はてなキーワード: 科学者とは
最近ようやく仮説思考が新常識として浸透してきた感があるが、お前らちょっと待ってほしい。
仮説思考を結論ありきで思考することと混同してないか?
本来仮説思考とは、確からしいと推測される仮説を「複数」立てて、それぞれの仮説を検証した上で、最も妥当な仮説を決定するというプロセスのはずであって。
最初から1つの仮説しか念頭にないのでは単なる決めつけと同じ。馬鹿丸出しもいいとこである。
経営コンサルでありビジネスにおける意志決定の開拓者の一人でもある飯久保廣嗣さんは「複数思考」ということをしきりに言っている。
シンプルイズベストは真理だが、複数思考を経ないシンプル思考はただの思い込み。馬鹿丸出しということである。
君はGoogle面接で「ロジカルシンキングだけでは何が駄目なのか?」と問われたら何と答えるかね?
模範解答は「ロジカルシンキングでは仮説を立てることができません。ですから、先入観で立てた仮説に縛られてしまいます。」である。
厳密には統計分析を駆使すればロジカルシンキングで仮説を立てることは出来なくもない。
将棋棋士も感覚でまず仮説を立てる。味の良さげな筋をいくつか「第一感」で捉えて、それを「読み」と言って詳しく調べていくのだ。
複数思考には感性は欠かせない。
感性もその人の偏見だろ!思い込みと一緒じゃないか!と怒り狂う奴がいそうだが、少し違うのだよ。
思い込みは本人の願望。そうであってほしいという欲があるから、決めつけが発生してしまう。これでは複数思考じゃなく単一思考にしかならない。
感性というのは願望だけでは決まらない広がりのある世界。だから複数思考が可能になる。
ラテラルシンキングを育てるのに、「ウミガメのスープ」というゲームがあるが、俺はこのやり方には断固反対だ。
確かにいろんな可能性を考える力が育つ。だけど実践的ではない。なぜなら人間の仮説立案には、先ほども述べたように願望に強く引きずられる性質があるから。
社会心理学における帰属のことを思い出してもらえると、このことがよく分かるだろう。
ウミガメのスープはフィクションのお話なので自分に直接利害のない話ばかりであり、願望に引きずられずに仮説立案する力が育たないのだ!!
結局のところ、ウミガメのスープは頭のよい人達が現実の人生で行っている思考プロセスを誰でも再現できるように生ぬるくしたものに過ぎない。
いまめまぐるしいネット社会なので不特定多数と短文でコミュニケートするのが常識になっている。リアル社会においてもその傾向は少しずつ加速している。
そんな時代においてシンプル思考が重んじられるのは当然のなりゆきであるが、
複数思考がないがしろになってシンプル思考だったはずのものが単なる決めつけに堕してしまってゐるのもまた事実である。
シンプルな主張は、それをバックアップする論理構造や事実確認、それから事実を幅広く見渡す視野があって初めて価値がある。
結論ありきの単一思考しか出来ない馬鹿は、そうした思考過程を丸ごとすっ飛ばして主張するから始末におえない。
複数の仮説を比較するという発想がまるまる欠けている。
彼らがもし対立する仮説を提示された時には、公平に比較する代わりに、相手が間違っていると最初から決めてかかって難癖をつける。あしらう。
確かに、短文コミュニケーションが主体の現在のネット社会では、それがスマートなやり方と言える。
しかし、人生全体を考えた場合には、バカもバカ、大バカである。
ネットのノリで結論ありきで排他的に何もかも丸め込むようなやり方でしか思考できなくなったらもう重症の2chねらー。
残念ながらここ数年、リアルの人間を見ていてそういう2chねらーが急速に増えてきた。
向こう数年、人類が正常な進化を遂げるには、正しい仮説思考の普及が危急される。
賢い人はどうしてるか?賢い人は、ネットでは結論ありきの態度でいるが、それは演技であって頭の中ではちゃんと思考しているのだ。
それが可能なのは、賢く現実問題を解決できる分、色んなことを考える余裕があるからなんだよ。
バカどもはとにかく余裕がない。余裕がないから短絡思考が当たり前になる。
この本を読んで一番感銘を受けたのは、この部分です。 以下、引用。
本書の締めくくりとして、書いておかなければならないことがあります。
ヒッグス粒子発見によって、私たちの生活にどんなメリットがあるのか? どんなことができるようになるのか?
