれと同じ問題だったのに覚えていない。自分の記憶力はダメなんだ。自分は馬鹿なんだ」と自分が嫌になる。もっと勉強が嫌いになる。自分も嫌いになる。間違えちゃだめだと普段の勉強で試験並みのプレッシャーを感じていた。そしてもっと勉強が嫌いになって机に向かっても宿題に答えを写す作業だけしてた。
また、父は「遊んでこそ人生。いろいろ遊べ!」そんな人間だったので、私は父親っ子だった。それもあって母に内緒で父と一緒に出掛けたり、買い物をした。バレたときは怒られたが父はヘラヘラしていた。母が父に怒らないようにカンニングをしていたのもあった。私の点数がよければ母は怒らない。父も怒られない。兄弟に飛び火がいかない。
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理科だけは楽しかった。星とか断層とか自然には興味があった。だから塾のテストでも理科だけは点数がよかった。全国順位も高かった。だけど一個だけ点数がよくても塾のクラスは上がらないし、母は「理科がひとつできたところでねぇ…」と言う。中学受験のメインは算数と国語だからと特に褒められなかった。理科のみの受験なんてないからだ。
父は勉強のことを「お母さんに聞いてね」としか言わないのでテストの点数を見せても「点数なんて気にしちゃいけないよ」と言う。励ましだと思うけど当時の自分は母と父、どちらも点数を褒めてはくれなかった。
母はいつも比べる。○○さんは、兄は、テレビのあの子は、同い年なのに、あんたも同じ塾通っているのに。そして仲の良かった友人を嫌がっていた。あの子のお母さん嘘つきだから、あの子貧乏で意地汚いから、あの子は小学生のテストすら0点だから。別に仲いいなら良いけどというが、そんな言葉は嫌いだから言うのだ。
ある時、酷かった国語のテストの点数を書き換えたこともある。先生と同じペンを使ってバレない程度に書き換えた。と思ったがうっすらとバレた。「こんなに間違えているのにこの点数なの?」その時の母の目を今でも覚えている。
母に疑われている。怒鳴られる。○○さんは×点なのにと比べられる。なんで?責めされる。また遊びが規制される。兄弟と比べられる。この子は頭がよくなくてと紹介される。こんな子に育てた覚えはないと言われる。塾の金が無駄だったと言われる。教えてもくれないのに勉強を傍で監視してくるようになる。趣味をバカにされる。
そんなことがドッと脳内を襲ってくる。おぼれて死んでしまいそうな罪悪感と恐怖で吐き気が喉元まで来るが、飲み込む。「そ、そんなことないよ」と答える。大きなため息をされた。冷や汗が止まらなかった。塾のラウンジでみんなが帰宅だと盛り上がる中、テストを見られて責められていた。小学生の頃のある日の記憶だが、今でも思い出すと頭痛と吐き気がする。
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カンニングがひどくなる。塾で一回遠回しに指摘された。親に連絡入っていなかったが、でもやめられない。「バレない方法は」と考え、バレない方法にたどり着いた。でもカンニングには限界があって多少は点数がよくなっても多少で止まる。
でも楽だった。カンニングさえすればちょっと点数が上がる。本当は自分の実力で勝負しようと勉強を頑張った。でもわからない。わからないのにやらなきゃいけない。怒られる。怒鳴られる。金切り声が響いてしまう。頭に全く入らない。やらないといけない何かをこなしているだけだった。
勉強する→わからない→宿題が進まない→進捗を見に来た親に「これしかやっていないのか」「なんで?」と責められる→わかんないと言えば「解説をみてもう一度解くの」と言われる→解説を見たときは理解する→また自力で解くがわからない→解説をみると同じ系統の問題だと気が付き自信を無くす→やる気がそがれて進まない→進捗を見に来た親に…と責められる時間と自己嫌悪の時間になる。
