はてなキーワード: ポニョとは
聖地巡礼とは中世ヨーロッパの封建社会においてキリスト教徒のあいだで流行した、キリスト教の聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である。
転じて、現代においてはアニメや映画などの熱心なファンが、創作物やキャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。
私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組のロケで訪れたり雑誌等メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。
大塚の天祖神社やバッティングセンター、千歳船橋の喫茶店ぱおーん、五反田のデニーズ……
思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。
それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。
聖地巡礼には楽しさがある。
思えば私は日本史と世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画のロケ地を訪れることもある。
(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)
今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代にマゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊、フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。
そう、私はフランシス・ドレークの足跡を辿りたいのである。
乃木坂のメンバーが参詣した神社に自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分もバットを振るいたいのだ。
そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである。
この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。
バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティングの最中は乃木坂のことは忘れて純粋にボールをバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。
しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別な意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。
私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。
この違いは何に由来するのか。
まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼の動機に深く関わっている。
私は何も藤田ニコルや西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡に自分の足跡を重ねたいとは思わない。
フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)
では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。
恐らくは、その人物との関係性および距離感が聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ。
想像するに乃木坂のメンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地を巡礼したいという衝動はなくなるだろう。
同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ。
友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。
ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別」である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。
そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為を追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。
その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。
私は宮崎駿監督の映画が大好きで、監督がハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県の鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。
フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周にロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。
しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼランの足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。
(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)
「手の届かない「聖なる存在」である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。
ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターでバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂のメンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。
一年間彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアルに追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記:そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為に限定するべきだったかもしれない)
聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ちを自分も受けたいかというと難しい。
例えばメンバーの誰かが過去にイジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。
しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年間継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。
キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいね。はい。))
体験の総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。
心地よい感情が動きがあればよい。
郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。
いや、違うな。
上に述べたエモさは体験そのものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為を追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。
