はてなキーワード: 踏み絵とは
そう言われると、「はいはい反日左翼は日本から出て行け」と思うことだろう。
→反日か?
日本のことが好きだからといって、その全てが好きでなければいけないということはないだろう。
→左翼か?
どちらかといえば左寄りの思想の持ち主であることは否定しないが、左翼ではない。
日の丸・君が代に反対する人たちの、先の太平洋戦争でー、韓国がー、中国がー、という理由には同意しない。
それが、国による「抑圧」、国への「服従」「隷属」を象徴するからである。
日の丸に向かって起立せず、君が代を斉唱しない教官は、懲戒される。
世の中には何らかの理由(それが意味不明なものであったとしても)で起立斉唱したくない人がいる。
これを無視して強制することは、「お前、日本人なら、日本を愛しているなら起立斉唱できるよな?な?」と迫る、ただの「踏み絵」である。
卒業式会場で大声をあげて「日の丸・君が代はんたーい!」とか言い出したら、それは式を妨害することになるから懲戒もやむを得ないだろう。
でも、静かにその場に座っているだけなら別にいいじゃんか、と思う。
寛容が大事。
そうして、日の丸・君が代が踏み絵にしか見えなくなり、嫌いになってしまった。
私は小中高で日の丸を掲げ、君が代を歌う教育を受けたが、こんなひねくれた人間になってしまった。
愛国心を育てるための教育が「北風と太陽」のような結果になってしまって残念に思う。
日の丸のデザインは良いと思うし、君が代も厳かで良いのに、踏み絵として使われてしまって残念至極。
しかし、一時期の「起立斉唱しない人は反日バッシング」は私の心に強いマイナスのイメージを植え付け、
それが消えるまでには長い時間がかかることだろう。)
自分もよくこの面倒臭い輪に混じってしまう阿呆だから決して他人のことばかり言えたもんじゃないんだけども
右派だの左派だの言い合うのって同時にどこかに冷めた自分を飼ってるんだよね、虚しいなって
なんで虚しいかって、その右派(右翼、ネトウヨ)だの左派(左翼、パヨク、はてサ)だのって文句は相手がそう名乗ったわけでもない、相対的に且つカジュアルに相手を叩くためだけに貼ったレッテルのようなもので、そんなもの相手に響くわけなくて、要は自慰なんだよ。
殴るために都合の良いサンドバッグを自分でこしらえてただ楽しく殴ってるだけなんだよ。
だからなんとなくわかっちゃったんだけど、ああ、この増田達、それぞれ使ってる右派と左派って言葉の意味とかそれで思い描いてるメンツ違うよねって。
噛み合ってないのに手斧投げてて、影響受けたブコメも評価されちゃって、なんか地獄だなって、そう思っちゃいました。
左派を批判する代表勢力は左派なんて言っちゃってるのは三番目と同じく買い被りすぎだろと突っ込みたくなるけどね。
でも三番目のscopedogで返してるのはそれはそれで納得いかないんだ。
scopedogを勝手に左派とした上で、だから左派はアレの面倒見ろって、それはなんか違くね?と。
scopedogとか、あのレベルに落ちた子って、もう何言っても聞かないじゃん。独善的すぎて。
だから叱っても虚しいんだよね。
じゃあ結果どうなるって、離れるしかないじゃん。
だから当然叱ってた左派も居たんじゃねって思うし、そもそもscopedogとかって、左派とか右派とか以前にさ、何言われても、自ずからでも自分を省みるって言うのを見たことなくて、もう多分反省とか皆無だよね。
彼の反省の見てなさは観測範囲が甘いとか言ってそのシーン晒されたらバク宙三回転焼き土下座するくらい自信あるよ。
弁も『自分は悪くない』が根底にあって突っ込まれたら話変えるか言い訳、言い逃ればかりだし、だから非を認めてそこからの成長ってないんだろうなって、要はアレ、右派左派以前に子供でしょ。
そんなのはもはや成熟した一思想である左派に安直に入れちゃダメだと思うんだ。右派も然り。
それと今回の日韓合意の韓国の態度やscopedogの態度見て、さすがについてけないとなった左派は俺は結構見たよ。
