はてなキーワード: 肥大化とは
もっと立憲民主党が小さい勢力、要は社民党ぐらいの勢力になる。
そして、自民党が肥大化して、維新や国民民主の自民党同一化が進む。
こうなったらこの勢力が2つに分かれて、保守と右派、穏健リベラル派という日本にマッチした勢力になる。
つまり野党に改善の見込みはなく、消えていってくれれば必ず政治の景色は今よりも抜群に良くなる。
理念によって強く結びついているわけではない自民党は大きくなって対抗勢力が消えてしまえば必ず分裂する。
穏健リベラル派の範疇に今でも入るような立憲民主党の議員や候補者にとっては一番うれしいことだと思うよ。
穏健リベラル派は、今のリベラル派と何が違うかというと急進性がない。この急進性至上主義の連中のせいで政治が何も進まなくなっている。
この映画は金曜ロードショーで上映されたらしいのだが、子供の世話で見る機会がなかった。でもアマプラで配信しているのは知っていたから昨日の夜にそちらで視聴した。
結論を言えば全然面白くない。たしかに感想を探しても似たりよったりな低評価が散見されるが、そもそもこの監督は叩かれやすいからバイアスがかかっていると推測してある程度は無視していた。だからあらすじやビジュアル、そして個人的に名曲だと思っているOPだけしか知識を入れずに素の状態で鑑賞した。
もちろん良かった点はある。とくに主題歌はアニメ映画としてはきちんと作り込んでいると思われるし、なにより曲単体がとても好きだ。昨今の流行を外してイントロが長いのもいい。
それと、冒頭10分程度に収まっている、主人公が仮想世界にログインするシーンとかは中々わかっているなーと思う。
逆にそれ以外は全く面白くない。
この映画を見る前に曲だけはラジオなどを通して頻繁に聞いていたため、YoutubeMusicなどではかなりリピートしていた。なので本編より曲の方にずっと思い入れがある。
だからこそ、本編があの出来であるのが辛い。自分の好きな曲が主題歌となっている映画がああいうものだったなんて。
似たような例としては、打ち上げ花火がある。ただあれはもはや笑い話にもならないくらい酷くて、曲以外の良い要素がゼロという点で突き抜けているのでまだよい。そばかすの姫は一応は見どころがあるから困る。
とりあえず思ったことを箇条書きにしておこう
端的に言って脚本がひどすぎる。サマーウォーズがOZというシステムをうまく利用しているのに対して、竜そばのそれはTwitterで十分だと思う。Twitterやニコニコで歌ってみた人が思いがけずバズるということを発端にして現実の問題に向き合う、という内容ならばヒットはしないまでもそこそこの良作品になっていたかもしれない。
この映画ではアバターを通すことでその人の本質や才能を引き出す、という設定がある。だけど現実のSNSにおいて自分を偽ることで才能を発揮できる人は数多くいる。主人公が人前で歌うことができてそれが非常に上手かった、という描写は現実のTwitter等でも見る現象であり物珍しくない。そのくせアバターの介在なしにはっきりと歌えるという部分にはリアリティがなさすぎる。
そして竜の存在も酷い。竜はあの世界において自治組織から目をつけられる存在だけど、50億もの人がいる場のおいて単なるPK行為が衆人のもとで白日にさらされることなんて殆どない。例えば遊戯王の世界大会において優勝するほどの実力者だけど顔や素性が一切不明で暴力行為や不正行為の疑いがある、というレベルならまだ理解できる。だけどTwitter規模で暴力や不正をしたところでお尋ね者になったりはしないだろう。
逆にあの程度の暴力行為だけで盛り上がれるというのは、それだけUという仮想現実では娯楽がないということかもしれない。
サマーウォーズほど舞台装置として機能していないし、そこにいることで自己実現をできるほどのものがあるとは思えない。派手な演出でごまかされているけど、あの世界が存在する意義が最後までなかった。
監督は美女と野獣を現代的にアレンジしたいだろうけど、舞台装置が酷すぎるし主人公があまりに搾取され過ぎなので整合性も面白さも何もない、虚無な映画となっている。
・ゲームのクオリティが昔と段違いであり、時代に伴う高性能化により、プレイヤーは以前の何倍もの楽しさを体験し続けられる。
・同時に増え続けているのがゲームの「開発費」と「開発期間」だが、それらはプレイヤーたちにどのような影響を及ぼしているのか?