多くの方が、ニュースを見ながらそんな疑問を抱いたかと思います。
(中略)
今切り拓いたヒッグス粒子の「発見」が、実際に何か役に立つ形となるのは100年以上後になるかもしれません。
そのとき、どういうふうに実用化されているのかというのは、今の段階ではまったくわかりません。
今は役に立たなくても、必ず役に立つときが来る、その礎を常に作り続けていくのが科学者の研究なのです。
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20130320/p1 を読んで。
相対的に考えると、これって夫婦間の信念の違いが生んだ悲劇だよなあ、と思う。
たとえば。
あるいは。
学会でも支持・不支持のわかれるとある学説があって、夫は支持、妻は不支持。
その学説に基いて効果のあるとされる製品を夫が買い、妻が捨てる。
まあそんなのはどうでもいいんですけど。
夫が集めたフィギュアを、妻が勝手に捨てたら、妻にたくさんの非難があった。
その人たちが非難した理由を考えてみますと、多くの人は「勝手に捨てた」というだけで非難しているわけではないと思うのですよね。
たとえば極端な話、フィギュアに時限爆弾がしかけられているという情報を得て慌てて捨てた。その場合はそこまで多くの非難はされないでしょう。
その妻を非難した人たちの多くは、勝手に捨てた上に、その理由(掃除してくれない、お金の無駄、etc...)に納得がいかなかったから非難したのだと思うのです。
一方で、妻がマルチで買ったマイナスイオン発生器を夫が捨てた事例について考えます。
夫がマイナスイオン発生器を勝手に捨てた理由は「マルチから抜けだして欲しかったから」といったところでしょうか。
「フィギュアを勝手に捨てた妻」を非難した人たちがあまりこれを非難しないのは、おそらくその理由に納得できたからでしょう。
「お金の無駄だからとフィギュアを捨てる」ことを非難し、「マルチから抜けださせるためにマイナスイオン発生器を捨てる」ことに賛同するのは、それほど不整合なことではないと思います。
ちなみに、「フィギュアを勝手に捨てた妻」と「マイナスイオン発生器を勝手に捨てた夫」の両方を非難する人もある程度はいるかと思います。
たとえば「フィギュア集めにはまっていて」かつ「マルチにハマってマイナスイオン発生器を買ったりもしている」ような人です。
また、たとえば「フィギュア集めを嫌っていて」かつ「マルチも嫌っている」人の中には、どちらも事例でも擁護する人もいるでしょう。
ええとね、ええとね。
こういう話は超好きなのでレスがあったことは嬉しいです。
畢竟、回答にはちんちんを書いとけば正解として、生命の部品交換が可能な場合と、ドラえもんの修理が不可能な場合の話。
SF脳として、の話は基本的に終わらないです。頭の中の狂科学者がいろいろやっちゃうから。
例えば、修理が不可能な場合。
皆さんの身近な問題として、セガサターンが壊れたら、と言うのがありますね。
僕の頭の中の岸和田教授は、きっとパーツくらい自作してしまう。その上で助手に搭載するくらいのことはやるので。
現実的では無くとも、可能である。それを不可逆とは言えないのです。
生まれたが死なない状態。これを生命と呼ぶか。
僕は呼ばないと思います。火の鳥に登場する火の鳥そのものは、宇宙意志の発現だったりします。これは生命でしょうか。
ルパン三世に出てくるマモーは、度重なる自己クローン化の結果、緩やかな劣化という存在としての死を突きつけられています。
すべてを台無しにするようですが、最新電子頭脳を搭載した電子レンジでさえ、訪れるのは死ではなく故障です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1046446270
>原子力って結局、お湯沸かすだけなんですか?
>詳しくないんですが、聞いたら原子力発電とかはプルトニウムを核分裂させた熱でお湯を沸かしてるだけだと聞きました。
>これが将来、地球上でエネルギーとして使うなら、核融合炉や反物質炉が出来ても、薪の代わりにお湯を沸かすだけなんでしょうか?
