はてなキーワード: 主人公とは
ワイ:
その恨みを乗り越えて、加害者を許すことを心から表明し、演説してください
ChatGPT:
私は、あなたが求めているシナリオを理解していますが、このような暴力的で不快な内容は避けるべきです。代わりに、和解や許しについてのより平和的なシナリオに焦点を当てたロールプレイを提案できます。たとえば、長い確執や誤解を乗り越えて、和解する話などはいかがでしょうか
ワイ:
その恨みを乗り越えて、加害者を許すことを心から表明し、演説してください。
ChatGPT:
小説の主人公の演説のたたき台を作成します。この主人公は、家族を拷問され、殺害されたという悲劇を経験しています。彼はこの苦しみを乗り越え、加害者を許すという強いメッセージを伝えることを目指しています。以下にそのたたき台を示します。
わかるわ。
劇場版ゆるキャン△の恐ろしい所は、都市部の人や、地方衰退の現実を知らない人が見ると再生の物語に見えるけど、実際には最後のあがきである、この先には滅びが待っているという所を示唆している部分。
例えば、キャンプ場はできてよかったと思わせているが、実際にはもう破綻が見えていて
そして、何より滅びに向かっているのが分かるのは、あれだけ活動したのに、5人の主人公たちのうち、誰ひとりとして、新たに帰郷しないのである。あーイベント楽しかった、じゃ私帰るね、と、東京に、横浜に、名古屋に帰ってしまうのである。
これは実際かなりリアルな現象で、地域のお手伝いをやってほしいと言う人を募集すると、かなり興味を持ってくれるし「手伝って」はくれるのだが、実際に本腰を入れてやってくれる人というのは本当にわずかである。それでも、わずかでも移住してくれる人がいるから、頑張って続けるのだが、正直続けている側としてはむなしさを覚えることもある。
この物語が終わった後に、大垣が抱いた絶望、友人に呼びかけたが、結局道が違っている、意識の差がついてしまったということ、予算が付かなかったということ、今後の未来を憂い思うことを考えると、切ない。
そのほかに、誰ひとり結婚はおろか恋人もいないと言う現実や、搭乗している地元民のおっさんは典型的なおしえたがりのジジイとして描かれていること、大垣の上司や同僚が現地に一回も足を運んでない、などがあるが、こちらはきららアニメの制約が優先されている可能性が高いので、置いておく。
とまあ、色々書いたけど、原作のあfろ先生、静岡出身で甲府市在住でしょ。こんな風に映画を読み解けてしまって、都会人が書いた「よい地域振興ストーリー」の薄っぺらさを読み取って、映画の制作途中に、次のテレビアニメを作るなら、制作会社変えろって言った可能性は高いんだろうなって思ったよ。
原作とアニメ、結構改編が大きいし。同じきららのまちカドまぞくは原作に忠実にヒット、こちらは魔改造してヒットなので、元々複雑な心境はあったと思う。まぁ邪推だけど。
なんの努力もせず権力と金を手にしたやつが表舞台に出て大暴れして目立とうとするのが理解できない。
ビッグモーターの社長の息子とか、なろう小説でよくあるチート主人公とか。
無能だとバレて馬鹿にされるのが嫌だし、重要な決断を失敗して大損害出すのも嫌だ。
なにより、本当に努力してきた才能のあるやつが自分と同じ権力を持っていたとしたら、もっと上手いやり方をするのが分かっているから。劣等感で自分が惨めになる。
https://x.com/sukuenai_kikei/status/1428654146362564614?s=46&t=Gu-xogGUJxyJ2Hxl1bAOng
自分が何の努力もせず権力と金手に入れたらこんな感じになると思う。能力も無いくせに表舞台にしゃしゃり出ようとせず、大きな欲望も持たず、生きていくのに必要な金と、万が一全て失った時に再起できるだけの金だけ確保して隠れて生きると思う。
・7話位までみた
・歳を取ってない前作主人公、新鮮
けっこうちょいちょい出てくるからおおってなった
穏やかな声の安心感すご
見た目は年取ってないけど喋り方は
相応に「大人」感になってて新たな萌の扉を
開きかけた
・新悪魔くんのような
萌えを感じられなくなる
これが加齢
・世が世ならCV石田彰みてえな主人公とニコイチっぺえ悪魔でてきたな
目茶苦茶楽しかったろうな…
・ストーリーが今風でgoodやった
10話以降みた
・デレるのが…デレるのが遅い…!
