はてなキーワード: 部活とは
というふうにならないようにするためには教養が必要で、教養があれば文学・哲学・思想・宗教などの話題で盛り上がり続けられるのだ!ってえツイートがバズっていて、4万いいねとかされていた
マジ?
・プライベートで2人で会うくらいならそこそこ仲良いはずだし、「教養」なんかに頼らずに近況の話とかしてるだけで充分間はもつだろ
・というか、セックスはともかく酒が嫌なのはなんでなんだ?酒飲みながら文学を語ることはできるのでは?「酒を飲む」って2人とも完全に無言でグビグビ酒を飲み続けるみたいな行為なの?
・"文学や宗教、哲学や思想、政治や文化やらの話"というワードチョイスのスノッブ感がすごくて、ものすごい渋面になっちゃった
・話題なんてなんでもよくて、Googleマップで近所のおすすめスポット紹介しあうとか、ブラウザでうごくオセロをやってみるとか、学生時代の部活の思い出話をするとか、方言の話をするとか、そういうのでいくらでも、いくらでもいけるだろうが
・そういう話題で盛り上がるのは無理だけど文学や哲学の話ならできます!ってこと?
・それは……まあそういうことはあるよなあ………
・いや、しかし、「仲良く話すことはできないけど、人格とかがあまり関係してこない特定の行為なら大丈夫なので、そればかりやる」って意味では、それこそセックスとか酒とかと同じなのでは?
・話題が全然ねえなあ、つって、その辺から聞こえてくるセミの鳴き声とかを拾って、あれなにゼミ?みたいなことを言い合うようなのが、俺は友達だと思うんすよ
・ああ…クマゼミだね…みたいなことを互いに言い合う、教養あるふたりでも別にいいけどさ!
・だいたい、「男女で2人で会う」ってなんなんだよ
・そんな状況、ないが?
・現代社会、異性愛規範がスゴイので男女2人で恋愛関係なく遊ぶのは結構ハードルが高く、そのハードルをわざわざ超えて会いたいような友達なんだったら、教養とかなんとか言ってないで、ただ楽しめよ
・何を想定してんのか伝わってこないんだわ
どこにも染まれない
皆おしゃれでルックスもいい
これって単純にそういう人が関東圏から集まってきてるだけなんだと頭で理解していても
筋トレしようとゴールドジムに行ったら筋肉ムキムキのマッチョマンばかりだ
ボディビルダーかはたまた部活の仲間かみたいな人たちが汗を流している
俺はそこまでムキムキではないからやはり居心地が悪い
もちろん友人もできない
どうみても中学生というカップルが下北沢の大人っぽい服を着てデートしてるのを見かけて目眩がした
自分もそこそこのオタクだけど、やはり街まで来てる人の熱量にはかなわない
すごく居心地が悪い
服屋に行っても同じ
そもそも好きな服の系統がないからどこに入ってもお客さん感が拭えない
バーに入っても同じ
そもそも濃いメンツがその場に集まってたら誰だってそうなるんだよな
だから土日の街が嫌い
同人ゴロというこの世で一番嫌いな言葉が Twitter のトレンド入りしててよくこんな品性のない言葉をべらべらと喋る人間がいてなおかつそれを Twitter と言う会社が取り上げたなと思った
まじかよこいつ。 どこをどうやったらそんな勘違いができるんだ?
自分が同人紹介してアフィ稼いでるから妙に肩持ってしまうあたりも成長しないな。
兵庫県って校門圧死事件が起こるほど教師が強権的で拘束が厳しいからスカートの丈が全国的に長かったり、髪染めてる女の子も少ない。
よって「オタクにやさしいギャル」って兵庫県で高校時代送ったやつにとっては一番いない人種!!
あと神奈川に巨乳好きが多い理由は…いい感じの巨乳がいないんですよ。
都会or通学時間かかるせいで部活入ってないJKが多いから、いい意味での巨乳ってなかなかおらんのです。
キッモ! なにこいつキッモ!
