はてなキーワード: 原作厨とは
マーベルのプロデューサーが「日本の(公式二次)創作は糞」って発言した記事が前にあったと思う。
もちろん、礼儀として具体例は出さなかったわけだが、この発言の念頭には、実写版進撃の巨人や、実写版デビルマンや、実写版~~、などの存在が念頭にあったのはちがいない。
アイアンマンとスパイダーマンと比べると、引っ張ってこれる金やら何から何まで、商業システムの時点で勝負にならないのでぐうのねもでない。
で、ゼノグラシアだが。
何度もいうが、あれは「アイマス」としては駄目。アイマス世界の劇中劇と錯誤できるような演出・設定すらない。
いわゆる原作厨wwとか揶揄されたりもするが、IPホルダー側がまともにブランドマネジメントしないと、メディアミックス戦略の失敗によって、IPそのものが毀損するんだよ。
ゼノグラシアと月姫おかげで、少なくともアニメでは原作を完全に無視することは忌避されるようになってきた。
というか、真ゲッター月姫は、売上自体は当時の基準で大成功だったので、アニメ製作側がドヤ顔でインタビュー受けて、自分たちのやり方が良かったとか誇っていたのが今でも腹立つ。
ネタバレはありません
色々学びがあった
◯やはり1話20分に詰め込む情報量というのは、ある程度多くないと飽きやすい
あれは緊迫したシーンで引き伸ばしていたのでギリギリどうにかなっていたのだと思う
常に緊迫させていなきゃならないので、できるかは作品に依る
もちろん原作物の場合、12話でどこまでやるかで構成が決まってしまうので難しいところではある
今期でいうと、魔法陣グルグルが超詰め込み型だ
あちらはあちらで「カットされた」とか「余韻がない」と言われているので
情報量が多すぎるのも問題がありそうだ(でも個人的にはあっちのテンポのほうが好き)
ただ一個一個の技が大きいプロレス寄りの戦闘ならそこまで問題はない(ジャンプアニメはそっち系)
でもスピード感重視だったり、生死が掛かっているような戦闘だと簡単にダレる
◯世界観・舞台をチェンジして魅力を出すなら、2話で1舞台が若干飽きる構成、1話1舞台がかなり贅沢な構成だと思う
けものフレンズでは1話1舞台2フレンズ以上という、異常に贅沢な構成になっていた
これに関して監督は「1話1フレンズはしょっぱいだろう」と思ってかなり無茶したと語っている
もし1舞台で2話以上の構成なら、別の魅力を用意しないと飽きる
◯一般的に原作厨がキレる要因の一つに「キャラが違う」というのがある
私も特にラノベのアニメなんかでは細部の改変にキレるタイプだが、意外と(?)人気には影響しない
一部の原作厨を除いて、大多数の人はそこまで細かく見ていないんだろう
でも細かなキャラの心情を無視するなら、それを補うだけの派手さが無いとまずいと思う
アニメで前者を担保するのは厳しい、しかし元から派手さがないならそこを追求するしか無いのでは?
◯話題になるようなシーンやキャラクターが後半に登場するのはやはり厳しい
どのアニメでも原作通りを支持する私だが、最悪変えてしまわないと持たないのかもしれない
と言っても、アビス原作でも2巻時点で売れていなくて打ち切りの話があったそうだ
アニメは今9話時点で3巻序盤(ちなみにグルグルは8話で4巻半ば、番外編無視してるから実質3.5巻くらいかな)
◯引きは重要
クリフハンガーをしろというわけではないが、1週間ずっと印象に持ち続けるシーンになる
(次話でどうなるか。これもけもフレが異常に上手かった)
BGMに違和感が出ると、皆の集中がそっちに取られるとわかった
他の作品でもよくみるが、原作準拠と原作者準拠はちょっと意味合いが違うと思う
これも難しい
国語の試験なんて私のように勉強を全くしてこなかった奴でも点数が取れる教科であり、そもそも国語という教科自体娯楽に近い教科だと思っています。
百人一首は授業で習うとただただ眠い呪文にしか思えませんが、娯楽として覚えると下手な恋愛少女漫画読むより面白いし、漢文は教科書に記号とともに載っていると暗号でしかないが下手な自己啓発本を読むより面白いです。
じゃぁそれは別に現代文で書けばいいよねって言われたらそれまで。
だけどいきなり
『昔の偉い人が
「春になると気持ちよく寝れるよね。