勉強なんて嫌いで仕方がなかった。答えを微妙にアレンジして写すだけの日々だった。勉強時間なんて写すだけなので10分で終わる。10分で終わると親が怪しむので、父が持ってた漫画を借りてこっそり読んでいた。自分の部屋があって良かったと思う。
「私、そばで見ているから」と母が監視しながら塾の宿題をしたことがある。しかし問題を見てもまず何をすればいいのかすらわからない。ずっと悩んでいると「寝てる?」「集中しなさい」としか言わない。怖い。責めてくる。「全然進んでない。なんで?」「なんでわからないの?」と責めてくる。私は「ごめんなさい。わからない」しか言えない。解説をバンと渡される。解説が難しすぎてわからないと母に言う。「文章の通りでしょうが!」と怒ってくる。ますます頭が痛くなって解説が頭に入らない。文字が嫌になる。責められる。そして私は限界に達し「わかんない!うるさい!ババァ!」と叫ぶ。母と喧嘩をして「親になんて態度だ!」と家をつまみ出される。そして「私が悪かった」と泣きながら家のドアをたたく。「勉強しないあんたが悪い」「勉強すればこんなことにはならない」と責めながら家に入れてもらう。そんなのばっかりだ。兄は第一子だから母は優しかった。弟は末っ子だったから母は優しかった。私だけいつもこんなんだった。
でも優しいところもあるからすべてが嫌いになれなくて嫌だった。誕生日は祝ってくれるし、お年玉だってくれる。私の好きな食べ物もわかっていて「あなたが好きな食べ物よ!」と夕飯を豪勢にしてくれることだってある。「男たちには内緒ね」と高級なお菓子をくれることもある。旅行にも連れて行ってくれる。だからなおさら怒らせたくないとプレッシャーがかかった。小学生の頃、勉強の話を家でしたくなかった。みんなで楽しく生活しているのに私のせいでぶち壊れる。勉強して追い込まないとと思っても全然できない。そして誰も見ていないお風呂で泣いてた。勉強のできない自分なんて。何で覚えられないんだ!バカだ!バカ!と自分が大っ嫌いだった。枕が濡れることもよくあった。
小学生の頃には戻りたくない。社会人になった今でも思う。社会のプレッシャーの方が何倍もましだ。
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小学校のテストは授業を聞いていれば簡単ですぐ解けたのでいつも満点だった。でも母は「学校のはあたりまえじゃん」と笑っていた。塾のテストだけを見て、塾のテストだけで怒っていた。
結局、中学受験は面接が重視されるところに受かった。おしゃべりは得意だった。
他の筆記だけの場所は全部落ちた。筆記だけのところはカンニングしていた。でも落ちた。そんな程度の能力だ。私は。カンニングしておいて落ちる。クズでバカだ。
親としては微妙なラインの学校だったらしく「受かって良かった」と言う裏では明らかに嫌がっていた。反抗期がくっそ尖っていた時期に「やっぱそんな学校いれるんじゃなかった」と言われていたのを覚えている。私が大好きな学校のせいにするなと私は怒ったから覚えている。
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中学に入っても母はテストの点数を見てきた。英語が酷くてすごく嫌な顔をしていたのを覚えている。英語は将来必要だとかどうでもいい必要性を1時間述べて、英語を教えてあげると言われたが上から目線だったので、案の定私はキレて断った。
そんな中、中学一年の先生は優しかった。一年が終わる時の面談で勉強が苦しいと相談した時こう言われた。
「君はどんなタイプの子でも仲良くなれる。これほどまでいろんなグループの人と仲良くなれるのは僕の教師人生40年で初めてだ。確かに成績は良くないけど、そこだけで落ち込まなくていいんだよ」そこで初めて勉強以外を褒めてくれる先生に出会った気がする。
「君の友人の**って子は成績がいいから、その子に相談してみたら?」と目から鱗だった。自分は小学生のころから同級生と比べられていたせいで同級生に聞く=恥だと思っていた。人に質問する=恥だとも思っていた。
