はてなキーワード: フラストレーションとは
って、私は信じるようにしてる。
だから、過去の選択で圧倒的に差がついてしまったことは、諦めざるをえないけど、これから頑張ることを諦めなければ、「自分は大好きな彼女に出会えたばかりか、自分の人生も変えることができた」って、本当の自身が身につけられるんじゃないか。
過去とこれからは常に別物だし、あなたの彼女とあなたも別だよ。彼女との比較じゃなくて、自分に胸張れるように頑張ろうよ。
私だって、毎日本当に苦しくてしんどくても、周りからはうまくいってるねって浅くおだてられてばかりなことに、すごくフラストレーション感じてるよ。
でも、怠け者だった私が、今、この瞬間は少しだけ自分が成長できる選択をする、ってことを繰り返し始めてから、少しずつ、自分も捨てたもんじゃないって思えるようになった。
一緒に生きようよ。私も、あなたも。
今まで色々な仕事をやってきたけれど、休みの日も仕事について何かを考えているようなことはなかった。休みの日は仕事のことなんか微塵も考えなかった。それはその仕事に興味がなくて好きじゃなかったから。でも今やっている株取り引きだけは違う。休みだ何だなんて関係なく、四六時中考えている。どの株を買ったらいいのだろう、どうしてあの株が値上がりしたのだろうか、などなど。もうずっと考えている。それは好きだから。なぜ好きかというと、儲けが自分に直結するし、責任も自分で処理できる。それがいい。お客様や取引先を相手にして稼ぐ商売には相手の要望を調整するストレスがある。相手に合わせなければならない場面がとても多い。自分にはそれが多大なる苦痛だった。それにその作業は自分にとって非常に手間がかかって煩わしかった。でも株取り引きは違う。そんな煩わしさはないし儲けに直結している。非常にシンプルだから好きだ。他人が介在することもないから、そこから発生するフラストレーションを感じることもない。万が一取引に失敗しても自分のみに責任があるから納得できる。他人が介在してその人のせいでうまくいかないとなると非常なフラストレーションがかかる。それがないことはありがたい。これからも株取り引きをやっていこうと思う。
今の自分の境遇がある程度許容できてしまっていて、もうこれ以上、見えない社会の階層をアップできる見込みもない。
あとは年齢を重ねるに従ってどんどん自分の能力が落ちていくのをただ見守るだけ。
なんというフラストレーションの溜まる日々。
だけどリセットすら怖くてできない自分は、ただ毎日を怯えながら過ごすだけ。
社会的には死んでいるも同然。
持病があるので生きているだけで金が無駄にかかる。
私など生かしておく価値もないのに。
でも再燃が怖くて通院をやめることもできない。
消極的に生きているだけにすぎない私が医療費を無駄に消費している。
親に「死にたい」と言ったら、「死んだらどれだけ周りに迷惑かけると思ってるの?」と言われた。
親は、私が死んだら周りに精神的にダメージを与えると言いたいのだろうけど、生きてるほうが周りに経済的に迷惑をかけてる以上、生き続けていること自体が私にとっては精神的ダメージなのだ。
もしこれが日本ではなく発展途上国だったら、金持ちの家に産まれてないかぎりは、自力で生きられない私なんてとっくに死んでる。
でも生き心地は良くない。当たり前だけど。
私が生きていることで経済的に社会に迷惑をかけてることは正論だと思うんだけど、なぜそのことに真正面から答えてくれないの?