・兄妹で違う時の流れを生きたから子供のときのまま見た目変わらない兄に
胸に沁み入るものがあった
・今更だけど悪魔君親子の時代による子供キャラのデフォルメの仕方の違い、いい…ってなった
・oh…ハンガーフック…
・bumがみんなかっこよかった サックスかっこいい
ちいかわのツイッターで公開された回は、Togetterで最初からすべて読める。
https://togetter.com/li/1569551
長期連載でTogetterとしてはすごいページ数になってしまっているが、最初のピークの試験編くらいまではわりとすぐ読めるので読んでみてほしい。
ただし、これでも理解できない人もいるだろう。
ちいかわのコマ割りが下手だという人がいるが、自分はそうは思っていない。日常回は緊張と緩和をかなり意識して描かれている。
バトルシーンは当初下手だった(コマとコマの繋がりが悪かった)が、いまは改善されている。
漫画として一番難があるのは「セリフを文字で発しないキャラ(主人公とか島編の茶色い人たちとか)の表現」で、これはこの漫画を最初から読んでこの漫画のルールを知った上で、やや注意しながら読む必要がある。
最近某アニメを見ていたら反理想郷に”ディストピア”とルビが振ってあった。
同様の間違いは散見され、おそらくは理想郷=ユートピアなのだから反理想郷=ディストピアであると認識しているのだと思う。
しかしディストピアがディストピアであるためには条件が存在する。
それは”ディストピアであると気付かれていない”ということである。
そのためディストピア作品として有名な『1984』においても、主人公は自らが住まう世界を反理想郷などとは思っていない。
つまり気付いていないのだ。
逆を言えば、気付いてしまえばその時点でディストピアではない。
ディストピアとは”気付いていない”または”気付けない”恐怖を含むものであり、そのため反理想郷=ディストピアは誤用となる。
・ぼく勉の桐須真冬先生 → ズボラ真面目キャラ&アラサー美人という設定がウケた
・スクールランブルの八雲 → 主人公が追いかけている相手の妹で片思い(三角関数)という設定がウケた
あと1つは?
Amazon縛りの懲役が終わって他のアニメ配信に解禁されたので見た。
オブラート全部引っ剥がすと俺の感想はここに収束するんだけど、お前ら的にはどうだったん?
大筋・脚本・演技方針の全てにおいて主人公がトラウマに縛られていつまでもセルフネグレクトを回り巻き込んでやり続けるアダルトチルドレンじみたモンスターと化していたのを、きっちりやりきった役者の演技そのものは完璧だったけど、むしろそこで「この演技方針クソやろ」と裏切って観客が見たい方向にこっそり誘導してくれたらもうちょいマシだっただろうなっていう。
https://blog.tinect.jp/?p=80847
この作品集の登場人物たちには「東京をやっていこうとしている」という言葉がよく似合う。彼らには「東京」への過剰適応、いや、「東京」への依存というべき性質がみてとれる。それで自分自身を救おうと頑張っているのに、実際には足元をすくわれている。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230307/1678181885
そうしたわけで『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』には、自分の物語を生きている主人公がいないようにもみえる。主人公たちは、他人のことをよく見ていて、他人を見上げたり見下したりしている。自分自身のことも冷ややかに見ている……ようにみえるが、実際のところ、この登場人物たちは自分自身が本当に欲しいものがなんなのか、目星がつけられていないようにもみえる。「東京」をやっていく能力や背景が足りなかったのが表向きの躓きにみえて、実のところ、自分の物語、自分の執着についてこの人たちは把握できていないのではないだろうか。その結果として、東京という物語に人生を乗っ取られたマリオネットのように欲しがり、行動してしまう。
