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はてなキーワード: 一部の人とは

2011-09-08

ごく一部に注意するために張り紙が増えていく

何人もが利用する公共の場所でごく一部の人が迷惑なことをする。

それを注意するために張り紙をする。

何もしていない大多数の人の目にも触れる。なんとなく嫌な気分になる。

ごく一部の人は気にせず新たな迷惑なことをする。

それを注意するために新たな張り紙をする。

何もしていない人たちはまた嫌な気分になる。

2011-08-29

http://anond.hatelabo.jp/20110829193014

全員がネトウヨみたいに発狂してるかと言えばそうじゃないだろう。

そんな一部の人達を取り上げても反論の根拠には乏しいだろう。日本だって北朝鮮オウムシンパはいるわけだし。

あの国がトップから市民レベルに至るまで「反日」を是認してるのは厳然たる事実だよ。

日本終戦記念日2chの鯖を攻撃するのが年中行事になってて、それを批判する人が殆どいないような国を「反日じゃない」と言うのはさすがに無理がある。

ルールを変える発想がない??

ボルトフライング失格に為末大国際陸連に考えてもらいたい」

http://www.rbbtoday.com/article/2011/08/29/80371.html

為末はユーザーからの「ファールはファール。だから日本人は甘い」といったコメント

日本人ルールを変える発想が無いので、ルールが間違えてるのではなくて自分が間違えてると勘違いします」

この「日本人は甘い」というコメントにも「ルールを変える発想が無い」という指摘にも、

何か違和感を感じたので、ちょっと考えてみる。

「1回のフライングで失格」という規定は厳しいなと感じた。

昔一人一回のフライングが許されてたんで駆け引き的に使う事もあったんです。決勝で4、5回フライングがあったり

なるほど、こういう理由もあるんですね。

とりあえず、ここでは「この規定は厳しすぎる」という前提で話をしよう。

日本人が陸連対しに発言力があるのですか? ボルトも一選手 ファールはファールですよ。だから日本人は甘い

この発言は一体何を意味しているのだろうか?

直感的に感じたのは、

「今まで俺は(そして多くの人は)理不尽ルールで戦わされてきた。それを強いられてきた。

そして受け入れてきた。ルールは変えられないとあきらめてきた。

ルールを変えるなんていうのは、卑怯なやつのすることだ。

ルールを変えてほしいというのは、ミスを許してくれと言うようなもので、考え方が甘い。」

という感じ。どこまで正確に捉えられているか、もしくは見当はずれなのか、よく分からないけれど。

この「一部の人一部の人に都合の良いルールを作り、結果その理不尽ルールがまかり通っている。」

という感覚は多くの人に共通のものじゃないかと思う。

そしてそれに対して、

A. あきらめてそのルールの中でがんばる

B. そのルールの中で抜け道を探す

C. ルールを作る立場になろうとする

などの対応をする人がいて、

Aの人にとってBやCは卑怯者のように見える。

これらはいずれも「その集団の中でどうしたら上に立てるか」という発想から来るもの

しかし一方で少数ではあってでも、目的が全く違う人もいる。

ルールの中で自らは頑張る一方で、正当なルールに変更できないかを考える」

人もいるだろう。そういう人の目的は集団の中での自分の立場ではない。

こういう目的の違いが両者の相互理解を拒んでいるような気がする。

「世の中はどうあるべきか」という発想で見られる人を僕は応援したい。

2011-08-26

http://anond.hatelabo.jp/20110826094007

2chは1000万人が利用してるマスだけど、

はてな一部の人しか利用してない弱小だからね。

2011-08-17

http://anond.hatelabo.jp/20110817055205

しかに、元増田の文章に「頑張らないことを奨励」なんていうことは書いていないが、確かに、貧困層の中には頑張らないことを奨励する文化がある。

俺もかなり田舎の育ちで、幸か不幸かそういう文化には染まらなかったため、田舎を抜け出して都会のそこそこ偏差値の高い大学に進むことが出来た。

しかし、中学時代、高校時代、周囲の殆どは頑張らないことを奨励し、何かに向かって頑張ること(それが学問であれば尚更)否定する文化があった。

彼らは、一部の人間(幼少の頃から頭がずば抜けて良い人間)以外が努力して頭が良くなることを非常に嫌っているようだった。

努力して一流の人間になった奴よりも、努力せずに二流の人間の方が素晴らしい」

そういう文化を持っているようだった。

彼らの思考回路は長年理解出来なかったが、最近は、自分現在認識しているヒエラルキー(大抵、自分が上位層或いは中堅層に位置している)が崩れることが怖かったのだろう、と認識している。

2011-08-12

まり知られていない「お笑い界で行われている継続的な実験

プロローグ

一部の人は知っているが、ほとんどの人が知らない、お笑い界で行われている継続的な実験について、書いてみようと思う。

お笑い界というのは、そのまんまの意味で、「お笑い芸人などが中心の芸能界の一つ」である吉本興業とかが中心のあれである

そこで行われていた、ある実験について語ってみようと思う。その実験とは、至極簡単で

である

この話は、別にタブーではない。なのにも関わらず、さほど語られない理由は、ただ一つ、実験の結果がでていないから、としかいいようがない。

それでも複数回の実験をしたことで、結果の傾向はでていると私は思っている。お笑い界の内部にいる人間が語ることはできない。しかし、私のような人間が語ることで、何かの知識の共有になればと思い、筆を取った。

スター定義

お笑いスターとは何か?」という問いに対しては、業界的な答えはない。お笑い関係者は、それぞれの個人的な意見を持っているが、どれが正しいかの答えはもちろんない。議論は交わされるが、それも酒の肴以上の価値はなく、個々人が正しいと思うことを思っているだけである

私の個人的な定義としては、「あらゆる道具を使って笑いを生み出すのがうまい」がお笑いスター定義だ。

お笑い芸人には二通りの人間がいる。一つは「お笑いの道具になる」人間で、もう一つは「他のお笑い芸人も道具として笑いを生み出せる」人間だ。

たとえば、一発屋と呼ばれるような芸人は前者だ。爆発的な笑いを生み出すことができるが、しかしそれは道具としての価値なのだ。道具は浪費され消費され摩耗される。要は自分を切り売りして笑いをとっているのだ。最終的には自分という財産がなくなって、芸人として生きていけなくなる。

後者ダウンタウンくりぃむしちゅー爆笑問題などがそうだ。他の芸人をいじったり、司会をやったりして、笑いを生み出すことができる。もちろん、自分自身を道具として笑いを生み出すこともできる。映画コントを作ることもある。要は周りの道具をうまく使えるプロデューサー的な立ち位置になれるタイプのことだ。

このタイプは一握りだ。しかしその一握りの立ち位置になることができれば、かなり芸人としての息は長くなる。それがスターと呼ばれる芸人たちなのだ。

スターは作れるか?

