はてなキーワード: 性愛とは
それはBLだけに限ったことでもなく
男性が大好きなアダルトコンテンツ(たとえばAV)も全部性的ファンタジー、「フィクションだから、嘘だとわかってるから楽しめる」ものなのね
同意をとって結婚して性交にいたり妊娠出産までするあたりまえの人生観は難易度たかいしわずらわしい現実をおもいださせられるからつまらないの
フィクションだからこそ情熱をいいわけに「合意なしの性交=レイプ」や「合意なしのつきまとい=ストーキング」しても警察や医者の厄介にならないことがわかっているからたのしいの
情熱を賛美したいけど手続きがまだるっこしい、警察なんてもってのほか
そういう要望に答えるキャラクターの人生消費して味わえるお手軽な情熱賛歌たる性愛フィクションにみんな熱中してるだけなの
ファンタジーである証拠に性交シーンのかっこいい体位やきもちいい表現、全部流行に沿ってるからね
https://twitter.com/notihodo3/status/1319903289832423425
ナイナイの岡村みたいに、ストレートセクシャルであることを公言して非モテ結婚できない芸をしてる人であっても言っちゃダメな気がするんだけど、なぜか平気で言われてるよね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1615569
論調に疑問を感じたので書く。
既に指摘されているとおり、結婚制度は「出産・扶養というコストを払って社会維持に貢献すること」への対価として法的優遇を行うことを主旨に設計されている面が大きい。
その意味で、「扶養する子を持たない夫婦」というのは制度上の穴をつく存在であり、法的優遇のみを得ているという点でフリーライダーである。(そういった属性の方を非難する意図はない。あくまで制度設計の話)
結婚と出産・扶養が一連のものとして考えられた時代には、この設計は自然なものであったんだろうとは思う。
「異性婚限定で法的優遇がされているのは差別的(あるいは不合理な格差)だから、性別や性愛の有無を問わず婚姻の条件を緩和すべきだ」という論がみられるが、
そもそも「子育てを行わないペア」を優遇している(優遇しうる制度になっている)のが不合理なのであって、不合理な優遇を享受する対象を増やすのは修正の方向が逆である。
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もうひとつ。
個人主義的な立場に立つのであれば、「パートナーはいてもいなくてもいい、また何人いてもいい」というのが理想像であるべきだと思う。「結婚制度無くなれ」というのが個人主義的には正しい態度。
「パートナー関係に対する結婚相当の法的優遇制度」は「独り身への差別・格差助長」になるってことを認識する人が増えるといいなと思う。
法的優遇はあくまで公共財の生産(子育て)に対する対価という根拠で設計されるべきで、そうでない優遇は差別です。
「お前は子供を公共財だと思ってるのか(お前は国のために子供を育てるのか)」的なことを言う方も見かけますが、むしろ次世代に安定した社会を渡したいと思うのが親心ではないのでしょうか。
僕はパンフレットも買わず事前情報も得ずに見たので、Wikipediaが一番簡潔で良かったのでコピペするよ。
『異端の鳥』(いたんのとり、原題:Nabarvené ptáče / The Painted Bird)は、2019年制作のチェコ・ウクライナの映画。
第二次世界大戦中、ホロコーストを逃れて疎開した1人の少年が、様々な差別や迫害に抗いながら強く生き抜いていく姿を描く。ポーランドの作家イェジー・コシンスキ原作の同名小説の映画化。第76回ヴェネツィア国際映画祭ユニセフ賞受賞。R15+指定。
なお、本作の言語には舞台となる国や場所を特定されないよう、インタースラーヴィクという人工言語が使われている。この言語が映画で使用されるのは史上初めてのことである。