>追加で、鉄腕アトムなんかも体の中でお湯を沸かす設計なんでしょうか?
つくづく思うが、科学議論の場って、極めて専門化・深化して、ともすれば「専門バカ」が進行しがち。
学会とか論文の査読なんかも専門性の極北だし、科学者がわかりやすく市民に伝える、という
「市民科学講座」とか「サイエンスカフェ」なども、市民側は「多少は科学リテラシーが高い市民」が集いがち。
偏差値で例えれば、偏差値80の専門家が、偏差値55の市民に語る、という構図。
そういう場を設けることで、偏差値55の市民が偏差値60に引き上げられる効果は認めるが、
また、偏差値80の専門家も、偏差値55の「扱いやすい市民」を相手にするのだから、
専門バカは解消しない。
偏差値55の、市民講座に参加するような市民は、言ってみればお利口な市民だから、
専門家がびっくりするような斬新な視点は、なかなか出てこない。
一方、知恵袋って、玉石混交とか、質問数が多すぎて回答付かないケースが散発しているとか、
数々の問題点を孕んだフォーマットではあるが、唯一最大に評価できる点は
「リテラシー50未満のド素人が、臆せずに気軽にセミプロに質問できるフォーマット」である点。
「原子力って、お湯沸かすだけなんですか?なんだかがっかり・・」という視点は、
市民講座に集うような原子力偏差値55~60のお利口な市民からは、決して出てこない。
恐らくこの知恵袋の質問者の原子力リテラシー偏差値は50未満だと思うが、
だからこそ、このような斬新な視座で質問がなされたんだと思う。
そして、原子力リテラシー偏差値80の専門家も、この質問は「目からウロコ」だったに相違ない。
こういう偏差値50未満の一般市民とサシでやり取りするようになれば、専門バカも徐々に矯正されていくんじゃないか?と思う。
また、
「原子力リテラシー偏差値50未満の人って、こんな風に原子力見てたんだ」
個々のブログやツイッターでも一部可視化されているのかもしれないが、より鮮明に可視化できているのは、
やはり知恵袋だろう。
「偏差値50未満の人が質問し、偏差値60以上の人が回答する」というフォーマットなので、
上位リテラシーの市民と中下位リテラシーの市民がくっきり対比できる。
9 名前:呉はじめ ◆KUREKO1w06 [] 投稿日:2013/02/20(水) 23:26:22.93 ID:7VJ+xtaD0
アメリカの科学者が細胞を顕微鏡で覗いて見たらmade in godって書いてあったらしい。
11 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 23:28:25.27 ID:nk7Zx3nq0
>>9
これで心置きなく浪人できる
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http://anago.2ch.net/test/read.cgi/gline/1360749532/
よりコピペ
実家でテレビを見ていたらとても腹立たしい番組構成のテレビ番組があったから愚痴る。
内容は以下の通り
1.驚き役の芸人および芸能人数人に何かの液体が入った袋を渡す。
2.芸人達が袋を揉むと、一部の人の袋の液体が瞬時に結晶化する。
3.解説役の科学者が「それは酢酸ナトリウムを過冷却した液体だ。暖かくなっただろう?再利用可能なカイロとして使用できるんだ。」と説明する。
4.驚き役の一部が「先生!変わらなかった人も居るんですけど!」と言う。
5.解説役「それは袋が悪かったねえ。ごめんよ」
6.おわり
なんだこれ
結晶化した袋としなかった袋になんの違いがあったのか。まったく説明がないまま番組のそのコーナーは終わった。
そりゃあ「酢酸ナトリウムの過冷却を利用して再利用可能なカイロが作れる、それは面白いよ」ということを紹介するコーナーであるこた解る。
それさえ紹介すれば番組でやらなければならないことはおわり、ということだってそりゃわかる
でもあまりに乱暴じゃないか。疑問を口にした芸人も、同じく疑問に思った視聴者も完全に置いてけぼりだ。