そこで、スターは作れるのか?という話に戻る。うまく道具を使えることができれば、スターになれるのだ。

しかし、うまく道具を使えるようになる、というのは実はコストがかなりかかってしまう。簡単に言うと、「道具を使える」という立場になるまでは、自分を切り売りしながら笑いを生み出し、自分価値をあげていき、司会などの仕事をとることで、道具を使える立場をとらないといけない。

まり、道具を使えるようになるまでのステップはかなり険しいため、事務所にとってはコストの高い投資になってしまっていたのだ。

要はビジネスモデル的に改善の予知が多かったのだ。

オリエンタルラジオの例

そして、なんとかショートカットをすることができないかという実験が行われる。オリエンタルラジオだ。

以下のサイトが非常によくまとまっているので必見だ。一部だけ引用してみる。

中田「僕の中での整理の仕方なんですけど、吉本興業の中での実験だったんじゃないかと思うんですよね。‥テクニックキャリアもなくてもそれで成立するんだったらビジネスモデルとしては正解じゃないですか。コストがかかってなくてパフォーマンス得れるんですからそれが成立したらそれをどんどんやっていくつもりだったと思うんです。」

http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/20101123#p1

オリエンタルラジオ中田は頭がいい。実験の中身を見抜いていた。

実験とは、簡単に言うと、道具として使える技術能力があれば、場さえ与えればその役割を果たせるのではないかというものだった。

実験の失敗

しか実験は失敗に終わる。

オリエンタルラジオには才能があった。いまの活躍を見てもわかると思う。頭がよく、場を回せる才能があり、話術がある。つまり技術はあった。しかし、不思議なことに、お笑いキャリアがない人間はどうにもうまくいかないのだ。

実験が失敗した理由

これはなぜだろうか。答えはもちろんない。

私の個人的な意見では、いわゆる自分の中の「エネルギー」の量の問題だと思っている。

いわゆる芸の肥しという言葉がある。そういうものが大量に蓄積されていないと道具の使い方がワンパターンになってしまう。つまりは、内部に貯めた知見のようなものが大量にないといけないのではないか、という仮説だ。芸人として、いろいろなことをやり続けてエネルギーを貯めなければ、道具を使いこなすことができないのではないか

これからお笑い

もちろん、実験はこれで終わりではない。経験がすべてだという答えで終わらせるほどお笑い業界は甘い業界ではない。お笑い業界は常に進化し続けているのだ。これからは、どのように知見を効率良く試させるかの実験が行われていくだろう。

2011-08-11

http://anond.hatelabo.jp/20110811173052

仮説モデル構築とその検証は当然行われていくもんだよ

もっとも、研究が進んでいくほど、門外漢(=そのネタを中心的に研究している一部の人間以外)にとってはかなりどうでもいい精査ばかりになっていくんだけれども

2011-08-09

価値観を受け入れようとしない人

俺には結婚を考える彼女がいる。

先日その母親と会ったんだが…しっくりこない。

その時のことを、自戒も兼ねてまとめておく。



他人の価値観を受け入れようとしない人がいる――。

若者の中には自分経験が乏しいにも関わらず、

頑なに自分意見を変えようとしない、

相手の意見を受け入れられない人がいる。

…これは、経験の乏しさゆえかもしれない。

他人を受け入れるだけの人生経験

社会経験を積むことができていないからだ。

でもこれは今後次第で、なんとかなるはず。

それより厄介なのが、40代後半以上の中年

その一部(大部分かも)は特に若者に接する時、

自らの価値観押し付けて、

相手の価値観を理解しようとしない。

この傾向は自分に自信のある人に特に強く表れる。

そして、自分がこれまで歩んできた人生

幸せと思っている人は、ことさら顕著だ。

幸せのカタチは人それぞれ。

それでもこうあることが「幸せ」と決めつけて、

それを押し付けようとする人がいる。

今の若者は多様だ。

一昔前に比べると、まるで価値観の違う

例えば海外人間と接する機会も増えた。

そして、ネットを通じた情報交流

これもたくさんの人の価値観に触れるには、

匿名性も相まって、もってこいだ。

そうして今の若者は、

他人の価値観を受容することに順応した。

そしてまた、若者自身も様々な幸せのカタチ、

千差万別の価値観を持つようになっている。

今の中年世代は通り一辺倒の

教育しか受けていないからか?

感受性の高い若いうちに、多様な価値観

触れることなく育ってしまったせいか

極端に異なる価値観への受容度が極端に低い。

…というのは、暴論かもしれないが、

中年世代の一部の人間は否めないのではないか



少し前置きが長くなったが、

俺には結婚を考える彼女がいる。

先日その母親と会ったんだが…しっくりこない。

その母親は、娘が専業主婦になって

旦那を支えることが何よりの幸せと考えている。

でも娘(彼女)には仕事をしたい、

キャリアを積み重ねたいという意思がある。

俺は…彼女母親価値観を否定はしない。

そういう考え方もあるだろうと思う。

でも、その価値観を娘や

その彼に押し付けるのはどうかと思う。

幸せのカタチは、人それぞれあっていい。

その人が思う幸せを追求する権利がある。

…という話を彼女母親にもしたのだが、

全く受け入れる余地がなかった。

論理的にどうこうという話ではない。

良くないものは良くない、そういう感じだ。

彼女も大切にしたい、

彼女家族も大切にしたいと思うのだが…

のしっくりこなさを解消するには、

一体どうしたらいいんだろう?

2011-08-04

中国嫁日記差別的かどうか問題」の辞書的なまとめ

http://togetter.com/li/166146

http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome

上の2つのエントリーなどで、有名ブログ中国嫁日記」が差別的かどうかという話題が妙な盛り上がりを見せているようで。とはいえ、この手の議論の常として、互いに感情論を飛ばしあうだけの、ぐだぐだな結末になっているようですが。

少なくとも今回の議論に限り、ここまでぐだぐだになった原因は問題提起側、すなわち「嫁などという性差別的な言葉を使うとは何事か!」と言い出した側にあります。なにしろ、嫁という言葉を再三再四あげつらっておきながら、なぜ「嫁」という文字の使用に問題があるのか一度も説明していないのですから

僕自身としては、「嫁」は あまりいい言葉ではないと思っています

たったこれだけの「自分感覚」をよりどころに、あれだけの長文を書き上げ挙句社会まで語ってしまうと言うのは、その壮大な構成力に賞賛を贈らせて頂くより他にありません。その果て、このブログ主さんは