わざわざscopedogの批判まで求めないでもそれで十分だろうと思う。
なので左派を測るのにscopedogを踏み絵にする必要はない。それをしてしまうとそれはまた別の醜悪さを孕んでしまうようにも思いました。
何回scopedogって言ったんだろう。俺はなんだかんだ好きなんだろうなscopedog。
その歪みと折れなさとある意味芯が通ったキャラっぷりはxevraに通じるものがあると思ってる。
ああ、眠くなって来た。おやすみなさい。
カネやチカラや性に関するスペックで人間の価値を測る。こうした価値観の存在を容認するのか?しないのか?その事を問う踏み絵としての機能を内在させるコミュニケーション。それが現代の童貞弄りなのだろう。
そうした価値観の有無や有用性に対する見解は関係なく、単純にその価値観を容認するのか?しないのか?という事のみを問う機能を内在させるコミュニケーション。
踏み絵を踏む事に躊躇いを感じない者同士にとっての童貞弄りネタは、冗談であり、コミュニケーションであり、表現として、半ば無邪気に、無自覚に処理される物である。多くの者はコレを無自覚に処理しているのではなかろうか。
他方、踏む事に躊躇いを感じる者は、自動的に「つまらない者」「チカラを否定し妬む劣等者」の側にカテゴライズされてしまう。或いは、それを自認したものとみなされてしまう。阻害された上に弱者としてのポジションを押し付けられる。相当に一方的な扱いを受けたと感じる筈である。
人間の価値を測る基準に、大きな齟齬がある両者が揉めるのは当然の事であり、議論の末に何らかの合意点を見つけ出す事は、相当に難しい事なのではなかろうか。互いに距離を取る。くらいの事しか出来ないのではないだろうか。
なんか(犯罪とか)するとニュースとかじゃ「教育者としてあるまじき……」みたいな論調になるけど、教師に何を期待しとんねん。
教師なんて普通~にただの人間だしどっちかっていうと頭おかしいやつしかいないだろ。
何が嫌かって、ほぼ自分じゃ選べないで強制的に入信させられることだね。もしくは、圧倒的に不利な状況に追い込まれる。"成績"はもちろん、"学校生活における自分"さらには学校なんか関係ない"自分自身"まで人質に取られて。
手のかからない子の心の摩耗もそうだが、まずこの、教師という宗教が本当に嫌だ。
そりゃ、どんどん高次元な学びになれば、○○先生を師として弟子やら部下やら手下やらなんにでもなれって感じだけど、足し算引き算なんて誰にどう教わっても同じであるべきじゃん。それを宗教が邪魔する。
足し算引き算なんて、まだアレだけど、やっぱり一番は"道徳"の宗教。それぞれの教祖が説く理想に沿わなければいけない苦痛。
いや、あえて、そういう風に個人個人で考えてることは違いますよって、ある特定の思想のみを植え付けられないように、毎年毎年下手すれば毎日毎時間異なる宗教を叩き込んでるのかもしれないけど。
子どもの頃って、大人が圧倒的に怖くて、教師なんて両親より"怖い"よりの大人で、その大人に、子ども心にも「なんだかよくわからない理由」で怒られるってのは、すごい恐怖だった。なんか、いっそのこと、「俺がそう思うからだよベロベロ~ン」と言ってくれればいいのに、基本、"道徳"を持ち出すよね。
それを、各々異なる"道徳"という宗教を押し付けられつつ、"成績"を人質に取られてまた踏み絵させられる、いつ他の教祖にそれは間違いだと言われるかもわからないことをする、もう、そりゃ、摩耗しますよ。
摩耗に対する、摩耗を防ぐための「心のケア」も、初めから教師に期待するのが間違ってるんだ。
生徒たちは、「心のケア」というこれまた踏み絵をさせられ、"ケアされた"顔にならなきゃいけない__毎年毎日毎時間ごとに。
そう考えると、ドラマの中「生徒はお客様ですよ!」みたいなセリフの、なんと馬鹿馬鹿しいことか。
学校なんて、「社会生活の練習」とか教祖はよく言うが、という名の、心をすり減らす訓練する場所じゃないか。
