はてなキーワード: 命題とは
本当にいい奴で、よく一緒に酒も飲むし、研究や学業も切磋琢磨できるすごい大事な親友だ。
親友は僕と遊ぶ時、よく彼女を連れてきていた。だから、彼女と僕はお互いどういう人かはよく知っている。
親友が彼女を僕と遊ぶ時に連れてきていたのは、僕が彼女に対して無害であるということと、一番中のいい友達を知って欲しいという気持ちからみたいだった。
ところが、しばらくして、小さな喧嘩をしているのを見るようになったので、たまに仲裁に入ったりしていた。
それは、親友から相談されてそう言う立場になったのだが、、、、、
ある時、親友からだけでなく、彼女の方からも相談されるようになってきた。
話を聞いてると、健気で何となく共感してしまう事が多くなり、親友に対して、彼女から聞いた話の方を持つ意見を多くするようになってしまった。
この時、既に彼女を好きになりかけていたのかもしれない。
当時はそんなつもりはなく、話を聞いた上で自分で判断していたと思うんだけど。
で、最近本当に別れるみたいな話が出てきた。
彼女は今回も僕に相談してきて、その決心がついたと言ってきた。で、難しい時には力を貸して欲しいって。
電話で彼女に、次に好きになるなら増田さんみたいな人がいい。って言ってくれて、正直嬉しかった。
付き合いたいし、告白したいって思うんだけど、これって親友との友情ぶち壊すんじゃないかってすごく怖い。
親友とは本当にいい関係なんだけど、ここしばらく、あまり一緒に酒も飲まないし、遊んだりもしてない。
おそらくこの彼女が僕に相談しているのを知っていて、僕が彼女の方を持つのも何となくわかっているからだろうと思う。
で、そんな状況で、僕が彼女に告白したら、親友とのつながりがぶっつぶれちゃうんじゃないかってすっごく怖い。
(そもそも彼女が僕の告白を了承して食える保証もないんだけど、、、)
親友とはこれからもいい関係でいたい。彼女には気持ちを伝えたい。
どうすりゃいいかなぁ。僕には何をどうすればいいのかさっぱりわからないよ。
某兄弟がいうように、何かを得るためにはその対価を払わないといけなくて、何か犠牲にしなきゃいけないんだろうか。
(払っても等価交換されない可能性があるけどね。)
心がねじけていて素直でなく、陰湿で嫉妬深く、気まぐれで卑怯、自己中心的。ただの狂人で、人格も思想も一貫性も
まるでなく、昆虫に喩えればゴキブリ。存在自体無価値で、害悪。やることなすことキチガイ沙汰で、本物らしいものは
何もない。すべてが一過性なので、自己同一性すら疑われる。日本人の社会は、公認ヤクザである政府や一般のヤ
クザのような犯罪組織同然の悪の組織による奴隷社会しか実現できていない。そのくせ、世界文化に対する嫉妬は根
深く、形だけ大学や学問や法治国家を整え、ふんぞり返っている厚顔無恥さには反吐が出る。社会は気が狂った鬼の
集まりにすぎないのに、やれ表面は頑固だが繊細な心を持っているだの、社会とは酒に喩えられるだの、日本の心は
美しいだのと美化に余念がない。実態はと言えば、陰湿で偏狭な土着的心理と自己耽溺的美意識と頑固さの入り組ん
だ複合体でしかないくせに、とにかく人を幻惑する魔術、すなわち自己保身のためのありとあらゆる暴力や騙し、脅しが
凄まじい。相手が弱しと見るや容赦なく攻撃を加えて支配しようとし、相手が強くて敵わないと見るや徹底的に下手に出
て歓心を買い、強者から少しでも多く利益を引き出そうとする態度の変化は最も醜い。とにもかくにも思っていることや
言っていること、人を騙そうとして発する言葉と、自分が実際にやっていることが真逆というに至っては開いた口がふさ
がらない。しまいには愛が全ての自分などと言って最後の自己正当化の手段をとろうとするが、中世において間引きの
ために平気で赤子を踏み殺していた日本女に愛があるはずがない。そして喧嘩の折などには「ついに本性を出したな」
「あーそうかいその通りだ、俺私のためにやってるんだよ」と本音を漏らし、ピンチになるとあらゆる論理を持ち出して相
手の勢力を殺しにかかる必死さからどうやって日本人の心が美しいという命題を引き出せるのか理解に苦しむ。そして
そのような日本人の本性への絶望の上に、公認ヤクザである政府が性に合わない民主主義という虚構を作り出し、そ
の虚構の憲法法律でもって自分と人民を自虐的に縛り上げ、かろうじて社会秩序を維持しているについては悲壮的で
ある。いくら政府が結果論結果論と連呼し、俺らが工夫して縛り上げているから社会自体はそこまで悪くはないと威張
り腐ろうが、長年生きていれば、悪いものは悪いと分かるのである。いくら知恵を使って最悪な人種を縛っても、縛った
だけで土くれが金塊になるわけではない。所詮日本人は言葉も涙も全て嘘で、自分の腹が本当に痛むようなことはあ
※ブログに書いたんだけど、誰も辿りつかないと思うので、ここに転載
この記事は、目標が達成のために毎日もがき苦しんでいる自分に向けて書いたものだ。あなたが同じように目標達成に苦しんでいるなら、いくらか役にたつかもしれない。
この記事(新政府の初代内閣総理大臣は建築家!?──坂口恭平)を読んで思った。
突き抜けている人の共通項は「オレのやるべきことはこれだ!」と良い意味で盲進し、そして盲信し続けられる人だ。
