はてなキーワード: 必然性とは
オナニーして寝てろ。
1.なぜ女の子に限るのか?
「非モテ」でなきゃいけないという圧力の存在と、「おれをそのまま受け入れろ」という圧力は、共に同じぐらい暴力的な圧力ではあると思う。
インセルを具体例としてあげられるだろうか。
女性蔑視主義者を想定してるなら、蔑視されてる人に好意を抱く人間がいるとは思えないので、「市場」サイドに罪があると言うのは理解不能だとしか言えない。
もっと具体的に、どういう理由で女性蔑視主義者になったとか(いじめられて、とか、学校でナードだったとか、)そこまで掘り下げて初めて、その市場原理のゆがみに懐疑を持ち込むことができると思うが、それにしても「俺たち女性蔑視してるんだけど、女性は酷いから俺を受け入れろ」と言ったところで話は全然進まない。
なぜ女性蔑視主義者になったのかの理由を掘り下げると、大抵の場合は、彼らの側にもそれなりに理由があったりする。人間関係それも好意や愛情という見えない上に変化するものに善悪を付けることは無理だし相手の人権を尊重していないことにもなる。
「非モテだけに原因がある」という言説もあまり見たことがないが、なぜか「俺たちだけが存在を許されてない!」という怒り方をするのも彼らの特徴的な行動パターンではある。
もともと、職場が郊外の、マイカー通勤前提のような場所だったので、車ありきの生活を何年も送っていた。
その後、職場が都市部に変わり、引っ越して電車通勤をすることになったのだが、職場から近い割には郊外型の店の多い、車があったほうが便利な場所を選んだ。
個人的には、そのほうがしっくりくる。買い物を休日にまとめてできるし、ちょっと大きなものを買っても運ぶのに心配がない。公共交通機関のないような山の中の観光地とかも、思いつきで出かけることができる。ただ、逆に街中には、必然性がなければ出かけない。幹線道路沿いにそれなりに店はあるし。
おそらく金銭面でいえば、街中に住んで車を持たない生活のほうが、多少家賃が高くてもトータルで見れば安くなるだろう。若者の車離れなんてのもよく話題に上がるが、単に都市部で生活する割合が増えているという事情もあるだろうと想像はつく。
けど私は、都市部だけで生活することに耐えられないのだろう。ちょっと郊外に出て、余裕のある景色の中にいるほうが居心地がいい。
丁度よく、街中に住むのと通勤時間が大差ない場所が存在したとはいえ、単身なのに郊外に住んで車を持つって、端から見れば一種の「道楽」なんだろうな。仮に職場が東京や大阪のガチ都心だったら、まず成立できない話だし。
俺はこうだ私はこうだと言える人は
強く大きく光って見える
難癖つけて上に立とうとする
光あるものの足を引っ張り曇らせる
お前に何ができる?
お前は何をしてきた?
他の光なんて関係ないはずだ
お前もやるんだ人目も憚らず
やるしかないんだ
俺はこれをやるんだとそう思い込む
でもそうじゃない本当はそうじゃない
やりたいことやれることやることは
自分で決めれるはずだ決めてきたはずだ
お前が決めて選んできた
何ができないんだ
何をやらないんだ
お前に役割なんてない
お前が何をやると決めるのか
それが全てだ
お前がやるんだ他の誰でもない
気付いてるお前がやるんだ
やってやってやり続けろ
やり続けた先には
やり続けてきたもの
それがお前を作る
人を批判するな
それは暇人がやることだ
誰でもできるバカでもできる
お前は生み出せ
全ては熱量だ
熱量こそが全ての力だ
今やっていることに
お前はどれだけ熱量を注げているのか
考えたことがあるか
お前に教えてくれるはずだ
全てはどうあるべきか
それこそが価値だ
お前には価値がわかるか
分からないのは
自分の全てを注ぎ込むんだ
作ったものは鏡となり
お前の人生を決める
お前が日々つまらないと感じているなら
当たり前だ
当たり前のことだ
でもそんな当たり前のことを
分かったふりをしてやらないやつばかりだ
お前はどうだ
信じられるか
生み出すことができるか
やり続けた先に何もないかもしれない
でも、それでも
俺たちはやるしかないんだ
俺が、お前が、やっていくんだ
やり続けろ
そもそも、カードって衝動買いできる仕組みを提供してやるから、店舗の手数料くれというビジネスモデルじゃなかったっけ?
