はてなキーワード: 命題とは
思考実験 その2
年収で生活を図ると 都心部 農村部における地価の差・生活費の差が考慮できないので 人月を持ち出してみる。
1/4人月 で 衣食
1/4人月 で 娯楽費
仮に 時給800円 1日6時間労働 週休2日と仮定する 1人月は28日と仮定して20労働日 120時間 だから9万6千円
1/4が2万4千円 家賃が2.4万円 水道光熱費食費で 4万8千円 で 家族4人が暮らせるか? という 命題に等しく
逆に言えば、この水準まで物価が落っこちれば無理ではないということも言える。(都心部では時給が1000円を超え農村部では下がるであろうから適当にずらすとして)
俺も残念でーす、反省してまーす、反省してないことを反省してまーす
毎日死にたい死にたい言ってもちっとも行動が変化しないのは何故だろう
行動分析学的に言えば、嫌子出現や好子消失じゃないからなんだろうな
つまり、俺は「死にたい」って言うたびに良い気持ちなわけだ、自覚なしだけど
だからこそ死にたいと言う行動はなくならないばかりか強化されると
問題なのは、この行動によって自殺するという行動の生起頻度が変わるかどうかだ
死にたいと言う行動のみが強化されるんだから、他のものは関係ないはずだ
ただ、それは机上のことであるとも言える
ひとつの行動が複数の結果を生み出し、それが複数の行動を強化することがあっても良い筈だ
しかも、この場合近しい意味ネットワーク上にある事なので、あり得ても不思議はない
ならば、どういう随伴性なのだろうか
まずは、これを定義する
気持ち悪い→死にたいと言う→気持ち良い
ここで問題なのは、気持ち悪い→気持ち良いの部分だ
ここをさらに詳しく分解すれば理解される
ここで言う気持ち悪い状態とはなんだろうか
つまり、強化されているという事実を加味すればこういう事であると思われる
この随伴性によって、死にたいと言う行為は強化されると考えられる
さて、ここで問題がある
現実問題として、多少の慰安効果はあるにしても、事実は変わらないのだ
それは慰安効果以上の苦しさだ
これらの要素によって、より確実な慰安効果を求めるようになる
それは発言に留まらず、こう言った文章での公表、リストカット、他者依存と段階を経て変化していく
その変化の最終的な行き場として、実際に自殺を企画・実行するという行為が待っていると考えられる
初めは未遂であったものが本格化してゆき、生起頻度が強化され、死んでしまう
虎仮面の模倣者たちより、プロボノを行う人たちをもっと評価して欲しい。
なにやらランドセルとかを不法に投棄するのが流行っているようなのでこのチャンスに乗じてプロボノを紹介しようと思う。
そしてこの増田エントリがプロボノを知る機会になってくれたらと思って書く。きっと最も良い奉仕の行動であるから。
ボランティアというと奉仕活動で困っている人や相対的に苦しい立場の人のために無償で行動すること。ってみんな理解していると思う。
・奉仕している人の受益
1.自分が良いことをしている事を実感する。
2.人に喜んでもらう充実感
・奉仕される側の受益
1.しにくいこと、出来ないことを助けてもらう。
2.直接的に利益を得る。
この側面が合致することが条件でボランティアは成り立っている。
プロボノとは、自分の職能を使って「直接被支援者を助けること」を言います。(語弊があったら指摘下さい)
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普通ボランティアと聞くと、困っている人のために行う雑用みたいなもの。というイメージはありませんか。
・ドブさらい
・ゴミひろい
・草刈り
・清掃
・要介護者への支援
など、など。
本来「困っている人を助ける。」というボランティアの大義名分を合理的に果たす方法を考えてみてください。
最も自分が相対的に高いスキルを持つ「仕事」をこなし、得た給与を配分することにほかなりません。