上の記事で紹介されている坂口恭平さんは、ホームレスの住まい(つまり段ボールハウス)の写真集を出し、現在は「新政府」の総理である。新政府は坂口さん自身が自分で勝手に作ったものだ。間違いなくヘンな人であり、突き抜けてる。
坂口氏は言う。
でもホームレスたちは自分で材料を集め、最適なサイズを見極め、住まいを作り上げていく。(中略) そんな姿にものすごく興奮したんですよ
ホームレスの住まいに興奮するという感性はもちろん素晴らしいが、そこから「オレはホームレスの住まいを撮りまくるんだ」という行動に結びつき、結果として「写真集を出す」にいたるまでその行動が持続するのがすごい。普通なら、「ホームレスの住まいはすごい!」と思っても、「写真集を出す」という結果に結実しない。
つまり、「目標達成できない人」に共通して足りないのは以下の2点ということになる。
この2つの中で特に難しいのは後者ではないだろうか。何かを始めることは比較的簡単だ。「よし、毎日英語を勉強しよう」「週に3回ウォーキングをしよう」と。しかし、それが続かないのが人間というものだ。
有名な自己啓発書にこんなことが書いてあった。
この命題は、論理的には当たり前のことを言っているだけだ。が、妙に心に響く言葉である。それは、多くの人にとって、持続することがいかに難しいかを物語っているからだろう。
「3日坊主」というくらいで、続けることは本当に難しい。「毎日○○をやる!」と決めて、それが半年間でも続いたことがいったいいくつあるだろう。半年でも続いたら成功としたとき、その成功率はいったいどれだけになるだろう。「ウォーキングをする」「10分英語のニュースを聞く」という、原理的には誰にでもできる簡単な行動であっても、それすら続かない。
私も多くの人と同様に「継続性のない」人間に分類される。粘り強さの無さが目標達成の上で最も大きい障害のひとつだ。この障害がいかに大きいかを自覚して以来、何かを継続している人に「継続するために最も大切なことは何か?」と聞くようにしている。
その答えは千差万別だが、整理すると、以下の2点に集約できる。
まずビジョンだ。継続している人は、それをスタートしたときに、(無意識的にせよ)以下のことが明確にイメージできていることがほとんどのようだ。
ゴール、メリット、日々の活動は継続できない人も意識しているだろう。だが、本当の意味で「ビジョン化」できているだろうか?ビジョンというのはビジュアルという言葉からわかるとおり視覚からきている言葉だ。であるからには実際の映像としてイメージアップできていなければならない。
「東大合格!」と紙に書いて貼るのはいいが、自分が東大に合格したところが映像化されていなければならない。どこでどのような勉強を誰とどのくらいしているか、というイメージが視覚化されていなければならない。
※これはデザイン思考の日本の第一人者である奥出直人教授から学んだことだ。デザイン思考でも、ビジョンを構築する際に、言葉ではなくモノとしてイメージされていなければならないという。
そして、継続できない人の多くがそもそも意識していないのは3番目(マイルストーンの存在)ではないだろうか?TOEIC900点というゴールに対して、700点、800点というサブゴールをいつ達成するかということを明確化しておくのは継続するためにとても大切なことだ。
そして、実はサブゴールを立てることこそが、上記の2(続けることのインセンティブが継続的に存在すること)に直結するのだ。
このことは、どうも心の性質と関係があるようだ。人間は、「達成した!」という感覚そのものが大きなインセンティブになる生き物らしい。
「この製品をデファクトスタンダードにする」という目標を立てるのはいいが、その目標に対する目の前の目標を立てることが継続の秘訣というわけだ。「プロトタイプを完成させる」「○○さんに高評価をもらうまで洗練させる」「1社に採用してもらう」「年末までに○○万円会社の口座にある」といったサブゴールを立てておこう。そしてサブゴールが達成されるごとに自分を褒めよう。いや、褒めることすら不要かもしれない。人間にとって「達成」そのものが実に大きなご褒美なのだから。
とはいえ、である。サブゴールを立てることは、いわば「テクニック」だ。そのテクニックで継続
に成功したとしても、ゴールがあなたの幸せにつながってはじめてその継続は意味を持つ。
良いゴールを立てるにはどうしたらよいか、これはまた別の記事で考えてみたい。
最近目にする分量は減ったけれども、一時期非常によくみかけた主張
原発反対派のおかげで原発の新規建設が困難であった。それがなければ福島第一原発をこんなにも延命させる必要がなかった。したがって、今回の原発の事故の責任は原発反対派のそれも大きい。
まぁ、これはじつにけったいな議論である。では、ここにまつわる論点を整理してみる。
第一に、私も、「原発反対派の反対運動が新規建設を困難にした」という「因果関係」については、ある程度存在すると認めている。これを科学的に立証するのはいろいろ文献を引いてこなければいけないが、さすがにこれを否定するのはナンセンスだろう。
しかし、一般論として「因果関係が生じている場合、原因となったものに結果責任が必ずある」という命題は明確にNOであることも議論の余地はない。
さて、今回それが当てはまるか、という風に考えてみる。原発反対派と一口にくくっても、「自分のところに原発をつくるな、ともかく」な人たちから「原発は廃止にもっていきたかった」人までいろいろある。