無駄遣いしたくないのでカードを使いませんは合理的な回答に見えるんだけれど。
まあ、お偉いさんは回答ありきで質問をして、増田たちの回答をガン無視して自分の回答を押しつけただけだろうけどな。
でも、増田が思ったところを追求しないと増田と同じ思いの人にカードは普及しないってことだ。
硬貨や紙幣でないといけない理由は何かというのはどの辺なんだろうね。
b. 目で見て数えられなくてはいけない?
c. 使ったら目に見えて減らないといけない?
d. 財布に入る量に限りがないといけない?
とか思いつくけれど。
物理的な物体という必然性に対応する方法は思いつかないけれど、他のはそういうアプリ("おさいふアプリ"とか名付けてみる)でなんとかならんのとは思う。
お金投入ボタンを押すと、アプリ上の見かけとしてお金が入っていることにされる。(dを達成)
ビューを変更して、硬貨や紙幣の数で残りを見せるモードも提供。(bを達成)
実際にカード会社が請求する金額は本当に使った金額だが、カード会社製の"おさいふアプリ"はあたかも普通の財布のようにお金投入ボタンを押さないとお金は足されないし、"おさいふアプリ"の残高が支払額を超えていると、お金を投入するボタンを押すまでお金を払えない。
とかすると、増田たちの懸念点は払拭できそうな気がするんだけれど。まあ、アプリ作るのが面倒くさいよね。口座も実際の支払いの口座と、"おさいふアプリ"表示のための口座と2種類用意しないといけないし。
この文章を見て、思い込みが激しい人であるし自己肯定が強すぎる方でもあるなと感じる。
まず、他でも指摘されているように同期全員と仲良くなるべきというのはあなたの勝手な考え。
飲み会の際に、”あまり喋らない彼らに話題を振って、なんとかその場をもたせていた”と書いているが、これはあなたの価値観の押し付けであり、しかもなぜか上から目線。
また、内輪ネタ(懇親会でもうそこまで仲良くなったらしい)と書いているが、それは内輪ネタではなくただの先ほどの話題だ。
話についていけない自分を正当化するために、相手を貶めるような表現をするのはやめた方がいいと思いますよ。
そもそも、たいして知らない相手をいきなり”やかましい”なんて(心の中であっても)形容している人と誰が喋りたいと思うでしょうか。
また、後半部分でも”一生懸命仲良くなろうとしているのに。同期だろ?”という分と、”グループごとに固まって行動する大学生活は終わったものだと思っていた”という2文が矛盾している。
後者は正しくて、別に一生懸命仲良くなって同期というグループを作る必然性はない。
別にその相手と親しくあろうがなかろうがそれぞれの業務をきちんとこなすのが社会人であるので、”一生懸命仲良くなろう”というあなたに幼さをより感じる。
また、決定的な一言だと書いている「後ろにいるやつら、なんで付いてきてんの?」という言葉も、飲み会でそれほど話してない相手が後ろをしばらく追いかけてきていたら、当然起こり得る発現だと思う。
もちろん、言い方に棘があったのかどうか私には判別できないが、他の箇所での記載を鑑みるに既にある程度のバイアスがかかってしまっているんでしょう。
加えて、自分も軽蔑の対象になっているだろうとあなたは書いているけれども、はっきり言ってそれほどの関心を持たれていないと思いますよ。
ちなみに、自分”も”という表現は、あなたも周りの人を軽蔑に値する人たちだと判断している証ですよ。
そして”変わり果てた境遇に行き着くのだろうか”って、たいして話したこともない相手に使う表現として、失礼だと思いませんか?