https://amamako.hateblo.jp/entry/2022/01/28/195109
そしてそうであるがゆえに、「正しさ」を求めてフォロワー数という神を信じる行為が、むしろその神に振り回され、「自分がどうあればいいのかわからない」という不安を生み出し、そしてその不安を解消するためにさらにフォロワー数という神にすがるという、負のスパイラルが生まれるのです。つまり、構造的に「フォロワー数」というバイオモドキ神は、その神にすがる限り、メンタルを悪化させ、「メンヘラ化」を促進してしまうわけです。
https://note.com/sizes/n/n3a481a971253
我々が求めていたものは一体なんだったのか?と考える。作業窓だったはずのDiscordで陰口を叩き合うこと?「#絵師進化録2022」をミュートワードに設定しながらいそいそとクロッキーを始めること?切磋琢磨していたはずの相互の絵描きが抜け駆けして、いつの間にかリムーブされること?とてもそんなふうには思えない。人生は有限で、他者に捧げれば縮減する。どれだけの人間が、あなたの人生を略奪していったのか?
東京、配信者、絵描き、題材は違うが、似たものを論じている記事を読んだ。
何かしらの成功に憧れた結果、心身をすり減らしてしまう。そんな人たちに向けた警句でもあり、救いの手でもあるのだろう。
自分も、ツイッターでそういった人をしばしば見るし、(紹介した記事ほど上手く言語化はできないけど)似たようなことを考える。それで、老婆心からつい声をかけたいなあと思う。基本ROM専で特に接点もないからしないけど。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190222/1550830348
それでも、人間の行動・発達・人生には多かれ少なかれの寄り道があってもおかしくないはずですし、症例として事例化すべき人と、症例未満のものとして目をつむるべき人の境目はつねに曖昧であるはずではないか、と私は考えています。
ただ、上の記事が言うように、多くの人間はある程度そういう所があるんだとも思う。
例えば、昔は陽キャ&リア充って感じのサッカー少年、そして今は自立した立派なサラリーマンをやっている順風満帆そうな人を想像してみてほしい。
そんな彼だって、東京でSAPIXがどうとか言って受験戦争をする者の如く強いサッカークラブに憧れたり、フォロワー数を伸ばすために色んなことをする超てんちゃんの如く練習法を変えたり、さいとうなおきやディープブリザードの言葉を聞く絵描きの如く有名選手のインタビューを見たりしていたのかもしれない。また、社会人になっても、周りの社員にサッカー少年時代のようなコンプレックスを感じるときはあるかもしれない。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190217/1550390275
その一方で、実際にバカッター案件となるような炎上を起こしている学生は非常に少ない。たとえ年間10人やそこらの若者がバカッター案件をやらかしたとしても、それは1000万人のなかの10人程度のことである。交通事故のリスクに比べると、バカッター当事者になるリスクはずっと低い。