しかしそれにしても、前述のTogetterものの役に立たなさはどうしたことでしょうか。「これが差別なんて、なにを考えているのか」という自身の感覚の披瀝や、「こういう人は他人を差別するために機先を制して自分差別と言っているだけ」という主張に熱心な人が多いのですが、 …(途中略)…  だいたい未来にむけて記録すべき思考の痕跡とも思えません。「当時」の大衆の程度を知る材料にはなりますかね。

と嘆いておられるのですが、そりゃ「嫁なんて言葉けしからん!」という「自身の感覚の披瀝」に過ぎないtwitterに対して、客観的かつ論理的な反論を要求するのは無茶というものでしょう。自分が見えていない人間とはよくよく怖いもの無しのようです

しかし折角なので、ここではその無茶への挑戦をしてみたいと思います。上のエントリー中国けしからん!嫁は差別精神が疲れる!という切なる悲鳴に対して、どこまで客観的な「反論」をなし得るのでしょうか。単純化のために、ここでは内容については一切議論せず、「中国嫁日記」というネーミングの是非だけを考えましょう。

さて、客観的と言うからには、ここで「俺は嫁って別に差別的じゃないと思うけど」と張り合ってみても意味がないのは明らかです。ここで必要なのは中立的な第三者の視点であり、そして私の手元にはこれ以上は望み得ないくらいに客観的な視点があります広辞苑と新漢語林。要するに辞書です

広辞苑によると、嫁は

(1) 息子の妻

(2) 結婚したばかりの女。新婦

(3) 結婚の相手としての女。嫁した女。妻。

(4) 「嫁が君」(ネズミ)の略



とあります。二番目の意味から、まず中国嫁日記の嫁の使用法が間違ってはいないことが分かります。まだ新婚さんみたいですから。さらに漢語林を引くと、

形声。女+家。音符の家は、いえの意味女性が生家から夫の家にゆく、とつぐの意味を表す。



とあります。恐らく、嫁という字が一部の人たちから忌み嫌われる理由の一部がここにあります。家の従属物的な意味合いを感じ取って、それが性差別であるという論法のようです。とりあえず事の是非は置いておいて、代替語についても調べておきましょう。

妻:  かんざしに手をやり、髪を整え飾る女性のさまから、つまの意味を表す。

奥:  貴人の妻の称。貴人の居室。大切にすること。など多数の意味を持つ。室も同義。

婦:  女+帚。帚はほうきの意味。ほうきを持つ女性家事に服する人の意味を表す。転じて、一家の主婦。一家の切り盛りをする女性。または子の妻。

配偶者: 木偶人形が並んでいるさまを示すのが配偶。

細君: 細は小さい、かぼそいことを示す字。愚妻などと同じ謙譲表現。ただし、最近は細にこまやかという意味もあるせいか、他人の妻をいう語に用いられることが多い。



他にも連れ合いとか家内とかありますが、もう十分でしょう。妻というのはなかなかに色っぽい文字で、言葉自体には結婚関係を表す意味合いがないのが嫁との違いです。ちなみに、夫も大人が冠を付けている様をしめすだけの文字なので、夫妻という言葉は男女という言葉と解字上はあまり差がありません。一方で生活感が溢れまくっているのが婦の字で、家政婦や助産婦など、女性が多く働く職業にこの文字が使われるのも、事の是非はさておき自然と言えるでしょう。

奥・室は、元々家の神を祀る場所を意味したこともあって実にエレガントな言葉で、自分配偶者を「奥さん」と呼称する人もいるようですしかし、元は貴人の妻を表す表現である以上、日本語表現としては非常に据わりが悪い。そもそも、定義から言えば自分が貴人と言うことになってしまます配偶者は実に中立的ですが、3文字を費やした挙句に性別も分からないというのは、法律用語としては便利でも本のタイトルとしては問題外です

こうしてみると、本のタイトルとして使い物になりそうなのは嫁か妻かの2択と言うことになりそうです。この2つの文字が決定的に違うのは、嫁には「移動する」という概念が強く存在する点です。生家から夫の家へと。だからこそ、嫁に来る、嫁に行く、という表現はあっても、妻に来る、という表現はあり得ません。責任転嫁に嫁の字を当てるのも同じ理由からでしょう。中国嫁日記というのは、中国からやってきた奥さんが異文化の日本で楽しんだり悪戦苦闘したり、旦那さんと新婚生活をエンジョイするのを描く日記です。ならば、単純に中国人配偶者であることしか意味しない中国妻よりも、「中国から来た嫁の日記」とするほうが遥かに適切でしょう。

もちろん、このように語を連ねずとも、常識的な日本語感覚を持つ人にとっては、中国嫁日記の方が据わりが良いというのは直感的に明らかなのですけれども。


さて、問題の差別性の有無についてですが、今回の騒動でひとつ明らかとなったのは、「嫁という言葉差別である」と思う人とそうでない人が両方存在すると言うことです。どちらかといえば、差別的と感じない人の方が多いようにも見えます。ここからは私個人の主観になりますが、嫁が嫁ぐ「家」の概念過去数十年で大きく変わったためであるように思います。昔は女性の嫁ぐ先は夫の実家であり、夫の親兄弟との同居を意味しました。ここでの家は正に「夫の家」であり、「妻の家」にはなりえません。ついでに、義理の親兄弟の世話まで任されることも多かったわけで、妻にとってはなかなかにストレスたまる環境であったことでしょう。この状況下で「嫁」という言葉ネガティブ意味合いが生まれるのは無理からぬ事かも知れません。

しかし、核家族化の定着すると、花嫁が嫁ぐ「家」には夫と妻の二人しかいません。この「家」を夫の家、と考えるのには無理があります - この「家」はふたりだけのものなのですから。多くの日本人にとって、この「家」に嫁として嫁ぐこと自体は、特にネガティブ意味を持たなくなって来ているように思います。もちろん、女性であるが故のディスアドバンテージがこれで消えたわけではないでしょう。しかし、それはもはや「嫁」であることのディスアドバンテージではなくなってしまったのです

こう考えると、嫁にやたらと苦痛やら疲労やらを感じてしまう人たちは、非常に古い「家」の概念の持ち主なのかも知れません。運悪く嫁がこき使われる大家族に生まれてしまったとか、時代遅れフェミニズム教科書(そんなものがあるのかは知りませんが)にかぶれてしまったとか、そもそも核家族化が進む前に生まれたお年寄りであるとか。どちらにせよ、嫁の字を見ただけで辛い思いをするというのは、同情に値する境遇であることは間違いありません。嫁でこれなのですから、女に帚の婦を見た日には心臓発作でも起こしかねない。全国津々浦々の結婚式場で「新婦入場です」のアナウンスがかかるたびに、その言葉差別性をこんこんと説き起こし説伏する。その果てにしか彼らの心の平穏はあり得ないのです。彼らフェミニスト想像を絶する試練の日々を、私は涙と共に見守りたいと思います

