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はてなキーワード: ロラン・バルトとは

2024-04-18

大人になって「中二病」という言葉を使う奴は逆に痛いという話

俺は40過ぎのおっさんだが、趣味言語学勉強している。

先日知人と飲みに行ったんだが、その際「言語ってどのようなものか?」みたいなことが話題に上ったんだ。

そこで俺は「そもそも一般に使われている言葉恣意的もので、必然性はない」と発言した。

すると知人は「中二病?w」と揶揄するように言う。

いやいや違うよ、もしそれを中二病と呼ぶならソシュールロラン・バルトなんかも単なる中二病になってしまうから

そう説明したが、知人は要領を得ない様子で首肯しない。

そこで気づいたんだ。

ああ、そうか。「中二病」って言葉免罪符なのだ

自分が分からないことに対して、それが少しでも曖昧で、抽象であるとそれを「中二病」と称することで、自分知識不足咎めことなく、逆に「中二病」なことだから知らないほうがまともだと自分肯定するための免罪符なのだと。

自己欺瞞だ。

未知なるもの、未開なものに対して「中二病」と名づけることで、その可能性に蓋を閉めるという行為は、大人が行うのにはあまりに幼稚すぎないか

そして彼らはその対象に対しての適切な表現を知らないからこそ、ブラックボックスとして「中二病」という言葉を使っているのだと思う。

2024-04-16

大人になって「中二病」という言葉を使う奴は逆に痛いという話

俺は40過ぎのおっさんだが、趣味言語学勉強している。

先日知人と飲みに行ったんだが、その際「言語ってどのようなものか?」みたいなことが話題に上ったんだ。

そこで俺は「そもそも一般に使われている言葉恣意的もので、必然性はない」と発言した。

すると知人は「中二病?w」と揶揄するように言う。

いやいや違うよ、もしそれを中二病と呼ぶならソシュールロラン・バルトなんかも単なる中二病になってしまうから

そう説明したが、知人は要領を得ない様子で首肯しない。

そこで気づいたんだ。

ああ、そうか。「中二病」って言葉免罪符なのだ

自分が分からないことに対して、それが少しでも曖昧で、抽象であるとそれを「中二病」と称することで、自分知識不足咎めことなく、逆に「中二病」なことだから知らないほうがまともだと自分肯定するための免罪符なのだと。

自己欺瞞だ。

未知なるもの、未開なものに対して「中二病」と名づけることで、その可能性に蓋を閉めるという行為は、大人が行うのにはあまりに幼稚すぎないか

そして彼らはその対象に対しての適切な表現を知らないからこそ、ブラックボックスとして「中二病」という言葉を使っているのだと思う。

2023-11-07

マナー講師嫌悪する奴ら

正直言って俺も胡散臭いと思っているし、信用もしていない。

大方の意見ネット民と同じだと思っていい。

しか提言するべきことがある。

重要なのはマナー講師を何故胡散臭いと感じるかだ。

理由簡単マナー講師の奨めるマナーというもの一般的ではないように感じるため。

まり恣意的なんだよ。

マナー講師独自マナーを作ってそれを流布しようとしている。

けどそれって、あなたルールですよね?というわけだ。

だが少し待ってほしい。

恣意的ものというのは果たしてマナー講師マナーだけだろうか?

本題に入ろう。

ここから言語の話だ。

日本人であれば当然「てにをは」のことは知っているだろう。

掻い摘んでいえば助詞の使い方についてであり、文法規則のことだ。

例えば、次のような文章があるとしよう。

1.私は増田が好きである

2.私は増田は好きである

一般的に正しいのは1。

では2はどうだろうか?