・あくまでも参考として述べると、日本の家庭用ゲーム機の場合、開発会社の約半数が最大5000万円程度でゲームを作り、残りがそれ以上の予算を投じている。
・そしてひと握りの会社が、10億、20億とかけているイメージとなっている。
・ファミコン時代の開発費は数百万円、大作でも数千万円と考えらており、単純に見るとここ30年ほどで最低でも10倍程度になっている。
・海外のいわゆる「AAAタイトル」ともなると、100億円、200億円という巨額の開発費を投じて作られている。
・ゲームを開発する側にしてみれば、高騰する開発費を回収するため多くの人に買って欲しいため、より売り上げが見込めるハードで出したいと思うのは当然であるため、「マルチプラットフォーム」という考え方につながる一因になる。
・ゲーム市場は世界中に広がっており、特に北米、欧州、中国は重要なマーケットとなっている。
・開発会社はより大きな市場に受け入れられるゲームを作るようになるのだが、逆にゲーム市場の衰退を招いているという声があるという。
・ゲームがマンネリ化し、同じようなゲーム、シリーズもの、リメイクが増えるからという。
・巨額の開発費を回収するため大きなマーケットに売り込み、そこで売れることがわかったものを量産するという方策は将来が先細りするとも言える。
・プレイヤーにとって開発費高騰と開発期間の長期化による影響の良い面のひとつは、ゲームのマルチプラットフォーム化だが、悪い面となり得るかもしれないのは、ゲームのマンネリ化などを生んでいるとした。
言葉が定義されてないから批判は意味がない?そう思ってるなら勝手に思っとけ。
「新自由主義の特徴は規制緩和、構造改革、税制のフラット化、財政規律、政府の裁量の最小化、費用対効果への還元あたりですな。
「スタグフレーションの原因を政府の肥大化に求めて、政府の関与を小さくする政策が正しい」というもの。」
辞書がほしいのなら
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9-298677
「新自由主義はケインズ主義的福祉国家の所得再分配政策などがもたらす「過剰統治」と国家の肥大化こそがシステムの機能不全の原因として、規制緩和、福祉削減、緊縮財政、自己責任などを旗印に台頭した。」
新自由主義の特徴は規制緩和、構造改革、税制のフラット化、財政規律、政府の裁量の最小化、費用対効果への還元あたりですな。
「スタグフレーションの原因を政府の肥大化に求めて、政府の関与を小さくする政策が正しい」というもの。
しかし、そもそもがデフレでも緊縮財政を狙い、フラットな税制というのは金持ち企業減税で金を滞らせるから、不景気を永久に続ける。更に近視眼的な費用対効果で基礎応用研究を破壊する。よって今の日本のように失われた30年を作る。
そして、今まさに食料・エネルギー不足のスタグフレーションに落ち込みそうなのに、規制緩和や構造改革がなにか役に立ちそう?必要なのは財政支援で足りない供給を増産をすることだろ?