2011-08-01

http://anond.hatelabo.jp/20110801130117

まり店子が良い条件での出店契約を提案してきたから、喜んで受けたって事だよね。

んで、その店子の商品が(一部の人に)あまり評判よろしくないもんだからクレームが発生する。

百貨店まで出向いたのは、ユニクロに行きたかたからではない」ってね。

2011-07-31

フジテレビ韓流推しに反対しろ。あれは情報戦略だ。

 フジテレビ韓流推しがすごいことになっている。私的には、あれはとにかく否定した方が良いと感じる。「幼稚な批判カッコ悪い」「嫌なら見るな」という論では済まない。なぜならば「電波国民財産」であり、民間企業であろうと公共性を持たなければならない。

 「公共性とは何か?」。それは「共通の利益」「共有財産公共財)の維持管理」「共有する規範常識)の創出」「共通の関心事(ニュース)などの伝播」などが挙げられる。このことからフジテレビが行っているのは、明らかにサブリミナル的に韓流を押しつけるという「恣意」と「自己都合」によるものだ。我々国民全体が「共通」として韓流を全面に推したいというのであれば、話は別だ。しかし、そんな話は聞いたことがない。あればご一報お願いしたい。

 そして何が一番の問題かというと、それは今後起こりかねない「事実捏造」だ。サブリミナル的に韓流推しが成功した場合、その次はCMドラマで前面的に韓流を推すだろう。そしてCMの内容やドラマの内容は韓国が良しとする、日本とは異なった歴史や思想ということも十分に有り得る。

 内容や時代背景、文化日本そのものだが、核の部分は韓国の思想ということが有り得るのだ。ドラマアニメで流れた情報が、現実に起こった歴史勘違いする人もいる。実際はストーリーを盛り上げるための脚色であってもだ。しかし、その脚色が何度も流れると、そういう意識が植え付けられるだろう。そこまでいくには多くの時間が必要であろう。しかし、そうなるともう遅い。

 賢人がどんなに日本事実を叫んでも、その声というのは一部の人しか届かない。また、そんな声が一般に届いたとしても、韓流推しの御用賢人が一声で覆されることも大いに可能性としてある。

 私が書いたこの内容は、本当に日本国民がどうしようもないバカであったとき未来予想だ。韓流推しに勢いよく流された場合の話だ。この記事を書いたのは、愛国心のためではない。我々の苦労の末、いまの日本がある。君らの親、祖両親、その先の親族。そんな人たちの苦労の積み重ねで、いまの我々がいるのだ。そんな苦労をねじ曲げられたり、無かったことにされるのはバカげていると思わないか。積み重ねたものが全て良いものかというと、それは違うだろう。日本にも残念な歴史がある。しかし、それを顧みたから、いまの我々がいるのだ。

 韓国の偽剣道などが話題になった時期もあったが、あれは結局、我々の先人達が苦労して編み出した精神技術を踏みにじるものなのだ。他の分野でもそういうったことは許されないだろう。苦労の末に得た独自の富を「あっ、それ私達が先に見つけてたんだよね」と嘘をつかれ持って行かれるようなものだ。そうやって日本の富を削り取り、自分たちのものにしていく。

 今一度、テレビ局として、我々としての「公共性」を考えるべきではないだろうか。

2011-07-29

幸せになりたい

どうして苦しいことを認められなかったのか。

私の苦痛は私の苦痛であって他人には計れないはずでした。

だけど私は自分苦痛を見ようとしませんでした。

小学生の頃、道徳の授業で少年兵についてのビデオを観ました。

「かわいそう」でした。

人の世と隔たれた様なアフリカの小さな村での、矮小な自由から別の異質な自由を手に入れた彼等は、かわいそうでした。

彼等は学校に行けません。

彼等は人を愛せません。

彼等は私たちと同じじゃありません。

からかわいそうでした。

皆大体同じことを考えたと思います

今の社会では愛や希望と同じくらいに、他人の苦痛が氾濫しています

そして情報化のおかげで感情というよくわからないものが相対化され、値札がつくようになりました。

苦痛という感情もその一つです

彼等の苦痛と私たちの苦痛は同じ所に並べられません。

違うのです

単純に、彼等の苦痛が大きくて、私たちの苦痛が小さい。

周りの人も全然疑問は湧いてないようで、私もそう考えていました。

「苦しい」と言えば、

「お前より苦しい生活している人は一杯いる。」と言われ、

死にたい」と言えば、

「お前が死にたがっている今日は、昨日死んだ奴が生きたかった明日なんだ」と言われる。

そしてそんな言葉を口にすること自体が恥ずかしく思われる様になり、中二病なんて名前が付けられる程になりました。

私は小学生の時に太っていることを理由にいじめられていました。いじめと言っても一部のクラスメイトなどに「デブ」などと言われるくらいなのでまぁ大そうなものではありませんが。はっきりとではありませんがその頃、デブスポーツも出来ない私は全く価値の無い人間なのだと考えていたのですが、小学校高学年あたりでそのいじめはなくなりました。

理由は私の兄にありました。

私の兄は、かっこよくて、スポーツが出来て、私みたいに太っていなくて、そして、とてもユーモアのある人でした。

少し我の強い人でしたが、一緒に遊んだ時はなにかと私を笑わせてくれたのでその時の兄はとても好きでした。私はかっこよくないし、スポーツも出来ないけど、人を笑わせることなら出来るんじゃないか、と考えました。

実践してみれば簡単なことでした。

道化と化した私はクラスの人気者になりました。

その時は嬉しかったのです

変顔をするだけで笑ってくれるし、デブと言われても開き直ればそれでまた皆笑ってくれる。ああ、自分価値はここにあるんだなと思っていて、将来はお笑い芸人になろう、などと考えていました。

今思えばここが間違いだった、と感じています

道化見世物です。故に私という存在は指をさされ、馬鹿にされ、笑われるべき存在です

そしてそのピエロは観客の嘲笑に包まれた喜びを糧に生きていくのです

私は見世物として存在することに慣れました。

人の好奇心は底が無く、少しタガが外れれば面白いことならなんでもいい、と考えてしまます。要するに、面白ければ私には何をしてもいい、という結論に至るのです

私はそれを苦痛だと考えませんでした。

周りの人が笑ってくれることが喜びであり、それが快感でした。

ただ、やはり好奇心というものは一か所に止まらずに色んな方向に向くもので、自分では飽き足らず、いじめや、危ないいたずらもするようになりました。

私はそれを見ているのがとても嫌いでした。

笑うべきは私の存在であり、どんな下らない罵倒でもそれを身に受けるのは私の専売特許のはずでした。私の生きがいを横取りされたような気持になりました。

しかしその時からいらぬ疑問を抱くようになりました。

他の人はいつも私がされていることを嫌がるのです

それは単純に、私は苦痛を喜びに変えただけであって、他人にとって苦痛はただの苦痛だったのですから

私は本当にうれしいのか?