役立たずなのに生きているのは本人だって辛いんだよ。
何が言いたいのか分からなくなってきた。
普段だったら日記帳に書くようなとりとめのないことを、今日は増田に書いてみた。
自分が何がしたいのか、何を望んでいるのか、どうなれば満足なのか全然分からない。
ちなみに心の病院にはとっくに行ってるし薬も飲んでるしカウンセリングも受けてる。
でも何も解決はしない。日本で悩んでるという人はだいたいみんなそうでしょ。
心の医者に行ってやるべき治療はしてるけど、突破口が見えなくてどうしようもない状態。
ほんとどうしたいんだ。
会社での昼食は家から持ってきているものを食べていることが多い。ごはんとおかずがセットになった質素な弁当。
今までは白米だったが、最近はなんとなく健康に良さそうな気がして買った玄米を食べている。玄米は特別好きというわけではないが、それなりに美味しいと思う。わたしのなかで白米と玄米の美味しさは並列で、それぞれに良いところがあり序列はない。
だが昼食をともにする同僚の女性にとってはそうではないらしく、
「うげ。また玄米か。うわー」
だったり
「玄米きらいなんだよねー」
とか
「玄米はまずい」
などと、毎日のように否定的な意見をくれる。わたしはなるべく波風を立てたくないので、
「匂い苦手な人多いみたいだね」
とか
「独特な味だよね」
とか
「そういう考え方もあるよね」
などとお茶を濁してから、まあわたしは好きなんだけどね、などと独りごち、食べる。
わたしはズボラな性格なので、お弁当づくりも適当である。だから先日はフードコンテナに豚の軟骨のはいった醤油ベースの芋煮をいれていた。特にそのことを告げず、昼食に豚の軟骨をボリボリと食べていたら、音を不審がられ何を食べているか彼女に尋ねられた。
わたしは
「ごめん軟骨」
とだけ言った。何かを言うときに相手にどこかしらマイナスの感情を読み取るとわたしはまず謝ってしまう癖がある。
彼女は
「うわー。気持ち悪い。嫌いな食べ物ベスト3にはいる。無理無理」
と言った。
人間にも軟骨あるじゃん、とわたしは言った。彼女は鳥にしか軟骨はないんだと思ってた、と言った。鼻と耳は軟骨だよと言った。どうやら硬骨もしくは肉の塊だと思っていたらしかった。
仕事が終わって道すがらこのやりとりを思い出した。すると、突如わたしは尋常じゃない怒りに駆られた。は?軟骨うめえし。玄米もうめえし。
怒りの感情は膨れ上がり、悲しみを通り越し、憎いと思った。なんだかよくわからないが、その時は心底彼女が憎かった。嫌な記憶が数珠繋ぎになって想起され、わたしは身動きがとれなくなった。
わたしはなんとなくだが、怒りという感情に鈍感だ。いつも適切なタイミングで怒れない。気がついた時にはすごく怒っている。
前述のできごとによって、わたしは強い怒りに駆られた。自分ではなんとなく、我慢できると思っていたみたいだった。だが毎日のように自分の口のなかにはいるものを気持ち悪いとか、食べるものじゃない、と言われて、自分のなかのバケツが溢れた。わたしは家で一人でとても怒っていた。制御できなかった。
なぜこれほど腹が立つのか考えた。そうしてわたしはひとつの考えに思い至った。わたしは彼女の好き嫌いの激しさを許容「してあげている」と思っていたのだ。本来は強く非難されてしかるべき好き嫌いの多さを、わたしが非難しないで「あげている」のに、それを無下にするなんてひどい、と思って怒っていたのだ。わたしはリベラルぶった偽善者だったというわけである。
もともと彼女は食べ物の好き嫌いが激しい。そのことによって冗談交じりに非難されているところもよく見るし、親しくなりたての頃はその好き嫌いの境界線(マグロの刺身はダメだがツナはOK)を探るのが楽しかった。しかし、なぜ好き嫌いが多いかという話になり、
「小さい頃、親がお腹こわすといけないって言って生魚とか食べさせなかったらしいんだ。それで食べられないんだと思う」
という彼女自身による原因分析を聞いてから、あまり好き嫌いに触れないようにしようと思った。それは彼女自身にはどうしようもなかったことだからだ。
誰にでも生きてきた人生がありバックボーンがある。わたしは彼女が生きてきた人生を愛しバックボーンを受け入れることが、今の彼女に対し親愛な気持ちを持つことだと思って疑わなかった。だから好き嫌いについて非難したり馬鹿にしたようなことを言わないと決めた。
だがわたしにとって、食べものの好き嫌いがないことは純然たる正義だった。
人間、生きている限り徳を高めなければならないとわたしは信じ、日々よりよい人間であろうと思っている。食べ物を好き嫌いなく食べることはそれの最たるものだ。馬鹿馬鹿しいかもしれないがそうなのである。