誰かに告白されたり恋人ができたりしたことは無いからすごく舞い上がって、でもちょっと怖くて、それでも勇気を振り絞って返事をして付き合うことになった
一緒に帰ろうとしたけど、まだ何かやることがあるらしい
急いで部活に行くとまだ音楽室は使われていた(自分は運動部だったし、他の部員は高校時代の部員だったけど音楽室とそこにいた先生は小学校時代のままだった、記憶が混ざったらしい)
この辺りで目が覚めて、自分はもう高校生じゃないから夢だったのだと気がついた
ただあくまで夢の中で目が覚めただけだった
教室を借りるとかではなく、なぜかバスの中がメイン、たまに降車するバスツアーのような形式だった
全く知らない大人たちの他、高校の同級生や先輩、小学校の同級生も混じっていた
ペアワークをすることになって、近くの知らない人と組めばいいのに、皆うろちょろと知り合いを探しており、自分も高校の同級生と組んだ
その後バスは発車し、また停車しようとしたが、運転手が異様に停車が下手だった
路肩の停車ポイント(?)に停車しようとして失敗、次の区画へ……を3回くらい繰り返した
そのあたりでおかしいな、と思い目が覚めた
中学一年生の春、担任は国語教師だったから、いきなり作文を書かされた。
テーマは「中学生になって」みたいな。目標とか頑張りたいこととかを自由に書くやつ。
普通は部活や勉強を頑張りたいとかを書くところを12歳のわたしは捻くれていたから、大人はこういうこと書けば満足するんだろという可愛げのないことを考えながら書いた。
わたしはキャベツみたいな人になりたい、芯は強いが葉は柔らかくて甘い、集まった青虫たちが食べれば綺麗な蝶々になったらいいな、とか云々。
30歳も間近になったわたしはキャベツを包丁で切り刻む。使いかけの1/4玉、もう萎れかけているやつ。義母からもらった600gの豚バラ肉を、間抜けな夫は小分けにせずにそのまま冷凍した。解凍するのも面倒、肉の塊に力任せに包丁を入れる。ペラペラの包丁だから脂身のところしか切れない。
しなしなのキャベツと脂身のかけらでパスタを作る。空腹を満たすためだけの美味しくもないパスタ。夫は今無職になって丸4ヶ月、仕事をコロナ関係なく辞めて、すぐに失業申請をしなかったから、いまだに失業給付をもらえない甲斐性無し。完成しても分けてあげない。
以下のことが30歳を過ぎるまでにできていなければ、現代の競争社会から
淘汰されると思っているのですが、どうでしょうか?
・部活、サークルに入ったり、アルバイトをして社会・社交性を身に付ける
→何を言われても気にしない自尊心と自信を持つこと
・会社で「必要とされるスキル」を「必要なレベル」まで磨き、職場で”第一人者”になる
→自分が好きとか得意とかではなく、相手(会社)が求めるスキルであること
・あるいは副業、起業、投資などで生活が担保できるレベルにする
・BBQ、旅行、飲み会、同窓会に参加し、これまで築いたコミュニティを”維持”する
ちなみに私はコミュニティは年とともに疎遠となり、パートナーもおらず、
スキルも求められるレベルに達しておらず、副業、投資もしておらず、
メンタルも弱く、人の目を気にしてしまうので、もうすぐ淘汰されそうです。
これらを満たしていなくても、不安なく生きていくにはどうしたらいいでしょうか。
普通でいることが善なのか、はたまた悪なのか。
没個性的で、長いものに巻かれる。それは当たり障りない人生というテンプレートをなぞっていくような言葉にも感じられる。
しかし。
先天的な発達障害(ASD、ADHD、DCDのトリプルコンボである)を抱えて生きてきたわたしには未だに今ひとつ「普通」「没個性」というものがピンとこないのだ。没個性を目指してもなれない、普通を求めても手に入らない。最初の約束と違ったことを言われたり、イレギュラーな要求をされるとそれを「普通」にはこなせないし、0か100かしかないので50を求められても相手の思うように返せない。
その発達障害を20歳になるまで見つけられることがなく、いわゆる定型発達の子どもたちと混ざって幼少期から常に「変な子」「面白い子」と揶揄されてきた。その度に普通でいることのハードルの高さを感じさせられた。