この原作本は日本でも買えるよ。映画公開で急速ランクアップで現在売れ筋・その他外国の文学作品部門でAmazon第8位。『ペインティッド・バード (東欧の想像力)』だよ 。高いな、しかし。5千円以上ってどういう事?よく知らね。
で、原作では6歳の少年らしいが、それはあり得ないね。せめて8歳にしておかないとあれは無理だろう。6歳であれだけのことが出来るって芦田愛菜並だ。ともあれ、6歳では演技不能なので、多分主役を演じたペトル・コトラール君は10歳くらいではなかろうか。もちろん彼は無名の新人だ。
しかし、ペトル君の周りを固める役者さんは豪華だよ。最も豪華なのはなんと言ってもハーヴェイ・カイテルだろうね。でもハーヴェイは大した役所ではない、アル中の司教だ(いい人だがな)。
とんでもねーのはウド・キアだ。悪役はいっぱい揃ってるが、この人の演じた村人役は凶悪すぎる。この映画の最優秀演技賞はウド・キアで決まりだろうな。
そして、変態少年性愛者を演ずるこれまた名優、ジュリアン・サンズ。流石にこいつは許せなかった、と思ったら少年はジュリアンを爽快な殺し方でやっつける。最高だったね、拍手喝采したくなった。
めっちゃ色んなハリウッド映画に出てる名脇役にステラン・スカルスガルドも、この人はドイツ軍兵士のいい人役で出てきます。印象には残りますが、少年を逃してくれるだけで特にたいした役どころではなかったかな。
で、極め付けは、なんと言ってもジャクソン二等兵だよ!いーかい?ジャクソン二等兵が出てるんだ!そうだよ、『プライベートライアン』であの教会の天辺で死んでたかと思ったら、なんと生きていつの間にか赤軍の兵士になってたんだ! え? バリー・ペッパーのことだろ?って? ちげーよ!ジャクソン二等兵だよ。ホントなんだってば! いきなり歳食ってて渋くなってびっくりしたけどあれは間違いなくジャクソン二等兵だ! 見ればなんの話かわかる。
でも、多分日本人鑑賞者の大半は歴史知識があまりない状態で見るだろうから、感動は少ないだろうね、きっと。でもホロコーストの歴史を知っておくと、これは感動するよ。このペトル君演ずる少年はユダヤ人だ。家族もユダヤ人だ。家族は父親しか出ては来ないが、ともかくユダヤ人家族の少年の物語だ。ホロコーストでは、ナチスはユダヤ人絶滅政策をとっていたことくらいは知っているだろうが、実は、絶滅はさせるつもりだったが、労働適格者は強制労働をさせるために生かして残していたんだ。ではもう一方の労働不適格者とは? それは老人であり障害者であり重病人だったり、そして14歳未満の子供なのである。アウシュヴィッツにユダヤ人が強制移送されると、労働不適格者は駅について選別されると、3時間程度以内にシャワーに入ってーと親衛隊に騙されてガス室送りにされ殺されたのだ。当然このことは親衛隊は言わなかったが(別の地域に住んでもらうとしか言わなかった)、噂レベルでユダヤ人だって知っている人は知っていた。それで、ペトル君の家族はペトル君だけを疎開させたのである。殺されるかも知れないから。これを知っているのと知らないのとでは理解が大分違うはず。あともう一点、ユダヤ人の強制収用施設はたくさんあったが、アウシュヴィッツだけが登録囚人の腕にナンバーを入れたのである。これも豆知識として知っておくといい。
あと、この映画の舞台は映画の中では一切明かされないが、ソ連領域を含む東欧地域であることは間違いない。使用される言語もインタースラブ言語(インタースラヴィク)と言って、スラブ民族の言語の特徴を全部混ぜ合わせて作った人工言語を使用している。故に言語はそれっぽいのに地域は特定できないようにしてある。この映画は史実を背景にしたフィクションであり、見方によっては仮想世界の話とも取れるだろうから、これはうまいと思ったね。安易に英語にしなかったのはナイスアイデアだ。