そして時は過ぎ、2022年─────
「股開いただけの子持ちの何が偉いの?」論者と化したのだ
だが考えてみれば当たり前の変化でもある
子育てが辛いのならば子を産まぬ大人の意見が幅を利かせるようになる…
しかし特異な点もあった
子持ちに対して攻撃性を持つようになったのだ
そういった考えが肥大化した結果
「子供を優先するよう訴える親」「子育ての苦労を語る親」「子を持つ素晴らしさを投げかける親」など
既婚者の身に積もった話1つ1つに苛立ちと疑問を感じるようになった
「子供を持つって素晴らしい?アナタは独身の素晴らしさがわからないんですよね」
時代は移り、変わる…
「保育園落ちた日本死ね!!!」も今となってはただの攻撃対象になってしまったのだ
それこそ昔はニコ生くらいしかなかったのが、今ではスマホ一台あれば、無限に配信サービスもあるから、増えるのは自明なんだが。
かくいう自分も、配信者をやっていた。同接は多くて15名くらいの、底辺も底辺だ。
話すこと自体は好きだったし、YouTubeの収益化ができたときは嬉しかった。(スパチャを投げられるとかそんなことはないので半年の収益は数円だったが)
推しのイラストレーターにイラストを依頼とか、配信者でなければできなかっただろう。
そう、自分を切り売りした結果としてできることは増えるので錯覚しがちなのだが、擦り減っていくものは、かけがえのない大切な何かなのだ。
皿の上に差し出しているソレは、簡単に消費されていいものではないし、消費される側もする側も、麻痺しているように感じる。
配信者側は今言ったように、できることが増えていくから、擦り減ったものには目が行きにくいし、
視聴者側も「配信者が好きでやっていることだから、自分も好きに応援しよう」と考えるものだ。
自分もそうだが、とりたてて絵がうまいわけでも、歌が上手いわけでもない。トークも平凡だと思う。
絵や歌、ゲームの巧みさなど売れるだけの芸があるなら、それを売れる。だが、自分も含め、素人にはそれが無い。だから、自分そのものを切り売りするしかない。
枯れたスポンジから血が滴るようになっても、売れる芸などないからだ。
そこまでして承認欲求をかなえたいものなのか、とは自分も思う。
自分の場合は、始めたきっかけは承認欲求だったのだと思うが、今となっては素人の自分の話をなぜか面白いと聞いてくれる人がいるから、その人たちに自分のできる範囲内で精一杯お礼がしたい、そんな感情なのだ。
だから、ひとくちに承認欲求の肥大化が問題、というのも自分としては違うと感じる。
等身大の自分を切り売りして、売った分だけできることが増えて、承認欲求も満たされて、
気が付いたら致死量まで擦り減っていた何かによって、いつか、死んでしまうのではないか。
少なくとも自分は擦り減った結果、あんなに話すことが好きだったのに、「ああ、こんなにもことばって伝わらないんだ」という絶望を得た。
どれだけことばを重ねても、
「なるほど!××ということですね!」「自分がいつ××だと言った!?」
と頭を抱えることが多く、それが耐えきれなかったんだろうと思う。
ことば、言語というものは相手と自分が一意のものを思い浮かべるためのコミュニケーションツールだと思っていたばかりに、本当につらかった。
今となっては、いつ、どこで、誰と話す時だとしても、「どうせ自分の言葉は伝わらないのだ」という諦観と絶望が支配するようになった。
まあ、自分の具体例で言えば話が通じないやつを放置、ということができなかった自分の不器用さに原因があると思うから、別に構わないのだが。
それでも、「話が通じる人もいる」ということを信じられなくなったのは、自分にとっては大きな損失だろうとは思う。
最近のトレンドのひとつに、「夢を追いかける若い少年少女を消費する」文脈があるような気がする。
もちろん、これは最近に限らず昔からそうで、だからオーディション番組や甲子園はみんなが好きなんだろう。
ただ、ネットの普及、SNSの浸透、素人でも誰でも配信ができるという状況が、これを加速させ、卑近にしているように思えてならない。
少なくとも、オーディション番組や甲子園のように、覚悟をもって飛び込む、ということはなく、敷居が低く気軽に飛び込めるようになっているのは間違いないだろう。
それに加え、先でも述べたがオーディション番組や甲子園のように、明確な一芸を競うなら、そこまで自我は痛めつけられないと思う。そこでの失敗は能力の不足(まあ運もあるだろうが)と割り切ることは比較的容易だ。自分を切り売りする場合に比べれば。
オーバーなリアクションばかりしていると、寿命を縮めるという。
決して簡単に消費されて良いものではないはずだ。簡単に皿の上に載せて供して良いものではないはずだ。
と、思うのだが、私だけだろうか。