そこからカンニングをしなくなった。した記憶もないし、していないと断言できる。
成績は悪かったが、学校生活はとても楽しかった。先生たちは私の成績に頭を抱えていた時もあったが「まぁ、君は学校を楽しんでいるからいいか」みたいな感じで責める人はいなかった。学業以外で頼られることも多かった。追試会場でも追試仲間と一緒に先生に「授業が面白くない・わかり辛い。こうしてほしい」と相談することも増えた。そこの校風で職員室がカフェのようなノリで入れるため、おしゃべりが好きだった自分は先生に遠慮なく雑談を仕掛けた。そこからテストの点数が悪いぞお前→じゃあテストどうすればいい?→ここを山にして覚えればいいんだと教えられる→山なら授業のあそこがわかり辛いなどを相談する。
追々々々試くらいまでしょっちゅう行ったことがあるが、先生がバカにしてきたことは一度もなかった。むしろ「君はよく逃げずに会場に来るねぇ」と感心していた。そこから追々々々試に来る、忍耐だけあるバカ共に一から丁寧に教えてくれた。ありがとう先生。
そこから母への反抗期が激しくなった気がする。父方の祖母が亡くなったからのもあった。祖母は戦争体験者で父と似ていて「自由で笑顔であることが一番」な人だった。私はそっち派だった。母からしたら姑としていつも喧嘩していたのは覚えている。
母から何を言われても「うっせぇんだよ!」で返した。小学生の頃は母に怒られたら怯えるしかなかったが、中学〜高校は「世の中は勉強だけで評価されるんじゃないんだ」と感じ、勉強のことしか言わない・認めない母と時には殴り合いになった。
テレビや雑誌でブラジリアン柔術が話題になり習ってみたが、俺のBJJは終了した。これがBJJのすべてだとは思っていないがうちの地方は都会と比べると行ける道場の選択肢は限られてくる。通えるとこは3件ある(結構遠いのだが)
その二つに行ってみた。どちらも先生は古参とだべってまるで教えてくれない。たまにやっても初心者にらせるのかというドリルとスパーリング。
こっちはあえなくやられるが、それを質問しても練習すればわかるだけ。
東京でのセミナーに泊まりがけで行ってみた。飲み会も参加したが同じ白帯でもまるで内容が違うというか
BJJをやれば常識的な(俺は知らないけど)ことをまるで教えてもらってなかったのだ。
飲み会で知り合った人がYouTube動画でここ見るといいですよとか親切に教えてもらって感激したが同時に高い金を払って基礎的なことも教えてもらえないことに絶望して道場をやめた。
当然練習もその後していない。
私ASDなんだけどさ。
未診断だけど親がASDで、見事遺伝して、悲惨な子供時代を過ごした。
いじめられて何度か死のうか迷ったし。
親は自分がASDって自覚ないから療育とかしてくれなかったし、むしろ私を普通の子だって頑なに思い込んでた。んな訳ねーだろ!って思ってたし、先生も心配してくれてたらしいのに、むしろ家で失礼だのなんだのとその先生の悪口をいう始末。
私は自分が他のこと違うって早くに気付いて、ついでに親には頼れないことに気付いて、図書館行って調べたりしてとうとう高校生の頃私はASDだって気付いた。
周りと違う異物でしかなかった、人もどきの自分に名前があった安堵と、ASDは遺伝するっていう事実への絶望でどうにかなりそうだった。
いつか子供産んだらさ、いっぱい大好きだよって伝えて、いじめられたらちゃんと全力で守ってあげて、困り事があったら力になってあげるような親になろうって思ってたんだよ。
いじめられてても自分達のことしか興味ない親達じゃない、本当の家族が欲しかったんだよ。
でも、もし私が子供産んだらその子も私みたいに苦しむって知ってるのに、産める訳ないじゃん。
でもさー、X見るとASDの自覚ある奴らでもポコポコ産んでるのよ。
それで案の定子どもが人の子供叩いたりして問題になって「子育て難しい💦」とか言ってんのよ。
馬鹿じゃねーの、って思う。分かってた事だろうが。
しかも3人とか産んで、案の定全員ASDでトラブルだらけで手が回らない〜とか言ってたりする。
何考えてんの?