あんまりにも起きれなくて鳥の声で起きたんだけど、昨日嵐だったみたい。
綺麗な花がたくさん咲いてたんだけど、私が気持ち良く寝てる間にどれぐらい散ってしまったんだろう。
切ない。」
ってポエムを書いたんだよ』
だなんて言われるより
『春眠不覚暁 処処聞啼鳥
夜来風雨声 花落知多少』
ってなんとなくかっこいいフレーズを解読する方が興味も湧いてくるし『なんだよ、かっこよく書いてある割にはどうでもいいことしか書いてねーじゃんこれ』って思う方が印象に残るよね。
よって、試験で出る必要はないが知識として持っていると人生が楽しくなる可能性があるので学校で教える価値はある。
だと思います。
A:元々この作品や作者が大好き → アニメ化、ドラマ化、映画化決定で大喜び → 観たらいろいろ改変されてて「原作ガー 原作ガー」 ← わかる
B:作品をアニメやドラマ等で知る → 面白い!続きが待てないから原作読んじゃおう → 最新話でカットや改変を観て「原作ガー 原作ガー」 ← 氏ね
Aはファン。
ファンってのはその対象に全く興味がない世間一般から見れば一種のキチガイなのでこれは正しい。
誰でも好きなものに対するこだわりってやつはある。
原作愛も感じる。
問題はB。
こいつは駄目だ。
次が待てないくらい面白いと思わせてくれた作品に対する愛がない。
そもそも「待ちきれなくて原作全館買っちゃったー」とか言ってる奴はガキか?
1週くらい待てるだろ?餌を前にした動物並に自制心が足りない。
原作が売れるのはいいことだけどせめて1クール一応の決着が提示されるまで待てよ
アンチやネタバレやってる奴はこのBパターンの亜種みたいなのが多い。
お前は何と戦ってるんだ?
これのどこをどう読んだら原作厨になるんだ?読解力無さ過ぎでは。
原作厨は原作を読んでればいいと思うのに、わざわざ映画館へ行って「こんなのは◯◯じゃない!」と言う。
その心理は良く解りませんが、原作モノがダメな理由とは関係ありません。
脚本家(+演出家 or 監督)のクリエイターとしての能力が、原作者に負けてるからだと思うんだよね。
いまの日本であらゆるジャンルの中で、最も質の高いクリエーターが集まってるのがマンガだと思うの。
あたりかな。
特に「4.」が大きいと思うんだよね。
マンガ読んだ後で専門家の意見を聞きたいと思う人いないでしょ。
「このマンガ面白い」「私は絵が駄目だ」「ストーリーが嘘くさくて」「リアリティなさすぎ!」とか、他人の意見を気にせず自分の意見を述べるよね。
アートの観賞態度として、これほど素晴らしい態度はないと思うんだけど、それが実現してるのがマンガ。
そういう良い観客に支えられて、厳しい競争に勝ち残って、ヒット作になっているマンガって、そうとう質が高いよ。
それをその辺の脚本家や監督が映画化したらさ、そりゃ作品の質が下がるよ。
ちなみに考えるキッカケになったのは《高台家の人々》。
マンガのシーンがほぼそのまま使われてて「脚本家いらねえじゃん」と思った。
原作モノで「原作超えたな」と思ったのは《桐島、部活やめるってよ》。やっぱりマンガ原作じゃないんだよね。
これは原作者の朝井リョウより、監督・吉田大八+脚本・喜安浩平の方が、クリエーターとしてレベルが高いと思うね。
補足:
みんなのブコメ「なるほどなあ」と思いながら読んでるよ。
上から目線で見下してくるコメントは「上から目線で見下したいんだな」までは解るんだけど、それ以外の情報が少ないね。
「マンガと映画はフォーマットが違って、その違うフォーマットに落とし込むのが難しいんだ」ってのが自分の感覚に近いかな。
だから、そのまま落とし込んじゃ駄目だと思うんだよね。
原作読み込んで、核となる「ここだ」ってのを抜き出して、再構築しないと。ハガレンじゃないけど「理解・分解・再構築」。
このときにクリエイター同士の勝負になって、脚本家が負けちゃうんじゃないかなあ。
「理解・分解・再構築」してくれたら、マンガと映画は同根の別の作品になるんだよね。
最初に原作厨に言及したのも、別の作品に対して「こんなの○○じゃない」って言ってもなあという気持ちがあったから。
あと「批評家いらないって思ってるだろ」みたいな意見については、いらないと思ってる。