中学生になり、地元学校だったので小学校ほとんどの生徒が同じ中学校入学しました。思春期ですのでこの頃から自分の体型にコンプレックスをもつようになり、友達部活の入部を勧められて、これは良い機会だと思い、サッカー部に入りました。

相変わらず私を知っている人達は私を私として扱います

そうするとやはり、私を知らない人達も私を私として扱うのです

わたしは結論しました。

自分はいじめられていると。

部活に入ったお陰で自分でも見違える程痩せることが出来ました。しかし二年生になってすぐやめてしまいました。原因はいじめもありますが、何より私はスポーツのセンスが無いようで、後輩に馬鹿にされるのがこわくてやめて、というのが一番でした。

こう書いていると私はいつも教室の隅に追いやられているような生徒に感じると思いますが、私は交友関係が広く、人気もそこそこありました。情けないことに、私こそ周りの人達と同様に私を私として存在させていたのです

何故なら、私はその私しか知らなかったかです。それに、今の私をやめてしまえば私の価値はどうなるのだろう、何か残るのだろうか、と考えていました。

中学生にもなると、いたずらなどを楽しむより、好奇心の側面としての、暴力的な行動が盛んになります。それで中学二、三年生では私はサンドバックでした。どこかで会う度に殴られるようになり、私のクラスでは暴力をけしかけるような人はいなかったので、教室の外へ出るのが恐くなりました。

勿論初めのころは抵抗していました。しかし、毎日、毎時間と続く暴力と、自分が未だに道化でいるという立場のせいで怒りを露わにすることができないという下卑た矜持と、そして何より、彼等の私に対する態度に絶望しました。

私が少しふてくされると、彼等は「ごめん」と言ってくれました。しかしすぐにまた同じことをするのです。その度に彼等は謝り、謝罪という行為の中に含まれているであろう自省や克己を蔑ろにして、5分前の誓約を堂々と捨てるのです

一度、本気で怒ったことがありました。その日は珍しく喧嘩別れになったのですが、翌日にその人物は私に少し沈鬱な面持ちで謝罪してきました。私はその言葉を信じていました。しかしその翌日には何も変わってない、彼等と私の関係が在るだけで、自分が激怒した様子を真似された時は、名状しがたい、確かな殺意と、他人に対する恐怖と、途方もない呆れがないまぜになった感情で吐きそうになりました。その時、自分は人に怒ることはやめて、諦念が纏わりつくようになりました。

ただの暴力一部の人間には大変興が乗るようですが、大半の人は一歩引くのが普通であって、いくらなんでも、やり過ぎではないのか、何故こんなことをするのかと聞くことにしました。この頃は最早彼等の前での私が思う私はただのいじめられっ子でした。

彼等いわく「お前を見ているとむかつくから」とのことでした。

なるほど私を見ていると苛立つのですかそうですか、じゃあ私はどうすればいいのだろうか、私という存在がむかつくのですかじゃあ私が消えればいいのですね。

彼等は私を少しも憎んでいないというのは知っていました。週末になれば遊んだりもするし、私を殴る以外にもコミュニケーションをとろうとするからです。一方私は殺意を持っていましたが、彼等に対する好意も持ち合わせていました。何故なら、暴力的じゃない彼等は面白くて、自分と対話してくれるからです。そして彼等は私をいじめていると考えていないのです

限界はどうしても来てしまものです。三年生頃には、家に帰って布団の中で泣くことが多くなりました。何故自分がこんな目に、自分は悪くない、やりかえそう、殺そう、という感情が渦巻くのですが、不思議なことに翌朝になると何事もなかったかの様にすっきりとしてしまうのです。一人で絶望を反芻する度に決意し、忘れる、ということを繰り返していました。同時に、私は学生生活を楽しんでいました。私でいることを楽しんでいたのです

そして学校面白い奴でいる私と家で惨めに布団にくるまって泣いている私とで、完全に乖離しました。

しかし私は希望も持っていました。自分の様子が変だと気付いた母親に尋ねられ、私は「馬鹿で嫌なやつがいる」とだけ言いました。すると母は、高校生にもなればそんなやつはいなくなる、と言ったので、私はなるほどと思い、多少の虚脱感と戦いながら勉強に励みました。高校生になれば自分は変われる、と信じながら。

勉強のお陰で、それなりの、県内で指五本のうちに入るか入らないかというレベルの高校に入学出来ました。少し離れたところにあり、何より自分日常的に殴っていた人達はその高校に全くいなかったのでとても喜びました。

人格は変えることができませんが、キャラのようなものなら簡単に変えられると思っていました。しかし私はそこでも私を私として存在させたのです

何故そんなことをするのか、私はいつまでも子供ではなく、自分の思考、行動の原因がわかるような年齢になりました。

かわいそうな自分が好きでしょうがない。

私なりの結論でした。

そしてそれは正鵠を得ていました。

教科書を破られたり、靴を捨てられたり、落書きされたり、チョークを食べさせられたり。一日そんなことが無いと、何故か残念な気持ちになるのです。そして、私が望んだ苦痛を与えられると、不快感情と同時に、安心できるのです高校生にもなって、いじめられている悲劇的な私が好きなのです。皆から同情の目線で見られている私が好きで好きでしょうがないのですしか絶望します。私は変わることができなかった。私は悪くないのに惨めなままだ、それは他人が無知蒙昧であるからだと怨み言が頭に並びます

この頃、自殺願望がありました。しかし実際は死にたくなどありませんでした。何故なら私はまた、今の私を楽しんでいたのです

高校三年生頃になると、受験シーズンとなり皆が勉強に励むのですが、私は中学生の頃の 様に大学希望を持つことが出来ませんでした。それ以前に、普段の勉強からしてやる気になりませんでした。たまにやる気になって休み時間などに勉強していても、クラスの人が辞書を投げてきたり教科書を濡らされたりして勉強になりませんでした。

全てが嫌でした。

それなのにクラス委員などに就いている自分が嫌でした。

苦痛を期待している自分が嫌でした。

惨めに耐えているだけの自分が嫌でした。

友達と楽しく会話している自分が嫌でした。

こんな恥ずかしいことで頭がいっぱいになっている自分が嫌でした。

死にたい、とか、何故生きているのか、とかは子供が持つ感情であり、十八にもなった男子が持つべ感情じゃないのです。何より私は毎日学校に通えて、屋根のある家で寝食が出来て、家族がいるので、とても恵まれた人生を送っているのです