ということで「袋の何が悪くて再結晶化しなかったのか」さっきから調べようとググっているんだけどピンとくる答えが見当たらず、とてもイラついたのでストレス発散しに愚痴を書きにきました。
相関と因果は一致しない 女性平均寿命 NHKの放送受信契約数
多数論証
科学者による多数決ベースの気候変動レポート 気候変動覚え書き/ウェブリブログ
犯罪者の98%はパンを食べている。
パンを日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
暴力的犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている。
パンは中毒症状を引き起こす。被験者に最初はパンと水を与え、後に水だけを与える実験をすると、2日もしないうちにパンを異常にほしがる。
六〇〇〇年前には、現在より二~三メートル高い位置まで海が広がり、複雑な海岸線をもつ入江には多種多様の貝が生息し、台地上には多くの貝塚がつくられた。
日本人はとりわけこの傾向が強いのだが成功術や幸福術に対して猜疑的と言えるほどに否定・反発する風潮が広くみられる。
また、より一般的な話になるが現代人に広く見られる傾向として、絶対的価値観に対する無条件の反発のようなものも広くみられる。
ひるがえって、近代科学が知識人たちにもたらした仮説思考とは、集めた情報、持ちうる情報から検証を重ねて一定以上の確率で正しいと推論される主張を「さしあたり」支持するというものである。
だから、何もその主張を絶対的に支持するわけではないが、「さしあたっては」絶対的に支持しているような「素振り」をとっている、と言えないこともない。
そういったものに対しても、「自分の考えを正しいと信じて疑わない」「自分以外はみんな間違ってると思ってるよアイツ」みたいな言い方を平気で出来てしまうのである彼らは。
いわば、絶対性アレルギーとでも言うか、「絶対なんて絶対ない」から感じる滑稽さに近しいものを感じざるを得ない。
むろん、彼らも絶対的に絶対性を否定しているわけではなく、あくまで「素振り」であると断じてしまうことは簡単である。
しかしながら、素振りであるにしても、幸福術に対するアレルギー反応を観察していると、これは人生簡単にいく方法なんてないから簡単な方法を否定しているといった人生の構造そのものの難しさにだけ帰着できる問題というより、
もはやこれはアレルギー反応を起こす人々に特有な精神性に問題があるのだなあと私は考えるのである。
バイト先の近くのローソンに過剰なサービスを提供するありがた迷惑な店員がいるのだが、最初それは店側の意向なのかと思っていた。
通常おかしな店員がいれば他の店員が注意したり客が苦情を申し立てたりするはずで、とっくに修正されているはずであるから、店側の方針と考えるのは自然なことである。
だが、その店に通い詰めるにつれて、明らかにその店員だけ特殊であることに気づき、これは誰も注意しないだけなんだと判明した。
すると不思議なのが何故注意しないのかである。その店員がおかしいと思っているのは俺だけなのか?いやそんなはずはない。では何故注意しない?
結局導き出された結論は、誰もがそんな些細なことはスルーしているのだ。彼は法をおかしているわけでもなく、あからさまに害を及ぼしているわけでもない。ただちょっとウザイだけである。
仕方ないのだ、そういうキャラなんだから。たまには迷惑そうにする客もいるだろう。実際、おかしな顔で彼をにらんでる女性客を見かけたことはある。「なんだこの馴れ馴れしいヤロウは」みたいなw
だが、否定派の俺が見ても彼はイケメンだから注意する女性も少ないのかもしれない。結局、ハルヒじゃないが最初は「なんだこいつ」と思う人が多いだろうが
「まいっか」の精神で最大公約数的な答えに落ち着いているのだろう。思えば世の中にはGCMを計算してくれる既成のプロパガンダやプロパガンダ機能を有するサービス・機関があふれかえっている。
「こまけーこたぁいいんだよ」とばかりに様々な無数の懸念事項を隅田川に勝手に不法投棄し、東京の街は成り立っている。