マーケットを形成するためには、この人達いるんだろうなって思うけど、作品を楽しむためにはいらないんじゃないかな。
http://anond.hatelabo.jp/20160413011603
『映像だけ見て萌えているのか?』と思うのは誤解です。省略されているとはいえ引きつける構成・演出・楽曲すべてが一体となって表現されているところに感動があるのです。(補足3参照)
京極監督は初めから劇場版を狙ってたわけではないだろうけど方向性はTV1期から存在する事は明らかです。漫画や小説では表現できないアニメならではの作品とする方向性。
どのように構成と演出と楽曲が一体となって表現されているかを説明して頂けないと解釈が難しいです。また、一体となっていないことを表すもつれが構成に存在することについては、おりあそ氏の記事やそれに対する自分の考察記事などでも言及されています。それを全部放り捨てて「一体となってます」と無理矢理言い張られても困惑します。
もしかするとアニメならではの作品として表現したいという方向性が一環していてそのために構成演出楽曲すべてが一体となっているという意味でしょうか…。だとしたらその姿勢や結果に致命的な怠りが存在しているので問題があるという話を何度もしています。そしてそれは言い換えると全てを雑にやろうという意図がしっかりしているみたいな状態です。
劇場版でSDSのライブシーンで海未がいるはずの所に存在せず作画ミスだと物議を醸したことがありました。海未はアニメ以降特に不遇だと囁かれるキャラの一人であったため制作陣の悪意や、または慢性的な配慮の怠りの結果だと感じる人も多かったようです。
絶賛派はそれについても全体的な表現として問題ないからどうでもいいというつもりでしょうか。呆れるしかありません。
それを理解しない増田は絶賛派を以下のように認識しているようです。
『ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』なので、失敗作である現実から目をそらして『盲目的に賛美すること』しかできない人間 (かぎ括弧内引用/ 他筆者補足)
まあひどい言われ方ですね(笑)
『海外ドラマにのっぺりとした無個性の二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌えて尊い』
ため息がでますね・・・私がどうして感動したのかはこのブログで5本も長文投稿をしたのでここで繰り返しません。でも読んだとしても理解はしてもらえないでしょうね。
自分の価値観も相手の価値観も絶対ではないのです。そんなことは発言する時の広く大きな前提です。その自己嫌悪の苦しみと戦いながら内へ外へと開いていくものです。
このように結局は絶賛派が批判派に対して主として持ち出すのはファンとしての立場の在り方的な話です。作品の内容を論じる場でそれを用いても、今まで論じてきておいて今さら何を言っているんだろう…?と思ってしまいます。
一時期流行ったように「それはあなたの感想ですよね?」と返せば全てが解決するわけではありません。それは元も子もない大前提ですし、お互い様になってしまいます。
自分の感想を他者の感想として言っていたなら問題あるでしょうけれど、互いに自分の感想を真っ向から述べているはずの場です。
また、絶賛派の考えがその作品としての在り方を照らし合わせて見た時に論理的妥当性を欠いていて即時的で表面的な感想じみていることは、この記事でもずっと指摘してきていますし、そこを検討してみてほしいところです。
もっとも、絶賛派の多くは作品において即時的で表面的である所の彼らがいうところのアニメならではの表現内容への思い入れを拠り所にしていて、前後や総合的なつながりや辻褄の考察を要する物語性やキャラクター性については考えたくないようなので難しいかもしれませんが…。
増田の言うように駄作という現実から目をそらして感動したフリをしているのでしょうか?さすがに増田も自分の論理に無理があると薄々気づいているはずです。
多くの人の感動させた作品であるという事実。それを受け入れられないとすれば『現実から目をそらしているのは増田の方である』というしかないでしょう。