例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為そのもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋な巡礼っぽい)
先例のイジメのように行為自体は許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。
「追体験行為を包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼が追体験を包含する」よりも「巡礼に追体験が付随する(ことがある)」が正しい)
距離も重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理的距離感である。
遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。
私は電車移動含めて一時間もあれば十分である。しかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値は希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。
遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂のメンバーが訪れた場所の比較として、私の現在地から大塚のバッティングセンターとパリの街角にあるカフェとの物理的距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリのカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。
これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂のメンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理的距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェを目的に渡仏する気にはならない。
いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為そのものに乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味で巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記:日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的に行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係。目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋な巡礼価値は何によって決まるのか。))
これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行そのものに少なからず体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。
でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフで聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。
眠いし目も疲れたので「過去の自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。
おやすみなさい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda
返信
賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う
https://togetter.com/li/1443974
このまとめのツイ主は「ポニョのキャラがスピード違反をしていたからポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ
これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れな煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)
また、「そうだよね、因果応報は大事だよね」というのは実は足りない
例えば物語の現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ
それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は2で
また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない
じゃあ何なのか
答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉は意味がふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める
ア:作者が現実世界と物語世界の世界観の距離を把握しているように見える
イ:作者が物語世界の世界観と物語中の個別の出来事の距離を把握しているように見える
(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)
この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく
これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない
今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチと意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的な距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)
話がめちゃくちゃ過ぎて客観的な距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある
(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)
ただそういう傾向があると言うことしかできない
わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる
そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している
これは作者が平和な現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす
これは作者が平和なコナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす
現実世界の世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく
すると作者が想定している(作者の時代の)現実ー物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実ー物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしまう
古い物語などで「時代的に差別的な描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ
(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)
具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう
サムライ8は
主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している
妹の姉は
作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準で普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹の関係性の話にしたかったんだろうと思われるが
こちらからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本でヌードモデルの同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準で普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える
ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界に必死で迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ
この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報は大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラが幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界の世界観とそのキャラの言動の距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番で効果の高い方法だ
ただしあくまで方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない
「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい
作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが
単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関
「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは、現実世界と物語中の個別の出来事の距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるからだ
これ作品の評価とはあまり関係ないくせにわかりやすいのでこういう輩に使われやすくて困る
「どうしてもグロが見られない」「子供や動物が死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが
私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲームの説明に明記してあるから
こういう表示には2種類の効果がある
1つ目は子供に触らせないこと
2つ目は「作者はこれを過激な表現だとわかっている」というアピール
この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
っていう条文があったのか
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/brightsoda
返信
賛否両論とされる作品は実際のところ単なる失敗作であることが多いって話をしようと思う
https://togetter.com/li/1443974
このまとめのツイ主は「ポニョのキャラがスピード違反をしていたからポニョが好きじゃない」と言う人を見たそうだ
これに対し「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」みたいな超的外れな煽りをする人がわらわらいる(このまとめのコメ欄にはあまりいないが類似まとめの方にはたくさんいた気がする)
また、「そうだよね、因果応報は大事だよね」というのは実は足りない
例えば物語の現実と違う点を嫌がる人がいる じゃがいも警察と呼ばれる人などだ
それに対して「そんな細かいこと言うなよww歴史書でも読んでろ」とか言う人は絶対に許さない 理由は後ほど
また、「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というのは惜しい、大きさはたいてい関係あるが擬似相関にすぎない
じゃあ何なのか
答えはリアリティラインなどと呼ばれている…しかしこの言葉は意味がふわふわしており人によって捉え方が違う、だから私がここではっきり定める
ア:作者が現実世界と物語世界の世界観の距離を把握しているように見える
イ:作者が物語世界の世界観と物語中の個別の出来事の距離を把握しているように見える
(作者の本当の気持ちなどわかるはずがないのでそれらしく見えればいい)
この2つの項目はほとんど連動するから分けなくてもいいようなものだけど一応分けておく
これを守れば良作になるわけではなく最低条件にすぎない
今まで見た中で不快と言われる作品や大量のアンチと意味不明な信者を生む作品はすべてそれらの客観的な距離と作者の想定していると思わしき距離が食い違っていた(反例熱烈待望)
話がめちゃくちゃ過ぎて客観的な距離もわからないのは愛すべきクソなどと呼ばれ、不快とは言われない傾向がある
(愛されるクソと嫌われるクソをこんなに明快に区分けした人間初めてなんじゃないか…?)
ただそういう傾向があると言うことしかできない
わかりにくいのでまず項目を満たす例を挙げる
そして冒頭で「この世界は恐ろしい世界だ」ということをはっきり示している
これは作者が平和な現実世界と恐ろしい北斗世界の隔たりを把握していそうだということを示すので項目アを満たす
これは作者が平和なコナン世界と恐ろしい犯罪者の隔たりを把握していそうだということを示すので項目イを満たす
現実世界の世界観は時代により変わるので、それとともに物語世界との距離も移り変わっていく
すると作者が想定している(作者の時代の)現実ー物語間の距離と読者の感じる(読者の時代の)現実ー物語間の距離が食い違って項目アを満たさなくなってしまう
古い物語などで「時代的に差別的な描写があります」と注意書きがあるのはそれを防ぐためだ
(余談だけどメクラ→視覚障害者にするような修正はどちらかというと現代語訳に近いと思う)
具体例としてはサムライ8と妹の姉を挙げておこう
サムライ8は
主人公ほかメインキャラ達は義(現実世界ではクズとみなされるような精神)を持っている限り体がバラバラになっても死なない、という悪趣味さとグロさを併せ持った設定を作者が爽快王道バトルものだと思い込んでいるっぽいことが項目アに反している
妹の姉は
作者は「現在日本社会と似たような物語世界/物語世界基準で普通の姉や他の人々/物語世界基準から距離のある妹」という設定で「普通だった姉が妹に影響されて姉も物語世界基準から離れていく」という姉妹の関係性の話にしたかったんだろうと思われるが
こちらからは「現在日本社会とかなり違う物語世界(現代日本でヌードモデルの同意を得ずに描いてはいけない。妹が姉に許可を取っていないことが分かった時点であの絵は取り下げられて妹は注意されるはず)/物語世界基準で普通の妹や他の人々/嫌がってる姉」という設定に見える
ここで項目アとイに反しているせいで読者の認識が狂い「普通だった姉がひどい目に遭って変な世界に必死で迎合する」というかわいそうな話に見えてしまうのだ
この2つの項目を見れば「そうだよね、因果応報は大事だよね」と言う人がいる理由がわかる…物語世界基準で良いことをしたキャラが幸せになり悪いことをしたキャラに罰が下るのは、物語世界の世界観とそのキャラの言動の距離を作者が把握していることを示し項目イを満たすための定番で効果の高い方法だ
ただしあくまで方法の1つに過ぎず本質ではないので批評としては足りない
「そうだよね、大きな嘘はいいけど小さな嘘はよくないね」というがこれは惜しい
作者が物語を組み上げるために注意して工夫して作った嘘=現実との距離は大きいことが多いが
単なる勘違いや手抜きで生まれた、作者の把握してないような嘘は小さくてしょぼいことが多いって話 だから擬似相関
「その程度の犯罪が許せないなら赤ちゃん用の絵本でも読んでろよw」などというのが超的外れなのは、現実世界と物語中の個別の出来事の距離の長さという項目アともイとも無関係なことについて喋ってるからだ
これ作品の評価とはあまり関係ないくせにわかりやすいのでこういう輩に使われやすくて困る