わたしは好き嫌いがほぼなく、大抵のものは美味しいと思って食べている。そもそも向こうは命を奪われているのである。関わってきた人もいる。美味しいと思わなければ申し訳ない。そんな幼稚ともとれる考えにいまだに支配されており、わたしは食べ物を好き嫌いなく食べることは純然たる正義だと信じていた。
わたしは自らの信じる正義を正義だと信じながらも、彼女のことを認めて「あげている」気持ちになっていた。わたしの本心としては、食べもののことを気持ち悪いということは信じられないことだった。わたしは食べられないものがあることを内心恥じていてほしかったのだ。わたしはわたしの正義を押しつけたかったようだった。
だが、人が今まさに食べているもののことを気持ち悪いと言うことについてはやはりやめてほしいと思う。わたしはそう言われるとえづいてしまいそうになる。不快である。テレビなどで独自の生活様式を持つ「部族」などと呼ばれる人が昆虫を食べる様子を気味悪がる場面があるが、あれも本当に失礼極まりないと思う。なぜ人のバックボーンを受け入れないのか。その人がそうしている歴史を受け入れないのか。わたしには玄米や豚の軟骨を食べたくなるようなバックボーンが存在すると、どうして考えてくれないのだ。自分勝手かもしれないがそう思う。
わたしは人間の独善的な有りようは紛れもない悪だと思う。だが独善的な有りように対し決して受け入れまいとするわたしもまた独善的である。だが独善的な有りようを許容してしまうとこの世は独善的な有りようが占めてしまう。ノーと言うべきか否か、ジレンマに板挟みになる。
わたしはわたしが食べているものを気持ち悪いと言われることが嫌なことがわかった。今後どうすべきか、方法は以下のとおりだろう。
①食べているものを気持ち悪がられると嫌だと伝え、控えるように言って一緒に食べる
②上記の理由を伝えたうえで一緒に食べることをやめる
③上記の理由を伝えず一緒に食べることをやめる
ぱっと見①がまっとうだが、考えるに、彼女にとって彼女の嫌いなものを目の前で食べられることがストレスなのだと想像する。また、自分の食べられないものを貶めることで、普段好き嫌いについて非難されることへのフラストレーションのはけ口にしているのではないか。よって①は却下である。
②はまず伝えることへのストレスがある。④はまだ玄米が8キロある。よって③が妥当だと考える。
うだうだ人の悪口を言うような奴は勝手に一人で食ってろって話である。わたしはまずこの徳の低さをなんとかしたほうがいい。考えすぎかなとも思う。書いてスッキリしたかというとそうでもない。
そのことでフラストレーションがたまってどうしようもないとき、どうするか
別のことを考えて思考をそのことから逸らそうとするけども、うまくいかない
いったん眠れば思考がそこから離れることは分かっているんだけど、眠れない
世の中や他人が自分の思い通りに動いてくれないことは当たり前のことで、自分はその思い通りにならないことに対してうまく対処できるようにならなければならない
そうでないと毎日がイライラとフラストレーションだらけでまともに生活もできないし、なにより苦しすぎる
今はどうしたらいいのか分からないから、こうして増田に書いて文章化することで何とか自分自身を客観的に見つめて冷静になろうとしている
こうして文章を書いてるうちに眠気も来るかもしれないし
自分の思い通りにならないことがあるからって、ここまで異常なほどイライラしたり苦しくなったりするなんて、あまりに神経が過敏すぎると思う
何か枕とかを思いっきり叩いたり、カラオケで大声出したり、ひたすら走ったり、歩いたりすれば発散できそうだが
なんでもいいから、あまり害のない発散方法をたくさん見つけて、フラストレーションエネルギーの逃がし方を身につけよう
そしたらきっと今よりは楽な気持ちになれると思うんだ
胸糞悪いとは思ったけど、後でその報いを受けて読者のフラストレーション解消しつつねねっちの評価も上げてて、ふーんと思ったけどなあ
今思い浮かんだのはけいおんのあずにゃんが入部してからしばらくなじむまで、だらけてるメンバーに対してピリピリしてた展開だな
最初からなじむんじゃなくて展開させるために導入であえて最終的に目指す点とは別の展開にしといて最終的にめざすゴールに辿りつくようにする、ってのはまあありっちゃありとは思う
俺がけいおんみてたときは、あずにゃんうぜえ馴染めよと思ってたけど、いつのまにかあずにゃんprprしてたしなあ
