はてなキーワード: ニワトリとは
ニワトリの杖ってつっかえねーよ🐓
旦那まっっっじで役に立たないしウザいし邪魔だからもう2度と付き添い頼まない、ここに誓う、ほんと邪魔、無能、ほんとに無能、うざすぎる、子どもと2人きりで来た方が全然楽、46歳のお世話なんかやってられんわ
今日なんのためにきた?
私が休んでって言ったから意味もわからず来たのか?お前まじ誰?父親名乗んなよ
まっっっっじて役立たず
https://x.com/mogemogepe_/status/1846383577069727956?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ
医者の話は聞いてないわ、何でもかんでも1から100まで私に聞いてきて、ベビーカー押すかどうかも私に聞いてくる、私が抱っこしてんねんお前が勝手に押せや!!ほんとバカなん??覚えられないんだったらメモれやバカ!まじでニワトリ以下、ミジンコレベル!カスカスがスカスカーーース!!!!しかも1番いて欲しいタイミングで「ねぇ、仕事しに駐車場行きたい」まじでなんのために来たん??無能かよ、なんで旦那もいるのにグズってる赤ちゃんにワンオペで飯食わせたりおむつ替え行ったり書類手続きしてんねん、カスかよ、無能無能無能無能無能!!!!こんな思いするなら2度と連れてこんわ!24時間365日仕事だけしてろや!!!🖕🖕🖕🖕🖕🖕🖕🖕🖕🖕🖕🖕
https://x.com/mogemogepe_/status/1846385111811739812?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ
通院無事終わったけどまじで1から100まで無用だったわ、旦那
https://x.com/mogemogepe_/status/1846397085773594925?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ
うっっっざ
うっっっざ
うっっっっざ
一丁前にへそ曲げてんじゃねーぞコラ
https://x.com/mogemogepe_/status/1846397261401805252?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ
まじの役立たず
夕飯の買い物もいかない
夕飯の支度もしない
ずーーっと寝てる
お前がなんのために休んだか教えてくれよ
私にストレス与えるためか?あ?
https://x.com/mogemogepe_/status/1846459416117498225?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ
しかもムカつくことに旦那は今日この体たらくのくせに職場からは
「病院で(忙しい中)隙間時間を使って仕事もこなす責任感ある男」
って思われるんでしょ??
いいよな、そっち側の人間は!
まじでハゲちまえよ!
https://x.com/mogemogepe_/status/1846461814558847422?s=46&t=vmjfatU8tSj_awNs-Ks1eQ
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
怒りっぽい人は塩辛いものをよく食べる。ただでさえ塩辛い焼き魚にさらに醤油をたっぷりとかけたり、味の付いているポテトサラダにドレッシングをこれまたたっぷりかけたり、ふりかけや漬物をご飯と一緒にたくさん食べたりといった具合にだ。
反対に温厚な人はその手の塩気のあるものを全然食べない。卓上調味料に触れることはほとんどないし、ただ生野菜を刻んだだけのようなサラダをそのまま食べたりといった具合にだ。
過剰な塩分摂取が人を怒りっぽくするのだろうか、それとも逆に怒りっぽい人が塩分を好むのだろうか。怒りっぽさと塩分摂取に相関関係があることは間違いないだろうが、因果関係はどのようになっているのだろうか。さながら、卵が先かニワトリが先かというジレンマのごとしだ。
正式名称は『国産ダチョウ肉のローストビーフ風オーストリッチ丼~スープ添え~』らしい。長い名前だ。
肉の味は鶏肉とは思えない。何も知らなければ牛肉と勘違いするだろう。商品名ではダチョウ肉を強調していたので肉を注意深く味わってみたが、ローストビーフと違って噛み切りやすい肉だった。牛肉のローストビーフだと肉の赤身の繊維が咀嚼と共に絡まって口の中でとどまるが、このダチョウ肉はほぐれやすい。その点では通常のローストビーフより優れているだろう。
反面で、肉のうまみがやや乏しい気がする。ローストビーフならば噛みしめるほどに肉汁とともに旨味があふれてくるが、このダチョウ肉は肉汁少な目でやや淡白に感じた。
とはいえ、注意深く咀嚼しなければ気にならない程度のことである。肉の味や匂いに気になることはほとんどなく、ローストビーフの牛肉そのものの味であった。