"第2次安倍政権の7年8カ月のあいだ、政権が掲げた経済政策の目標は「3本の矢」(大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を促す成長戦略)に始まり、「新3本の矢」(強い経済=GDP600兆円、子育て支援=出生率1・8、安心につながる社会保障=介護離職ゼロ)へと広がった。
さらに一億総活躍、女性活躍、働き方改革、観光立国……。掲げるテーマが次から次へと登場するたびに官邸には直轄の担当部門が設けられ、霞が関からスタッフが集められ、部屋に看板がかけられた。一時は注目されるが、いつしか話題にもならなくなる。政策目標があまりに軽く消費されていった。
その結果、内閣機構の肥大化が進んだ。今年7月時点で内閣官房に置かれた政策担当室は36室にのぼる。全世代型社会保障構築本部事務局、デジタル市場競争本部事務局、孤独・孤立対策担当室……。
どこかの省庁に担わせればすむようなテーマが首相直轄となっているものも少なくない。政権の「やってる感」を見せるのにこれほど楽な方法はない。
"
はてなーの質の低下がいよいよ来る所まで来てるんですよね。
誤読に継ぐ誤読、文盲を繰り返すことへの慣れ、単語だけをピッキングして自分のしたい話に繋げるために文脈無視し続ける人達。
まず最初にあるのは「俺は凄い」「故に他の奴は馬鹿」「でもどうしても勝てないやつは褒めよう」「褒めるってことは俺の仲間と認めるということ」「つまり俺は凄いから凄い奴は仲間と認める」「俺が仲間と認めた界隈を馬鹿にするな」「俺は凄いということを否定するな」「俺が俺が凄いと認識するためにもっと褒めろ」「俺の凄さを証明するものはお前らの称賛だ」といった無根拠でありながら肥大化しそれでいて常に不安に怯えている他者依存性の高い自己肯定感から来る党派性。
これに凝り固まってしまうともう世の中にある物事を「自分が凄いとアピールするために利用する」「相対的に上に立つために踏みつける」といった目でしか見れなくなる。
そしてそれを繰り返し続ける界隈から受けたフィードバックによりそれを当たり前と感じるようになる。
「文章は読むものではなく単語をピックアップして自分語りかマウンティングをするもの」という認識を当たり前と思い込んだエコーチェンバーの行き着く先は誰もが文章を読めないインターネットだ。
そこにはもう秩序もなく倫理もなく知性もない。
俺はもういい加減限界を感じた。
ツイッターならばTLの構築で日本語の読める人間を集めることが出来る。
これ以上「日本語を読む必要なんてない。単語だけピックアップすればいい」の風潮に晒され続けてはいけないと本能が告げている。
文章の読み方が分からない癖に思い込みで喚き散らすような老人になる前に「文章の読み方なんて忘れても良い」と認識し始めている脳を覚ましておきたい。
この年になって0から読み方を学べる自信がない以上は、今覚えてるものを「不要なもの」として手放さないようにするしかないのだから。
自分の考えが正しいとか正しくないとか、人それぞれだとか多くの人に当てはまるとか、もうたくさん。
仕事をして買い物をして、携帯を見てSNSでいろいろな情報を得て、動画を見て、漫画やちょっとした記事を読んで、間違ったインプットをしまくってるから頭の中がごちゃごちゃでうまく整理することも、考えを練り上げることもできない。
それでも今までの経験なんかをもとに捻り出した考えをなんとか言葉にしたりするんだけど、相手にうまく受け入れられないと必要以上に落ち込んでしまう。拒絶や否定をうまく受け止められない。
それでますます自分の考えと言うものに自信が持てなくなっていく。
さらにはうまく考えを伝えられなかったり受け入れられないことから人と関わるのがしんどいと言う気持ちに変化して、それが肥大化していってどんどん自分がおかしな方向に行ってる気がする。
コロナ禍で学生はいろんな行事が中止になったり、今までのような人間関係の築き方ができなくてかわいそうだなんて思っていたけれど、意外と自分もこの数年で心身共にめちゃくちゃになっていたことに今更気づいた。
無意識に人と比べて考えるから自分の身に本当は何が起きているかを認識するのも遅い。
なんなら自分だけじゃなくて他人の身に何が起きているかも、きちんと認識できていないのだと思う。だから優しくなれない。
わたしは自分のことをちっとも信じられないのに自己憐憫だけは無駄にしてしまうので、誰かを思いやる余裕がないのだ。
多少思いやれたとしても、勇気がなく余裕もないから実行できないこともしばしば。そしてまたそんな自分が嫌になったりする。
ここ数年でいわゆる10代後半〜20代半ばくらいまでに感じていたようなつらさは感じなくなったけど、人と会う機会が減って(それが気楽だと思っていたけれど)自分自身と会話する時間が増えすぎたが故にとんでもない人間になりつつある気がして、おそろしいし、この先もずっとこんな考えを抱えて生きる(またはもっととんでもないことになる)のかと思うとつらい。
結局他人との関わりはつらくてもしんどくても、続けなければまともでいられなかったんだ。