冒頭、ペトル君(この少年の名前は最後の最後になるまでわからない)が、林の中を誰かから逃げているところから始まる。少年は胸に白い何かフェレット?のような生き物を抱えている。しかし追手にすぐに捕まり、その生き物を奪われて、その生き物に可燃性の灯油か何かをぶっかけられ、その生き物をその場で焼き殺される場面からスタートだ。いきなりこの残酷描写には目を背けたくなる人も多いだろう。そのフェレットのような生き物がまさに焼き殺され、その場を燃えながらのたうちまわるその生き物の映像。これはキッツイぞ。それを茫然と見つめる以外にない少年の虚な視線。
しかしこの冒頭のシーンを理解できる日本人は少ないだろう。これは、今からこの少年のホロコースト物語が始まるという合図に相違ないのである。何故ならば、ホロコーストの原義は古代ユダヤの儀式、生き物の丸焼きを生贄として捧げる、だからである。これをわかった人は多分、ほとんどいないはず。親がこの少年を疎開させホロコーストから逃したと思っていたら、それは違うぞ、と。
その通り、疎開先で預かってくれた老婦人が夜中突然死し、びっくりした少年がランプを落としてしまって、それが原因でその孤立した一軒家は全焼。そこから彼のホロコーストの旅が始まるのである。少年は設定上は6歳? でも10歳くらいにしか見えないんだけど、それはともかく、大人に世話にならないと生きていけない。彼は家に帰りたかっただけなのだが、ともかく大人に構ってもらわないと、ということで色んな大人に預かってもらい続けることになるのだ。その預かられた先ごとに一つの章になっている。その章ごとに預かってもらった大人の名前を章タイトルにしている。何章くらいあったか覚えてないけど、十件はなかったかなぁ……順番もあんまりよくは覚えていないが、とにかく残酷物語だらけ、と言っても結構リアルっぽさを出してあり、普通のホラー映画のようにはっきりと悪という人はいない。でもそれだけに、本物のリアルな悪なので、ホラーよりずっと恐ろしいぞ。
多分これが一番最初だったんじゃないかなぁ? よくは覚えていないが多分そう。この少年は見栄えが少し人と違うのである。もちろん放浪してきた少年がやってきたその村からすればそもそも余所者なのだけど、とにかくその村の村人たちは、到底近代世界の住人ではなくって、風習と迷信だけで生きている世界の人たち。少年はその悪魔払いのババアに「この子は悪魔の子だ」と勝手に決めつけられて、ババアに買い取られるのである。要はこのババア、助手が欲しかったのである。そして少年は助手として実際には結構丁重に扱われ、見ている側としては若干肩透かしを喰らう。で、映画宣伝に使われている地中に埋められて首だけ出して、カラスに見つめられる写真があるが実はそれ、虐待ではなくってババアの少年に対する治療施術なのである。少年はどうやら当時流行しまくっていた発疹チフスに罹患したらしかった。
でもま、カラスに突かれまくって血塗れになるのだけど、ババアが少年を助けてくれるのだ。お前が悪いんだろうが・・・と言いたくなったが、それはまぁ演出と言うことで。
確かねぇ、その前にもう一つエピソードがあったと思うんだ。多分だけど、林の中で足に怪我をしたがために見捨てられた馬を、少年が放浪中に助けてあげようとして次の村まで連れて行くんだよね。でも馬が足を怪我したらサラブレッドがそうである様に殺されちゃうんだよね。このシーンが結構えげつないんだけど、それはさておき、その村人のある男が川で釣りをする(つっても奴隷作業だよ)少年を脅かして少年が川に落ちて流されてしまう。そのたどり着いた先がウド・キアが世帯主の家だった。救ったのは親父の妻とその家で働く雇用人。
とにかくこの親父、理不尽親父の象徴みたいな奴で嫁に体罰するのが日常茶飯事。で、ある雨の日、親父が家に帰ってくると何故か頭陀袋を持って家に入ってきた。そしてディナーの時間になる。ところがこの頭陀袋、まるで生き物の様に蠢くので、まさか子供でも入ってるの?とドキドキするのだが違った、白黒斑のネコだったのである(意味不明)。そしてこの猫が以前から飼われていた猫といきなり交尾をし始める。それを見ながら食卓で食事をする親父と妻と雇用人。ところが親父、いきなりブチギレてテーブルをひっくり返す。いわく雇用人に詰め寄って「てめー!俺の嫁とセックスしようと思ったろ!許せねぇ!テメェみたいな奴にそんなふしだらな目玉はいらねぇ!」とその場で雇用人の両目玉をスプーンでくり抜くのである。怖すぎっだろw 一応伏線は貼ってあったけどね。