文字通り、学校で耐久性を何度も何度も何度も何度もテストされ、社会に出荷されるわけですね。客でもなんでもねーよ。
いや、かえって、学校の、授業の時間を教祖のディナーショウだと思えば、お客様なのかもしれない。教祖の、宗教の、言うなれば、サクラ客だね。この宗教はすごいってことをアピールしなければいけない。信者の顔、"ケアされた"顔をして。
長~くなったけど、要するに、教師がなんか犯罪とかしても、「まあするやろな教師なんだし」程度にしか思ってないということ。宗教・ショウを日々開催して、生徒がみんなワッとしてくれていたら("俺"に従わないような生意気なやつもスパイスとして楽しみつつ)、そりゃ頭もおかしくなりますよ。
生活保護の引き下げには反対だが、嘘を言うような政治活動はかえって逆の結果を促進することになるからやめたほうがいい
もし、生活保護を引き下げてその人たちが生きていけないなら、それ以下で生活してる低賃金労働者はどうなるのか
みんな死んでないとおかしい
その労働者たちは精神的肉体的にも負担が大きい労働をしてさらに金銭的に恵まれない生活をしてるのに生きてる
だから、重要なのは低賃金労働者を普通の生活に引き上げるような社会制度にする必要がある
これが確実だ
所得税を上げて給料を均質化に向けるというのが一番公平性が高いだろう
なぜかはてなでは増税反対派が多いのが解せないが、自分が得したいだけって訳でないなら増税は当然だと受け入れなきゃいけない
あとは、モノやサービスに安さを求めるのをやめることだ
これは全くもって人が人を信頼するというユートピアな世界じゃないと成立しないが、低賃金労働者が生み出すサービスについてみんなが大盤振る舞いすればいい
例えば、介護などのサービスが倍の値段になっても利用し続けるということだ
間違いなく払う側の生活の質は下がるが、そうすれば低賃金労働者は救われる
生活保護以下で生活をしている人たちに寄り添い自分たちも犠牲を払う人権意識の高い人たちなら絶対できるはずだ
それをできるのかどうか。それが試されていると言っていいだろう
http://b.hatena.ne.jp/entry/345887126/comment/cloq
はあ馬鹿? 本邦の死刑囚は死刑に賛成している有権者の殺意で殺されているんだよ。刑務官は彼らの殺意を実行するただの道具にすぎない。死刑賛成派は人殺し。許されざる大罪の報いは必ず受けるべきである
http://b.hatena.ne.jp/entry/345880514/comment/cloq
死刑は殺人なのでダメです。殺人を禁ずるなら死刑という殺人も禁じなければならない。そのことがわかってないこの人殺し人殺し!
http://b.hatena.ne.jp/entry/277549242/comment/cloq
死刑制度に賛成か反対かで踏み絵してやる。死刑制度賛成は無自覚な殺人。死刑囚を殺すのはキルスイッチを押す者ではなく国家による殺人を支持する者の殺意だ
http://b.hatena.ne.jp/entry/273012670/comment/cloq
未開人だか土人だか食人族だか知りませんけど、死刑賛成派の人は自分が自覚なき殺人犯だってことにそろそろ気づいてほしいですね
立憲民主党、枝野さんの選挙演説in伊丹で、枝野さんの前に演説した宝塚市長の話がいいなと思ったので書き起こし。
変換間違えてたらごめん
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皆さんこんばんは宝塚市長のなかがわともこです。
私は毎日毎日、市民の命を預かり、暮らしを預かって仕事をしています。
ふるさとを失ってあちこちで暮らしている人たちが未だに5万人以上いらっしゃいます。
私たちは80キロの所に福井県に11基の原発があります。そして琵琶湖からは20キロしか離れていません。
そんなところでまた再稼働するという安倍政権、再稼働を決めたときに、市長として市民の命を守るために、