これはこれで当初の命題に大いに関係がある議論だが、詳細な論証は私はやめておく。論じるだけのデータがないのが最大の理由であるが、以下の指摘だけは私の印象からしておく
・冒頭の「原発反対派論」を言う人間は、大抵(例外はあるかもしれない)、原発の新規建設が困難であった理由のさまざまなものの中で(一つではまさか、ない)、反対派の運動がどれだけ寄与しているかなどどうせ検討していない。
・そして、「原発の稼働期間延長」の理由も同様である。原発をあまりに長く稼働させると、老朽化によるメンテコストの上昇はあるが、一般的に原発は一度稼働してしまうと、他の発電所と比べても「使えば使うほどコストが下がる(変動費が相対的に低い)部類に入るのは明らかである(水力とかもある意味そうなんだけど、火力と比べれば…。いくら原発は廃炉後や使用済み燃料のコストが高い、と批判があっても、一度動かしてしまったら、早くとめた場合と延長した場合の差が劇的には違わないことは素人概算でもある程度言える)。新規建設ができなかったら電力会社は運転延長をしなかったなどと言い切れるかどうか。
・因果関係と責任の関係も今回の論証では結構やっかいであると考えられるが、科学的に検証してこの手の主張をしている人はほとんどいないので、そんなの抜きに自分の真実を述べたところで、まぁ少なくとも議論は平行線だわな。
さて、ここからが本題である。さて、仮に「原発反対派が新規原発建設を困難にした主因の一つであり、老朽化した福島原発の運転延長の責任を十分に問える」まで認めたとしよう(私は大いに疑問があるが、その仮定を滑稽とまでは思ってはいない)。
冒頭のロジックの一部を切り出すと
・原発の運転を延長しまくったのが被害拡大の大きな原因である。
ということになる。
しかしながら、私が一番ひっかかるのはここだ。
今回の原発の事故原因について、まだ不明な点も多々あるが、あえて以下の三つにおおむね分けられる
1)そもそもの福島第1の1~4号炉の「構造上の問題」(作った時から抱えていた問題)
2)原発運転上の問題(通常運転時にどれだけ事故に強い運転をしていたか、運転後に施された防災対策や事故後の処理のよさ、悪さ等)
3)老朽化故に事故に弱くなっていた点
で、…ええと、私が今までの情報を総合すると、どうも3)もゼロじゃあないっぽいんだけど、事故拡大要因は1)と2)の方がずーーーーっと大きいんですけど。
私からすると、今回の惨事は、「原発の運転延長をしていなくても、もしこれがじゃあ1985年に震災が起こっていたとしても」やっぱりあったんじゃね?ということ(老朽化問題さえなければ少しは被害が小さかった可能性をまったく否定するものではないけれど、当時は当時で他の条件もいろいろ違っていた)。
つまり、「これって今回の震災へ対応できたかどうか、という観点でいうと、はじめから動かしてはいけなかった原発であったという指摘もあるんだど、これは否定できるの?」「運用面の問題も捨てきれないのでそうも断言が難しいのだけど…」と。
結論に移ろう。
少なくとも、私に言わせれば
・「福島原発事故は反対派が新規建設の邪魔をしたから論」を言うのであれば
A)運転延長前の震災であれば今と比べて劇的に問題は小さかった
B)運転延長前には地震が起きないことが明らかであった(=地震を予知していた)
といううちのいずれかでも満たしていないことには、かなり無理筋の責任論ではなかろうか、ということだ。
こういう論点をあまり見かけないので書いておくが、まぁ異論反論もあろうから煮るなり焼くなり好きにしてくれ。
※公平を期すために1点だけ論点を追記しておくなら「十分な事故対策の準備が整わなかったであろう理由の一つは、原発反対派の批判があったから」というのがある。詳細の記述は避けるが(書きたい人は色々と反論に持ち出すだろう)これはある程度私も同意する。しかし、それだけがなければ事故はたいしたことがなかったとまで言えるのか?という疑問と、(311以前の)原発反対派の動きをろくにしらない人は気づいていないかもしれないが、(311以前の)原発反対派の批判等で改善された原発の安全対策というのもこれはこれでいろいろあるというのも記しておいていいだろう。
>過渡期には環境汚染の少ない天然ガス火力発電で穴埋めするのがだいたい前提になってると思う
>穴埋めする必要があるなら当たり前
元増田の質問に対し
「穴埋めする必要があるなら、(太陽発電までの穴埋めは(天然ガス)火力発電でする、のが)当たり前。」
と回答していますが、
おそらく文頭には「人間にとって(穴埋めする必要がある~)」を追加しても回答の意味は同じなのだと思います。
元増田はおそらく長い文章で 1.人間の便宜 と 2.環境汚染 はトレードオフで良いのかどうかを主張しているので
「人間にとって穴埋めする必要があるなら当たり前」の根拠こそ聞きたい事なのでしょう。
論理構成の不備を指摘するほど論理に詳しいならば、命題を汲み取って答えてみせんかい
と、思っているかもしれませんね。
盛り上がってきたなw
いよいよ追い詰められたお前の文章の調子がな。
埒のあかない「アル中のおっさん」が今になって効果的に機能してる。
アル中のおっさんが馬鹿なのはお前と俺とで意見の一致を見てるだろ。
お前が質問されてるのはそんなことじゃねーーーよ。だろ?