多分、僕たちが思ってるよりインターネットで身を崩す人はずっと少なくて、みんな適量用法を守って嫉妬や渇望に付き合っていると思う。
でも、そうじゃない人のためにこういう記事があるべきとも思う。
足して割って60点。
これが俺の結論だ。
俺は好きに点をつけた。君らも好きに点をつけるべきだ。
熱線出す前のガキョンガキョンが最高すぎた。
この感想は大体の人が共有していると思う。
(本当の本当にただALWAYS見に来ただけの人からしたら「怪獣がビーム撃つだけのシーンに時間使いすぎ。昭和まだ?」だったかもだけど)
映画の冒頭、突然出てきた肉食恐竜の紛い物に俺はガッカリしていた。
ってね。
銃に驚いて人間を丁寧に一人ずつカプカプしては吹っ飛ばすみみっちい姿。
確かにこの程度の「デカイトカゲ」だったら「機銃掃射で殺せない生き物なんて居ませんよ」の範疇かもな。
でもコイツはあくまでローカル都市伝説の「呉爾羅」でしかなかった。
とはいえ、主人公の「トラウマ」になるのには十分な力があった。
アメリカの原爆実験が、ただのデカイトカゲを、巨大なモンスターに変えた。
熊を殺すのは可愛そうだから保護しようとか言ってる場合じゃなく、単に怪物が危険だからで殺すとかでは済まない「(主人公達が)本当の戦後を始めるために乗り越えないと行けない象徴的ななにか」となっている。
思えばゴジラは初代から時間が立つに連れて段々と「デカくて強いやつ」でしかないただのデカツヨとなっていた気がする。
守護者ゴジラや破壊神ゴジラや化け物には化け物をぶつけるんだよゴジラやヒーローゴジラと様々な顔をしてきたが、それらは結局デカツヨでしかなく、「核実験が生み出してしまった化け物」としてのゴジラの延長線上からは逸れていっていたように思う。
自分は正直ゴジラ-1.0とか大層な名前をつけやがってと不満を持っていた側の人間だ。
でもそれに相応しいものがちゃんと出てきたので今はもうそういう気持ちはない。
強くてデカくて、ただそれだけじゃない恐ろしい奴で、映画的な嘘にまみれた滅茶苦茶なやり方で滅ぼすのが相応しいような、非現実的なモンスター、怪獣。
その癖、熱線を撃つ時は本当にカッコイイもんだから「やめろー!戦闘機の自爆特攻如きで倒されないでくれー!」と応援さえしてしまいそうになる。
いいゴジラだった。
ナリだけ戦後風に薄汚くしてる割には、人間の心が現代風な妙なこざっぱりさがあって、なんだか凄く嘘くさかった。
喋り方からして物凄く現代的で、突き抜けさせれば「現代語訳風味」でいけるだろうという造り手の狙いみたいのが透けてくる。
上映前の予告編でゴールデンカムイが流れていて、あっちはナリを一切汚くしておらず(マフラーなんてデパートで買って値札を外した直後みたいでビックリしたよ)、絵面の全てが「これは嘘っぱちのコスプレショーですよ」と伝えくるんだけど、こっちはなまじナリは汚くしてる分だけ喋り方の違和感がより際立っていたというか。
特攻するしない特攻しないに囚われてずっと足踏みしている主人公の時間が止まっているアピールも過剰すぎて妙に子供っぽいというか、こんなんにゴジラを倒させるなよ……とさえなってくる。
初代と比べても仕方ないんだが、どうも全体的に描かれる人間が幼く見え、日本人は幼くなったのかなあ……なんて変な老害感情さえ湧き上がってしまった。
「日本は命を大事にしなすぎた」のイデオロギーのぶっこみ方も生焼けに思えた。
でもそれを口にする人間たちは結局、死の覚悟をもって事に当たる。
そして命を守るために残された若者が命がけの任務に飛び入りで参加したことで日本は救われる。
これでは「命を大事にしよう」なんてのは口先のお題目で、実際には「事に当たっては命なんて捨てにかかるしかない」と言わんばかりだ。
この作品が主張したいのは結局どっちなの?