価値の最大化の例
・大手商社に勤めるAさんは1時間あたり5000円の給与をもらっています。
・町の美化活動委員会は、先日の大雨で詰まった自然公園の排水溝を掃除するボランティアを募集しています。
Aさんが半日かけて慣れない手つきで掃除を手伝うことはとても素晴らしいことです。まさにボランティアです。
「1.自分が良いことをしている事を実感」し「2.人に喜んでもらう充実感」を得て、「3.体を動かしたり仕事をすることそのものの満足感」もあります。
しかし合理的に考えたらAさんは半日休日出勤して仕事をこなし、そのお金で清掃専門業者を5倍ぐらい雇うことができます。((※大手商社の給与が高く、清掃業者への報酬が安いという偏見!という批判は命題ではありませんので割愛させて下さい。))
清掃専門業者に支払う代金を1時間あたり1000円だとしましょう。
5,000円*半日(4時間)=20,000円 == 1,000円*5人*半日(4時間)
さらに、普段運動不足のAさんとそれを生業にしている清掃専門の作業者では効率も倍近く違うかもしれません。
大抵の社会人は自分が相対的に最も秀でている技術や能力を使って生活費(現金)を得ています。それが最も『効率が良い』からです。
つまり、Aさんはボランティアなんかに参加せず、休日も仕事がある!と言って金だけ出したほうが町の美化委員会にとって何倍も助かる。という事になります。
でも、なにか違うと思いませんか。
それどころか、なにか良いことをしたかったはずなのに休日出勤までして金をむしり取られた気持ちです。
あるいは、煩わしいからと金だけだして知らんぷりの「嫌味な金持ち」という感じさえします。
つまり、「純粋に奉仕される側の事」を考えたら、本来最も良い方法はお金を提供する事。なんですね。
ところが、実はもっと良い方法があります。それがプロボノです。
プロボノというのは「自らの職能をもって相手を直接支援する事」です。
・弁護士が無償で弁護すること。((※士のつく職業は実は法律的にややこしい制限もあったりします。))
・大工さんが棚や机を作ってあげる
何か違う。とお考えの人もいるでしょうか。
仕事は仕事であって、ボランティアではない。とか。私も初見ではそう感じました。
・奉仕している人の受益
1.自分が良いことをしている事を実感する。
2.人に喜んでもらう充実感
・奉仕される側の受益
1.しにくいこと、出来ないことを助けてもらう。
2.直接的に利益を得る。
職能が直接的に相手に供される。というのは仕事で稼いで現金を提供するよりももっと効率的なのです。
会社で業務として行う仕事とは違い「会社の利益」や管理工数等として搾取される手数料のようなものも発生しません。
ということは、それだけ相手にも「より喜んでもらえる」のです。
プロボノという働き方
http://www.shibuya-univ.net/class/detail.php?id=608
http://gkmyhn.blog106.fc2.com/blog-entry-28.html
プロボノは自分の仕事のスキルをフルに活かしたり、普段仕事にはあまり直接結びついてない自分の得意分野を存分に発揮して生き生きと成果を出せることにあります。
普段商社でデスクワークをこなすAさんにとって「排水溝の掃除」は得意分野ではありません。不慣れな場所に足を運び、持ち慣れないスコップで泥をさらう作業をすることは心細いものです。
まして、気心の知れた人ばかりがまわりにいるとは限りません。
でもプロボノは日ごろ仕事で培った技術や知識をフルに披露することがそのまま社会貢献につながる、という魅力があります。
そして、そこで得た経験がさらに自分の仕事の幅や経験や知識になっていきます。
仕事を続け、両立しながら空いた時間を使って自分の経験や満足感を得ることができる社会的な活動なのです。