1つめの質問、これはお前はさっきようやくだが、ちゃんと答えた。
よく1人2役で口喧嘩を装って人の気を引くんだよ、そんなことしてでも注目されるとうれしいんだ」
そんな人間いるんだ!?っていう衝撃の回答だったが、
これはまあちゃんと答えてるよ。
んで、たった2つしかない質問のもう片方からはまだ逃げ回ってる。
俺とアル中おっさんの文章突き合わせて得られた同一人物であるという物証は。」
これさっさと答えればいいんだよ。
な。
悪魔の証明ってのは「ある事実・現象が『全くない』」 みたいな証明困難な命題のことだ。
無根拠な言いがかりを付けてその証明求められて困り果てた馬鹿が言う言葉じゃねーよ。
おめえはおめえの主張の証拠を出せばいいだけだ。
かーんたんだろ。
久しぶりにヒットした釣り堀だね、おめでとうww
さっさと質問に答えましょうね
自転車のダイナモを節電して、警察官に注意されてキレたヤンキーさんがいらっしゃったなんておはなしもあるそうですが、世の中のトレンドは節電です。
戦前風にいうと灯火管制。
毎日の決められた値よりも多くなりそうになったら翌日から計画停電。みんなの携帯やスマートフォンにゲームの結果が表示されているみたいで、時代も進んだものです。
この計画停電。東京23区を除くそうではありませんか。都民とさいたま県民とか23区民とそれ以外民とかで変な気持ちが生まれて、いざこざが起きそうですね。
でも、直視しなくてはいけない現実は、福島の原子炉の中にカメラを入れて様子が見れるのが5年後、燃料棒のような何かの塊を取り出せるのはその10年後だそうです。そのゴミをどうするのか。どこへ持っていくのか。それが無害になるには何年かかるのか。という一番つらい命題に向き合ったとき、節電的分断作戦に付き合っている場合じゃないと思うわけです。
どうしたらいいのか。答えを出してくれる人はいないのか。
どうも。こないだまで就職王って名乗ってましたが、今は無職王です。
で、前回書いたコレhttp://anond.hatelabo.jp/20110429004257に
なんかすごい真面目なトラックバックが来てたので、なんか書かなきゃなーと思いました。
二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか
http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590
で、これ読んで思ったんだけれども。
ぼくが思うに、現代日本の若者における問題ってのは最早「価値観」の問題ではないと思うのね。
いうなら、それは生存の問題だし、もっと明確に言えばいかにクサレ年寄りから椅子をムシリ獲るかってことなんだと思うんだ。
「既存の価値観に乗ることは出来ない」とテラケイさんは仰る。でも、ぼくはそれは違うと思う。
むしろ、現時点に於いても生存戦略としては「既存の価値観にドップリ漬かる」は限りなくベストに近い。
「世代」のことを考える前に、「自分」のことを考えて、グダグダ言わずに東大を出るべきなんだ。
もちろん、東京大学というのはかなり極端な例だけれども。
ミクロで考えるなら、まだ現代日本は個人の力で「なんとかなる」社会だとぼくは思う。
ぼくの「就職王」コラムは個人化戦略の極地のようなものだけど、実際あの程度でなんとかなってしまう。
でも、もちろんマクロで考えるとこれは明確に間違っている。
だって、椅子の数が限られているなら誰かは必ず負けるんだから。社会には一定水準の競争が必要である、という
命題を真であるとした上でも、社会を構成する一定層はそれなりの職を得て暮らしていけなきゃまずい。
それに、ぼくのような口先だけで逃げ切るやつが評価される企業の土壌というのも、あんまりよくない気がする。
やっぱり、社会は少しずつでも変えていかなきゃならない。ぼくらの世代が楽しく生きるために。
「社会を変える」って言いにくい世代だよね、ぼくらは。上の世代が派手にコケたから。
どうせ社会なんて変わらない、馬鹿どもの轍を踏んでたまるか。そういうところがある。
デモやる?って言われても「それ頭の悪い年寄りが大分前に失敗した」としか思えない。
カウンター・アクションは必要だけれど、それはやはり時代に即したものでなければいけない、と思う。
少なくとも「就職クソッタレ」って言って変わるものがあるなんて考えられない。そうじゃないか?