味付けは問題ない。ローストビーフ丼として合格点という味だ。肉についたソースは旨味ととろみが多めの醤油だれといったところか。この肉に丼の内のサラダのわきに添えられたホワイトソースを絡めてさらに卵黄も加えれば、まぎれもないローストビーフ丼の味となる。
ちなみに、オーストリッチ丼には生卵と一緒に白身と黄身を分離するセパレータが付いてくるので、卵黄だけを丼にかけることが可能なのだ。
さらに汁物として鶏ガラスープも付いてくるが、この鶏ガラもダチョウ由来のようだ。汁に固形の具材は無い。中華料理における白湯(パイタン)スープに似た味がしており、鳥の旨味がしっかりと感じられた。
味は良かったけれども、匂いがかなり気になる。普段食する牛・豚・ニワトリには無い獣臭さを感じられた。個人的にはあまり好きではなかった。スープに薬味や香辛料の類の味や香りがあまりなかったので、獣臭さは隠れることなく感じられる。このスープは万人受けする物ではないし、それどころか気に入る人は少数派となるほどの代物ではないだろうか。ネギを散りばめて胡椒を利かせるなどすれば匂いをある程度抑えられただろうに、それをせずあえてダチョウ特有の匂いを際立たせることに商品開発者の挑戦心を感じた。
価格は1683円(税込)だ。はっきり言って高い。これなら普通にローストビーフの専門店に行った方がいいだろう。せめて価格が1000円くらいならば、普段の吉野家の利用でも注文しようと思えるのに。期間限定かつ店舗限定の商品として一度食べてみるのならありだが、リピートする価値は感じられない程度のコスパと言ったところだ。
よくメディアやXでは、若者の政治意識が〜とか、投票率が〜と言ったものが目に映る。
Xにおいて私の周りのフォロワーは旧友の同級生が多いのだが、誰も都知事戦について呟くことはなかった
呟かれたものとしても、当日の投票してきた〜アツ〜くらいである
私のフォロワーの政治意識が低いのだろうか、もしかしたらそれもあるかもしれない
ただ少なからず私は政治について呟かないフォロワーに感謝している。というかせざるを得ないのだ
選挙情報を見る為に、たまにおすすめツイート(バズツイート)を見ていたが、主要候補者の応援というよりは貶しあいが行われていた
そういう行為をする人は、真実を伝えたい!世の中をよく見てくれ!みたいな気持ちが強いのかもしれないとか思ってみていた
そのツイートにアンチのリプが付きまくり、炎上応援活動ような形を成している
これが政治に関心を持った成れの果てなら、関心を持たない方がいいんじゃないかとか考えてしまう有様である
身近で仲の良いフォロワーが火だるまになりながら応援していたら気分は良くない
が、正直候補者の名前を出されるだけで、その候補者に対する否定的なコメントがチラつく
これが若者の政治に対するイメージの一つであることは間違いないと思っているし、今は思いやりに感謝している。が、その社会は普通に不健全だ
パフォーマンスなのかもしれないが、候補者にも過激なことをいう方はいた
タマゴが先かニワトリが先かわからないが、有権者の過激さが得票率を下げていると思う
若者の得票率が〜とかいうのであれば、キレながら話すことをやめた方がいいのではないかと思っている
こういう闇がとか、こういう問題がとかを呟く必要があるとすれば、それはリプライ不可にすれば済む話で、それで済まなくてもそんなに燃え盛らなくてもいいのでないか
今回に関してであると、公職選挙法違反なんかに関しては特にそう感じた
法の下に裁かれるのであれば余計に騒ぎ立てる必要がないのではないだろうか
便乗して評価を下げたい方もいるのかもしれないが、見ている側として気分が良くなかった
(私が見れてないだけだったら申し訳ないが)候補者からも、過激な言動は控えるようになどの声はなかった
名誉毀損レベルのものは多いだろうしそのくらい言っても良いのではないかとか思っていた
なお、私は主要候補者には入れずに別の方に入れた
テックやAIを用いた新しい東京が見れる期待なども勿論あったが、一番の決め手は他の候補者や現職を貶すことなく、自分の政策について語り続けていたことだった
なんかMrs. GREEN APPLEの新曲である「コロンブス」のMVの内容が問題だとされている件で
歴史について無知な人達が作ったからあんなMVが出来たなんて意見がよく出るけど
なぜなら自分にはあのMVはどれも思いつかないもんばかりだったからだ
(ナポレオンが一緒にいてピラミッドに行ってるシーンとか思い浮かばんよ…)
というか楽しい交流をしてる筈の猿に人力車引かせてすげえ辛そうにさせるのとか歴史云々の問題じゃないよな?
だから歴史について無知な人達は皆コロンブスについて色々言ってみた方がいいと思う
歴史無知について意見を言うのなら無知と主張したい人達が本当に歴史を知らないのか、
歴史や社会についての研究の重要さを主張する人なら当然わかるよね?
(まさかあのMVが本当に無知が原因で作られたのかきちんと調べないで主張するつもりは無いよね?)