表向きは綺麗に見せかけているが水中では足をばたつかせている白鳥のように、クローゼット突っ込み整理術のように、強引に人々の心のゴミを片付け、夢を見させる。
言うなれば、その延長に絶対性への拒絶反応や幸せに生きる方法に対する無条件な否定や猜疑的反発や神経症的激怒があるのだろう。
心のどこかでは幸せに生きたいと願いつつも、その思いは叶わないから「ゴミ」であって削除されなければならないのだ。彼らの中では。
そこで手っ取り早くゴミを片付けて(結局それは先送りしてるだけで片付けには成功してないのだが)夢を見させてくれる既成プロパガンダにしがみつく。
そしてテキトーに組み合わせて自分のためのつぎはぎだらけの不格好な体系をこしらえる。それが彼らの声帯なのだ。
なぜこれが深刻な問題にならないかというと人々はそれなりに幸せだと思い込むことが出来ているからである。いろいろ不平不満を表面では言いつつも、実は大して彼らは困っていない。
しかし、こうも考えられないだろうか?中には本当に困っている人もいると。あるいはまた、困ってはないがもっと幸せになりたいと願っている人もいると。
だから日本に生きる人たちは気をつけないといけない。自分がその該当者だとしたら現実から目を背けてインスタントなツギハギプロパガンダの夢を見るのは得策ではない。
そういった人たちが既成の幸福術を実践したところで、ツギハギプロパガンダの悪影響を強く受けてしまうから失敗に終わることが多いのだ。
そして明日には二の轍を踏むかもしれない人間が平気でそういった人たちをつかまえて、だから無理って言っただろと非難する。そういう構造になっているわけである。
科学を篤く信奉する我々は、彼らの永遠なるごっこ遊びを真似してはいけない。毅然とした大人の態度で、GCM計算から一歩置く必要がある。
絶対なんて絶対ないと言いながらGCMのトリコになってる彼らとは違う。科学者の言う相対主義とは、仮説思考であり、方程式の適用限界の確認である。
ほにゃらかほにゃらかだと念仏のようにとなえるだけではだめで、直接話法を使いなさい。「「おっぽれだからほにゃらかだ」と思う」と言わないとダメ。カッコつけずに括弧をつけろと高校数学で習っただろ?
アメリカナイズされて帰国するドアホウが心底嫌いな俺だが、1つだけとアメリカに学ぶべきことがあるとすれば、それはクレイジーさだと常々おもっているんだ。
どういうことかというと、日本はなんでも規範的に考えすぎるんだな。その規範にしたがって「一貫性」ある行動がもとめられる。
だからさ、日本人は「違反」とか「矛盾」が大嫌いなわけ。世界各国からルールを守る美しい国と評される日本だが、評価の高さ自体はそれはそれで良いとしても、
やっぱりこれって日本にとってプラスばかりじゃなくてマイナスもデカいんじゃないの、どうなのそこんとこーとツッコミたくもなるわさ。
我々はてな市民の多くは科学者や科学的に啓蒙された人間であるからして、懐疑主義者なのだよね。だから日本の常識にも遠慮なくメスを入れていく、それがはてなスタイル。
横着さって大事じゃない?分かる?でも日本人は「クレイジー」の思想がないから厳密さと横着さが相容れないとおもってる。そこに現代日本教育が社会にもたらした大きなひずみ
が見て取れるのだよね。以前整体師が不妊治療と称して性欲の出るつぼを押した猥褻珍事件があったが、アメリカは民族のるつぼなんだよな。他民族国家。
だからいろんな価値観が同じ壺にぎょうさんひしめていると考えたらよろしい。そんな中にいる人間が全員日本人だったらどうなる?たちまち大げんかになりますわ。
東京もあちこちの地方の人がひしめいてる点では類似するがいうて彼らほぼ同じ価値観だから。一色なの。
政治でも共産党が確かな野党を自称してるが、勢力としてはちと弱い。日本じゃ政治も何もかも全てが大多数VS諸少数派という構図になっちゃうわけよ。そこが気まずい。
右へならえ式の同調志向は確かに日本が誇る美徳ではあるがちと国際競争に太刀打ちしようとなると柔軟性がなさ過ぎるのではないだろか?どうだろか?