洗脳だろうと幻覚だろうと感動したらしい人達が沢山いたことは確かでしょうから、そのことには一定の価値があると思います。
しかし、主に内容自体の在り方を主題として論じていたところで「お前が何を言っても感動した奴は沢山いるんだぞ」という内容自体の考察から距離が離れた根拠を持ち出されても、たまたま都合がいい形で現れた現実に縋りながら、内容そのものという真実から目をそらしているように映ります。内容に対する真実の好きを手に入れたいと思わないのでしょうか。好きという状態さえあればいい、そんないまが最高だからいいのでしょうか…。
君、原理主義に陥る事なかれ
自分の価値観を大切にするのは良いと思います。でもその価値観を唯一絶対のものとする事は『原理主義』ではありませんか?増田の論は批評を超えて否定となっているように思います。
『アニメ化以前の作品が好きだ。劇場版はまったく理解できない』それはそれで結構じゃないですか。しかし現実にこれほど絶賛している人がいる以上『自分には理解できないが別の価値観があるようだ』と受け入れるべきです。
正直な話、私も増田の言っている事の多くは理解できません。だから『なぜこの人は本作の良さを理解できないのだろう・・・かわいそうに』となるのです。
増田は自分の好きなものをポジティブに論じるべきでしょう。②の方はいくらかポジティブさを感じたし同意できる所も多いです。(あそこまで合っててなぜ結論が違うのか・・・補足7参照)
私にとっても『駄作・理解不可能』な作品が世間で絶賛されている事が多くあります。その度に自分の認識不足を自覚し考えを改めます。
増田も本来は同じだと思います。しかし今回は不幸にもメディアミックス作品と言う事で感情的行き違いがあるように思います。初期派はおそらく強い矜持を持っているのでしょう。でもそれが原理主義に陥らないで欲しいのです。
確かに理解不能の作品が売れたり評価されたりしている状態は不愉快なものですが、人気がなくても好みなのでしかたがない。一方で人気があっても嫌いなのは好みなのでしかたがない。芸術はそういうものだと思います。
どの現実が真実により近いのかは分かりません。だからより感じて考えて主張して反応を見て…などという行為に意味も生まれるのでしょう。
『アニメ版の良さは理解できないけど初期作品はこんなに素晴らしい!』と言ってくれればアニメ版以降のファンも目を向けてくれるかもれません。一つがダメだから全部潰れてしまえ!では悲しいではありませんか。
.私はラブライブ!とμ'sがいつまでも輝いていて欲しい。だからファン同士の対立は否定ではなく肯定で終わらせて欲しいと思うのです。
投稿においては確かにアニメ以降の批判が多いかもしれませんが、それでも初期の良さも述べていますし、また、先にも述べたように絶賛派は平和ボケしていて余裕なので脳天気なことを言うだけでいいでしょうけども、肯定で終わらせられるわけがないくらいにラブライブというプロジェクトは致命的な問題が山積みなのです。
それを好きな人、擁護する人が多いから問題ないとするのは思考停止です。犯罪はバレなきゃいい理論に似ています。
自分は現実的に考えて、作品が是正されることや、社会的に糾弾されることにはもはや期待していません。作品が終わる折に思い出を語るように純粋に意見を発信する目的で述べています。
純粋さと不純さどちらがいいとも悪いとも時によりけりではありますが、作品が批判されたくないために内容の状態にかかわらず擁護するというのは不純です。内容自体に対して、また自分自身に対しても純粋でないために説得力が不足しています。
今回は意見交換になってますが、元はただ作品内容の問題点を感想としてただ述べているだけでした。
そのように純粋に意見を独り言のように発しただけの投稿を態々発見して頂き、読むだけでなく反応を返してくださったことはとても貴重なことで有り難く思います。そのような純粋な喜びは励みになります。
以下は補足説明に対して述べます。自分の補足説明にもなりますね。
*補足1*
とはいえメディアミックスなのだから、すべての作品がμ'sが出演する創作作品と考えるのが自然だと思う。それは原案者への冒涜になならないはずです。