で、少年、目玉をくり抜かれて家を追い出された雇用人を、その目玉を拾って、自分の荷物もまとめて出て行くのであった。途中目玉をくり抜かれた雇用人が木の根元で苦しんでいるのを発見、目玉を返してあげるのであった(返しても意味ねーだろうが、少年にはそれはわからなかったのであろう)。
エピソードがとにかくてんこ盛りなので順番がよくわからないんだけど、少年がね、これも確か野原を放浪してたのかなぁ? んでね、その近くでユダヤ人の移送列車からユダヤ人たちが逃げ出そうとするシーンがあるんだ。全員親衛隊に結局銃殺されるんだけど、その中で一人だけ生き残ったユダヤ人のおじさんと遭遇するんだけど、親衛隊に見つかり二人して町まで連行されるわけ。で、おじさんは銃殺されるけどハーヴェイ・カイテル演ずる司教に助けてもらうわけさ。で、最初は教会で一緒に暮らすことになるんだけど、司教が病気で少年をあまり構ってあげられないからと、その少年に気があったジュリアン・サンズに司教から預けられることになるわけ。で、観客の期待どおり、犯されてしまう少年。この映画、本当に少年をこれでもかと虐待しまくりますが、個人的にこのシーンが一番キツかった。だって、シーン自体は見せないで悲鳴だけが聞こえるのです。これは流石に堪えました。かわいそ過ぎます。でもですね、この後少年が森の中へ出かけるのですが、偶然、小さな軍事用トーチカを発見します。そこで二つの重要な発見をします。一つは折り畳みアーミーナイフ、これは拾って持って帰ります。もう一つはそのトーチカの天井部分の天辺に開いた口径1メートルくらいの穴です。覗き込むと・・・ひぇぇ大量のネズミがいたわけです。気持ち悪過ぎですが、とりあえず少年はサンズの家に戻ります。で、色々あって少年は拷問されて後ろ手に縛られるのですが、持っていたアーミーナイフでそのロープを切ろうとしたらこれがバレてしまいます。で、サンズは「一体そのナイフどこで拾ったんだ?」と言うことで、現場へ二人で行くわけですよ。ところは少年は機転をきかせます。サンズをうまいことそのネズミの穴に落としてしまうのです。えええええ? となりますよ。恐ろしすぎるぞ、あんなの。もちろんサンズはネズミに食われて死亡。
そしてその後、もっかいカイテルの教会に戻るのですが、ちょっと教会作業をしくじって肥溜めに投げ捨てられます。これは予告編にもありますね。で、きていた服を川で洗って、放浪再開。
思い出しました。確かー、悪魔払いのババアの次がこのエピです。あんまり印象ないんですよね。いい人なのか悪い人なのかよくわかんないんですよ、この小鳥屋のおっさん。んで、とにかく小鳥屋のおっさんの家で一緒に暮らし始めることになる少年なのですけど、ここによくわかんない全裸の女が小鳥を持ってやってきます。この女、生きてる目的が性欲しかないのです。でも何故かこの小鳥屋のおっさん、この女に惚れちゃったんでしょうね。ともかくおっさんはその小鳥をもらって、その場で野外セックス。
で、順番的に言うと、重要なシーンが入るので説明すると、この小鳥屋のおっさんの家の外に、少年とおっさんがいます。そして、少年は手に持たされた小鳥の一羽の羽を広げる様に言われます、するとそのおっさん、その小鳥に何やら白い絵具の様なものを塗りたくります。そして、その小鳥を空へ放つと、その小鳥はちょうど空を待っていた同じ小鳥の種の大群の中へ入って行くのですが、その小鳥は大群の突き回されて、死に絶えて地上にいた少年の足元に落下するのです。どうやら、その塗りたくった絵具に小鳥の餌が混ぜてあった様です。おっさんが何故そんなことをしたのか理由は不明ですが、これが映画の原題である「The Painted Bird」です。そんなに考えなくとも、これがテーマだって分かりますよね?