「どうしてもグロが見られない」「子供や動物が死ぬのは嫌だ」と言ってそういう作品を嫌がる人はいるが、そういう人はあくまで苦手だと言ってすっと離れていくことが多くて、嫌いだと本気で怒ることは少ないんだなーこれが
私が縦笛なめなめVRについて「まぁいいかな」と言ったのは「軽度の性的コンテンツ」とゲームの説明に明記してあるから
こういう表示には2種類の効果がある
1つ目は子供に触らせないこと
2つ目は「作者はこれを過激な表現だとわかっている」というアピール
この2つ目によって項目アの条件を満たしているので別に構わないと思った
https://b.hatena.ne.jp/entry/4689518360501577570/comment/junglejungle
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
っていう条文があったのか
東方の場合作者も有名だが作者の手から離れた部分が大きいので、相対的に作者の力が弱まる。
映画化なんかは顕著だ。ブレードランナーは電気羊とは別解釈のスピンオフとして通用している。
作者と二次メディアの距離が遠ければ遠いほど作者の発言権はなくなってゆく。
攻殻機動隊で有名なのは押井守と神山健治であって、士郎正宗ではないのと一緒。
作者が有名なら深読み勢が出てくる。
無名の場合正しく読まずにフラットに読み飛ばして怪文書扱いする人も多い。
そもそも読み込みが苦手な人もいる。
彼らに合わせて全てを平らかに表現してしまうのが正解かどうかは疑問が残る。
プロの場合言うまでもなく表現は適切であるから、読めない多勢には問題があるといっても言い過ぎではない。
例えば『ポニョ』における、手塚とディズニーを乗り越えて宮崎=ポニョがいるという表現部分。
ある小説のレビューで『罪を犯したのに代償がないのが許せない』という理由で最低評価になってて驚いた→更なる驚きが待っていた
https://togetter.com/li/1443974
そう、私のことだ。
ポニョを真水に入れる時、「あれ、海から来たのに真水なんだ」と疑問に思ったけれど
「ま、ファンタジーだし人間にもなるから水でも良いよな」と自己完結した。
ルパンやその他の物語であっても「そういう世界だしありうるかも」とポジティブな解釈をする。
現実に基づいて深堀しようとも思わないし、深く疑問に思うこともない。
なので仕事上「わからないことが、わからない」ということになってしまう。
今まで深刻なことになったこともないけれど、時々困るんだよね。
「Aはどこから来たんだ?」とか「Aが来なかったらどうするんだ?」とか毎回考えられてないし。
いつも家事とかしながら鼻歌を歌っていて、ここ最近の流行りはRADWIMPSの「スパークル」と、あいみょんの「生きていたんだよな」で、延々とどちらかのメロディを口ずさみ続けたりしてるんだけど、今日は最近の気温の変化についていけずに風邪のひきはじめの症状になってしまって体調悪くなり、そんな中で口をついて出てきたのは、「崖の上のポニョ」の主題歌とglobeの「FACE」のメロディだった。
5周くらいリピートした後で、(あれ?今日はRADWIMPSとあいみょんじゃないぞ?)と気付いて、ほとんど無意識にポニョとglobeを歌ってたと分かったんだけど、どうしてなのか気になって、試しに「スパークル」と「生きていたんだよな」を鼻歌してみたら、メロディに合わせて頭の中の前の方がズキズキと痛みだして歌うのが非常にキツくて最後まで歌えなかった。
このことから、どうやら自分にとって「スパークル」と「生きていたんだよな」は体調悪い時に歌えない曲だと判明したのだが、自分の脳みそは意識しなくてもそれを自然に理解していて、風邪を引いた時には鼻歌からそれらの曲が出てこないようにシステム化されていたようだ。
ということは逆に鼻歌でポニョやglobeが出てきた時は、自分の体調が悪い時だということで、体調管理に鼻歌のセットリストが使えるというのが、本日得た知見であった。
本当は普通にやってるブログで書きたいところなのだが、微妙に実名を調べられる名前でやってるうえに、嫁の安全のため「嫁の存在は絶対に実名の分かるオンラインには書かない」と約束しているので増田に書く。その分嫁成分も含めつつ。
これまでの10年ちょっと、新海誠と嫁と自分とはつかず離れずの位置にいた。べつに3Pしてたわけではないが、デートのあとに部屋に入って「笑顔」のDVDを見たりもした。嫁にアニメ成分はなかったし俺にもそれほどアニメ好きはなかったが、ゲームをやり込むよりもアニメを一緒に見るほうがいろいろを説明するには楽だったので嫁はアニメ好きに変わっていった。いつの間にか俺が見たこともやったこともない「ひぐらし」のアニメを全話走破したりしていた。なんだかんだで飛行機が止まって1泊多めに泊まらざるを得なくなったときに狸小路のアーケードをトボトボ歩いて見に行ったのが「雲の向こう、約束の場所」だった。夜の上映で女性は嫁一人、同類扱いされたくなかったがおそらく他の観客と自分はそれほど違うようには見えなかったと思う。パンフレットを事前に読んで設定を把握しないと意味のわからないストーリーに感想は「三ツ矢雄二が監修してたんだね」「主題歌の♥って川嶋あいに似てるよね」という微妙にストーリーとは関係ない話に終始した。その後地元でも上映した「秒速5センチメートル」には嫁は誘わず一人で見て、そのあとでDVDを買って自宅で一緒に見た。「星を追う子ども」はまともには観ず、大成建設のCMを見かけるたびに「新海パイセンらしいね」と話し、いつの間にか動画配信が始まっていた「言の葉の庭」を一緒に見て、その流れだったかは忘れたが「君の名は。」を先に見に行ってから「たぶん大丈夫だ」と改めて誘って劇場で鑑賞し「パイセン頑張ったね」とお互いに喜びつつ今に至る。
長くなったが今回の「天気の子」はいずれ見に行く予定だった映画だった。アニメをよく見るようになった嫁とは言え、二言目には「犯人誰?」と聞く性だからこちらも最低限調べて「セカイ系らしいよ」とは応えた。「おおまかに言って、『彼女を救えば世界が滅びるし、世界を救うためには彼女を見殺しにする必要があるジレンマの映画』」と答えたのが正しい反応だったかはわからないが鑑賞の2時間前だ。劇場は8割の入りで、スクリーンを正対して見られる席の中央を予約してしっかりと終わりまで鑑賞した。
終わったあと、適当に入った喫茶店での感想は、「いや、『君の名は。』と同じかどうかはわからないけどそれなりに名作だとは思うけれど、微妙だよね」だった。ここのところ「入れ替わってる!?」と同じくらいにハモったと思っていい。何かが微妙だったのだ。同じ場所で「微妙」だと思ったかどうかはわからない。ただ微妙だ、と思ったことだけは一緒だったのだ。
なんだかんだで瀧くんは似た風貌だったけど嫁は「瀧くん居たね」と声で特定していた。三葉かどうかはわからないがMIYAMIZUの文字は自分にも読めた。スタッフロールだけで確認した四葉は嫁もどこにいるか特定できなかった。犬の2度めがわからないのも一緒だった。未成年に酒を飲ませないのと何があってもシートベルトは締めるのは今どきらしいなとも思った。幻の魚はいまいち意味がわからなかったうえにそのうちいなくなっていた。
「それにしても言ってた『セカイ系』とあそこまで同じストーリーだったとはね」と嫁には言った。ものの流れで序破Qみていて「翼をください」のあのシーンも見ているから構図が全く一緒なのもわかるし、予告編では:||の新画像も出ているしそれは思ったことだ。水に沈んだとは言え、二人とも「ポニョ」に思いをはせなかったのは今考えてみれば不思議かもしれない。
まあでもさ、北海道滅ぼしたこともあるパイセンだからさ、東京くらい滅ぼすよな、と自分は思った。実際に滅んだのは「ガメラ2」での仙台のほうが、もしくは糸守町のほうが大きいのかも知れないけれども。
それにしても新宿の再現具合は驚いた。大ガード越しに東口方面のネオンをなめる画面、どれも架空の名称には見えなかったから。もしかしたら意識外で架空の名前に変えられていたものがあるかもしれないけれどね。あとK&Aプランニングが新宿から(区はいっしょだけど)微妙に離れて、主な地域が田端になるの、新海誠が引っ越したのが理由だったりしたら笑うね、たぶん違うとは思うけど。
そういえば全国を巡回していた新海誠展にも別件での用事を作って嫁とは見に行ってたんだった。高校卒業してから大学入る前に1年の空白ができるの、あの頃の大学進学希望の高校生にはありがちだったけどなんとなく親近感を持ったな。まとまらない話だけど、こんなところで。