Aさんがすべきプロボノは例えば「商社で培った人脈を生かし、公園や自然の保護活動に積極的な近隣の団体に声かけをする」だとか「企業の広報活動の一環として組織的に手伝ってくれそうな法人や団体を探す」等だと思います。
その上で自分も手があいていたらスコップを持てばよいのです。疲れていたら寝ててもいいと思います。十分貢献したのですから。
うん、だから、その「有意な」ってのが、「俺様に都合のいいようにベイズ統計を使ってやった感」がバリバリで、こっちとしてはまったく有意に見えないんだよw
一つ一つ返せば、
読んでないけど~じゃないの
読んでないのになんでブックマークするんだろう。
後で読むかもしれないからブクマしてんだろw前の増田でライフハックは使われないと断言してたが、皆が皆そうではないだろ?w
要するにA=Bってことでしょ
その"要するに"の部分が記事なんだよ。A=Bだと誰もがわかるなら記事にする意味はない。AをBだと導出する過程に価値がある。
なぜここでは「誰もが」なんてことを使うのに、それ以前の主張では全称命題的な主張をしているんだろう。だから上のような感覚がバリバリするんだけども。
いや、A=Cでしょ
100字にせよ140字にせよブログでどれだけセイロンティーな長文垂れ流そうと、俺はお前がドヤ顔として処理する様しか想起できない。
これ、結構重要だよ。
モノポリーなんかもそうだけど、 一番高い資産を持って、一番高いホテルを持てば勝てる!みたいな人がいるけど、それは正しくない。
モノポリー系のゲームで重要なのは、他人と自分を比較して、他人が有利になる行為をしない。
面白いのは、現実は コレと同じなんだけど、さらに制約があって、他人が有利になる行為をしないということは、自分が所属する集団と、さらに外部の集団を比べて、自分の集団が不利になる行為である。
という事なんだよね。
日本の場合は、単純なモノポリーの原則で『他人が有利になる行為をしない』を強烈にやるから、日本全体が不況になったり、会社が倒産したり。
これを、縦割り行政と呼ぶ。
だから、一国の大臣がモノポリーをやって、物の見事に、『他人が有利になる行為をしない』を強烈にやっているのは、あぁ、日本の未来は暗いなぁという話にもなる。
ちなみに、家族なんかで、モノポリーがうまい人がモノポリーをやる時の隠れた命題は、家族全員の1位になる数を全く同じにし、自分は全部のゲームで2番を狙う(自分が1位の回数調整を除く)。だ。
つまり、1位になったことのない人が1位になれるようにコッソリ、その人が有利になり、他の人がフリになるように調整する。
※当たり前だが、独創すれば良い1位と違って、他人のもちきん計算を正確にしないといけない2位のほうが圧倒的に難しい。
こうすることで、家族皆がモノポリーを楽しんでくれるので、また、次の機会にもモノポリーを遊んでくれる。自分ばっかりが勝っていると、つまららなーい。という万年最下位の人が出てきて、モノポリーが出来なくなる。(他のゲームになる)
一国の大臣が、こういう考え方を持たずに、自分が1番1番言うのは、ザンネンでもある。
一番大切な国民の気持ちというものを独占出来ていない、独占しようとしない。独占しようとしたのはお金や、順位であるのはザンネンだ。とまとめて見るテスト。
IT化が命題って気がついたことはすごいけど・・・
コンピュータの世界は、変化が激しいので、建てるのに4年もかかるような建物では、たったときには時代遅れなんではなかろうか?
九一年に私が社長になり、それから間もなくの九四年、一○○○万部の世界最大部数を達成した。この時巨人軍も、日本一に輝いた。
押し紙問題があったあとに、発行部数世界一って持ち出されてもなぁ。
この人は、輪転機ビジネスを進めていたから、世界最大部数になっている。という事実と、輪転機ビジネスは嫌だったという話と 矛盾していないか?
IT化を推し進めていたのか?それとも、押し紙を推し進めていたのか・・・どっちなんだ?