違和感を覚える?そうだろうね。

でも、2が間違っているわけではない。

それはただ読み難いというだけに過ぎない。

しか試験で2のように書けば×をもらうだろう。

そもそも我々が「は」を「が」と同様にしない理由はあるのだろうか。

はっきり言おう。

そんなものはない。

そこに必然性はなく、あるのは恣意性のみだ。

馬鹿を言うな。そんなことを是としてしまえば世が混乱する。

ええ、その通り。だからこそ世の中のルールというのはおおよそが恣意的である

にもかかわらず、恣意性であることに気づいていない人が大半なのは悲しいことだ。

しかしこれは悪いことではない。寧ろ必要なことであり通念がなければ社会は成立しない。

要するに、社会というのは洗脳されなければ成立しない。

からこそ必然性のない恣意性を我々は教育として受け入れ、それを是として正しいと認識する。

緩やかな洗脳必要悪。それは洗脳と呼べばそうであろうし、常識と呼べば好まれる。

からこそマナー講師糾弾するというのは同時に、自分洗脳に対する嫌悪でもあるはずなのだ

世はSNS全盛期。

人々は情報に踊らされ、偏った情報洗脳されている人々を笑う。

洗脳されている奴らを洗脳されていることに気づいていない奴らが笑う。

人生喜劇である

巷でたまに聞くこの言葉意味は、そういう意味なんだよ。



追記

拙い文章ながらブクマコメントいただきありがとうございます

初めての増田投稿のためドキドキしながらも嬉しいです。

そしてコメントにおいて何点か気になるものがあったため追記しました。

君は自分が思ってるほど頭良くないし作文も上手くない。もってまわった言い回しを全部切って文量を半分にすると頭良くなるし作文も上手くなる。騙されたと思ってやってみな。

まず、これは頭が「良い」や「悪い」の話ではありません。

そのため本文の内容を理解できたのであれば感想として「頭が良い」「頭が悪い」といったものは出てきません。

何故なら本文が示す意味準拠するものを問うからであり、意味理解したなら「そもそも頭が良いとは何か?」といった感想になるはずです。

まり「分かりやす文章を書けた方が”頭が良い”のならば、その分かりやすさはどの程度の知能を基準とするのか?」という問題です。

本題と言いつつ本題ではない部分だけど、文法的に通じることと同じ意味として通じることを混同している。愛の告白をする時に「僕は君は好きだ」なんて言ったら十中八九「じゃあ誰が嫌いなの?」って返されるよ。

あえて混同させています

その上で「じゃあ、どうしてそれを”混同”と呼び、差異を認めるのか?」といった話です。

ただ例として出した文章が分かり難いといったことは否めず、それは完全にこちら側のミスと言えるでしょう。

すみません…。

格助詞「が」と副助詞「は」は同じではないよ。

問題は、それら「が」と「は」が同じではないとして、では何故同じではないのか?という話です。


本文を書くきっかけは、部下と言語についての話をしたことでした。

私は言語学や記号論を学んでおり、当時はそれらが時代の潮流に乗り、栄えた時代でもありました。

部下は著名な大学を出ており、専攻は文学と聞いていました。

そこで私がジェラール・ジュネットマリー=ロール・ライアンを持ち出して話をしたところ、ポカンとした表情を見せられ、

じゃあロラン・バルトについてはどう思うのかと聞きました。

すると彼は「それってガンダムキャラクターですか?」と笑って尋ね、私は愕然とし、構造主義としての思想はもはや廃れてしまったのか?