あと、こういう周りの環境が云々言う人に共通していることとして、あなたはその彼らと同じプロセスで同じ場所にいるという同程度の人間だということを忘れている。
もし、そんなことはないと考えるならば、文句を言わずに自分に相応しい環境にとっとと移行すればいい。
それはできない、というのであれば、あなたは結局周りにいる人と同じ程度の人なんですよ。
奇妙な振る舞いをするプレーヤーとは不規則なまた不可解な動きをし意図が読めないプレーヤーのことだ
このようなランダムな運動が効果を生むのに必要な条件は不期遭遇戦というような予期せぬ戦闘を多数誘発することで戦場に混沌をもたらしカオスな戦場へ引きずり込むことだ
そしてそのカオスな戦場で相手に優越した能力(状況対応能力、兵装、編成、士気能力)を有していることだ
このような奇妙な振る舞いをするプレーヤーに遭遇した場合私達がするべきは必然性のある行動に徹することである
数を揃え地盤を固め偵察を行い、陽動し敵の行動を予想可能なものとし万全の体制を整えた後に敵と会敵する
必然性の乏しい動きをするプレーヤーは不確実な、状況の推移を予測しにくい戦略をとっており相手を自分の土俵に挙げなければ勝つことが出来ない
それは安定した戦術が安定した成果を生むのに対して不安定な戦術は不安定な成果をもたらすからだ
どれだけ盤石な体制で戦おうと不安定な戦術によってもたらされる副作用、勝負手(受け方を少しでも誤れば逆に自軍が窮地に陥る手)により危機に瀕する可能性があるのだ
基本として安定した戦術のほうが有利であり勝率が高くなると予想されるが不安定な戦術の持つ勝負手の確度によっては状況は大きく変わる
勝負手が決まれば私達はたちまちカオスな戦場に引きずり込まれてしまう
基本的には勝負手が決まることなど埒外の出来事であるが直観によって異様なほどにこの勝負手を決め状況を変える者がいるのもまた事実である
増田でもよくある、「なんで◯◯って××が多いんですか?」「◯◯が××なのはどうしてですか?」みたいな質問。
その9割方は「そもそも◯◯で××が多いということはない」「××なのは◯◯に限らない」などで否定されている。
しかし、これに対して脊髄反射で理屈を考えようとする奴がいる。
理屈と膏薬はどこへでもつくというが、いったん理屈がついてしまうと、そこにあたかも必然性があるように錯覚してしまう。
どんなに否定されても頑なに信じ込んで、そして長年にわたってデマを撒き散らし続けるのだ。
「◯◯って××らしいね?」「◯◯が××なのは△△だからって聞いたよ?」
いいかげんこういうのやめようぜ。
バレンタインとかいう司祭が恋人のために催しを行ったのが基とされているが、それは作り話だともいわれている。
いずれにしろ、真実があやふやに認識されている歴史というものは、得てして現代を生きる人間によって都合よく変換されることが多い。
歴史修正主義者みたいに思想的ではなく、その日にこじつけて何かを売りたい、資本主義だとか商業主義にあたる人間たちによってだ。
まあ、大局的に見れば経済を回すためだとか、それはそれで考えがあるかもしれないが、俺たちの国でそれがチョコレートである必然性がないことだけは確かだろう。
その日が個人にとって関係があろうとなかろうと、誰も知らないフリができない。
更にガメツイのは、バレンタインデーの約1ヵ月後にホワイトデーなんていう“お返しキャンペーン”まで普及していることだ。
さて、今回の話は、生憎だが甘酸っぱい要素は何一つない。
かといって、チョコを貰えない人間のほろ苦い話というわけでもない。
話はバレンタイデーに遡る。
その日は休日と重なり、俺は家でくつろいでいた。
去年のことを顧みると、これはとても快適なことだ。
俺の学校にはバレンタイデーに家庭科の授業としてチョコを作るという伝統があった。
男女関係なく班で作ったチョコを食べるという、一見すると何とも平和な授業だ。
だが、このタイミングを利用して“個人的に”作る人間も多かった。
恋人のため、想い人のため、ただ友達同士でワイワイやりたいだけ、と目的は様々だ。
そして、そういった人間の中には、ホワイトデーをアテにして無差別にバラまく奴も必ず出てくる。
面倒くさい話だ。
お返しなんてしなくてもいいと思いつつも、そんなのに律儀にお返しする奴が出てくるから、俺も体裁を整えるしかない。
チョコが食えない俺のいる我が家にとっては、2月14日は煮干の日のほうがポピュラーなのだ。
「2月14日は煮干しの日だが、バレンタインでもある。お前はいいのか?」
「なにが?」
「なにって、チョコだよ。外周れば貰える可能性あるんじゃないか?」
弟はバレンタインを学校の行事くらいにしか思っていないようだ。
「そうなの? じゃあ行ってくる!」
まだ、説明は終わっていない。
「貰えるとは言っても、タダではないぞ」
「貰えるのにタダではない、ってどういうこと?」
弟の疑問も尤もなんだが、そういう疑問のために「タダより高いものはない」という諺があるのだ。
「ホワイトデーといってな。バレンタインにチョコを貰ったら、何らかの“お返し”をしなければならない日があるんだよ」
