はてなキーワード: とは何だったのかとは
ジェンダーレス水着!性的消費は全然されてないよ!これこそ未来だと思う。
センシティブな投稿で悪いんだけど、関心がある人は見てほしい。
「水着のデザインを変えようと男は適応して何だってエロがれる」とは何だったのか。女を見下す男の強がりか。性的眼差しを奪われたミソジニストたちの断末魔だったのか。
https://www.pixiv.net/tags/%E9%87%91%E8%89%B2%E3%83%93%E3%82%AD%E3%83%8B
都知事選は百合子とひまそらの一騎打ちになったという情勢についての解説
https://megalodon.jp/2024-0704-1610-40/https://note.com:443/ks_kaz_game/n/n286e6f7c1ac0
そっか、ゲーマー脳じゃないと #ひまそらあかね の勝ち筋って見えないのかもな noteにも書いたけど、要するに僕たち支持者がひまそらあかねの知名度を伸ばし支持を増やせればひまそらあかねが都知事になるし、足りなければ百合子が都知事になる。シンプルな話。 知名度がネックであり伸びしろだからね
https://megalodon.jp/2024-0707-2119-09/https://x.com:443/facts_gameo/status/1809039532161126558
例のnote、皆さんのおかげではてブのホットエントリーに入ってるんだけど、アンチひまそらの人達が必死に悪口をブクマしてくれるおかげでますます上位に居座れてありがたすぎる… どうせブクマなんて重度のはてブ中毒しか見ないからね まさかアンチが都知事ひまそら実現のために尽力する形になろうとは
https://megalodon.jp/2024-0707-2118-56/https://x.com:443/facts_gameo/status/1809060018672841190
社会的に弱い立場にあることが多い女性がセクハラ被害等に声を上げても、強い立場にある当事者男性による圧力とか、世間からのバッシングとか、いろんなものによって潰されてしまうことが多い、または潰されることを恐れて声を上げづらい。
なので一緒に声を上げましょう、連帯して支え合いましょうという運動だったと俺は思っている。
だから声を上げた女性に対しては、真偽の究明よりも先に、まず連帯と支援を表明して支え合いましょうとなる。
決して褒められたものではないが、じっくり見定めてたら女性が潰されてしまいかねないという現実を前にした面もあり、一概にダメとは言いにくい。
実際に声を上げたものの支援が足りなかった女性がどうなるかといえば、園子温の一件でグロテスクなほどわかりやすく示されている。
もし訴えが虚偽だった場合、被害者男性に対しても被害者女性に対するものと同じくらいの熱量や物量をもって、名誉や損害の回復に尽力するという姿勢。
連帯を示した当事者として、批判をおこなった当事者として、賛同し声を上げた当事者として、それらに責任を持つという当たり前の覚悟。
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
男女平等や女性の権利向上のために活動している人達のこと全てをフェミニストと呼ぶけど、今回はXや増田で見かける「男性が優遇されているからその分女性有利にしよう」みたいな女性優遇を主に主張しているフェミニストに物を申したい。アダルトな表現の規制問題だとかは今回は除外ということで。
容姿は擬態のできていない女オタクと聞いて想像される一つ結びで触覚が太くて小太りなブス、あんな感じ。色々自分なりに変わろうとしても清潔感が無い、男で言うところの足掻いている低身長チー牛みたいな残念な存在だ。チー牛の方ごめんなさい。
そしてADHDとASDの障害があってコミュニケーションに難がある。中学から不登校で高卒、バイトは続けられない引きこもりで現在は障害年金と親に養われて暮らしている。
勿論、増田にいる貧困で苦しんでる弱者男性と比べるとすごい恵まれていることは間違いない。どこが弱者だと思われるだろう。ただ売春や結婚といった逃げ道は選びたくとも選べないという点から一般的な社会人と比べると弱者女性と名乗っても許されると思ってる。
本題に入るけど、最近フェミニストやフェミニストアンチが一般にも広がっていると感じる。前までは一部のネットの内輪向けみたいな深い意味のない女叩き・男叩きが多かったのに、今は連日至る場所でフェミニストやアンフェの炎上騒ぎが起きている。それも一部の同じ人間がというより、身近な友達とか声の大きな知らない人とかが平気で女叩き・男叩きにいいねを押したり積極的に主張したりしているのを見て、私は遅くも危機感と恐怖を感じた。