そして、その変態性欲女、村の餓鬼どもを誘惑してセックスするのですが、これが村のその子供たちの母親たちの逆鱗に触れて、集団リンチを喰らいます。瓶をマンコに突っ込まれ、それがおそらく原因で死んでしまうわけです。僕は平気だったけど、これもまたキッツイシーンですよ。それで、その女に惚れていた小鳥屋のおっさんはショックで首をつって自殺しようとするのですが、それを発見した少年、あまりに苦しそうなので、可哀想だと思ったのか、おっさんの足元にぶら下がって自分を重りにして死なせてあげるのでした・・・これもまたキツいシーンです。
もうね、三時間もある映画だから、エピソードてんこ盛りすぎて、端折らないとね。変態性欲女がもう一人出てくるんですが省略です。ソ連のコサックとかの話もあるけど、それも省略。とにかく、ジャクソン二等兵ですよ、二等兵。色々あって放浪しているうちに、今度は赤軍の駐屯地に少年が保護されます。ここはいい人ばかりです。そして、テントの中にいると、ジャクソン二等兵が登場! ええ、赤軍将校を演じたバリー・ペッパーなんすけどね。確かプライベートライアンの後、父親たちの星条旗くらいでしか見た記憶がなかったんですけど、最初誰だろう?と思ってたんです、事前情報なしで見たから。で気がついたジャクソン二等兵だ!と。そいでね、少年はおそらく、ジャク……じゃねぇや、そのバリー・ペッパーに多少憧れたのでしょうね、ある夜、バリーはライフルを持ってテントから出て行くのです。あれ?逃亡でもすんの?と思っていたのですが、実は仕返しをしに行くつもりだったのです。その出て行く夜に事件があったのです。駐屯地の外へ出た赤軍兵士数名が、近くの村人に殺されたのです。理由はよく知りませんが、赤軍を嫌っていた村人とかがいたのでしょうか。そのバリーの後を少年がついていったわけですよ。そして、村から少し離れたところにある、木の上で朝食を取る二人。それが済むとバリーはライフルを構えるわけです。そうです、ジャクソン二等兵なのです! どう考えたってこれはウケ狙いです(笑)。木の上から確か五人、村人を正確な照準で殺すのです。そしてジャクソン……じゃなくてそのバリー演ずる赤軍将校は少年にこう言います。「やられたらやり返せ」と。
性愛や無性愛に差はない、どれも並行で、どれが良いとか悪いとかいう話ではない。それは大前提。
その上で、例えばゲイたちがパートナーを見つける会にノンケが入ってきて、「女もいいだろ?」みたいに来たらめちゃめちゃウザイし失礼じゃん。
その中に女が入ってきて、「一緒に寝ない?」とか言い出しても邪魔だろ?
ゲイコミュニティの人に近づいて、急に「実は異性愛者なんです」って言うのと同じくらい失礼だろ。
なにが言いたいかっていうと、LGBTQXって自分の性愛を大事にしろって訴える割には、普通の異性愛者の文化
自分が嫌がることを差別を盾に平気でしてくるわけよ。無性愛者も平気で異性愛者に近づいて、「実は性欲ないんです」とか言うの
滅茶苦茶最悪やん。完全に自分が持つべき性の責任を相手に押し付けて、都合の良い部分だけ搾取して
相手をいつでも悪者に出来るよう準備してる訳でしょ。「実はお前の話には興味ないんだ」ってセックス後に言われるようなもん。
・初回は怖くなかったのか
・性的に求められることについて
・相手のふるまいについて
・結局、挿入も被挿入も性行為だけでOK説なのか、それ以上の交流があって良かったよって話なのか
・初回は怖くなかったのか?
それはなぜ?
▶怖くなかった(喜びが大きかった・性欲が大きかった・身体的危険を感じなかった・身体的危険は感じたがそれは興奮材料だった・暴言を吐かれなかった・暴言を吐かれたがそれは求められることなので嬉しかった・妊娠についての恐怖がないから・心の交流があったから・その他)
▶怖かった(未知のことだから・身体的危険を感じた・危険は感じなかったが、単純に身体の穴に物が入る違和感が怖かった・暴言を吐かれた・同性愛に対する社会的偏見が怖かった・その他)
・性的に求められるということについて。
増田は性行為のことを書いているが、日常生活で性的に見られることについてはどうか?
(女が「性的に見られる、求められるのが嫌だ」という時は多くの場合、セクハラを含むのでそこが知りたい)
セクハラ発言すらしてもらえなかったが、同性を性愛対象にしたらセクハラ発言をしてもらえる(≒性的に求められる?)ようになり嬉しかったということか?