私より不幸な人は世界中にいっぱいいるのです。私は、私の苦痛を認めることなど許しは出来ないのです

二律背反の、板挟みの状態がずっと続きました。

学校で笑います。家に帰って泣きます。猿の様に自慰します。寝ます。さっぱりして学校に行きます。この頃は寝ることと自慰行為が喜びでした。

私はそれでも狂えない。皆の前では面白いやつで、先生の前では立派なクラス委員ですおかしいはずなんです。頭が焼き切れるはずなんです

それでも私は理性的です。生きているのです

しかし生きることを望みたくないのです。私が悲劇であるためには。

生きることも、死ぬことも、選びとらずに責任を放棄したのです

結局これが私の思春期の全てでした。

大学生になりました。

冬に勉強をそこそこにして、なんとか国立大学に入り、親の前での面子を保たせました。

大学は県外で、更に海を渡ったので、実家に帰るにも一苦労なところまで来ました。と言っても別にその大学に行きたかった訳でなく、県外であり、かつ自分学力で行ける範疇大学を選んだだけでした。やりたいことも無ければ、大学生の遊びを謳歌したいわけではなく、またしても選ぶことをやめたのでこの結果になったということでした。

大学生活の一番初めの感想は、喪失感でした。

大学生にもなり、皆、落ち着いた行動をしている。それに慣れていなかったので戸惑ったのと同時に、自分の知っている自分がいないことに気付きました。

最早かわいそうな私はいないのです

かわいそうな私を求める人はいないのです

随分と薄っぺらい絶望が全身を覆います

大学では色んな人が色んなとこからます

しかし確実に私と違うところがありました。

彼等は正常でした。

彼等には目的があり、良心があり、喜びがあり、夢があるのです

彼等は目を輝かせて自分の将来を語るのです

彼等は何の疑問を持たず勉学に励むのです

思い切り殴られた時より、制服をびりびりに裂かれた時より、この目を見るのが苦痛でした。

苦痛の得ることの出来ない私は、更に酷く、目を覆いたくなるようなことをするようになりました。

自分苦痛を認めずに、自分いじめ人間に同情をし始めました。彼等を誰も止められなかったのがいけないのだ、彼等の行いは環境のせいでありもし自分が彼等ならば同じことをしていた、と。傍観して楽しんでいた人達も同様に立場が逆なら私もそうするだろう、と。

苦痛の無いことが私には苦痛なのだ、苦痛を失えば私は私でいられないのだ、と。

現在私は大学二年生になり、成人を迎えました。

使用期限の過ぎた苦痛に、記号と化してしまった過去苦痛に相変わらず縋りついています

行きたくは無かったのですが、身体が限界の様なので、最近になって心療内科に行ってみました。どうやらパニック障害のようですしかしその症状は殆どからあるもので私には馴染み深いものでした。この機会に精神科に行こうか、とも考えたのですが、この頭を治す気にはなってないのでやめておきました。

すぐに三年生になり、就活が始まります

私は毎日働いて生きていくことに魅力を感じませんが死にたくはありません。生を望み、相も変わらず自慰をして寝る生活です

結局私はいつまでも私なのです。変わることなど出来ませんし、忘れることも出来ません。意志も薄弱で、一人の大人としての責任も持てません。

しかし案外明日には希望を持って歩き出すかもしれませんし、誰かと衝撃的な出会いをして価値観が180度変わるかもしれません。

こんな人間になってしまいました。多分私は誰かに決めて貰うのを待っているのでしょう。そしてわかったような顔をして卑下をしながら斜に構えていればいいと考えるのでしょう。

私の苦痛は私だけのものです。他の不幸や苦痛と秤にかけることなど出来ないんだ!、とでも思えばよかったかもしれません。

でも結局子供ですし、そんな考えにはなかなか辿りつきませんよね。大変です人生は。

なんか最後の方で口調が変わっている気がしますし、長ったらしく冗長とした文をたっぷりと書きましたがこれもオナニー好きな私のオナニーです。不幸自慢みたいなのって気持ちいいですよね。書いたら少しすっきりしました。何も解決してませんが。

それよりとにかく幸せになりたいです。でも私の求める幸せがよくわかりません。

こんなクソッタレはもうダメですかね?

2011-06-26

マジレス回答してきた

あなたは、今後、原子力発電所をどうすべきだと思いますか?

4.すべて廃止すべきだ

地震日本には危険すぎる代物。管理運用もずさんだったことが判明しました。人間は立派な生き物ではないですから、今後も安全な運用は無理でしょう。

加えて安全面、事後処理面でのコストが高くて費用対効果が悪すぎます。「原発がないと電気が足りない」と騙されて、一部の人の金儲けに利用されてたに過ぎません。

決定的なのが、廃棄物の処理方法が確立していないこと。後の世代に押しつけるだけという、人としてあり得ない判断は醜悪きわまりないです

http://www.nhk.or.jp/genpatsu/

2011-06-22

http://anond.hatelabo.jp/20110622100924

またこのレベルから仕切り直しか、大変だな。

でも少しづつでも他の枝の議論が取り込まれてて、段々と良い意見になっていってるね。

特にこの辺り。

スリマイルチェルノブイリ福島第一と事故発生時の共通する要因として「完熟した作業員の不足・不在」が挙げられるため、

原子力事業において作業をするものは全て一定の有資格者とすることが望ましく、そのための組織設備を作るとか。

発電設備の電源規格の統一を政府(保安院)主導で行うとか、打てる手はまだまだある。

そしてこちらのほうに事故対応以上の資金が必要になるだろう。

もっと付け加えるなら、それらを維持するにも相応の資金が必要になるし、当然の帰結として(今回の事故と関係なく)原発は不当に安く提供されていたって話になるけれどね。


ところで。

ダム問題が、ダムの脅威から土地を追われる住民の)ダム闘争に切り替わっているのは、「国民が納得」に対応するためかな。

その話で行くと、線路や道路、高層建築でさえ、常に闘争は付きまとっているけれど、原発だって闘争はあったんじゃないかな。

そこにラインを引くと「みんなおんなじ」になってしまわない?