憂慮する思いを抱きつつ、多少の啓蒙目的で本文を書き記した次第なのです。

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2017-07-16

失われた時を求めてを読む:2巻195頁まで

出来事

ヤリチンのスワン君がオデットという娼婦恋愛する回。

・登場する貴族ブルジョアが揃いもそろって中身のない連中で、他人をこき下ろしたり、どうでもいいことをひけらかしたりと醜悪

・スワンとオデットも例外ではなく、空っぽ

気づいたこ

・書いた増田見返してたら、1巻でスワンの子供が出てるから、これ過去編なんだね。今気づいたわ。

思ったこと

主人公キャラ不明の「わたし」ではなく、個性的なスワンなので、非常に読みやすい。1巻が辛かったら2巻から読むのも普通にアリだと思った。

ロラン・バルト「誰が一体、プルーストを飛ばさないで読んだだろうか」は名言

2017-02-27

文系永遠に作者の気持ちでも考えてろよ〜作者のフレンズと作者の意

文系は作者の気持ちでも考えてろよwwwという文系に対する典型的煽りがある。

元々がネタスレ気味な2chネタなので、「マジレス」するのもどうかと思うが、「本当に文系は作者の気持ちを考えているのか?」について書いてみたい。


これについて書こうと思ったのは、以下の記事を読んだのがきっかである


けものフレンズ考察班VS哲学的ゾンビ

http://honeshabri.hatenablog.com/entry/philosophical-friends


いずれにおいても、根底にあるのは、作者・製作者の意図気持ち考察することこそが重要という発想ではないだろうか。

しかし、少なくとも現在文学において、作者の意図気持ちを推測・考察することはそこまで重要視されていない。

現在では、神としての作者の意図を探るのではなく、主として、作者から離れた作品のものテクストから何が解釈できるかが論じられるのである

(いわゆる「作者の死」。ここら辺の議論ロラン・バルト以降、色々と展開しているけれど面倒なので省略する。)

この考えのもとでは、文系は作者の気持ちを考えているのではなく、「制作者はそこまで考えてないと思うよ」というツッコミはあまり意味がない。

制作者がそこまで考えてなかろうが、作品自体からその解釈が成り立つなら、その解釈は「アリ」なのだ


では、その解釈が成り立つかはどう判断するか?

作者の意図に沿うかで判断することはできない。

判断方法としては、ざっくり言えば、作品の内容と整合するかを基準として、その解釈が支持を得られるか、という多数決的な方法しか取り得ない。

乱暴方法だが、これしか方法がないのである

文学における解釈とは、このようなルールのもとでのゲームとも言えるだろう。

もちろん、作者の意図を探る、というルールゲーム可能ではある。

しかし、個人的には、それよりも作者の意図を離れた解釈を論じるゲームの方が面白いと思うし、そちらが主流なのだ


では、作者の意図解釈と全く関係いか、というとそうでもない。

作者は、あえて明確には表現しないことにより、解釈余地(穴埋めの余地)を持たせることがある。

受け手がそのような作品解釈をすると、作者がこっそり埋めた宝物を見つけることができるのである

はっきり表現しすぎては解釈余地がない。

分かりにくすぎては解釈しようがない。

優れた文学とされるものは、この宝物の隠し方が上手いものが多い。

現代日本において、これを最もうまくやってのける作家の一人が村上春樹だろう。


もっとも、作者が整合的な解釈を想定せずに作品を作ることがある。

新世紀エヴァンゲリオンがこれだと言われており、上述の村上春樹も、ねじまき鳥クロニクルについて似たような批判がされたことがある。

作者の意図する整合的な解釈を求める立場からすれば、このような行為は、作者の裏切りにも思えるかもしれない。

しかし、作者の意図無関係解釈をする考えであれば、そんなに目くじらをたてることではないのではないかと思う。

もっとも、そのような作品に(作者の意図しない)面白い解釈が成り立ち得るかは別論である


以上に述べたことから分かるように、たくさんの人がけものフレンズについて考察をし、その考察がある程度の人に受け入れられているのであれば、制作者がどこまで考えているかはともかく、その解釈は(文学的に)アリなのである

から変な雑音に対する惑わされずに、考察班においては、思う存分考察をしてほしい。

けものフレンズは見たことがないが、切にそう願っている。

2016-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20160903074101

[長文なのよ]自分が思う一重の有名人

大久保加代子の左目(右目は奥二重)

深澤真紀名前知らないからぐぐった、こんなはっきり一重の人でもテレビに出られる時代になったんと驚嘆した記憶がある)

豊川悦司

澤穂希メディアに登場する中では、スポーツ選手相対的に一重を多く見る。アイプチとか邪魔なんでしょうね。でも視界は広い方が有利になりそう)