ウザイ自分語りで申し訳ないけれど。ぼくが就職したのは「箔をつけるため」だった。
今、起業をするために色々じたばたしてるんだけれど、やっぱりカネを出して貰うにはそれなりのものが必要になる。
少なくとも、「真っ当に勤めていれば生涯年収4億近かったですよ」くらいのことは言えないと、
与えられたカネの代わりに差し出すものとしては、とても足りない。実はこれでも全然足りないんだけれど、
それでも何某かのバックボーンにはなる。使えるモノは、使わなきゃ損だ。就職して数年踏ん張るだけで得られる
ステータスって、実は結構お買い得な気がする。ある意味、大学の名前以上に。
この日本社会は実にクソだと思うけれど、使えるものを使わずに戦うのはいかにも勿体無い。
「価値観を変える」なんてのは、ヒッピーになるのと同じだ。ヨガをやってもマリファナやってもロックフェスをやっても、
実はどーにもならない。それは、かつてアホな連中がもうやった。ぼくらがそれをやる必要はない。
ぼくは巷で見る就職活動批判にすごく違和感を感じていて、つまるところそれはどこまで言っても
「負け犬の遠吠え」としか認識されないんじゃないか、ってこと。
かつての頭の悪い年寄りには「世界同時革命」みたいな強烈なイデオロギーがあったから、「就活のバカヤロー」よりは
スケール感もまとまりもあったけれど、ぼくらの世代にはそれもない。あるべき社会のモデルすらない状態で、
「価値観を変えろ」って言われても、それは「解脱しろ」とか言われるのと一緒だ。シャクティーパッドとかポアとか
そういう語感にしかならない。そんなことにはほとんど何の意味もない。
つまりところ、それがミクロの問題であれマクロの問題であれ、既存社会からの断絶というのは不可能なんじゃないかと思う。
テラケイさんは価値基準を語るときに「外部」と「内部」という言葉を使っているけれど、ぼくには価値観に於いて明確な
「外部」ってのがあるとは思えない。テクストに外部はない、みたいな学問を専攻してたせいもあるんだけど
それを差し引いても、既存の価値観を排除して生きていけるなんてとても思えない。そんな強くないからね。
ロストジェネレーション世代にニーチェじみたものを押し付けても、それは「レッツ自殺!」って結果しかもたらなさないのではなかろーか。
我々が目指すべきものは、この社会から乖離したものではなく地続きにものでなければいけない、と思う。
じゃあ、どうすべきかってことなんだけど。
とりあえず、まずは団結すべきだと思うんだ。勝ってる奴も負けてる奴も。
世の中はクソで、なんとかしなきゃ楽しい人生は送れそうもない、って意識を共有することだと思う。
ぼくはかつて、ものすごく貧乏で大学の学費にもメシ代にも汲々としてた時期があったんだけど、
その時、やっぱり同じような奴らと相互扶助的に生きていて、それは例えば部屋を分け合ったりとか
僅かなカネを分け合ったりとか、電気釜を共有したりとかそういう話だったんだけど、そういうところからだと思う。
例えば、イタリアの話。イタリアは、失業率がアホほど高いけど、自殺率は低い。これは何故かっていうと、一説には
一族主義が強く根付いているからだ、と言われている。縁のある誰かが食えてなければ、誰かが食わす。そーいうところがあるらしい。
じゃあ、我々悲惨な現状にいる連中も、そーしとけばいいんでないかな、と思ってる。
とりあえず、屋根とトモダチがいれば死ぬことはない。ぼくはそー思う。
こうすることで何が得られるかといえば、リスクを取るのが非常に容易になる。
「1人が1のリスクをとる」ことと「10人がそれぞれ1のリスクを取り、リターンを分配する」ことは大分違う。
もちろん、10人全員が敗れ去るパターンもありえるけれど、かなりのヘッジが出来ることになる。
そして、何よりだけど精神的にとても楽だ。ぼくは「起業」の道を選んだけれど、他にもロースクールに行ったりとか
そういう道を選ぶことにもやはりリスクはつきまとう。金銭的なリスクもそうだけれど、孤独化してしまうことが何よりヤバイ。
官僚から政治家目指すぜ、みたいな道にしてもやはり同じだ。そういうとき、価値観を共有出来るつながりがあることは
何より強いとぼくは思う。いや、今んとこカネを得て起業に漕ぎ出したところだから、この先なんかわかんないけどね。
仲間にも全部見捨てられて、一人ひっそり首を括るって可能性も全然あるわけだし。
それで、社会批判の話に戻るんだけれど。ぼくが「就職王」でやりたかったことは
「就職活動批判」のちょっとスマートな形を提示するってことなんだ。
確かに、マクロ的に考えると我々は既存の価値観に乗っかることは出来ないかもしれない。
しかし新しいマクロな価値観とライフスタイルを創造することも、おそらく出来ないだろうってこと。
その行き詰まりの中でクリティカルなクリティークを社会にカマすとしたら、
既存の価値観に乗っかって踊り狂いながら、同時にそれ自体を批判として成立させるしかないんじゃないかと思う。。
ダンスパーティーを台無しにしたいなら、まず誰より上手く踊らなきゃいけない。そうでなければ、誰も話を聞いてくれない。
やはり、我々はこのクソみたいな社会で戦っていくしかないし、クソみたいな社会を否定したところで
クソじゃない社会の青写真を描けるわけじゃない。それは、大分昔に失敗した。
だから、このクソだめみたいな社会の集団的蛆虫として既存の価値観と地続きの世界をサバイブしていく以外に多分道はない。
そして、九人がダメでも、一人が生き残れればそいつが他を引き上げればいい。もちろん、現実的にこんなことが上手く行くか?