と文章を読んで思った。
補足 横ネタ
ホメオパシー は 科学的か? という 命題に対する2つの答え
1 科学的の意味は多様であるが、非専門家においては、科学的に証明されていない、効果がない という意味で非科学的という言葉が使われることがある。
2 ホメオパシーには諸説あるが、ブラセボ効果のような心理学的効果は存在する。
3 ホメオパシーには、薬学的効果は現段階では、有意義に証明されているとは言い難たい。(少し譲って、議論中である)
4 よって、ホメオパシーは、十分に証明されてない、否定されている学説が主流であるという事を前提として
日常会話で ホメオパシー は 非科学的と使われる分には 一定の合理性がある。
A ホメオパシーは 医学が発展途上の際に 薬を飲めば直る という誤った知識が広まっていたことを1つの背景にしている。(以後 暗黙的にホメオパシーはという前提でを省略する)
B 貴族の奥様方などが、善意から 高価な薬を他人に飲ませる 飲ませたいという要望があった
C しかし、医薬品・医薬部外品などの分類が十分に出来ていなかった時代、薬の投与を素人が行うことは危険であった。
D しかし、善意の薬の配布という事は、禁止しても科学的知識がないから行っているという層なので、実施されてしまう
E こう言った自体を防ぐために、偽薬を配布することには一定の合理性がある。
F 偽薬の配布には偽薬であるので、偽薬に効果があると虚偽の申請をする必要があるが、それは科学的である。
回答2 ホメオパシー は 科学的(薬物の乱用を防ぐための偽薬配布という目的に対して)
元来、薬物の乱用を防ぐための偽薬配布メソッドであるホメオパシーに対して、薬理的効果を追求することは合目的性という観点から非科学的であるし、必要悪の世界なので、悪い行為であるという指摘はナンセンス。
よって、ニセ科学の合目的性を考えず、異なる合目的性を主張して非科学的という行為そのものは非科学的である。
ニセ科学その物は、パニック防止、誤用防止などの心理学的な分野から施工されている事があるので、そういった、分かってやっているものに対して
貴方の仰るところの『ナンセンス』とは、つまり『別々のものは、同じである』(矛盾した命題である)ということに対する指摘ですが
私が言うところの『ナンセンス』とは、『別々のものは、別々のものである』(トートロジーである)ということに対する指摘ですね。ちなみに、私はこのような命題こそがレッテル貼りなのだと思っています
『レッテルを貼るという行為は、差異を把握するという行為である』
私自身の個人的な意見では、定義は上記の命題において果たされます
「あるものと、あるもの……つまり、分かたれている二つのものが、同じものであるとするような判断はナンセンスである」
ヴィトゲンシュタイン氏が以上のようなことを仰っていたという記憶があります
だから間違ってる主張ってのは「縦3m横5mの長方形の面積を3+3+3+3+3=15という計算で求めるのは、左辺と右辺で次元が違うから、誤り」という命題だよボケナス。今までさんざん言ってきただろクズ。
俺の面積に関する2つのレスを見てもらえばわかるようにこの誤りというのは相対的なものでなく絶対的なものだから、お前の言う「お前は自分の意見が認められないと納得できないようなクソガキの尼ちゃん」というような煽りは全く持って意味を成さない。
議論が行き詰まるもなにも、そもそも俺や他の人たちは元々かけ算・面積に関して純粋に数学的に議論していただけであって、そこに馬鹿どもが首をつっこんで「説明がわかりにくい」やら「かけ算の順序なんてどうでもいいからどうやって教えるべきかを考えるべき」だなんてまるで論点のズレた横槍を入れてきただけの話。そういうクソレスに対してまともに返してやっただけありがたいと思えゴミクズ。
そういう話の筋を履き違えてる奴らに対して「私の主張はそこではない」と言って何が悪い。
それとお前のコメントの冒頭:
「それはどうして間違っているの?「正しい」状態があるから、「間違って」いるのだよね?そういうことを話せば良いだけ。」について、これはまさしく面積についてのレスで述べているだろ。
これ以上相手してても仕方ないし、延々とナンセンスな突っ込みを入れ続けてくるんだろうからもう落ちるわ。
ここまで読解力の無い馬鹿が多いとは思わなかった。やはりまともなのはほんの一部だけだな。期待して損したもうこのサイトには当分きません。
では。
それでさ。それでさ。
「彼ら」のコミュニティとやらが分断されてるとして。
「彼ら」の所属するコミュニティっていったい何なの?結局。
相変わらず肝要な部分が綺麗に抜け落ちてるんだけど。
「生きる目的は何ですか」という問い自体には、
「生きることが目的に対する手段である」という命題が前提に含まれているよね。
日常なり自然の事象を描いたり説明するために言語なりロジックなりが生まれて構築されるわけだけど、
今度は逆に事象すべてにそのロジックを適用しようとするのは無理があったり間違っていたりする。
本来、体感する感覚や世界の事象こそが全てであり正しいはずなのに、
いつのまにかそれがロジックとすりかわって、ロジックに溺れていってしまう。
手段に「生きる」をあてはめたとき「目的」には何があてはまるのだろうか?という問い自体が
自然の事象には存在せず、ロジックの世界にだけある問いかけなのかもしれなくて、
それもそのはず、問いかけっていうのは「論理関係」でしかないのよね。
「生きる」という行為なり状態自体っていうのは自然の世界、事象の話であって、ロジック・論理関係の事象ではない。
「頭で考える」というのはすなわち「ロジックで考える」ということで、「答えを出す」も同様。
自然の事象である「生きる」に私たちの存在でもって肉薄するには、まずロジックの世界を離れる、
つまり頭で考えないということが重要なのかもしれない。
言い換えれば、思考を他者に任せる、委ねることの危険性。
こういう習慣があると大変なことになる。
心ない中傷や罵倒をされたとしてもそれぐらいは承知の上であろう。
ちょっとネットに慣れていればそれぐらいは予想できるし、ある程度耐性もできていたりする。
問題なのは、そういう、例えばこの増田
http://anond.hatelabo.jp/20100922191511
こういう問題について増田に書き連ね自分の頭で考えることを放棄していると、そういうことを習慣的にやっていると
次第に、何か解決すべき問題が浮かんできたとき 自分の頭で考えることができなくなるのだ。
面倒くさいからすぐに助けを求めてしまうようになるのではなく、それが苦手になるのではなく
大事なことだから二回言うが、本当に考えることができなくなるのだ。
"考えないという行動をとるということは、また一つ考えないという習慣化を助力すること"
なのだ。 基本的に習慣というものは、物理学でいう慣性、惰性のようなものだと思ってもらって構わない。
さて、
>問題解決(英語:problem solving)とは、問題を解決する、すなわち解を発見することであり、思考の一部分である。
>すべての知的な機能の中で最も複雑な思考であり、高次元の要求の認識と定義されている。
>それには、より筋道の立った手順及び基礎的な知識の操作、調節が必要となる (Goldstein & Levin, 1987)。
問題の本質はなにで、その問題の解決策をMECEに洗い出し、評価をし判断をし実際にどう動くかを決めるという一連の作業をしっかりできている人は
意外と少ないのである。欧米などに比べ、比較的日本人は論理的思考を重視しないので 現状において日本人はそういった問題解決能力は平均して、決して高いとは言えない。
逆を言えばそれができるだけで日本人の中では相当の強み、アドバンテージになることは私が保障する(本来、資源で勝負できない日本がこんなことでは駄目なのだが)
(最近やたらロジカルシンキングだクリティカルなんだのが重要だの喧伝されるが、その試みに比して問題解決全般における平均的な能力はさして向上していない。体質的に受け入れがたいのだろうか?)
