文系は作者の気持ちでも考えてろよwwwという文系に対する典型的な煽りがある。
元々がネタスレ気味な2chのネタなので、「マジレス」するのもどうかと思うが、「本当に文系は作者の気持ちを考えているのか?」について書いてみたい。
これについて書こうと思ったのは、以下の記事を読んだのがきっかけである。
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/philosophical-friends
いずれにおいても、根底にあるのは、作者・製作者の意図・気持ちを考察することこそが重要という発想ではないだろうか。
しかし、少なくとも現在の文学において、作者の意図・気持ちを推測・考察することはそこまで重要視されていない。
現在では、神としての作者の意図を探るのではなく、主として、作者から離れた作品そのもの(テクスト)から何が解釈できるかが論じられるのである。
(いわゆる「作者の死」。ここら辺の議論はロラン・バルト以降、色々と展開しているけれど面倒なので省略する。)
この考えのもとでは、文系は作者の気持ちを考えているのではなく、「制作者はそこまで考えてないと思うよ」というツッコミはあまり意味がない。
制作者がそこまで考えてなかろうが、作品自体からその解釈が成り立つなら、その解釈は「アリ」なのだ。
判断方法としては、ざっくり言えば、作品の内容と整合するかを基準として、その解釈が支持を得られるか、という多数決的な方法しか取り得ない。
文学における解釈とは、このようなルールのもとでのゲームとも言えるだろう。
もちろん、作者の意図を探る、というルールのゲームも可能ではある。
しかし、個人的には、それよりも作者の意図を離れた解釈を論じるゲームの方が面白いと思うし、そちらが主流なのだ。
では、作者の意図は解釈と全く関係ないか、というとそうでもない。
作者は、あえて明確には表現しないことにより、解釈の余地(穴埋めの余地)を持たせることがある。
受け手がそのような作品の解釈をすると、作者がこっそり埋めた宝物を見つけることができるのである。
分かりにくすぎては解釈しようがない。
優れた文学とされるものは、この宝物の隠し方が上手いものが多い。
現代日本において、これを最もうまくやってのける作家の一人が村上春樹だろう。
もっとも、作者が整合的な解釈を想定せずに作品を作ることがある。
新世紀エヴァンゲリオンがこれだと言われており、上述の村上春樹も、ねじまき鳥クロニクルについて似たような批判がされたことがある。
作者の意図する整合的な解釈を求める立場からすれば、このような行為は、作者の裏切りにも思えるかもしれない。
しかし、作者の意図と無関係の解釈をする考えであれば、そんなに目くじらをたてることではないのではないかと思う。
もっとも、そのような作品に(作者の意図しない)面白い解釈が成り立ち得るかは別論である。
以上に述べたことから分かるように、たくさんの人がけものフレンズについて考察をし、その考察がある程度の人に受け入れられているのであれば、制作者がどこまで考えているかはともかく、その解釈は(文学的に)アリなのである。
だから変な雑音に対する惑わされずに、考察班においては、思う存分考察をしてほしい。
けものフレンズは見たことがないが、切にそう願っている。
本しゃぶりは自分の知識をひけらかしたいだけの馬鹿なので少し黙って欲しい
現在進行形の作品と完結済みの作品とでは考察と言ってもその性質に大きな違いがあるんだよ 前者の場合、考察している人間は後に考察へ解答が示される期待をしている可能性が非常に...