くらしを守るために、もう原発の再稼働はやめて欲しい、という記者会見をたくさんの仲間と一緒にやりました。
でもそのような思いを、今の安倍政権にぶつける市長・村長・町長は本当に3人ぐらいしかいません。
言えないんです。政権に楯突いたら、どんな仕返しがあるか分からない。そんな中で私達は仕事をしています。
そして次は安保法制です。私たちはもう二度と戦争をしたくない。
人を殺したくない。殺されたくない。平和なこの日本で自分達と生きていたい。
市民の暮らしを守るためには絶対に戦争はしてはならない、という私たちの憲法が(3秒間聞き取れなかったすみません)
いつでも市民の皆さんの命と暮らしを守るために絶対に曲げてはいけない。
でもそれができないのはなぜでしょう。
民主党政権の時は、大名行列のように補助金ください、ください、くださいと、各市町村の大名行列はなくなりました。
地方が大事だ、子供たちのxxを作るために、学校を整備するため、高齢者の方々のサービスを充実するためにと、
地方にしっかりと予算をつけてくれました。ですからピタッと大名行列はやめました。
皆さんの税金で東京にいっぱい出張するんです。そういう悪しき習慣がなくなりました。
でもまた自民党が勝ってからは、ぞろぞろ、しょっちゅう国会議事堂、議員会館のそばには大名行列が復活しました。
地方に予算が来て、これで市民の皆さんの暮らしをもっともっとよくしていくことができると喜んでいましたが、
地方創生と言います。でも全然創生できない。東京一極集中の中で、どんなに努力したって、どんどん人口は減り、高齢化が深刻になっています。
なのに自民党に楯突いたら、文句を言ったら、その街に様々なしっぺ返しが来る。
こんなことがあっていいでしょうか。
私は宝塚市長として、絶対に原発は反対。そして地方自治をしっかり守ってほしい。支えてほしい。そして戦争は二度と嫌。共謀罪の時にも記者会見をしました。
私たちは言いたいことを言い、知りたいことを知る権利があります。
今は戦前の治安維持法のようなxx問題が。これもまた、強行採決されました。
私たちはいま本当にこの選挙の前、どこに入れたらいいんだろう、
市民の皆さんの守るためには私たちはどのようにして行けばいいのか。
悩んでいた時に枝野幸男さんが、立憲民主党を作ってくれました。
これこそが、私たちの暮らしを守るため、未来を守るために必要な人なんです。
はっきりと物を言う、そういう人たちは排除する、私たちは踏み絵を踏みたくない。その思いを受け止めてくれました。
そして桜井しゅうさん、この伊丹で市議会議員をやっていて勇気をもって立候補してくれて、
立憲民主、桜井しゅう、と、私たちはこの兵庫6区は名前を書くことができます。
でもその名前を書けない、選挙区の人たちもまだいっぱいいます。
これから市民と共に生きていく立憲民主党を、私たちを選んで、応援して、
今度こそ、野党の、しっかりした野党の、思いが一つ思いが一つの野党の政治を期待し、
未来を作り上げていこうじゃありませんか。
私、本当に今思うんです。今度の選挙は想像力が必要だと思うんです。
北朝鮮だって潰してしまえばいい、そういうことを言って、今の安倍政権に対して、そんなことのようなこと言う人がいます。
核を使えばどうなるでしょうか。そこは、そこはまた、広島、長崎、そして福島。
同じことになります。
どうか皆さん子供達に(また3秒聞こえない)今の日本をつないでいくために
大人が責任をもって今回の選挙、想像力を働かし、立憲民主、桜井しゅうを応援し、
勝ち抜こうではありませんか。みなさんありがとうございました。
ここ数年の日本人の大人は、俺自身正直子供臭いなと感じるときが多い。32才の俺が20代の頃に比べると、社会の「牽引役」としての本来の感じがなくなっている。子供との区別ができなくなっている。モンスター系だのゆとり系だの、冷笑主義由来の弊害があまりに目立つ。