ってところはあるけれど、独力で社会と隔絶された「価値観」を作り出すよりは、十人で価値観を「共有」するほうがまだ成功率は高い。
「悟りを得た」人はそんなに多くないけど、「宗教にハマって死んだ」人は腐るほどいる。
その程度の価値観共有なら多分できるんでないか、そういう風にして戦っていくしかないんじゃないか、と思ってる。
人間、上手いこと価値観を刷り込まれれば飛行機でビルに突っ込めるんだから、それくらいできるんじゃね?と。
まー、なんというか。
これはぼくの戦略っぽく見せかけた誇大妄想だから、なんのあてにもならないけれど。
とりあえず、若い人間はもーちょい戦略的に生きるべきだと思うし、また同時に団結すべきだと思う。
個人の内面のナイーヴな話に閉じてしまうのは、なんかどーなんだろーな、とぼくは思うんだよね。
これから具体的にどーするか、どのようにして生き残ってリスクを取っていくかを論じるべきじゃないだろうか。
まだまだやれることあると思うんだよね、実際。
ところで、死ぬほどどーでもいいけど、「ロストジェネレーション」って若い頃第一次世界大戦に遭遇して、何か価値観がクラッシュしちゃったよーな世代の作家達を指す言葉で、「二代目」っていうとちょっとおかしいことになるよね。ロスジェネの「二代目」世代ったら、ビートの時代でケルアックとかギンズバーグとかを指すと思う。
不況なんかにぶつかった「貧乏くじ世代」を指す意味で「ロストジェネレーション」って語を使うと、今の世代は何代目になるのか、すごくめんどくさい議論が要るね。個人的に、「ロストジェネレーション」を現代の「失われた世代」に当てはめるのは色々ムリがある気が。字面はいいけど、原義から考えるとスゲービミョーな感じ。ロスジェネ論争とか言われると、今更ヘミングウェイとか論じてんの?って思っちゃうのはぼくだけじゃないと思う。
中学生向けの発言だった。とするならば、QBには中学生に意図を伝えようとしていた。という前提が必要で
その前提は、一連の、意図を正確に伝えないことでミスリードを狙う。という事象と相反する。
では、『理解は出来るが、同意できない。』『能動的に受動的な嘘を付いている』というふうに書き直します。
大切な事は、意志があるか?ないか?という事で。
QBは能動的に、受動的にではなく行動している。という事で。能動的に動くためには、与えられた目的か、感情が必要。
しかし、与えられた目的(設定した目的)には、中学生に意図を伝えようという事は含まれない。
与えられた目的外の自律的行動をしていて、それは、意志というにふさわしく。
逆に、感情がないとするならば、非合理的な行動は一切取れない。
そもそも、あの場で、ワケワカンナイヨという発言をする 合理性は一切存在していない。
なぜならば、すでに、エネルギー獲得の合理的なトラップはできているし、レールに乗っているので、人間を理解する必要性が存在しない。
そうでないとするならば、ワケワカンナイヨと発言する合理的な理由が必要になるのですが・・・
感情が重要なファクターではないなら、どうでもよかったのですが
感情が重要なファクターになるなら、この点は重要な分岐点ですね。
あと、一般的に、理解出来ないものを理解するために、統計を使う。ノイズに対する統計取って物性を理解する。というのは科学の基礎的な方法の1つなので、QBにはできたはずなのです。よって、おまえさん、感情の物性は理解しているし、であるならば、自分たちが持っている種の保存の命題と似てい非なる物という所までは研究できいるだろと。高度な知的生命体なんだから。と。科学によらない、謎の生命体なら、また話は別ですが。科学によるというのなら、理解できるはず。
だとすると、彼らにも取り出すべき感情は存在しているので、世界のためというのは、ウソで。自分たちの保存のために、他の種族を利用した。という恐ろしく単純な図式だなと。
まあ地方に限らなくてもいいけど、生産手段がある人間だけで経済をまわすより、生産手段を持たない人間も含めて経済をまわしたほうが規模が大きくなる。
ならない。日本は資源国ではなく、食料を作るのに必要なガソリン・燐・種子などを外国から買っているために、自国だけで経済がクローズできない。