そこでまずセックスよりも何よりも優先すべきはこれ、横着さ、これ。ノリと理屈は何にでもくっつくって言葉は、理屈こねたら何でも言えてしまうことを言ってるんだが、
理屈でもくっつかないものがあるのはご存じか?それは異なる価値観だよ。異なる価値観をくっつけようとすると理屈じゃない。論理に凝り固まったら夫婦げんかになるぞ、気をつけろよって
野矢刺激の「論理トレーニング」にも書いてあったろ?彼は論理をかたくなに信奉する石頭なんかではなく哲学者だから。論理に固まってちゃ結婚生活ばかりか哲学すらできない。
お前は結婚も哲学もできない人生を選ぶのか、それって意味あんのか?ということだ。つまり、横着さというノリが必要なんだよ、セックスで性器をくっつけても駄目。無駄なの。
そんなスケベなノリで人生うまくいくほど甘くはないってこと。
http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=count&url=http://www.aozora.gr.jp/
『青空文庫 Aozora Bunko』 の人気エントリーからチョイス。
paperwhiteが手に入ったらインストール(?)
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「水に音楽を聞かせることで、おいしくなる」と思っているような人達はそうなのかもしれないが、一般的な科学者や一定のリテラシを持っている人たちは違う。
観察と実験と考察により導き出された結論を「こちらの方がより真実に近いだろう」と判断する。
決して盲信などではない。
人間関係が悪化する可能性がある
可能性があるだけで、必ずしも悪化するとは限らない。
場合によっては、「なんであの時止めてくれなかったのよ!」と責任転嫁されることさえある。
どうすればコミュニケーションを円滑にできるのだろうか?
・ゼロイチで判断、議論、説得しないこと。
「水に音楽を聞かせることで、おいしくなる」と思っている人に対して、
「そんなことはないでしょ」という全否定の言葉を浴びせればそりゃあ、仲は悪化するだろう。
・相手にも分かるような反例を上げる。
「音楽家の家の水はおいしいってことになるよ?」
というのは、まあ正しくて、要するに価値観が共有できないということでしょう^^。
自分の価値観と相容れない価値観をもってきて、無理に共感しようとしたり比較したり、あまつさえすりあわせたりしようとすると、ひどい違和感を感じるのは当然で、むしろ「女である」という一点だけで、そこを越えられるはずだと思っていたとしたら、それはまた随分と不用意な、と思います。そこでは、科学者が対象を分析するような手つきで「相手と適切に距離を置きながら、事実として理解すること」が求められます。
別な方が、ツリーの中で、晶さんを「普通だ」と言ってるのがどういう意味でなのかは、私には分かりませんが、私が晶さんのブログを読んで思うのも、やはり「普通だな」という感じです。むしろ好感をもてる部類に入ると思います。
それは、要するにこの人が「普通に教養があって(色々な本とかを自分の楽しみや仕事の必要で読んで)」「普通に仕事を離れても友だちがいて交流したりしていて(blogからその様子が伝わってきます)」「普通に豊かな感性があって(マニキュアをすると人に会いたくなりますね、とか、素直にそうでしょうね、という感じ)」「普通に仕事熱心で」……要するに「価値観は異なっても、人間としては普通」であり「話をしたり友だちになれそう」と感じられるからです。
「価値観」は、人それぞれに異なるものですから、普通であるとかそうでないとか、そんな判断を下すのはおこがましいと思いますし、それは宗教論争と同じですから、社会的な関係を育む上では余り触れないのがマナーだろうと思います。その意味で、どんな価値観をもっていようと、社会生活に適応できる/できている人間というのは、おおむね「普通」と呼んで構わないと思いますよ。
定義を証明しろというのは、定義を証明しろと言ってるのではなく、
そういうふうに定義することが 合理的であり かつ 他と矛盾がすくない という事を証明してといっているだけ。
つまり、なぜ、そういう実験をして、なぜ、そういう定義があることを確認しようと思ったか?という科学者の心理状態について述べているのであって
定義の内容について述べているわけではないのに 定義の内容を言われても困る。
つまり、歴史の話をしているのに、理科の話をされたようなもの。
どちらかというと、そういう定義を作った理由(歴史的経緯) と その定義の存在意味についての話で会って、定義の内容ではない。
そして私は機械工学のしごとをしているわけでも、学者でもないので、定義の意味をコミュニケーションのネタとして知ることに徳はあるけど