木村佳乃とか寺島しのぶとか広末涼子とかは奥二重なのでは。奥二重かつ黒目が大きく見える人は珍しいと思う。

ちなみに山口小夜子はしっかり二重。

一重だから不細工になるということもないけれど、一重なのに不細工じゃないという奇跡は本当に珍しい。すでにブコメにもあるように、大きな目(大きな黒目、黒目が閉める割合の多さ)は多くの動物にとって保護欲を喚起させるので、幼さ、愛らしさに通じるという研究がある。ご承知のとおり「妻と畳は新しい方がいい」という伝統を守りロリ文化を誇るわが日本では、黒目がちであることが可愛らしさに通じる。アイプチはもちろん、黒カラコンの隆盛の理由はそれ。最近アイドル写真はどれもこれも黒カラコンばかりで、CGもしくはオリエント工業みたいでちょっと怖い。

ロラン・バルト彫刻刀で切れ込みをうっすら入れたような目とかなんとか形容したアジア人の目が、増田が嘆いていて、ハリウッドパリコレで「アジア人らしさ!」と押し付けてくる、シャルリー・エブドみたいなところに嬉々として描かれる、日本でも「狡賢そう」「起きてる?」「ブサイク」などと形容されるタイプの目なのであって、黒目がそれなりに見えている一重(奥二重)はこういった印象をあまり与えない。

余談だけれど、「黒目がちょっと大きい(く見える)」アイドルはそれだけでアドバンテージがあったのに、いまでは技術で埋められてしま時代なのだなあと、芸能人ワナビー苛烈さを思って心をいためている。(広末涼子とか、松田聖子とか、「目おっきい!」と思わせた筆頭だと思うのだけど、どうでしょうか?)

ところで自分10代のころもアイプチ(的なもの)はあった。びっくりするくらい不自然だったから、「あいあんなブスなのに見た目気にしてんだぜwww」という嘲笑の的になることが目に見えているので手を出したことはない。

昔は一重がもてはやされていたというわけではなくて、大きすぎる目はギョロ目って言われていただけ。なんか平安時代でも、目がぱっちりしてて涙袋かわいい、的な記述があったはず。

ブコメで「家族はみんな二重」って言っているのは、「家族はみんな白人」て言ってるようなもの。(両親白人で実子のケースなら当たり前だろってことと、『差別なんて気のせいじゃない? 気にしなけりゃいいよ!』という無神経さなんだよ、ってこと)

またまた話がそれるけど、自分のまぶたを手でちょっと持ち上げて、友人のあいつは黒目がこのくらい出ているなと試してみると、いやもう視界が広いのね。びっくりする。羨ましい。自分では自分の視界しか知らないからちゃんと見えていると思っているけれど、例えばインド人なんかと比べたら確かに半分くらいしか見えていないのかもしれない。もちろん、焦点の合う範囲は変わらないんだけどさ、上のほうに高圧電線がある場合なんか、インド人のほうが早く気づけるんじゃないの?

そんでインドに行ったときに、会う人会う人すれ違う人すれ違う人、というか私の狭い視界に入る人みんな、とにかく目玉がでかい。おめめぱっちりとかい可愛いらしいものじゃなくて、目玉がでかい。もうね、同じくらいの身長であっても、虹彩の大きさがぜんぜん違う。瞳の色は千差万別なんだけど、虹彩も、白目も、「目玉」感を圧倒的に押し出してくる。目玉に負けて値切り心が折られそうだった。いや、人種によって目玉あるいは虹彩サイズが違うということはあるのだろうか。誰か教えてください。

まあアラフォー独身自分からしてみれば、非モテの原因に一重は関係ないと思うけど、二重なら出発点は少し底上げできたというのは確か。多くのブコメのように世の人は「あいつ一重でブスw」とは思わず、単純に「あいつブスw」としか思わないから、アイプチでもカラコンでも、解決できる術は利用しちゃって心の平穏を得られればそれでいいよね。