したがって、外貨に対する可能な消費量というものが限られてしまうために 間接的生産を含む生産手段を持たない人間も含めて経済をまわしたばあい、経済学は大きくなるが、
外貨に対する貨幣価値が低下するために、数十年単位で見ると 相対的な規模は小さくなる。
つまり、それは、バブルなので、失われた10年を続けることになるので、辞めましょうという結論がすでに出ている。
この場合、間接的生産というのは、サービス業を含み たとえば、マッサージ業なども生産性に数える。
したがって、この場合の 生産手段を持たない というのは、 本当に何もしていないか、何かをしているが効率が悪すぎるというのを指している。
この分野に対して、自発的な効率改善をどうやって促すか?という命題に対して、自浄努力はなされないという結論に陥って、助成金打ち切りというのが今の流れ。
また、資源が一定であるという現実の前に、正確には中国インドの巨大な人工市場のせいで、資源が不足する。
ガソリンは言うに及ばず、砂糖などの物資すら不足することがもう現実のものになっている。という現状では、規模ではなく 規模と効率の並行が求められている。
ようするに、世界情勢が変化してゲームのルールと評価方法が変わっているので、皆合わせてね。という話。
当然ながら、地方の保護は命題ではあるのだが、同時に、地方強化を行わないと、農業がこれからの新たな主戦場になるという次の経済戦争では
立ちいかないので、その辺を整理するための作業が今。
コレは農業だけではなく、その他産業も全てそう。 自浄努力で進むなら良かったのだが、JALを始め自浄努力では不可能という結論になって、破綻やむなし。破綻してから、資本投入して整理する。というのが今の主要な流れ。
というか、インド中国の台頭によって、前線だけじゃ戦力が足りないから、後方の人も戦闘員になってくださーい。という話であって。
自国内にとじた話じゃないので、無理。
戦わないなら、前線である東京・大阪が破綻して 連鎖して日本中破綻するだけだろ。
地方が破綻して、東京が被害ないと思ってるのか! というのと、全く同じで 東京が破綻して 地方が被害ないとでも思ってるのか? 放置すると東京破綻するよ? おまえら放置するの?って話で 話が全く逆なんだよね。
普通 人口の集中が進めば、国全体で見た場合の 生産効率 は 上がる。 これを低下すると考えるのであれば、その理由は欲しい。
次に、現在の日本の問題点は、産業競争に負けている。という点であって 海外にものが売れなくなってきているという点であって
なぜ、海外にものが売れないか?といえば、 スキルがあったり、独創性があったりする人材を 海外に取られちゃうからだよね?
狼に率いられた羊の群れは、 羊が率いる狼の群れを 打倒する というのは 名言だけど
狼をヘッドハントされまくっている。 そのヘッドハントされる理由は 2つ 1つは年功序列の弊害、 1つは 格差是正という命題のために高給与者が冷遇されてるから。
効率が悪いといっても、じゃぁ、だれが効率よくするんだ?だれが、陣頭指揮を取るんだ?という命題で
陣頭指揮を取る奴は、海外にガンガン 取られる。 という状況を改善しないで、 効率がよくなるわけ無いじゃん。
※もちろんこれは、今の高給与=高スキルといっているわけじゃないよ。年功序列があるからね。
地方に行くと驚くけど、 IT産業みたいに、どこでもできるものが、全然 普及してないじゃん。
地方の人に聞くと、産業=工業みたいな考え方でいつまでいるんだろう?
いや、大規模農業化 でもいけど、 どうして、大規模農業科を 自分たちで進めないの?
人がいない。 うんそうだろうね。 人重要だよね。 スキルを持った人がすべてを決めるよね?だから、スキルを持った人を優遇して、海外に取られるようにしなきゃいけないよね? すると貧乏な人の優遇にも限界が出来るよね?
もっと、貧困層を優遇しろ、金持ちから金を取れ、 というのならば、金持ちを海外に取られてもいいといっているんだから、スキルを持たない人たちで産業を起こせるといってるよね?
だったら、地方でも、問題なく、 産業を 起こせているはずだ。 なぜ 起こさない?