確かに物心ついた頃から子ども特有の目のキラキラ感がなかったことも自覚はしているし、どこか冷めているというか物事を純粋に楽しめなかった。その上父方の家庭が自分たちの価値観の型にはめていく教育方針だったことからそれに当てはまれなかったわたしはそこでの居場所も失ったこともその後の成長過程に大きな影響を及ぼしていると思っている。幼稚園や小学校に行っては大人にとっては「ちょっと変だけど元気で明るい子」を演じ続け、帰ったら帰ったで本ばかり読んでいた。そして当時月に2回ほど行っていた父方の祖母の家((今はもう6年ぐらい行っていないので祖母も叔母も元気にしているかどうかすら知らない))では、わたしを連れて行っていた父親含めほぼ誰にも話しかけられることはなかったのでずっと2階の広い部屋に引きこもってポケモンを捕まえ続けた。常にいい子でいなければ死ぬ、という感覚はこの頃からあるし、過干渉されると怒るくせに愛されたい願望が変に強いとにかくめんどくさい人間になった。
いわゆる「普通の子」との疎外感から、わたしは気がついたら常に死にたいと思うようになっていた。記憶の限りではおそらく小学校に入る少し前ごろからだっただろうか。でも大人にそれを言うとまた色眼鏡で見られることや世間体を気にされることは子どもながらに理解していたので、誰かにそんなことは言えないでいた。何なら今の今でも誰かに言ったことはないので、ここで初めて誰かに気持ちをぶつけている。
死にたいという感情を悟られるまいと思い必死にその時その時に全力で自分の生きる意味を探した。特にこれといった特技もなく、決して健康な子どもでもなかったのでその度に壁にぶち当たったし器用に生きられなかった。し、今でも器用に生きられないでいる。
そして小学校高学年からだんだんと学校に行かなくなった。気がついたら中学入学後、完全な不登校になって1週間寝つくことがないまま夜を過ごしたりその間に考えるべきでないことばかりを考えるなどした。その頃から心療内科でカウンセリングを受けるようになり、良くも悪くもならないままこの前気がついたら干支が1周していた((むしろここ半年は仕事などの過労から抗鬱剤を飲む生活を送っているので正直悪化している、けれど新しい病院を開拓するにも腰が重い))
高校受験の時だって、「普通の子」になりたくて偏差値も部活の活発さも平均的なそれこそ「普通」の高校を選んだのに周りからは「もったいない」((無駄に論理力だけがずば抜けていて他が壊滅的なIQであるために、自分で言う話でもないが中途半端に成績だけは良かったので同級生の保護者たちからはあまり好まれる子どもではなかった))「もっと上の学校に行けばいいのに」と批判された。この時ほどにわたしの追い求めていた普通を否定された経験は後にも先にもないように思う。
その後その高校に入学し、不登校を経験した上での高校生活での目標に「皆にとっての当たり前の日常」を掲げた。しかし高校2年生の頃に病気が見つかり、当たり前の日常はおろか出席日数もギリギリでクラスでは孤立しながら廊下からすぐのいちばん後ろの席で生活した。こんなはずじゃなかったのに、と何度も思ったけれど、どこか仕方ないと思って諦観している自分もいた。
大学でも2年生修了時に高校時代からの持病が悪化し中途退学。自分の人生の中で比較的イケていた時期だと思っているが、学校生活「すべて」を謳歌したことは一度もない。その結果通信制大学に編入し、単位もまったりまったりと取りながらズルズルとマイペースで学生という身分を続けてしまっている。
20代も半ばとなった今でも時に日常会話で「普通に」とか「常識的に」と自分の中で繕った普通をぶった切られることもある。最初は何とも思わないが、それを同じ相手から何度も何度も言われることで自分の中での普通はまだ全然普通ではなくて、むしろまだまだ程遠いところにいると感じてしまう。そして「普通」という名の相手の感情の押しつけに嫌悪感を抱くし、「あなたが言う普通だってあなた個人の価値観だよね」と言ってしまうので感情的にカッとされることも少なくはない。((カッと、ということで余談だがリストカットなどの自傷行為に走ったことはほぼない。その時間が無駄だと思ってしまうしもっと具体的でもっと苦しいものを選びたくなるしいつもそれを考えているうちに過呼吸になっている))
この普通に適応できない息苦しさはいつまで続くのだろうかと思うと過去の記憶がフラッシュバックしてくることも頻繁にあるし、それで過呼吸を起こすことだってある。結果身近な人が迷惑を被ることになる。いつまで経っても身近な人の立場からしたらわたしは最高にめんどくさくて、普通には到底なれなくて、どこまでもまっすぐに生きていけないとても厄介な存在なのだ。