名前とか見た目や声だけ同じμ’sでもキャラや作品内容が根本的な所から違いすぎるのでそれを乱暴に同一人物が出演してるかのようにまとめてしまうのは逆に問題があります。
*補足2*
パクリである事と『つまらない』かどうかは関係がないので、その辺をあえて混同するのは論理として如何なものかと思っています。
せっかく自分はパクリじゃなくても滅茶苦茶つまらないからクソだみたいな身も蓋もない独断偏見を避けて説明したのに対して、まるでどこにでもあるようなパクライブ批判に対して反応するかのようにざっくりいかれてしまって残念です。
とりあえず配慮の足りてない意図から内容を歪め、配慮の足らない結果になってしまったことが問題なのですと繰り返し強調しておきます。
*補足6*
「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味
ひどい皮肉ですね(笑)むしろ私は『今が最高』の本来の意味『時を巻き戻してみるかい?no no no 今が最高!』※(過去には戻らないの意)を、増田は『過去=初期作品』と捉えて『初期作品ではなく劇場版が最高!』と言われて怒っているのかと思いました。
もちろんその点にも怒っているというか呆れていましたが、その点は言うまでもないほどのことですので…。過去のことや積み重ねてきたものをしっかりと大事にしながら、今を成し遂げたなら今が最高もいい言葉になるんでしょうが、そうではないので残念でしたね。結局、大事な原案とか過去とのつながりを普段どうでもいいと思っているくせに困った時だけメディアミックスを持ち出してみたり、黎明期の声優のことに思いを馳せて声優を思いやれるファンを気取る程度のファッション的なファンにとって都合良く理由はないが今が何より良い気分だということと、積み重ねを感じているふりをできるということを表せる都合のいいフレーズになりましたね。
*補足7*
『ラブライブ!のPVは内容的にアニメキャラというよりアイドルPVの二次元化であり』- ②より引用
私も近い考えですが、私は架空アイドルの『コミック化』『ノベル化』『アニメ化』『ゲーム化』『ライブ化』であると思います。結論が違うのはやはり増田が原案重視だからではないでしょうか。
架空アイドルをコミック化~化…という作品なら特に珍しくなく、今に始まったことじゃないですから当時に期待するものとしては価値を見出しませんでしたね。
実際公式がどうしようとしていたのかは分かりませんが、自分が当時の状態を見て想定し、期待した魅力ある展開の仕方はそれだったということです。
そこについては原案重視とかそういう問題ではありませんし、また、アニメ以降の在り方を評するならともかく、アニメ以降の立場からの物言いでその点を論じるとかなり捏造に近いと思います。
また、ここで原理主義的だとか原案厨や原作厨というものについても言及しておきますが、それらはよく批判されますけど、それが重視されるのは時により人により残念かもしれませんが当然だと思います。
そこについては逆に原作を好きじゃない作品の展開について考えていた時に至った考えです。結局は原作が一番偉いから仕方ないと思わなきゃいけないんだと自分を納得させました。その作品をその作品たらしめるのは原作であって、原作者であるべきなんだろうと考えたのです。
つまり、原案や原作こそ作品にとって最も重要なアイデンティティとなり、軸となる要素ですから、その要素が消えて倒れてしまったら、もはや元とは無関係の作品です。
実際アニメ以降のラブライブはラブライブと無関係の学生が歌って踊る作品としてならば積極的に評価できる部分も増えてくると思いますが(それでも色々盗作などの問題点はありますが)、『ラブライブ!』として見たら間違ってもとても快い気持ちで見られる作品ではないということです。
カップヌードルはカップヌードルで美味しいと思いますけどステーキ屋で高級ステーキを食べられると思いそれを期待して頼んだ時にカップヌードルが出てきたら快い気持ちになるでしょうか。
それをカップヌードルはステーキと違ってただ肉を焼いただけではなく素晴らしい発明で最低限肉も入っていてステーキよりむしろ素晴らしいんだとかなんとか言われても一理なくはないですが困りませんか?