結局、何をするにしても"問題解決能力"がものをいう。それの向上や、駆使することを
(あの増田を槍玉に挙げるが、あの文章では普段からろくに物を考えてなさそうだ)
放棄し、比較的難易度の高い生き方とされる 「働かずに生きる」という目標を実現させようとするその愚。
まずはそこを指摘するべきであろう。 あれに回答しているトラバもブクマコメも全員バカ。衆愚。 上から目線で人にものを教えるなんて勘違いも甚だしい。
これでは梅田などにその知的水準の低さを指摘されても仕方がない。バカなものはバカなのだ。
一連の情報連鎖が目も当てられないことになっていたので、気まぐれにまた一つ鎖を繋いでおいた(=リンク=連鎖)
バカの中にも見込みのあるバカが一定数いるものだ。
願わくは、そういう一定数いるバカが、それから脱却できることを。
老子「授人以魚 不如授人以漁」
【追記】
トラバやブコメに救いようのないバカが散見されたので、各自反面教師とするように。
>増田はロジックは読めても人の心は読めない子なんだなぁ。理屈で解決する問題じゃないじゃんw
まず、この増田は"働かずに生きることはできますか"と命題を投げかけている。
命題とは真偽の判定が可能、かつ真か偽である条件(必要条件)などについて論じること、かつ
パターンをMECEに洗い出すことは十分に可能なのである。人間には本来そういう力が備わっている。
まずそういう根本的なところを突き詰めないで、思考を放棄し、"できますか"と尋ねるバカな増田
下手に出たことをいいことに、現実世界で、社会的に蔑にされ、重要人物たりえないバカな俺でも上から目線に、偉そうに意見を述べられるぞ!チャンスだ!
とここぞとばかりに ノイズをまきちらすバカどもが。
不確定要素はあれど、思考し尽した痕跡が情報連鎖の中に何一つない。私はそこを衝いている。
バカは人の主張さえも理解できないのか。そんな調子でよく今まで平気で生きてこれたな。
バカは自分がバカであることすらもわからないほどバカらしいが
ここまで親切に書いてもわからないかな? 下手な言い逃れに躍起になるより素直に自らのバカさ加減と
向き合った方が、今後の人生において利口だと思えるのだけれど(まずバカはデメリットだらけ。そのままでいる理由がない)
まあ勇気のいることなので、ゆっくりでいいよ。ゆっくりしすぎたらバカのまま死ぬかもしんないけどね。
根本的なところを突き詰めないで枝葉末節をつっつくのはバカのやること。
あるいは雑談ならその程度で良い。しかし目的は雑談か? "雑談をしている"、のではなく"雑談しかできない"無能しかいないのではないか?
見るからにそれはそう。 普段から頭を使っている人間は、ある程度の問題解決能力がある人間がわずかながらも情報を連鎖させているのであれば
ああいった様相を呈すことは、まずない。
ああいったやり取りで"何か有意義なことをしたような気に"なる奴らっているんだろうなあ。
そういう奴らは働かずに満足して生きることも成功することも到底覚束ないであろう。
構造的に無理なのだ。なぜ無理なのか。それはこの世が、社会がろくに思考をしないバカどもにとって都合の悪い構造、仕組みになっているからだ。
というより、そういった都合の悪い要素を集めた存在を"バカ"と呼ぶのかもしれない。
(あと、トラバやブコメにいる俺に刃向うような、楯突いている人間は全員バカ。的外れ。ちょっと指摘すれば次の瞬間にはもう全く何も言い返せなくなるような脆弱な意見。
もう何も言わない。わかる人にはわかる。 "ああ、バカが湧いてるな" と。 これ以上失望させないでおくれよ)
はてなが普段頭しか使ってないだけで頭が良いと勘違いしているだけの、ただのバカによって形成されたコミュニティでしかないことを願いたいところ。
バカはノイズをまきちらすだけだから邪魔。ゴミクズ。ウイルス。一掃されろ。ネットで何かを発信するな。テレビみたいに受信だけして満足しとけボケが
老子「知者不言、言者不知」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
かつては、人権の根拠は自然法つまり神(宗教的権威性)に求められていた。しかし、世俗主義の民主主義国家において、特に、日本においては、人権そのものが、根拠・命題と自然法論で主張される(トートロジー)。これが日本においては個人の尊厳に求められる。日本国憲法第13条の「個人の尊厳」はこの意味に解される。この場合、人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられるという法学者が多い。一方で、法実証論においては、人権の根拠は単純に法律(ほとんどの国では憲法)にあるとされる。