だからこそ交友関係もどんどん希薄になっていくことには慣れているし、距離を置かれていくことを察するようにもなった。自分から誰かと接するということも積極的にできないし、むしろ入られたくないゾーンに入られたら精神の平静を保つべく全力で拒むようになってしまった。自分が友達だと思っている相手からしたらわたしという存在は知り合いないしは顔見知り程度なんだろうなと斜に構えてしまう。iPhoneのアドレス帳なんて家族含め3人しか登録されていない始末だ。でも別に特別広い交友関係を持っていてもメリットもないし、むしろ自分に相応しくないように思えてきてしまうしそれを悩む時間も無駄だなと思う。
結局ひとりぼっちでいることしかできないし、結局誰かに頼る強さを得ることもできない。いつまで経っても弱くて、いつまで経っても自分自身のことを好きになることができない。常にコンプレックスに直面している。
エアポンプのない酸素の薄い水がたっぷりと入った広い広い水槽で、必死に呼吸をする魚のような感覚だ。
まずこれ先輩JK2人の責任を問うた上で管理責任に話がシフトすべきだろ
プロレス事故なら本人たちの責任になるのに、JKだといきなり管理のほうに話がいくのがよくわからん
高校生って自分たちで部をまとめ、練習メニューも自分達で考える。顧問なんていなくても、自主的に活動できるように見える。
でも大会が人生のゴールのようにさえ思っている彼らは一生懸命になるあまり安全とか学業との両立とか、本当は一番大事なことを二の次にしがち。
私の高校時代の部活も基本顧問は不在で、結果は出してたけど先輩やOBによるパワハラモラハラ指導のオンパレード、ストレスで病気になる部員もいた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/82450e5d7a9ca26bc24853bb232d62d921a3a580/comments
それに対する反論が、学力とか友達とかそんなのばっか目に付くんで、小学校・中学校に行く意味はそうじゃないと言っておく。
学校ってのは、自分がどうなりたいのか、どうなって行くべきなのか知るために行く場所だ。
学校という集団の中で、色々な子を見て、その成功も失敗も挑戦も振る舞いも見て、何をすればどうなるのか、どういう振る舞いがどういう結果につながるのか。
どういう振る舞いが評価され、どういう振る舞いがけなされるのか、どういう子に人気があり、どういう子に人気がないのか。
何をしたらいい結果につながるのか、何をしたら悪い結果につながるのか。
何をしたら誇りになるのか、何をしたら恥をかくのか。
他人をまとめるとはどういう事か、集団の中ではどの程度まで勝手が許されるのか。
自分が何に優れていて、何に優れていないのか。
自分一人だけでなく、周囲の同学年や他学年の子達、同じ部活や違う部活の子達も見て、色々試行錯誤する場所だ。
優れた子とも劣った子とも交わって、他者との距離感の取り方や、自分を演じる事を学ぶんだ。
そうすることでバランス感覚や、信用できる人や信用できない人への嗅覚を養い、その後の人生で致命的な事態を避けて上手く恥をかけるようになる。
それは、学校に行けない海外の難民やストリートキッズみたいな子達であっても、同年代の子たちと同じ時間を過ごす事で身につける事ができる、社会で生存するための最低限の教養と言っていい。
学校に行かず同年代の子たちと恥をかいたりかかせたりという事をしないまま齢を重ねるのは、
その教養を身につけないまま失敗できるモラトリアムの期間を失って社会に放り出される事を意味する、本当に危険な事だ。
彼の周囲にいるのは、すでにそれらの修羅場を潜り抜けて、社会で生存するための最低限のバランス感覚や距離感を身に着けた人たちばかりだ。
たまにネットで炎上する人はいても、死なずに済ませるための基本的な対処法はみんな知っている。
逆に言うと、彼の周囲では「やらかすとまずい事」「どうやったらうまくいき、どうやったらうまくいかないか」「何をやったら褒められ、何をやったら叱られるのか」を体当たりで見せてくれる子たちはいないのだ。
おそらく、彼はこのままだとその辺のバランス感覚が欠如した、ネット上でしか通用しない引きこもりのような存在になってしまうだろう。
学校に行かなくても良いけど、同年代の子たちと過ごす時間を失うのは、大変危険な事だと認識するべきだ。
茂木健一郎氏とか、日本の学校教育の内容に一家言あるらしくて学校教育批判の文脈で彼を擁護してる人もいるようだけど、
そういった人たちは、自分たちが小中学校で得たものが本当に学力だけなのか、小中学校に行ってなかったら自分はどんな人間に育っていたと思うのか、その辺を考えて言ってるのだろうか?