問題は、直接的に被害を被る人が反対するかどうかじゃなく(そりゃ反対するさ、しない方がどうかしてる)、

そうしたインフラに対して、社会存在を許容しているかどうか。

電車もそうだし、飛行機もそうだけど、事故があったからって「なくしてしまえ」とはならない。

水力発電や火力発電も同様で、痛ましい事故が起こっても、「なくしてしまえ」とはならないよ、「きちんと管理しろ」となるだけ。

原発への世論が、私のような一部の人間を除き「きちんと管理しろ」ではなく「なくしてしまえ」に傾いているとしたら、インフラそのものへの不安が期待される利便性を上回ったという事。

2011-06-21

http://anond.hatelabo.jp/20110621190249

放射線量が多いところの表面削って、ドラム缶に詰めてどこかにもっていっちゃえばいいんだよ。

こんなの民主、菅関係なくやらないっしょ。

まず費用の問題はともかく廃棄場所の問題は解決できない。

費用の面も、わざわざ税金増やして全国民に嫌われてまで福島一部の人を助けようとする政党政治家はいない。

2011-06-11

まどか☆マギカリアリズム

やれSFだとかそれファンタジーだとかい魔法少女モノだとかまたゼロ年代だとかいう文脈で語られるまどか☆マギカ

だけど私は思う、まどか☆マギカは徹底的なリアリズムだ、第三話以前と最終回を除いて。

もっとも、その除かれた物も、現実の只中にある視聴者が希求してやまないものだった。

一部の人間は日常の延長としての水着回を、あるいは美化された青春に永く留まっていたかった。

現実を突きつけられた視聴者少女たちの救済を願って止まなかったし、事実それは達成された(視聴者意図とはずれようとも)

少女たちは友人の死、避けられない宿命、隠されてきた歴史、対価と代償、資源枯渇の様々な現実を見せつけられ、翻弄された。

そしてそれは「よりよい終末」という政治的な解決(そしてそれは因果律を書き換えるほどの困難)によって救われる。


さて、なぜこれがリアリズムなのか。

数年前、蟹工船がブームになったのは、まだ記憶に新しいだろうか。

内容や当時の潮流などはさておいて、平成の世にまたブームが巻き起こるのは当然理由がある。

もちろんそれは今でも色褪せぬ現実がそこに描かれていたからにほかならない。まさに共感による再燃である

蟹工船平成の時に於いて予言書の役割を勝ち得たのだ。

まり文学的、思想的な背景は無視され、そこに描かれた現実のみが人を動かしたのである

むろん、そこから解釈は薄いと言わざるを得ない。表層的な一致が、ブームにつながったのだから

しかしながら、それは今となっては関係がない。理解の程度はブームとは無縁なのはバナナダイエットが示したとおりである


さて、リバイバルヒットというのは、ときに悲しい事実さえも教えてくれる。現実は変わっていないということだ。

悪く言えば、成長していないということでもある。

いつか働かなくても生きていける社会が来ると、望んでは嘆き、を繰り返す。

そしてまた時が経って再評価されるのである

いつか、まどか☆マギカが忘れられたときに再評価されるだろうか?

それはわからない。

しかし何千年経とうと歴史は繰り返すという確信が私にはある。

変わらないだろう現実に、涙をながすしかできないのだ。

報われない彼女らと、報われない私を重ねて。

2011-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20110523160535

「一部の暴走」を「『思想と関係ない』暴走」と言い換えちゃうあたり電波受信してるよね。

おいおいてめーの発言も忘れてるのかこのアルツ君はw

君が代反対思想の中に「校長自殺に追い込む」が含まれているわけではない以上、

一部の人間の暴走しかないよね、それらは。

「思想に含まれない一部の人間の暴走」。

はいこれ書いたのダレでチュカー?

マジでおむつと涎掛けしながら増田やってんじゃねえの?w

徘徊防止の鎖足につけて。



あと

左翼教師の、

君が代に関する、

実力行使による式辞や学校関係者への妨害・嫌がらせの一切は

思想なんですか?

思想と関係ない暴走なんですか?

にキリキリ答えようね。

読めない振りして流そうとしても答えるまで貼るからねw

http://anond.hatelabo.jp/20110523122411

君が代反対思想の中に「校長自殺に追い込む」が含まれているわけではない以上、

一部の人間の暴走しかないよね、それらは。

横だけど

それらを思想と関係ない一部の暴走暴行と言い逃れするなら、

元増田が挙げたような行動の教師は全部国が取り締まってもいいんだな?

主語を拡大して語るのは「卑怯」ではないの?

実際に迷惑かけたり人死なせたりしてるのを「一部」として切り離すとはすげえ感覚だけど

切り離しちゃったらもう思想だとか信条だとかそういう言い訳一切出来なくなるってわかってるか?

もっと考えてから口開いた方が後悔しないぞ。


あとそもそも、そのへんは「暴走」どころか「主目的」じゃねえのかなあ?

そうやって”闘争”し続けること、

大人になっても日常に埋没せず戦闘糾弾や、

打倒すべき敵を設定した祭りを続けること、

毎日をハレの日にすること、

それで自己実現自己慰撫を追及し続けること、

これこそが左翼思想を標榜して暴れる人の本当の目的じゃないの。

ある種の人にはつらいもんな、大人の”つまんない日常”を平穏に続けていくのは。

http://anond.hatelabo.jp/20110523121033

君が代反対思想の中に「校長自殺に追い込む」が含まれているわけではない以上、

一部の人間の暴走しかないよね、それらは。

主語を拡大して語るのは「卑怯」ではないの?

2011-05-22

http://anond.hatelabo.jp/20101220214116

元増田

ご無沙汰しております

LoveFlower合同会社 代表社員CEO内木です。当該メールサービスの運営をしていた会社社長です

まず、当該サービスに関しては収益の見込みがなかったので、さっさとやめました

すでに多くの会社が似たようなサービスをされてる(展示会でもテーマの1つになってる)以上、なおさら他社との明確な差別化ならびにまだ未開拓の顧客層へのアプローチが必須です

ドラッカーの「マネジメント」的に、「イノベーション」と「マーケティング」、ってことですね。

そして、それをやるにはあまりにも課題が多すぎた。手を出すべきでなかった。本来弊社がすべきものではなかった、と。

このへんがちゃんと出来なかったから、売れなかった。顧客の心に響かなかった。

・・・これが総括ですね。

あと、本音を申し上げますと、正直、いきなりこんなことされて逆に困惑しております(おりました

まず、「売れてない」とは一部の人向けにしか書いてませんでした。その内容をいきなりpublicにされてしまって困りました

もしかしてあなたは、私がマイミクを切った人の一人ですか?