おそらく最初は真面目に男女平等を訴えていただろうフェミニストも、男女平等ならば女性の不遇だけでなく男性の不遇も正さなくてはいけないというアンフェも、双方に紛れ込んだ女叩き・男叩きの連中によって、もはや個人ではどうしようもなく男女対立が治らなくなってしまった。
双方の主張を穏やかに擦り合わせ男女平等を近づけるべきなのに、議論の最中に平気で暴言を吐き、それを軽率に持ち上げる今の風潮は何の未来のためにもならないし余計にストレスが溜まり対立が激化する一方だ。
お互い冷静でないからより過激な権利主張がもてはやされる。男女平等とは何だったのか、一方が得をする分もう片方の性別全体が不遇に沈むのは差別で不当だ。
どっちもどっちだが特に私は女性なのでフェミニストに怒りを覚える。彼女らが過激なことを言えばいうほど、また彼女らの女性優遇案にデメリットを考えず軽くいいねを押す一般女性の姿によってアンフェでない男性さえも女性に対して失望するのだ。勿論性別を入れ替えても同じことが言える。
若者の結婚否定派が増えたのもこの悪目立ちする男女対立が大きな要因になっていると私は思っている。
そして資本主義の日本は階層社会とまではいかなくても学歴とか属している社会とかによって同じような人と関わることが多い。
私の場合、障害や病気のある人、支援する仕事をしている人、引きこもりやニートで人生に強い不満を抱えている人が多い。当然その人たちは余裕が無いし普段ネットを見ている人が多い。
一般の人は多分公の場では大っぴらに性別叩きはしないだろうけど、私が関わる人たちはお構いなしに性別叩きをしだすし、何なら皆コミュニケーション経験が少ないせいかネットが異性の現実だと思っているのかもしれない。男性に仲良くしようと声をかけると、昔より意地悪なことや卑猥なことを言われることが多い気がする。ソースなしの感覚論で申し訳ないけど。
私は経験していないが、あるいは弱者男性も女性に意地悪や不都合を押し付けられたりされているのだと思う。ただでさえ色々足りない私達弱者が、周囲は敵ばかりと思ってしまうと自立の道が遠のき社会のお荷物状態がずっと続いて、普通の人の負担も増えると思う。
それに弱者こそ団結し世の中をサバイブするべきだと私は思う。結婚とか、友達とか。
フェミニストの行いで特に嫌なのは女性管理職を増やすために昇格の際女性に下駄を履かせろ、ただし育児中は周囲に仕事を任せろ、ってやつ。管理職で休んでばかりの上司なんて不公平で問題になるに決まっている。性別でそんなことを決められたら不当だし下駄を履くぐらい実力がない人が責任者になるのって女性にとっても不幸だ。
難しいかもだけど育児をするって決めた人は妊娠後から子供が小学生ぐらいに育つまではサポート体制が整った責任が軽めの仕事でそのあとはまたキャリア積みに戻るようにすれば良いと思う。子供が小学生超えても責任が軽めの仕事が良いって人は非正規に移るとか。
子供か出世か選ぶ女性と比べて男性はどちらも選ぶことがずるいっていう意見もあるだろう。その場合はキャリア積みに戻った際出世しやすくする補正とかをつけるように国が命令すればいいんじゃないのかな。出世したくない男性・女性は出世を断る権利があるかわりに会社は今より意欲のないいらない人材は辞めさせやすいように変えたら平等じゃないの。
子供も仕事も選べて能力や意欲ある女性が管理職になれる道が当然にあるのなら、管理職の人数に性差があっても男女平等であると考える。機会が平等だから。
人によって対応が変わるのは管理する人にとっては大変でも、行きすぎた女性優遇は後世での火種になるから避けたい。
祖母の家も義祖母の家も実家も義実家も、女性が料理を用意する風潮は変わらなすぎて、男性はどんちゃん酔っ払うばかりだし、私が都会で学んだフェミニズムとは何だったのか…と圧倒的敗北感を覚える。
しかし私は祖母の家でも義祖母の家でも実家でも義実家でも料理の用意を手伝わない。何もせずお皿を並べる孫ポジションを夫と一緒に確保したい。だがこんなこといつまでやってられるんだろう。さすがに手伝ったほうが感じいいのはわかってる。で、でも他人の家の調理場に立ちたくない、普段から料理してないのに他人の家の台所なんて迷惑かけるしかないに決まってるだろ……!
いつかは料理を手伝うムードになるんだろうか。子供ができたら変わるんだろうか。私が夫と同じ手伝わないポジションを確保することはフェミニズムだろうか。ただの怠惰でもある。でも台所入りたくないよおこわいよお。