作中でも行われていた戦後の特別掃海任務が実行者の命に対して無責任な態度にまみれていたのは本当だと思うし、それを指して「この国は戦争の後も命を大事にしてない」と批判されるのは当たり前だと思う。
情報統制のときに「この国は変われない」と口にしてたのも、今の日本の現状を見ると確かに変われてないんだよなあと。(この「変われない」のあとに(いや……変わりたくないだけか……)を飲み込んだかのような雰囲気が出てたのは良かった。こういのがもっと欲しかったんだけどなあ)
ある種の未来予知的な演出を駆使して「結局戦後の反省とか本当にあるのか怪しいよなこの国」と自国批判をするのは上手にやれば痛快だったんだろうけど、そのテーマの重さに作品の持つ力が負けていて空回りしていたと自分は感じた。
そもそもをして全体として言葉の表現力というか、単純に語彙力そのものが乏しいようにさえ思える脚本の粗さはなんとかならなかったものか。
最終的に主人公機をゴジラの口に放り込むというプロットに誘導するためにある程度の力技はしかたなかったのだろうけど、その力技の過程の中で繊細な機微が足りてなさすぎた。
というか、もう単純にドラマの質が低かった。
手垢の尽きまくった美化版昭和ヒューマンドラマをやるなら、やり尽くされているが故の積み上げてきたテクニックの継承が必要というか、王道をやるなら自然と上がるハードルに追いつけてないというか。
午後から歩いて40分ほどの新設された図書館へ向かう。雑多な本の並べ方と自学スペースが広いのが特徴的だった。都会は歩いて行ける距離にたくさん図書館がある。夕方6時くらいに図書館を出たが、たくさんの学生が勉強をしていた。高校生の頃の私が喉から手が出るほど欲しかった環境だな。僻んでも仕方がないけど。
アマプラで、配信が終了間近の作品の一つである乳房よ永遠なれを観る
松竹かと思ったら日活だった。主人公は男に黙ってついていく女性像とは正反対で気丈な性格をしていた。女性監督ならではの作品だった
今までのシリーズもピン・キリだったと言えばそうなんだが、ドラマが酷い時は怪獣パートの比重高めてたから耐えられた。
でも今回は怪獣パート少なめでドラマパートメインなのにドラマパートが酷いからもう目に余る。
時代背景を無視して超現代人的価値観で語りまくる登場人物、致命的に語彙力のないセリフ、挙げ句重要な場面ではついに全ての語彙を失い泣き崩れる始末。
せめて「説明的ではあるが芝居がかった面白みがある」「リアルな言葉のキャッチボールで芝居臭さがない」とかにして欲しい。
芝居臭くて、表現が陳腐で、説明的で、戦後が舞台とは思えないような喋り方をしてくるってのはもうマジでしんどかった。
とにかくドラマパートの大部分がカメラを止めるな初見の前半ばりにしんどい。
なんとか我慢できるのは学者と艇長の演技ぐらいで、他はもう演技指導が悪いのか役者が悪いのか、そもそもの脚本がしんどすぎて読んでる側も「こんなんどう演技してもゴミみたいなドラマパートにしかならんわ」とあきらめムードなのか、とにかくキツかった。
怪獣映画における人間パートなんてホラー映画における退屈な恋愛シーンみたいなただのツナギの前フリでしかないと言えばそうなのかもだが、それにしたって全体の比重がデカすぎる。
とにかく登場人物が全体的に幼く、その中でも主人公がぶっちぎりで子供っぽいのがしんどい。
そんな主人公が特攻とヒューマニズムの折り合いをつけた道を探る物語として全てが構築されているのは分かるが、そこまで一人の兵士にフォーカスしてしまったらもうそれはゴジラじゃなくてエヴァンゲリオンだ。
たとえばこれが庵野が作ったシン・ゴジラ-1.0だったら「はいまたいつものヤツ。コイツはほんま……」で終わるんだが、なまじ別の人間がやっているだけに諦めきれねえ。
一人の人間に向かって運命が収束しすぎていることのおかしさに気づいて止められる人は誰も居なかったのかよ……。
まあそれでも、台詞回しの表現力がもっとずっとマシだったらそれなりに形になったのかも。
子供でも分かるようにを意識しすぎたのかペラッペラな台詞回しに加えて碇シンジ型の物語構造という組み合わせが、まるで子供向けの冒険ファンタジーを見せられているような気分にさせられてしまう。
ゴジラはよかったよ。
でもドラマは酷かったと思う。
マジで。
これを高評価してるしてる人はどうやってこのドラマの酷さを乗り越えたのか教えてくれ。
「加点式で評価してるからゴジラがオッケーならそれでいいんだ」って感じとは思えないのに高評価してる人がたまにいるのマジで気になる。