出会って7年目、付き合って累計5年目。
同棲しはじめて3ヶ月くらい。
そして今セックスが少ない。
今の状況が続くなら、真剣に別れを検討せざるを得ないので、実利的なアドバイスや経験談があれば、ぜひ教えて欲しいです。
このままでは、女性として多くの人に受け入れられる為の、私の賞味期限が切れてしまう。
初めの一、二年は週3回くらいだったのが、
少しずつ減って、今は最多でも週一。
私がセックス大好きで、好奇心もあることは、付き合いはじめてすぐの時から彼氏もよく知っている。
というか、私は公私関わらず耳年増下ネタ好きで通っているし、真面目な意味でもセックスは日本人の課題の1つだと思っている。
一方の相手側は、超 ノーマル どころか・自慰も基本しない(どんどん減っている)・新しい道具やシチュエーションも興味なし・いたずらで体を弄れば満足 である為、現状に不満はなさそう。
というか、私が悩んでいることが不満なようだ。
セックスが少ないことによる私の悩みは、以下の3段階。
① 彼が私とセックスしたいと思わない
③ セックスや新しいシチュエーションをしない中、彼は私が他の人とセックスするのを嫌がるので、遊びもしづらい
回数が少ないことや、上記それぞれの悩みについては、3年近く前から彼に対して、いろんな形ではっきり伝えている。従い、彼としてもセックスそのものを目に見えて嫌がったりはしない。
けれども、特に①は本人にコントロールしづらい欲求の話でもあって、解決する見込みは今のところない。
私が性欲を失えば悩み自体が消えるのだが、三大欲求とまで言われる性欲を、パートナーもいるのに1人で持て余しているのはなぜなのか。
なまじ交際期間が長い為、これまで自分にできる工夫や演出はしてきたつもりであるが、報われて彼が興奮する事よりも、彼が引き、笑われたりすることの方が大きかった。もっとダイエットする(今も標準体型には収まっている)とか、脱毛とかエステとか、やれることは残っているんだろうが、次に頑張っても無駄だったら耐えられない。
セックスの相性がずっと良い知人や、奔放な友人の話を聞くと、苦しくてたまらない。
私は恋人の性欲を喚起する事すらできないのか。相性が悪いだけなら、早く良い人を探せば良いのだが、セックス以外での問題が少ないお陰で、別れたいとも裏切りたいとも思えない。
自分が望む生活ができていない事、自分の性的魅力のなさを突きつけられている事、相手にプレッシャーをかけてしまっている事、こちらから働きかけてみても相手が何も変わろうとしない事、全部自己嫌悪とフラストレーションの原因になっていて、凹んでいる。
いざセックスに至っても、以前と勢いが違うこともあって「気使って触ってくれてるんだろうなぁ」と申し訳なくなってしまって、楽しめない。
恋人がいないのも辛いが、恋人がいるのに欲情されないのも辛い。贅沢なんだろうか。
全国の増田さん助けて下さい。
だが、そんなサイド展開に関して、どうしても、どうしても一言言いたい作品がある。
http://ncode.syosetu.com/n6569du/
以後、本編とする。
一見ただのVRモノだ。
ありきたりなVRモノだ。
ネカマの主人公が女性キャラと百合百合してる、そんな、なろうなら何処にでも有る作品だ。
上記を毎日更新していたこの作者がひっそりと同時連載で女性主人公のVRモノを投下した。
http://ncode.syosetu.com/n5031dx/
全五話。幸薄い女主人公の話だった。書き殴っただけ。そう思った。
しかし、その後、本編においてその話に出てきた男が本編主人公で有ることが暗示される。
そして、そのオチのない話の続編の連載が始まる。
http://ncode.syosetu.com/n8596dz/
ここではっきりと、本編主人公が女性主人公を模したアバターを使用しているなどの関連性が明らかになる。
と、まあ、これでも序盤は、台詞も同一だし、冒頭言ったような繰り返しの物語でしか無かった訳だ。
やがて、本編の相変わらずの軽いノリに対し、女性主人公サイドは重い展開へと転がって行く。
相変わらず本編は、やれ、パンツ見えた、やれ、パンツ見られた。
平和だな。
その裏で、サイドの方は女主人公が追っていたプレイヤーに嵌められ、仲間との事務所を爆破され、暴走してPKに走った所を仲間に阻害され逆に殺され……。
女主人公が思いを寄せていた本編主人公は本編の軽いノリで義理チョコ貰ったわーいとか、
そんな話だ。
そんな軽い話の一時間後に日に日に追い詰められていく話が投下される。
なんだ?