「なんだそりゃ。ギブってのはテイク前提でやるもんじゃないだろ。それじゃプラマイゼロじゃん」
実の所バレンタインには様々な側面があって、安易に価値を推し量ることは難しい。
だが、世間に捉われない自由奔放な弟にそれが理解できるとも思えないので、俺はあえて省略して説明することにした。
「どういうこと?」
「ホワイトデーのお返しは、通説ではバレンタインに貰った物の3倍の価値とされている」
「3倍!?……バレンタインはチョコをあげるほうが得しやすいってこと?」
「そうだ。つまりバレンタインはチョコを貰わないようにしつつ、相手にチョコを押し付けるゲームってことだ」
全くのデタラメを言っているわけではない。
弟が安易にチョコを貰わないよう、遠まわしに釘を刺すための理屈だ。
だが、こういう“全くのデタラメではない”情報のほうが、弟にはかえって害悪だったのかもしれない。
今期アニメはポプテピピックとヴァイオレット・エヴァーガーデンしか見ていなくて、でも最近ゆるキャン△と宇宙よりも遠い場所が面白いと聞いたので、近日中に1話をチェックしようと思っていたり。
んで、期待はずれというのはヴァイオレット・エヴァーガーデンのこと。
でも、その絵が表現している話が、絵と比べて超凡庸というか、ぼやけまくってる感じ。
まず話の時系列がいただけない。
各話の間が恐らく一ヶ月~数ヶ月くらい飛んでいるため、主人公ヴァイオレットの成長も飛び飛びというか断片的に見せられるわけだが、本作品に限ってはこれのお陰で
「成長したねー」
「ふーん」
としか思えないというか、
「前回終わりから今回までに成長してんのは分かるから、その成長過程を端折らず、エピソードとして書けよ」
という所で引っかかりまくるのだ。
原作にあったエピソードのアニメ化も、個人的には微妙に改悪という感じ。
そこに来て、最新話で初めて過去話に飛ぶのが更に意味がわからない。このタイミングで過去話する必然性は何だ?って思わされた。
あと各話の内容も、3話や何話か忘れたけどお姫様の話とか、見所は無くはないんだけど、基本的に「丁寧」以外の感想がなく、イマイチ心に残らないのだ。
別に茅原実里氏の歌声そのものは下手じゃないが、毎回のEDへの導入に全く合っておらず、歌が入ってきた瞬間、悪い意味で現実に引き戻されるのだ。
これは流石に茅原氏が可哀想なので、全面的に演出が悪いということにしておく。
人によって、話によって受ける受けないがあるし、
そこは割り切っているつもりだったが、一点だけ、すごく冷めたシーンがあった。
※ネタバレ注意
=====
トド松が兄達のいつものおかしな行動にツッコミを入れるという話。
兄達の行動は
カラ松→痛い服
一松→プチプチをつぶす
十四松→頭をかじる
チョロ松→シコ松
といつもどおりなのだが、おそ松だけが、銭湯や寝室で下半身を意味もなくぶらぶらさせるという謎行動。
下ネタが嫌なんじゃない。
今までの下ネタは、話のオチとしてとか、おそ松や六つ子達のキャラ付けとしてとか、
何らかの必然性があった(安易に下ネタに帰着させる是非は置いておくとして)。
が、これに関しては全くそういう要素が感じられない。
いくら小6メンタルだからって、意味なく下半身をぶらぶらさせることはしない。
何でこんなことになったのだろうか?
というか他の話はおおむね楽しめた。オチにならないようにぼやかして書く。
確定申告:確定で申告しないと
財布:誤解が解けた後がいい
あらいぐま:怒られるぞw
原作ではゼノンが自ら宣戦布告して人類にデーモンの存在が明らかになる流れだったが、crybabyでは了が自ら権力を駆使してデーモンの存在を知らしめるためにあの手この手滅茶苦茶やる。その行為に必然性が感じられない。
露骨なまでにデーモン優位になるような状況を作り上げ、嬉しそうに「これで人類はみんな死ぬぞーアハハハ」と明に演説するのは一体何がしたかったのだろう。
「今作の了は最初からサタンの記憶を持っていた」ぐらいじゃないと、これらの了の奇行に納得のいく説明を付けられないと思うんだが。
でも明が「デビルマン軍団を作って戦う!」宣言したとたん「や・・・やめろ!!!」と途端に焦りだす。「裏目にでやがった」なんて原作台詞まで飛び出す。いや当たり前だろ、そうなるに決まってんだろ普通。マジで何がしたいんだよ了、馬鹿かよお前。
この後原作通りサイコジェニーにサタンの記憶蘇らせてもらうわけだが、そんな事しなくても最初からサタンモードだっただろ今回の了。
原作では了が完全に人類を裏切ったと判断したから了を捕えるために覚悟の出撃をする、その間に牧村夫妻の救出もしなくちゃならなくなったので、牧村家に戻って美樹を守る機会を失ってしまう。
crybabyでは、その前の話数ですでに牧村夫妻と太郎(原作でいうところのタレちゃん)はあっさり処理られるように死んでしまってる上に、きっと何かの間違いだから了に話聞きに行くわ的な感覚で牧村家を離れようとする明は正気か???状況分かってんの?????と言わざるを得ない。で、途中悪魔狩りを諌めたり(これがまた説得力が感じられない)ゼノン達に襲撃された挙句、了に会いに行く事なく「美樹、戻るよ!!」お前何しにいったんだよ!!!!!馬鹿かよ!!!!!!!!!!