自分のことで申し訳ないけど、人生で一度くらいは、お世辞でもいいから、せめて「馬子にも衣装ね!」で充分なので、容姿に関してポジティブ発言を耳にしたかったなー、と30代くらいまでは思っていました。ババアになると等しく世間は冷たいから、婆も不細工な婆も非人間扱いだからいっそ気楽。でもババアになるまで呪縛は解けない。

容姿人種も生まれも厳然たる差別存在するので、そこから脱せない人は呪うしかないし、恵まれた人は呪いを目にすると不快になるだけで配慮してくることもほぼないので、まあ他人を気にせず自分の心を保つほうが健康的ですよね。健康であることと、世人から求められることとは一致しないことも多々ありますが。

2013-12-19

竹田恒泰氏の矛盾(国を愛するとはどういうことか?)

http://www.youtube.com/watch?v=YbSvueCpNyA

「[竹田氏]:麻生問題ではなくて朝日問題だと思うんですよね。これ朝日新聞があそこまで書かなければ何もなかったわけですよ。で、あんな大きく書いちゃったから、世界中にですね、言いふらしてですね、ものすごいバッシング日本が受けたわけですから、これはもう朝日新聞問題ではないかと。」(動画7:15-7:35)

 上の言葉は、麻生の「ナチス発言問題」が話題になっている時に発せられた竹田恒泰氏の言葉である。私はこのような言葉が堂々と公共の電波で流されているという事実のものが恐ろしいし、こういった発言を流すことによってメディア自分自分の首をしめていることを自覚すべきだと思っている。竹田言葉のどこが問題であるのかは、彼の言葉を一般化すれば一目瞭然である

「問題とは問題を提起するから存在するのである。したがって問題の原因は、問題提起者だ」 

 これが暴き出された彼の発言の論理である。この論理正当化するのは、ただ「大衆受け」という一点である。「朝日新聞」を揶揄すれば大衆に受ける。さら朝日新聞を「陰口を言う人」に擬人化してもう一つ大衆受け! 楽しければそれでよし! 詭弁はいつもそういうものだ。

 もし彼のこの論理誤謬なきものだとしたら「在日特権問題ではなくて在特会問題である」ことをお忘れなきよう。しかしご存じのように、竹田氏はこの問題に関しては、前の論理を使わず在日特権はある」と「問題」にしている(そしてそのことがまさしく「問題」になったことも周知のことだろう)。まさしく「在日特権問題ではなくて竹田問題なのである」。さてはて、竹田氏よ、きみは愛国を騙っているが、いったい何者なのだ

    *

 あと別件として、近頃の保守の用いる言葉には危機感を覚えざるを得ないことを書いておく。それは、存在ヒエラルキー活用し、そこで思考停止することである

 たとえば、「朝日新聞」「フジテレビ」「中国人」「朝鮮人」「在日」「左翼」「売国奴」「えせ保守」等等の言葉活用することがそれにあたる。他人に劣等のレッテルを貼ることで自らを想像上において優位に置こうとする努力である。「劣等者」は、存在のもの否定的にされることによって、言葉はつねに伝わらないものになる。つまり、彼らは存在からして悪なのであるからいかによいことをしようともそれは悪事を行うための口実である。ひと言で言えば、彼らはつねに陰謀を図っているのだ。リアリストを自認する保守のなかでバカげた陰謀論活躍する理由もそこにある。

 だが、こうした存在レベルでの思考操作手法は元来、保守のものというよりも共産党のものと言ってよい。より正確に言えばスターリン主義のものである。どういうことか。たとえば、張成沢に対する朝鮮中央通信報道を見てみよう。

朝鮮労動党中央委員会政治局拡大会議に関する報道に接し、反党反革命宗派(党派)分子たちに革命の峻厳な審判を下さなければならないという我々軍隊人民の怒りの叫びが全国を震撼させている中、天下の万古逆賊張成沢に対する朝鮮民主主義人民共和国国家安全保衛部特別軍事裁判12月12日に執り行われた。」