それはそれとして仮に無知な自分が「コロンブス」MVを作るならどんなストーリーになるか考えてみる
まずはコロンブスの卵だ
これは彼が自分の国で卵を立てるのに苦労した?みたいな印象がある
だからMVの前半はずっと卵を立てようと苦労するシーンで占められる
よって卵を立てる事に成功したら意気揚々と船にのってずっと海の上で苦労してるシーンが後半のメインになる
とりあえず嵐で死にそうになったりゲロ吐いたりそういうシーンが盛り込まれる
最後に大陸なのか島なのか分からんものを発見するシーンでエンドだ
無知な自分はまず植民地だの現地の住民への行いだのそんな物に全く辿り着かず
他のシーンを盛り込む必要があったら他の船員と一緒に船で踊ったり歌ったりするシーンや
するんだったら言ってくれ
ニワトリか卵かって話になるが金落としてこなかったお前らが悪い
一連のブクマ記事を調べたが「傍聴席のヤジ」については誰も触れてないように思う。
これらのセクハラは「ただし摩擦はないものとする」的に無視してよい、でいいのか。
それとも傍聴席のヤジさえもフィクションという理解でよろしいか。
あるいは、これくらいのセクハラは全国どこだって普通にあるということか・・・?
傍聴席は殺気だっていた。70代くらいの男性たちが前列に座る私たちの背後から、「こっちにだって選ぶ権利あるんだよ」「誰があんな女と」「犬だってしねぇよ」と声を浴びせたり、「(性被害が)本当なら(時間的に)町長はニワトリだ」と盛り上がったりもしていた。ニワトリの意味は、すぐ射精するとのことらしい。コケッコッコーと言っては笑っていた。セクハラを背中からずっと浴び続けた思いになる。
...
町長室に入って座って話しましょうと言われたが、町長室前の立ち話でお願いし、20分ほど話した。その後、礼を言い立ち去る時、「町長室に入ったら犯されちゃうって警戒されちゃったね」と、支援者たちがふざけているのが聞こえた。思わずカッとくるのを抑えながら、階段を駆け下りた。
昔話というものは大抵人生において必要な教訓が込められている。
そしてブレーメンの音楽隊は短い物語でありながら多くの貴重な教訓が無理のない散りばめられた傑作であると最近気づいたので挙げていきたい
ブレーメンの音楽隊はみな人間から役立たずと見なされ処分されようとしていた動物たちである。
そんな彼らが幸せを掴む姿は社会の底辺に生きる人間、居場所のない人間に希望を与えてくれる
おそらく作者はユダヤ人などの被差別階級だったのではないだろうかと推察する
彼らも一匹だけではおそらく泥棒に立ち向かうなど出来なかっただろう
日本のさるかに合戦など小さな物達が家で待ち伏せして悪者を退治する昔話は世界各地にある
音楽隊のメンバーはニワトリを除いて年老いたが故に人間に疎まれた動物たちである
彼らの老後は若かりし頃よりも生き生きした物であるに違いない
最近松田聖子が62歳で中央大学法学部を卒業したと報じられたが何かを始めることに手遅れはないのだ
「そんなことしてるくらいなら俺たちと来い!」
と渇を入れる場面があるが、これは同時に行動を起こせず環境を変えられない読者へのエールでもあるのだ
勧善懲悪は昔話の定番だが、教訓の宝庫であるブレーメンの音楽隊がこれを逃すはずがない
この物語の疑問点として音楽隊はブレーメンに到着していないというのが挙げられる
しかし、彼らは当初の目的を何一つ果てせていないにも関わらず物語はハッピーエンドで終わる
この話はどちらかといえば短い部類に属する
そしてブレーメンの音楽隊はよく「何が言いたいのか分からない」」」、「どこが面白いのか分からない」などと酷評されることもある
前述した教訓が遠回しに押しつけがましくない形で語られている
拙者DLSiteでCOMIC LOのバンドルセットを購入している者なり。
あのさあ、ロリをひよこって置き換えるのまずいよ。実物のニワトリのちいさいのとまざるのはもちろんよくないけどまあ文脈上ギャグですむかもしんない。
でもさ、ひよこクラブっていう真面目な雑誌の先達がいて、それの読者確実にロリエロ漫画見た瞬間に目が攻撃色になる人たちじゃんか。ひとごとじゃなくて自分のことになっちゃう人たち。
そっちに誤爆するような名前絶対ダメだと思うよ俺は。センスねえな。ほんとセンスねえよ。
だって痴漢の置き換えが秘密さわさわとかダサすぎる。せめて迷惑防止条例違反系とかにしろ。176条とかでもいいぞ。
まったくもう、検閲に対抗するなら3店方式みたいなことをやるべきだったんだよ。全部のキーワードを「検閲コード3」とか「検閲コード34」とかにして、変更前の文言はインターネットアーカイブさんのほうにあるかもしれませんねえとかすっとぼけておけよ。それだったら用語で誰にも迷惑かけないだろ。