ゆたぼんという子は、周りの子たちがロボットに見えると言ったそうだが、なぜロボットのように見えるのかちょっと立ち止まって考えてみたらどうだろうか?
それは、外国人がみんな同じような顔に見えるのと同じで、もう「差異を感じ取ることができないほど異質な存在になってしまったから」そう見えるんじゃないのか?
ロボットに見えるというのなら、なぜその子達がロボットに見えるような振る舞いをしているのか、それを考えたのだろうか?
あなたを擁護してる人たちは、みんな学校に通ったうえで、その齢まで生き抜いて名を遂げてきた人たちだぞ。彼らはロボットに見えるのか?
なんか学校に行ってない期間が長すぎて、もう立て直しようがないんじゃないかという気がしないでもないけど、
どこか同年代の子供たちと一緒になって、彼らを自分の鏡としながらバランス感覚を養う場所を持った方がいいんじゃないかと思う。
トラブル体質というか何かを引き寄せるという人間は必ずいるし、それとは真逆にトラブルとはほぼ無縁の人間もいると思う。
幼馴染の1人がそういう体質なんじゃないかと思っている。彼女とは幼稚園からの付き合いなのだが、とにかく人間関係のトラブルに巻き込まれにくい。私が思うに、彼女は人間関係に関しては本当にタイミングや運がいい。
高校まで同じ学校に通い続けていて、部活も同じだったため同じコミュニティに属していた時間も長かったのだが、なにか諍いが起こるときは必ず幼馴染がいない時だったなと思う。幼馴染がいない時に喧嘩が起こっていたのか、喧嘩が起こった時に幼馴染がいなかったのか、どっちが正確なのかはわからないが、とにかく彼女が欠席なり離席なりしてその場にいない時に限って何かが起こっていた。そういう記憶がある。
大学に入ってからも、社会に出てからもそれは変わらないらしい。
人間関係の揉め事に巻き込まれることがないので精神的には至って健康な生活を送れているそうだが、その代わりに時々「自分は深い人間関係を築けていないのではないか」と悩むそうだ。贅沢な悩みだなと私は思うのだが、ないものねだりというやつか。
目に見えないオーラのようなものがそうさせているのか、それとも幼馴染が無意識のうちに喧嘩になりそうな空気を霧散させてしまうタチなのか。。。
どちらにせよ羨ましい限りである。
いいか?
お前の子供がイジメられて自殺するより何十倍もイジメる側につく可能性のが高いんだ。
そしたら最低主犯格が2人(1on1ならイジメにならん)、取り巻きが数人、見て見ぬふりをする傍観者が数十人いる。
お前自身が一番よくわかっているだろうが、この世にイジメを一度も目にすることなく大人になったやつはいない。
学年があがる、クラスが変わる、学校が変わる、部活に入る、等々、所属する集団のメンバーが変わるたびに、いじめリスクと向き合うことになる。
イジメの被害者になるか、加害者になるか、それとも傍観者となるか。
多くの人は傍観者になる。
被害者からすれば死にたくなるほどつらい時にイジメを止めてくれなかった傍観者は実質的に加害者と同じだ。
つまり、三択のようにみえて実際は被害者か加害者かの二択を選ばなければならない。