 この文章が極度にヒエラルキー化された存在レベルで記されていることは指摘するまでもないだろう。これがスターリン主義的な言語である(これは批評家ロラン・バルトも指摘していることだ)。私たちはこの文章を一種異様な目をもってしか読むことができないだろう。極度にヒエラルキー化されている言語とは、その外部にいる者から見れば狂気にひとしい。保守言葉は、私にとってひとつ狂気である(私には、ニコニコ動画などで持ち上げられている例の三原じゅん子の演説を「朝鮮中央通信」あるいは「プラウダ」と比較して逐一その言語使用法の類似点を指摘する準備もすでにある)。

 保守の人びとは、自らを指して「まっとう」「ふつう」「あたりまえ」という言葉を使う。「まっとう」に暴力をふるえることのなんと気持ちのいいことか。週刊誌も便乗中だ。(「KAZUYA Channel」とか「痛いニュース」とか「ジャパニズム」を読んで「お勉強」していてはいけないよ。私はさすがにここに「諸君!」までをいれる気はしないが、「正論」「SPA!」は片足つっこんでいる。蛇足ながら言っておくが、保守を自認しメディア批判を行うならば、フジサンケイダブルスタンダードをもう少し問題にするべきだ。)

http://togetter.com/li/604334

   *

 本来、国を愛するということは、罵詈雑言を並び立てることでもなく、週刊誌下品に騒ぎ立てることでもなく、強制させることでもない。それは、一瞬の赫奕たる奇蹟であり、心のうちで突如として燃え上がっていく祭典であり、孤独の奥底に秘められたほとんど不可能な「祈り」のようなものであるはずだ。

2010-06-28

http://anond.hatelabo.jp/20100628003637

どうもありがとうございます。不完全性定理については(第一についても第二についても)その数学的な意味以上の意味を引き出すことはできないと考えているのですぐには同意しかねるのですが、ロラン・バルトテキスト論と「ファイヤーベント」の方法論虚無主義についてはとても興味を引かれました。調べてみたいと思います。

http://anond.hatelabo.jp/20100627233010

論理学にはあまり詳しくないのでなんなのですが、以下のあたりをどうぞ。

ゲーデル=タルスキー不完全性定理

->ある事実が真理であることはそのシステム内部では証明できない

ある意味究極の定理です。厳密に証明されていますので数学として「定理」と呼ばれます。まずは「ゲーデル不完全性定理」で調べて頂ければ資料は大量に出てきます。数学すら穴があることを証明してしまった恐ろしい定理です。

ロラン・バルトテキスト

->記号論からイデオロギーが固定された意味を持たない無意味なものと論証

まずは「(ポスト構造主義」「ソシュール」なんかを調べてから「バルト」を引いてください。「正義」の体系とも言えるイデオロギーが記号論的には無意味な戯言と等価になってしまいました。

ファイヤーベント」の方法論虚無主義

->合理主義と非合理主義に差異はない、など「何でもあり」を唱えています。証明とは言えませんが、現代思想がどんなものか知るにはいいでしょう。科学の方法論すら恣意性の塊で何ら特権的な方法ではないことになってしまいました。

2009-09-17

今どき必死にサブカルをありがたがってる連中って……

いわゆるテレビブロス的なものや、スタジオボイス的なものをありがたがってる連中のこと。はてな界隈にもいるでしょ。サブカルなんて若いファンを取り込めずに、年寄りとともに死滅していくだけの文化なのに、それを認められない老害www

世間一般の感覚とずれてるだけなのに、それを「メジャーに媚びない俺カコイイ!」とか本気で思っちゃっう勘違いッぷり。ゴールデン番組も見ずに、とりあえず批判。この辺オタクもそうだよねwww

そんな老害が理解できるレベルって、ナンシー関とか宇川直宏程度。ロラン・バルトやアンディ・ウォーホールなんて一生理解できませんwww

 
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