しかし、どこのだれがどう生活しているかもわからない実態不詳な社会とは違い、れっきとした日本社会の顔で、ましてや先進国であり、日本社会の大きな責任者でもある。いい加減社会的責任に向き合う時期だ。
かくして「来るもの拒まず」的にアダルトチルドレンの流入を受け入れ続け、いつまでも10代の趣味に明け暮れていたり、モーメントやトレンド欄に子供向けのコンテンツしか話題にしてないような話題が平気で全年齢向けに拡散される現実はいかがなものかという疑問が発生するのは当然で、日本人は、今、昔の韓国の様な幼稚な社会で非常識や反成熟でもなんでもありの状態を続けるか、それともチャントした大人らしく、公正な社会の発展と成熟化に寄与するかの「踏み絵」を迫られているわけである。その踏み絵が、あなたの目の前にばらまかれている。
まともな人間にとってみりゃそりゃあ恥ずかしいだろう。「自分は日本で社会の最先端に生きているんだ」という自尊心と、あの精神・知性の未熟さはあまりにギャップがある。でもそういう大人を大量に抱えこんでいて彼らとともに働いている現実があり、その矛盾が世界中で可視化されるんだから。中高年の多くは日本人が、世界中の大人とつながれて、前向きで、まっとうで秩序だっていて輝いていた時代を知っている。そしてそのすばらしさは全うな企業で働いている側の大人たちが一番よく感じていたはずだ。だからこそ「アダルトチルドレンまみれの悲惨な現実を見て立ち返れ」と声を大にして言いたい。
そこの理解が甘いってのも日本のフェミの良くないところなんだけど、「弱者同士が連帯する」必要があるのは、前述したとおり、「そうしないと弱者の主張の論理的正当性が担保できない」からなのね。
決して、数を揃えて強者に対抗するためじゃないわけ。っていうか、ぶっちゃけ弱者の数を揃えて権利勝ち取ろうというのは、むしろ勝ち負け理論の世界に自分から飛び込むようなものなわけ。数を揃えて強者を打倒するほぼ唯一のルートは武力革命なわけだけど……てーか武力とか言葉ごまかさないで言うと暴力なわけだけど、そんな段階になった時点で弱者でもなんでもないでしょ? 単純に暴力という武器を備えた新しい強者が(集団として)誕生しただけなわけね。
「弱者の連帯によって数で上回って強者を脅迫して権利をもぎ取る物語」なんてのは、弱者が夢見る「俺が支配者になった世界」妄想であって、倫理も論理も関係ない、ただの欲望なわけっすよ。もし仮にそれで何らかの権利がもぎ取れたにせよ、それは「弱者が強者になったから、現在の強者から権利(や財産や自由や生命)を奪うことが可能になった、奪った」という話であって、それは革命ではあるかもしれないけれど、思想運動ではないわけですよ。
これは別に革命が悪で思想運動が善という話じゃないのね。思想運動の成果的なものを革命が成し遂げることはままある(南北戦争の結果奴隷解放がなされたように)。ただ、その種の暴力革命で権利を確立した場合、「さらなる暴力革命でその権利をさらに覆す自由」を他者にも認めないと自己矛盾するだろうという話なわけです。
本来「弱者同士が連帯する」必要があるのは「たとえ自分が弱者の立場であろうが、弱者を見捨てるということはしない、そういう社会こそが全員の希望なのだ」と高らかに宣言し、それを守り続けることで「この宣言は信頼できるものなのだ」ということを示すためなのね。その信頼を持って、現在強者である人々から、権利を正当に移譲してもらうってのが思想運動の要諦なわけ。すごくざっくり言っちゃえば「弱者が強者に信用してもらうために、財貨や権力ではなく、倫理の次元で気高さを見せる」ためにこそ連帯は必要なの。
そういう意味では「どんなに強者に見える人であっても弱者だという自己申告があれば弱者同様の手助けをする(そもそも本当に強者であればその手助けはささやかすぎて意味が無いわけだし)」「むしろ、社会構成員はその全員が何らかのジャンルで弱者なのだ、敵はひとりもいない。すべての人々は未来の仲間なのだというスタンスで活動する」のが弱者救済の思想であって、「弱者かどうかの判定踏み絵」とかやってる時点で、ニセモノなのよ。