正直、アドバイスと称した「晒し」としか受け止められませんでした

なんというか、私のこと考えてくださってる感じがしないのですよ。私と向き合ってくれてないという印象がしました

あと、あれこれアドバイスと言ってますが、単に駄目だししてるだけで、具体的解決策を述べられておりません。

もし部下や同僚がこのような意見を出した場合、「じゃあ、これをよくするにはどうしたらいいのか?」と突き返しますね。

ちなみにアクセス傾向については、Google Analyticsを使って把握しております

これでだいたいの情報はつかめますGoogle AdWordsとの連携もできるので、それなりに使えました

なお、PVなどの状況に関しては決して悪くなかったです

また、それぞれにおいて、あなた想像がすべて事実と違うところがありましたので、一応指摘しておきます

1:もしあなたの言うとおりであれば、サイト滞在時間がものすごく短くなります。解析の結果ではそのような傾向は見受けられませんでした。一通り読んでくださったかんじです

2、3:あなたTwitterに張り付いてたりサイトに張り付いてたりしてたからこそ言えるのです。もしこれが原因で本当に顧客が誰も来なかったとしたら、みんながみんなtwitter過去ログをかたっぱしから読んでたりしてることになります

そもそも、twitter八方美人目指すとか不可能です。あっちが立てばこっちが立たない。そういう世界なのですよ、この世は。

何も言えなくなっちゃいますよ?

それに、あなたが先に実践して成功して指し示すべき。

あと、述べられてる理由を見て思ったことが1つあります

ロリコン漫画がはびこるから幼児への性犯罪が増えるんだ」という論調と似てるものがあって、気持ち悪かったです

一応釘さしておいたほうがいいと思い、書いておきました

あと、これだけじゃなんなんで。

ものを売る、お客さんと向かう、商売するという意味で、これ読んだらいろいろと考えさせられました。これ、おすすめときます

津田 晃 'どんな人にも大切な「売る力」ノート' http://amzn.to/mmQLjr

改行がうまくいってないところがありますが、不慣れという点でお許しください。

2011-05-19

http://anond.hatelabo.jp/20110519155036

そして何より、その一部の人に同意を取らないわけだけれど・・・

多分、最初の同意文に記載があるんだろうな

勝手テストするよん」って

http://anond.hatelabo.jp/20110517090237

twitterに問い合わせた人の話

http://nanomomonga.posterous.com/who-to-follow

IPアドレス使ってたのかどうかは結局知らんのだけど、

この返事はIPどうこうよりも

一部の人テストしてた」って点が色々重要なのかなと。

全員に同じサービス提供されてる、という暗黙の前提にしがちなことが

保証されないことを公式に言っているよね、とか

今後もこういう一部の人間をサンプルとしたテストが行われた時、

それがどういうものか検証するのが難しい(当たり外れがあるよね)とか

逆に一部の人間に対してすごいテストが行われたということを捏造できる可能性まで考えちゃったり、

いろいろ。

http://anond.hatelabo.jp/20110519001949

>「生まれるときハードモードを選択したから中国に生まれちゃったのかな」

なかなか面白い。ありがと。

やっぱり、文化の差なのかな。

政治家一部の人けが、行き来していた時代から

一般の人の仕事旅行での行き来が増加するにしたがって、

文化の違いや性格の違いから、摩擦みたいなものが生まれたのか。

2011-05-17

陰謀論を超えて

 ここのところ、それほど大きな声にはなっていませんが、福島第一原発事故に絡んで(または震災に絡み)陰謀論的な言辞があります地震兵器のような本家本元の陰謀論から、次々に明るみに出る新事実(?)に対して、悪いヤツラが知ってて隠してたろう!という陰謀論まで。

 こういう陰謀論的言辞は投資世界でもよくあります

 株式投資世界では、圧倒的に強い支配者が相場を好きなように左右して、庶民の金を吸い上げるという陰謀論がよく語られます。だが、そんな勢力はいません。相場はみんなの動きの総和であり、はめてんのも、はめられてんのも自分たち自身なわけであります

 同様に、原発事故政治世界でも、一部の人間の利益のために情報が制御され、安全でないものが推進されてきたというような陰謀論が語られます。たしか東電には隠蔽体質があり、それは過去の検証から明らかであります。よって東電槍玉に挙げられるわけですが、その隠蔽体質は今になって明らかになってきたわけでなくて、ここ20年なんども報道されてきました。また原発本質的危険(核廃棄物処理等、エコサイクルが成立していない。事故が起きたら地域的な封鎖もあり得る。等)があることも我々はとうの昔から知っていたわけです。つまり、隠蔽黒幕がいるとするならば、本質的危険を知りつつあえて目を瞑って放置してきた我々自身が真の黒幕と考えます。なので、原発に一部頼る現状を変えるなら、国や東電責任を追及するだけでなく、自分達の責任も追及せざるを得ないはずです自分達自身が痛みを受けて、それでも脱却したいならするべしと、個人個人が決断を引き受ける必要があります

 福島第一原発事故について次々と新たな話が今も出ています。だから現段階ではそんな決断なんかできやしないという人もいます。それも分かります。隠していた事実がやっと明るみに出始めたわけだから、悪いヤツラがそれを隠している限り判断なんかできないよと陰謀論的に捉えることもできるでしょう。

 ですが、実際のところ、最初から「誰もわからなかった」のであり、計器等の修繕により「薄々は勘づいていたことがやっと分かってきた」というのが真相でしょう。誰も本当のところをつかんじゃいないし、どうしていいかもまだ分かっていないということでしょう。

 陰謀論的に捉えるということは、ある勢力が実は知っているのに隠していたと考えることで、反面しっかりした人たちがいて最終的にはなんとかしてくれる、それを頼りたいという心理の裏返しなのではないか想像します。

 しかし、おそろしいことに、しっかりした人はだれもいなくて、とりあえずの格好を当座つけている人がいるだけだという現実がありますいま起きている現実はそういうことではないでしょうか。

 その中で、我々ができることは、福島第一原発事故収束するように願うこと。実際に第一線で動いている人たちへの支援を怠らないこと。そして陰謀論的心理から脱却して、今後の原発行政について個々人がしっかりした意見を作り、それをブログTwitter経産省地元出身の国会議員地方議員へ届けること。そして使える電気が今後減少しても、それがために雇用が減っても、痛みとして甘受していくこと。そういったことではないでしょうか。

 悪いやつらなんかいなくて、あえて言えば自分たち自身だったという認識を一度持たないと、「結局のところ偉いひとたちがなんとかしてくれる」というお上頼りに戻るだけではないでしょうか。

2011-05-10

http://anond.hatelabo.jp/20110510154536

穢翼のユースティア泣きゲーに入るのかな?Keyはやったことないから知らない。

しかしなんというかあれだね。

俺も新規性があればあるでそれはいいと思うんだけど、一部の人はそれを絶対視するよね。

東もその一部って感じ。

学問ならSomething newでそういうことしなきゃいけないだろうけど、それを日常の全てに一般化させるのは誤りだろうに。

今日ウンコは今までのウンコにない何かを提供してくれるとかいうわけでもないだろう

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