この温度差は。
そう思う訳だ。
そうやってフラストレーションたまった所で、きっちりその本編主人公が、ヒーローしに来るわけだ。
この前まで本編でパンツ見て怒られてたよな、と。
まあ、そんな話だ。
ただな、この紹介文を読んで目を通した所で多分俺の感動の半分も伝わらない。
ハルヒを本放送順に見るか、DVDで見るか、それくらいの違いが有るんだよ!
腹立たしい。
実に腹立たしい。
こんな仕掛けをしれっとしていて盛り上がらない宣伝下手な作者が心底腹立たしい。
そもそも、何で連載分けたんだよ。ブクマが十分の一にも届いてないぞ。下手くそか。
なろうの作者は全員Twitterくらいやれ!
作品に対して言いたいこと、聞きたいこといっぱいあるんだよ!
バーーーーーカ!
終わったいじめ、つまり卒業や就職で環境を離れ、実質いじめから解放された状況のことである。
多くの人が理解しているように、そのいじめが精神的・物理的なものにかかわらず、
一度いじめられた記憶やトラウマはその後のキャリアや人間関係にも多大な影響を与える。
対人恐怖症、依存症、各種のコンプレックス…それによって恋愛や結婚、進学や就職といった規定のライフイベントが妨げられるのは、これを読む全ての人が分かっていることだろう。
確かに、未来が不確定である子どもたちのほうが、事実上終わってしまった問題を抱えた僕たちよりもずっと重要だ。
だが。
一見健全に社会人をやっていたとしても、上にあるように、本来のライフイベントや想定していたプランから大きく外れてしまった人は多い。
そういった人々をどうやって救済すればいいのだろうか。
言い換えれば、「どうやって元いじめっ子を法の日の元に引きずり出して脳天に鉄槌を下すか?」という問題だ。
レコーダーが子供でも気軽に持てるようになったのはごく最近の話だし、10年以上経った場合は物的証拠も証言も曖昧になってしまう。
仮に証拠があったとしても、「現状やっていけているのなら、問題はないのでは?」で終わってしまう。煽り代わりにセラピーを勧められて終わりだろう。
私はもうアラフォーですが人生設計もぼんやりしています。けれど手帳を書きあれこれと考えるのは好きです。手帳を持ち、日々の出来事や予定を管理するようになったのは30になる少し前からです。読み返したりすると、この日に何をしていたか、誰といたか、何を感じたか、いくら使ったかを把握出来るので楽しいです。それを活かして、今度はこうやってみようかと考えて1人でニヤニヤしている週末の時間が好きです。ふと、中学生くらいから手帳を書く習慣があったなら、もっと楽しかっただろうなぁと思うことがあります。アラフォーだと予定もある程度固定してきますし、時間も確保しづらく、出会いも減り、遊ぶ相手も減っていきます。タイムマシンがあったなら過去の自分に手帳を渡して、使い方をレクチャーしてあげたいなぁと空想したりします。しかし、実際に昔の自分が手帳を持っていても使えなかっただろうと思いました。実家にいた頃はプライバシーは無かったんだと、実家を出て大人になって初めて知りました。高校の頃、一時期日記を書いてみた事があるのですが、ある日の夕食時に母親が当然のことのように、日記にしか書いていないことを話題として出してきました。今考えるととても怖いことですが、当時は日記というものは自分の考えを知られる恥ずかしいものだと思いました。それ以来書くのをやめました。実家にいた頃は自分の考えや意見を言えば拒否され、両親の意向だけを飲み込むしかありませんでした。自分の考えというものを構築できないまま、両親の操り人形としてまず18年を浪費しました。