ASD児なんて一人でも手一杯だろうが。社会的にやっちゃいけないルールとか理解するのにめちゃくちゃ時間がかかるんだぞ。
買い与えてるものを全部把握してる訳ではないので明確には分かんないんだが、あんまり子に買い与えるタイプに思えない鋭利なハサミとか、年季の入った卓上手動鉛筆けずりとか、茶色の極太マッキー1本だけとか、息子が所持してて違和感あるものがちょくちょくあることがある。
鉛筆や消しゴムは持ってておかしくないが、筆箱に入らない不必要な使用済みの量や、1ケース(10本)で買ってるのに1本しかないデザインの鉛筆とか、違和感も感じる。
嫁は「買った記憶はないけど、それがどうしたの?」という感じ。嫁にも俺にも買い与えた記憶がなければこれはどこかから持ってきたものを私物化してるって話になるのだが、嫁はどうもピンと来ないらしい。自然増殖するものだとでも思ってるんだろうか。
息子に聞いたら「もらった」と言う。
もやもやする。
と思ったらこの間ケースなしのCDを持っていた。CDは全て新品で買い与えており、ケースなしのものはありえない。
息子はちょっとこだわりが強く、CDやDVDをプレイヤーに入れっぱなしなのを許さない。TVも扇風機も寝てると消されるし、言っておかないと風呂場の乾燥も勝手に止めてしまう。
なので必然的にディスクとケースの入れ間違いは発生しないし、常にディスクには収納場所があり、歌詞カードがある。ケースと歌詞カードだけ紛失するなんてことはない。
なのにディスクが剥き出しで置いてある。
(余談だが、これまで息子のこれを「きちんと管理する」ルールなのだと思っていたが、「自分が定義した状態に戻す」ルールらしいと認識を改めた)
息子はこれも「もらった」と言ったが、すまん父はさすがにそれを信じられない。誰かのものを勝手に盗ってきたとしか思えない。
そもそも小学生のメンタルで、盗ったものを正直に「盗みました」と言えることはないと思う。本当にもらったと思ってるのか、それ以外に許されそう(怒られなさそう)な言い方を知らないからそう言ってるか、どっちかなんじゃないだろうか。
嫁もその場にいた訳だが終始無言だった。二人の時にちょっと話したが、息子が盗ったとしての話はしたくないようだ。
とはいえ本人の証言の裏取り(くれた子の保護者に聞いてみる)などはしたくないようで、俺から聞こうかと提案したが止められた。
でもなぁ、これを見過ごすのは親として良くないと思う。
正直ハサミや鉛筆削りやマッキーは職員室か事務室か、その辺の備品なんじゃないかと思ってる。名前書いてセロハンテープで留めてた跡があるし。先生方に嫁含めてどう思われてるかも気になってくる。
知人のお子さんは隣の席の子がすぐ人のものを持ってく子で困ってるとのことで、聞いてドキっとしてしまった。しかも友人が言うにはその子自体に「そうしなきゃいけない事情」みたいなのが感じられない普通の子だったとのことで、更にダメージを受けた。
という訳で子に盗難癖がありそうとなったらどうすればいい?
なお実際には嫁も息子もいないので幻覚です。
「コラボは女性たちをタコ部屋に押し込め生活保護を受給させ」たが、金を搾取してはいなかった。
ということやろか。
2009年に愛知県で起こった、男子生徒が女性教師を流産させる目的で給食に異物を混入させた事件をモチーフにして、
「実話を基にした物語」というのを前面に押し出して2011年に公開された映画で、実際の加害者は男子生徒だったのに映画では女子生徒に改変し、
実際の事件について調べもせずに映画だけを見た人が「妊娠できる身体になりつつある女の子が妊娠を嫌悪した結果として先生を流産させようとした」という事件が現実に起きたものだと誤解して、
「思春期の女の子に特有のメンタリティ。女の敵は女」みたいに受け取っていて、あれが本当に最悪の出来事だったし、あれよりも最悪な女体化や男体化は無い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E7%91%9B%E4%BA%AE
ないとう えいすけ
内藤 瑛亮
敦子さん(仮名・30歳)は、教員歴6年の高校教師。着たいものを着られるようになったのはごく最近だそうだ。
「20代の間は、何を着ても批判されるというか、賛否両論に耳を傾けないといけないみたいな感じでした。
新人なのでずっとスーツを着ていた期間ですら『スカート丈が短い』『ヒールの音がうるさい』『髪の色が明るすぎる』などの小言をいわゆるお局様的な50代の先生から指摘され続けました。
『私は別にいいと思うけど、他の先生が気になるっておっしゃってるのよ……』そんな切り口で言われると、気になるし、直さなくてはいけない! と思うので、私はその都度対処してきました」
新人だった敦子さんはお局的女性教員の指摘をすべて聞き入れて、パンツスーツに変え、足元をスニーカーにして、髪は黒く染めた。
「そしたら今度は、40代くらいの女性の先生が『教育実習生と見間違ってしまうから、もう少し大人だとわかる感じにすればいいのに』とおっしゃって……」
そう言って笑う敦子さんは、ヒールのせいで怒鳴られたこともある。
「そんなに大きな音は出していなかったと思うのですが、私の足音がコツコツうるさいせいで生徒が授業に集中できないって、授業中に教室から顔を出して私に向かって怒鳴る先生がいました。
学校の先生って、結構平気で大人に向かって生徒に言うように怒鳴ったりします。今はそういうことをわかっていますけど、その当時はわからなかったので驚いたしショックでした」
若かりし日の敦子さんの葛藤は続いた。