んで、「地獄に落ちろ人間ども!!!!!」をやって次の回(最終回)では何の説明もなくまた「人類はデーモンに屈しねー!!!」お前本気で馬鹿だろ!!!!!!!!!!!
・ミーコのコンプレックス何も解決してなくない??何で良い感じに浄化された風になってんの???
・明に守られたのに速攻裏切って速攻殺されて何のフォローも無い幸田。ゲイ設定いる?海外にいい顔したいだけ?
・ラッパーのチビが裏切るのはミーコに友達食われてんの察したからなのはわかるけど、その結果他の友達もみんな殺されてんのに悪魔狩りとウッホウッホやってんの何それ
・リンチして殺したりしてんのに、ガキが明をぎゅっしただけであっさり改心する悪魔狩り。お前ら死ねよ本当に。
・あんだけ魔改造したミーコにしときながら、それとは別に原作通りのミーコもチョイ役で出すのはファンサービスのつもりの嫌がらせか。
・扉に666のプレートってそれはひょっとしてギャグでやってんのか
・太郎(タレちゃん)がデビルマン化したのは数少ない良い改変だと思ったし、これでデビルマン軍団に加入して最後のハルマゲドンも明と一緒に戦って散る展開なら燃える流れになったのに、実際は明に救出されたと思ったら次の瞬間お墓に入ってて盛大に吹いた。それはひょっとしてギャグで(ry
(結局子供の首チョンパがネッフリといえども無理だからデビルマン化させてサクっと処理しただけのように思える。牧村夫妻もその煽りを食っただけのようにしか。)
crybabyが酷いのは了が原作を凌駕する勢いで馬鹿だからとしか
原作だと了は明の心情も痛いほど伝わるから最後の戦いも悲壮を強めたのに
今回は人間どころか明の気持ちすらちっとも理解できていない始末。
「えっ、明死んじゃったの?うそっ;;そんなの聞いてないよ;;何で死んじゃうんだよ;;;;まさか死ぬとは思わなかった」ゴゴゴゴゴゴゴ(完)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬鹿か。
別に原作と違ったりするのは全然良いんだけどさ、こんだけいじくり倒しておいて中途半端に都合の良い時だけ原作なぞったりしてんのがすげえ気持ち悪かった。
登場人物の知能を軒並み下げる事が現代の空気に合わせるリメイクって事なんですか。
電化製品を解体して、元通りに復元できもしないのにとりあえず繋ぎ合わせたフリして収拾つかなくしたのがデビルマンcrybabyというアニメ。
「物語・・・・・・・ストーリーとはなんだ・・・・・・?――それは時間の表現なのだ!"時"の流れを表すことだ。"マンガ"も"小説"も"映画"もストーリーを表現するものは時間の流れを表していくものだ・・・・・・時間を表す以上・・・そこには因果関係が描かれる、それはマンガの架空の物語でも同じことだ!原因には結果が必ず起きるという因果に支配される、それが"自然の流れ"必然性というやつだ!『デビルマン』をたんなるヒーロー物にはしないと編集長に約束した時からこうなる必然性が生まれていったのだ!」
crybabyではこの"因果"というものがとてもじゃないが描けてない。
強いて言うなら、"原作"という因果に縛られて何がしたいのかよくわからなくなっている。
牧村夫妻をあんな所で勇み足的に殺してしまったり、シレーヌとソープで童貞捨てたり独自の展開を盛り込みながらでも結局は原作と同じ流れに無理やり戻そうとして相互作用の不備を招いてしまっている。
作り手が、自分流のデビルマンを創ろうしてるのに最後は原作に頼ってなんとかしてもらおうとしているのは、なんだかとても志が高いようで低く見える。