進学して故郷を離れ、親の干渉から逃れられたものの、自分の考えを自分で設計出来ない。今度は周りに流されるまま行動するしかなくなりました。今は客観的に当時の状況を見れますが、当時は自分のフラストレーションの原因が何なのか分からないまま、どうしていいか分からないまま30が目前に迫りました。合計29年の浪費となりました。今振り返るとメモなど一切とらずによく働けていたなと思います。その分生活は荒んで、仕事もブラックでしたが。ちょうど仕事の都合で更に故郷から遠くへ引っ越しました。その頃には両親の老いが進んだこともあり、気軽に会いにこられることもない環境が出来ました。新しい職場で心機一転頑張って仕事を覚えようと思いノートを買いました。仕事のノートだから見られても恥ずかしくないと自分に言い聞かせたことを覚えています。教わったことをノートに書いて整理すると驚くほどスッキリします。こんな風に自分の考えや悩みも書いて整理すれば解決出来るのではないかとあれこれ試してみるようになりました。その頃はまだ手帳ではなくノートを使って時々書く程度でしたが手帳に移行するのは結構早かったです。当時は何を買っていいかわからず、ほぼ日手帳を買いました。ホームページを見ると、とても楽しそうに手帳について語られていて、恥ずかしいことではないのだと思いました。通勤時間が長かったので、手帳本を読んだり読書に充てました。沢山の言葉が自分の中に注ぎ込まれ、30を過ぎた頃からやっと自分の意見を持てるようになり、言葉で表現できるようになってきました。そしてそれを手帳に書き、後から読み返す。書き始めの頃はグチャグチャだったノートの取り方も段々と綺麗になっていきました。通勤時間の読書でアルジャーノンに花束をを読みましたが、それと同じように感じて面白いなぁと思いました。と同時に自分の人生がいかに惨めかも把握出来て悲しくなったりもしました。今はほぼ日手帳をやめて、複数の手帳、ノート、ファイルで項目ごとに管理をしています。アイアンマンが自分で自分をアップデートしていくように、自分の手帳システムもアップデートしていきます。落ち込んだ時はアイアンマンを見て元気を取り戻します。今はお盆休みなので、手帳を見てじっくり考える時間が確保できます。連休中のやらなきゃいけないことやちょっと先の事を考えたりしています。私はもうアラフォーですが人生設計もぼんやりしています。しかし手帳を見て今後の事を考えて1人で過ごす週末が好きです。
これややこしいよな。
登場人物がアメリカ人でなければ彼らは興味を示さないんだよね。
東洋人賛美にも見える「47RONIN」や「グレートウォール」があそこまで散々な結果に終わったのは、クオリティの問題もあるけれど、
やっぱりアジア人とその国の文化を基準とした世界設定がアメリカ人にウケないということなんだと思う。
スクールカースト的な価値観でアメリカ社会で冷遇されているアジア系移民のフラストレーションが
映画などのポップカルチャー内にあるイコンにぶつけられた結果なんだよね。
休業した時にFGOでマシュが変更になった時は悲しかったし、清姫たちがそのままで安心したし、ソーマのえりな様の高圧的かつ凛として気品のある演技が聞けなくなるかと不安になった
美しい声質と幅広い演技力を持った彼女自身は素敵な声優だと思っている
でもそれは別として仕事が継続できないのならさっさと切り捨てるべきだ
もしくは野原ひろしのように時期が来たら交代が確定している代役を立てるべきだ
そう思うぐらい種田梨沙が声優を担当しているアイドルマスターミリオンライブのキャラ、田中琴葉の扱いにイライラしている