というか、この手の話題って、そういう層のために、苦言を弄すると、貧困層を迫害してるとかいわれるのが一番困る。
複数の条件を統合して考えなきゃいけないから、限界というものがあって、歴史的経緯や、世界情勢というものもあるんだから、統合的に考えてくれないと。
高所得者って、単純に言ってるけど、 そういう人たちが、2次効果 3次効果をもたらしているんだから、そこを減らしたら、裾野に配る分なんて もっと減るだろうに。
いまの産業構造は、誰にでもできない仕事をとってる人が、ひっぱって、仕事を 誰にでもできる仕事の人に発注してる。
誰にでもできない仕事を減らしたら、 誰にでもできる仕事も減るんだよ。 その連鎖 を 考慮しながら どうするかを 複数の視点から考えていかないと。
というか、大学生にもなって「なにもできない」なんてことはないはずなんだが、俺のかつての友人二名は何もできないのだ。
やりたい事もなく、やるべき事もなく、できる事もない(なら、やるべき事があるだろというツッコミは無用)
彼らは何もしないのだ。
はっきり言ってクズなのだ。
できる事が22にもなってひとつもないという時点で社会的需要はゼロに等しく、そういう高等技術を持ち合わせないような人は性風俗なり土方なりいずれ高等技術を持つものがロボットに置き換えるであろう単純作業のつなぎなりをするしかないのだ。
彼らは22にもなってその意味を知らない。
持たぬものは、死ぬまで奪われるという意味を。
それを知らないから当事者意識もなく、内定もないし起業するアタマもない。
刹那的な消費しかアタマにないし、将来を見越した貯蓄もしてない。
この両者に共通するのはどちらも親が高給取りであるということだ。
片方に至っては、親からむしりとるまでむしりとるかのように大学に居座ると公言している。
こんな奴が同じ大学生だというだけでも腹が立つが、こいつらは社会人をバカにしている。
お前のために働いてる親も、お前の周りを間接的になり整えてやってる社会人を、みなバカにする。自分には関係ないと。
こんな舐め腐った奴が同じ空間にいるというのだ。僕は殺意を覚えた。それが三年前だ。
僕は社会人として、責任と使命感を覚え、日々の職務に邁進している。まだ若造だ。ぶら下がり社員だ。しかし、いずれ社会を牽引しなくてはいけない。
それが現役世代として、社会人として、次を担う子供らのためにしなければならない義務だ。
彼らが今どうなっているかは知らない。もう付き合いはない。良かったと思う。社会人になれば友人は選ばねばならない。だからこそ、自分も選ばれるように日々精進しなければならない。ゆるいつながりはぬるま湯だ。身を滅ぼす。
今日も業務を終え、自宅でこの文を書いている。
なぜこんなことを書いているかといえば、僕から見ても「若者は覇気がない」し「行動もしない」し「甘えている」からだ。
なぜならどの世代にもいたという彼らは、今もういない、社会の主流からは外れて、「いない」からだ。
窓際族も家族を支える苦労があるのは察するが、後の価値ある世代のために引退いただきたいものだ。
今の覇気がない若者はこの窓際族と同じだ。不良資産と言ってもいい。
私が言いたいのは「ろくに行動しないくせに私たちと同じ待遇を所望するな」ということだ。
分相応の生活をするなら、何も文句はない。
そしてそいつらの最終的な拠り所が、生活保護であり、その金額が一部の働き手より高額だということが不快なのだ。
そういうとき、心ある(つもり)の人は「あなたがたの給与を挙げるよう行動するべきだ」と言いたいだろう。
なぜなら、彼らの生活金額は言ってしまえば前時代的、バブルなものであり、現代の水準に見直すことは必須だからだ。
そして、隣国とのバランスが変わりつつある今、我らの給与を上げろというのは時代に逆行するのと同じだからだ。
人権は平等ではない。平等であるよう努める必要もない。格差はなくならないのだ。
だからこそ非正規社員は正社員より切られやすいのであり、生活保護は彼らより不遇な扱いを受けるのが道理なのだ。
「働いたら負け」というのは一部企業ではもはや現実だ。しかしそれは打破されねばならない。「働くものこそが勝ち」なのだ。
そして上に合わせるのが国際的に無理な状況、下をより低きものとするのは絶対命題なのだ。
働け、されば与えられん。
働かぬものは、奪われて死んでしまえ。
まぁさておき…誤読の余地がある記述ですみませんでした.こちらの主張としては「文化人になれ」というのは極めて付随的な要素です.
原文の「他の分野」「社会のあちこち」はかなり実務寄りの分野を想定しています.起業家,サラリーマン,教員(初等教育含む),ジャーナリスト,サイエンスコミュニケータ,などなど.ざっくり言うと金を稼げる仕事ならなお良いですよね.
国家戦略としては狭い門に殺到して死屍累々,より他で稼げるとこで稼いでもらったほうがよくありません?
ということで,
は私の主張では全くないことを明言しておきます.
ちなみに,「我々研究者は失職しない」と仰っていますが,その前に競争による選別に触れていますよね.「私は優秀だから問題ない」という自負からの発言なら非常に尊敬しますが,このまま博士を研究職のみに集めると,原則として失職する研究者はかならず出るでしょう,と思われるので一般論としてはその命題は偽だろうと思います.