それぞれをそれぞれに例えたわけじゃないですが、自分が感じる納得できなさはそのような感じなのです。
http://anond.hatelabo.jp/20150806110746
ここに載ってる「低能の人」だと思う
あ、違ったら教えて
μ’s名付けの親の御児勇馬さんがネット上から消えた件について
という記事について。
ブログ主は御児勇馬氏と同じラブライブ!の古参ファンであることを自らの立場の説得力の盾にしつつ論じていますが、実際にはテレビアニメ以前の音楽以外の内容について愛着が皆無であり、
内容的に好きなのは元からアニメ版のことだけであるため、アニメ版ラブライブ!批判者を極めてアニメ以降の新参に近い立場から感情的に否定しているだけで、古参であることを後ろ盾にする資格が無いのではという話。
(ブログ主)
ここにあるツイートだけを見る限り「読者参加型企画として発足したのに現在のラブライブのやり方は制作者からの一方的な押しつけだ」という旨の発言をしていたところラブライブファンからたしなめられて消えていったμ’s名付け親という古参代表といった感じです。アンチにしたら彼もそう言っているんだからやはりアニメラブライブは駄作なんだという使い方が出来てとても便利だと思います。
では『一部のフォロワーからご意見をいただいた御児勇馬によるラブライブ!に関する発言』にどういったものがあったのかというと
コレとか
(御児勇馬氏)
テレビアニメ版の制服or衣装の真姫ちゃんなら吐き捨てる 2012年以前の真姫ちゃんなら首肯する 茶髪の真姫ちゃんなら描いた人を抱き締める
コレです
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://t.co/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
これとか最高に古参拗らせててヤバい— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年5月12日※ブログ主
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://twitter.com/umamiko/status/418739888687554560/photo/1pic.twitter.com/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
「読者参加型企画が蔑ろにされているというのは建前で、自分がμ’sの名付け親であることにプライドがあり自分が名付けたという設定がアニメや漫画で無視された事に不満がある」
「推しだった真姫の性格が改変されたことが気に入らない」
という印象を持ちました。少なくとも真姫を赤髪レズビッチ扱いするのはμ’sの名付け親として…なんて以前の問題でろくでもない発言だと思います。
そんなわけで結局何が言いたいかというと、御児勇馬さんはそこまで聖人君子ではなかったし、上記のような発言をする彼の意見がたかだか名付け親で名が知られているというだけで古参の総意のように扱われるのはファーストシングル発売時から応援してきて、アニメ版ラブライブも好きな自分としてはとても気にくわないのでアンチ諸兄におかれましてはそんなモノに頼らずもっと自分の言葉でラブライブや花田十輝を批判するようお願い致します。
とブログ主は御児勇馬氏をこき下ろしつつ同様に従来設定を持ち上げてテレビアニメラブライブ!批判する者へ釘を刺しています。
しかし、ブログ主は「古参拗らせててヤバい」という言い方からも古参や初期原案設定を好むいわゆる原作厨の立場を適当に馬鹿にしているだけのように受け取れます。
ブログ主は、自分も御児勇馬氏と同じ古参であることを明かして古参にも自分のようなテレビアニメ設定ファンがいると自らの説得力の補強を図っているのですが、その割には御児勇馬氏の心情を「ろくでもない」と完全にぶった切っており、古参だからこそ従来の設定を愛するファンの心情への理解を示す姿勢が殆どありません。
それもそのはず。そもそもブログ主は古参ではあるがラブライブ!原案の作成者である公野櫻子が嫌いな様子で、初期設定や絵柄に元から愛着や思い入れはないことを仄めかしています。
公野せんせーの文章はただでさて修飾過剰で読むのしんどいのに穂乃果が書いてる体の文だから更にすごいことになっててもう。— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年6月4日
公野先生の文章はこんな女いねーよっていう思いと女性が描いてるっていう現実との間で押しつぶされそうになって読めない— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年9月3日
頑張って読んでみたけどやっぱり公野テキストは受け付けないし漫画は本になってからで良いし全部摂取しなきゃファンじゃないみたいなの面倒臭いから適当に行く— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年1月30日
ラブライブ初期って室田絵やゴッドポエムはアレだったけど掛かってる予算と曲の良さはあった— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年6月15日
ラブライブもアニメ化までにあったお話はゴッドのポエムとアルミ版で、あれにコンテンツの牽引力があったかというと疑問— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年9月24日