公民権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%B0%91%E6%A8%A9
公民権(こうみんけん)とは、公民としての権利のこと。公民としての権利とは、公職に関する選挙権・被選挙権を通じて政治に参加する地位・資格、公務員として任用される権利(公務就任権)などの総称で、参政権、市民権とほぼ同じ意味である。
人権のよってたつ根拠を、神や法律や人権そのものに求める立場がある。
世俗的な国家にとっては、ちょっと神はないだろう、となる。人権トートロジーも心身二元論みたいで整合性がなくなる。
法律が根拠というのはかなり正しく聞こえる。ということは国ごとの、あるいは国の間のものであり、国主体ということになる(EUはあるけど、各国の国民投票が欧州憲法より優先されているはず)。
気になるのは公民権なのよね。参政権が人権全体にとってかわる? 足りないものが多すぎる。自由権とか社会権とか受益権とかどうすんの。
それとも人権概念の根拠は参政権だといいたいのだろうか。それなら分かる。公民が国家にアクセスできる仕組みが参政権なので、参政権がない=公民は国家にアクセスできない=国家が公民に一方的にアクセスすること(これが問題になるということは大抵は人権蹂躙状態になっている)を防御できない、ということだろう。
何か在日韓国人が参政権欲しがる理由が分かるような気がするな。参政権がないということは、国や地方にアクセスできないのに、国や地方のアクセスは受けねばならんということだ。そして人権は蹂躙される(というか、そもそもあるべき人権が認められていない)。それはモノスゲーイヤだろう。俺がアメリカンドリームで一山当てるためにアメリカに行ってそういう扱いだったらファックだぜ。
だったら国籍取ればいいじゃない? そう、ここで第五の条件、身分証明書が出てきた。人権には国籍・戸籍・住民票のような身分証明書が必要で、それが人権を支えているのだろうか?
というわけでアンケート。
1:神
2:人権そのもの
3:法
4:参政権
5:身分証明書
6:他の何か(内容も書いてください)
気が向きましたらお答えください。
なんか主語でかいっていうか、「皆無」とか全称命題を臆せず使ってて、こいつ頭大丈夫なのかという疑念がまず過るわけなんだが。
という主張で記事を締めておいて、「なにやら」のあてが外れたら「万人に都合のいい仮説が存在するか、が本題なんですが」とさらっと言い変えてのけるってのもすごいなとは思うけれど。
http://anond.hatelabo.jp/20100812000012
の一番頭に書いているのに、どうして気がつかないふりをするんでしょうな。「もう少し言えば」と書いているのですから、何が本題であるかは読み取れるはずで、まさか枝葉末節の「煽り」と本題を峻別できない程度のひとなんでしょうか。
さて
社会のどの程度にまで当てはまると推測されるか
の検証をせずに暗黙の前提として採用することを「論者に都合のいい仮説」と言っているんであって、
「現実」をよく見てみれば、それは選択可能な事柄ではなくて、単に受容するべきものでしょう。もしくは自ら選択するものか、選択させられるもの。
ですから「現実」に含まれるある種の前提を含んでいることは当然であり、「現実」を受容できなかった人や「現実」を拒否した人にとっては、「現実」の前提から外れていることは自明なのですよ。
なので「論者にとって都合のいい仮説」というのは、論者の論証にミスがなければ、正しくは「現実にとって都合のいい仮説」です。
じゃあ受容できなかった人や拒否したにも受容可能な「現実」を想定して、もう少し普遍的な命題を設定することが可能であるのか、となるとぼくは難しいと思います。だから万人にとってのくだりがでてくるわけですし、現実にスコープを持たせる限り、常に「論者にとって都合のいい仮説」という批判は出てきてしまうわけです。なので、あまり「論者=現実にとって都合のイイ仮説」という批判は、あんまり意味が無いんじゃないかと思うんですよ。次に論証のミスをつつくことでしょうが、うーんあまりエレガントではないでしょう。
あと、別の増田が言っていることは、「現実を拒否した人」についてのことでしょう。
もっとも、現実を作っているのは次々現実に参戦して勝利を収めて生き残った論者なので、と正誤にかかわらずルールを強化してしまうのでしょうが。