アイドルマスターは常にCD、イベント、ライブの情報が途切れないコンスタントな供給のあるコンテンツである
それゆえ声優の比重は大きい。声優のパーソナルな好みや行動さえキャラクターに反映されてしまう程声優とキャラの結びつきは強い
しかし声優はそれを申し訳なく思っている人が多く、時には声優のパーソナルな部分がキャラに輸入される事に謝ったり怒る声優もいる
あくまでキャラクターはキャラクター、声優は声優というスタンスを取っている人は多い
種田梨沙が休業した際、数多くのアプリ、ゲーム、アニメが声優変更や代役を知らせる中
田中琴葉の声優は種田梨沙から変わる事なく、ミリオンライブの展開はノンストップで続く事になった
当初は嬉しかったし、声優の影響が強いアイドルマスターなら当然の対応と思った
しかしそうなった後、休業からこの一年未満でも田中琴葉はライブでは紙でのコメントのみ、はいいとしても
新規カードの限定ボイスはつかず、記念PVではしゃべれない、曲数の格差は増える、新規アプリでは出遅れ、一人だけ声が必要な展開から省かれ続けている
琴葉は病気でもなんでもなく五体満足で元気なのに…というフラストレーションが溜まった
ここで気づいた、声優の影響が強いコンテンツという事は声優がいなきゃできない事が多いのだ
そうなると声優のないキャラクターは出演の機会が大幅に失われるのだ
これら一連の流れがいい事だとはとても思えなかった
一人の声優のためにキャラの身動きを取れなくする事は正しい事なのだろうか?
いくら声優の比重が大きくても、キャラが声優に縛られるようになってしまってはそのキャラはおしまいではないか?
種田梨沙からもアイマス公式からも琴葉の声優を降りない、降りさせる事ができない理由があるのはわかる
最近では新規の別コンテンツにもちらほら種田梨沙の記述が確認できるようになって、近々の復帰も予想されている
もし復帰が近いならそれは喜ばしい事である。しかし田中琴葉は今でもそうだが、種田梨沙が復帰すれば何らかの特別扱いをされる事だろう
公式からもファンからも、彼女一人何かしら気遣うようになる可能性は高い
こんな文句を言っている私は種田梨沙のこれから保証されるかどうかわからない大きい仕事を奪おうとする悪鬼だろうか?
二次元のキャラクターを気遣って、現実に存在する人間を軽視する哀れな人種だろうか?
もし他の声優さんでも似たような事が怒ったら、皆は待つのだろうか?
「あの時も待ったんだからこの人に対しても待つべきだろう!」と待ってあげるのだろうか?
おそらく一年以上キャラクターの出演機会が失われる事を受け入れるのだろうか?
それでいいのだろうか?
自分の置かれてる状況を自分でコントロールできない状況に置かれて、無造作に今までの生活や社会的な地位が崩壊するフィクションが大好き。
地道な努力とか真面目さ、あるいは権力や国家、「良い」ものに信をおいて生きてきた人が、より大きな暴力で吹き飛ばされる瞬間に麻薬的な魅力を感じる。
映画ならリドリースコットの『悪の法則』みたいな顔の見えない悪のシステムもの、『ウォーキングデッド』などアポカリプスもの。
エロゲ―だとこの手のジャンルは多くて、薬物や快楽に自分の意志と裏腹にハマっていくものは最高。Black LILITHの『堕ちる人妻』とか『監獄戦艦』シリーズ。
転落する側に落ち度がなければないほど好きで、どれだけ「良い」人間で、今まで全の積み木を積んでいても、鬼が現れたら一瞬で積み木を崩されるというのがたまらない。
現実で実直に、でも少し負け組な感じで生きてるから、自分と同じような人間が自分より上の立場にいることにフラストレーションを感じてこんな性癖になってるんだと思う。