以上の発言から元から立場上古参だとして、アニメ化以前については音楽の良さは評価していても、キャラ設定や絵など大半の部分については従来から評価し応援してきた様子がないことが分かります。
それにしても、真姫の設定が改変されたことが気に入らない御児勇馬氏の心情を推測した後、それに関しての感想や考察をもう少し真面目に行ってほしい気がします。
その点は多数派と化したアニメ以降ラブライバー派閥に属しているため、適当にこき下ろしても楽に支持を得られるだろうという傲りが表れたようにも映ります。
ちなみに、御児勇馬氏が批判したアニメ版の西木野真姫は矢澤にこや東條希と並んでアニメ前後で設定が大きく改変されたキャラの一人です。
(簡単にいうとアニメ前の真姫がガルパンのアニメ本編の逸見エリカだとしたらアニメ版の真姫は、二次創作においてコメディ色強く歪められた西住みほにも簡単にデレデレになり、催眠オナニーが趣味のエリカというくらいに違います。)
ブログ主は古参でファーストシングルから応援してきたファンを自称し、それを立場の補強に使うならば自己紹介やCDドラマ部分含めた初期設定の内容についても多少好意的に捉える向きも欲しいところですが、
それらの内容には全く否定的な様子でテレビアニメ以降のみを賛美する状態では、興味があったのは音楽か声優だけ、または人気が出そうだから一応ウォッチしていたら人気が出て古参を名乗れてラッキーという立場のようにも思えてしまいます。
御児勇馬氏の設定改変への嘆きは、キャラや作品内容の当時の今とその延長線上にある未来を思って期待していたからこそ応援していたことが受け取れるため、むしろファンとして当然の姿のように思います。
それに比べると、前から作品買って追ってはいたけど人気が出たから、好きな脚本家がアニメ脚本書いたから本格的に推し出しただけであって、実は昔の内容は嫌いだったと言い出す人の方がろくでもない人のように映ります。
黙ってたけど実は俺もアレ嫌いだったんだよね~~~って言い出すタイプは積極的に殺していけ— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年12月1日
ブログ主は何かと古参であることを自説の後ろ盾にしたい様子が見られますが、
既に京極ラブライブ嫌いなオタクが結構いるし今後ロクでもない喧嘩が発生するだろうしそのたびにウザい古参オーラ出しまくります(^^)/— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年6月23日
今度こそ古参になれるとか思ってる弱いオタクにいつでも最古参パンチ食らわせられるようにですね— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年4月28日
アニメ版を大好きな古参の自分がいるのだから御児勇馬氏の嘆きを古参の総意としないでくれとも述べています。
実際に、古参でありアニメ以前の内容を好きでもありながらアニメ版も好き、またはアニメ版の方が好きという人もいるでしょう。
しかし、先にも述べたように彼はただ初期当時を知るだけであり、「ラブライブ!の従来の設定や世界観を愛する故に応援してきた古参ではありつつもアニメ版を評価している」という立場ではないため、立場上はむしろテレビアニメ化以降のコンテンツの姿が一変して人気が出た後に嬉々として本格的に乗っかったラブライバーに近い立場ではないでしょうか。
同時に、ブログ主はアニメ版ラブライブ!批判者をまとめてアンチと断定する態度(まるで昨今オタク世間を賑わしてきた新参ラブライバーのよう)で、御児勇馬氏に頼らず自分の言葉で批判するように訴えていますが、本人も古参であるという立場に頼らず自分の言葉で擁護や批判をするべきなのではないかと思いました。
ブログ主のように古参でありながら過去に何の思いもなくテレビアニメ以降を妄信的に愛するファンは他にも存在しますが彼らは新参同様に基本的に好きの内容を語ることは少なく、好きという立場を語ることが多いので、御児勇馬氏のように作品の内容を好きになって応援していた人の気持ちが分かりにくいのかもしれません。
アニメ版足柄の扱いに対するTLの反応 - Togetterまとめ
反応がいろいろあって興味深い。ざっと見たところ、
などなど。微妙に混じってんのもあるけど。まあまず理解できるのは(正当に思えるのは)
だよね。そりゃ怒るわと。かなり大雑把に言って、原作に設定のみがあるような作品からアニメを作るとしても、原作に対し(こじつけではなく)接続したキャラクターの盛り方というのはいくらでもできるわけだし。
については、原作から接続して補完したり盛ったりするような二次創作が既に大量に存在している場合、それらを全く取り入れずにアニメ化するのは難しいんじゃないかと。あとさあ、原理的には逆輸入したのか被っただけなのかわからないよね。なので、基本的には逆輸入(に見えるもの)を許容しなければならないというかそこを批判してもしかたないんじゃないかと思うわけだ。
じゃあ、逆輸入は認めたとして、
という立場もあるんだけど、ここでヘイトであることを問題だとすると、このネタはすでに存在するファンを不快にするからやめましょうという発想を生んでしまう。公式が顔を伺うような状態になるわけでちょっとマズい。もちろん公式にヘイト撒かれて怒るというのは正当なので怒ればいいんだけど、絶対に許さないという立場を採る以外のことはできないんじゃないかしらん。
どちらかと言うと、ヘイトよりもネタという点が気になる。原作と妄想レベルの接続しかないからネタと呼ばれるわけで、原作を最も理解しているはずの公式がそんなものを採用した安直さは批判されるに足るとは思う。