多くの場合、セクハラとパワハラはセットだが、パワハラとセットで女性または男性からセクハラをうけたら嬉しいのか。
もし増田が「女がセクハラされるのは既に求められているのだから、発想の転換で喜びに変わるよ、イージーだよ」と言っているのならば…、
増田は男からセクハラされたことはあり、男を性愛対象とする前は男からのセクハラは不快だったが、男を性愛対象にしたら求められている喜びが出てきたということか?
・相手のふるまいについて。
増田に挿入した男は、女に対してと性愛対象である男に対してと、性愛を拒否する男に対して、性行為以外の部分で態度は違うか、同じか。
はてなでは男を選ばない女に対して辛辣だが、はてなにいる女が「では私はより好みをしていたようなので、それはやめて非モテ男に求められたら喜んで受け入れよう」となったらうまく行くものなのか?
増田は性愛対象になる前に男から辛辣に対応されたが性愛対象になったら案外交流できたということか。
・結局、挿入も被挿入も性行為だけでOK説なのか、それ以上の交流があって良かったよって話なのか?
両方?
なんだか混乱しがちだけど
「アニメ系やグラビア系の女性性が強調されるポスターや幼児性愛コンテンツに対して難癖つけるアンチ男オタク女性」の事を指してるのであって
「性犯罪者&女性の出世を阻む権力者&女性に家事育児を一方的に押し付ける老害的な家族に対して抗議をする女性」
男が「愛されたい」と思ってるというのはわかった。そして、一定数の男性の世界には友愛は存在せず、性愛しか無いということもわかった。
ブコメに「誰からも愛されずに生きることは不幸ではないって断言できる?」
というのがあるが、世界で一番幸せなのは子無しの独身女性って記事が文章内で紹介されてる時点で超矛盾してるじゃん。
あと、よくある「モテたいのは男の本能」とかいうのも詭弁だから。
「人に嫌われるより好かれたい」という話なら男女共通の人間らしさだろうが、
自分の遺伝子を残したいとかいう動物的な話なら、「子供を産み育てたいのも女の本能」じゃないとおかしい。
一部男性の言う「愛される」ってのは、「セックスさせてくれる女」という超絶狭くてハードル高い相手じゃないと実感できないらしい。
女が非婚でも幸せなのは、「セックスあり」やら「性別」やらを限定せずに「人に好かれる」ことだけで満足できているからだよ。つまり友達。
「異性モテ」より「人間モテ」の方が人生では大事と良く言われるのはそういう事なんだが、どうも一部男性に言わせると、
セックスがないと愛ではないし、相手は女でないと満足できないらしい。
そして女さえ得れば全て挽回できると思ってるらしい。
結婚してる女だって、友達は居ないと人生辛い派の方が圧倒的に多いだろうよ。
中年以降の女と男の幸福度の差って結局そこなんだよ。友達がいるかいないか。作りやすいから作りにくいか。
そういう意味では男は不利だろう。なんせ男が男に興味ないからな。
もう10年前から言われてるだろうけど。
横からだけど、ドキンちゃんがしょくぱんまんを好きになる理由って、まず見た目でドキドキして、そのあと優しくされてからって理由。
同じくドキンちゃんにやさしいけど見た目がよくないホラーマンに冷たい当たり完全にルッキズムだし、
しょくぱんまんは好きなくせに、しょくぱんまんの考えは理解しようとせず悪事を働く一方で性愛に走り、
悪事を働くことに躊躇はないけど、しょくぱんまんに危害が及びそうになると手の平を返す主体性のなさ、
とかじゃないかな。
その方からの敬意を感じるし、好意を感じてくれている部分や尊敬してくれている部分を言葉で直接伝えてきてくれます。
わたしはいわゆるカリスマ性質があるタイプで、男女問わずこういった感じになついてくれる方が多いです。
そういう子を見ていると可愛くて仕方なくなってしまい、男女問わず性的な欲望を感じてしまいます。
いまなついてくれている方は過去に出会ったわたしの信者のなかでも並みはずれてかわいらしく、いじらしくけなげで、従順で、可愛くて仕方ありません。その方を思って自分を慰める日々です。わたしの性別は、その方にとってほぼ確実に性愛対象だと思われます。つまりどうしたいかというと床に誘いたいです。
しかし、世の中においてはいくら好きでも性愛対象と親愛対象はあくまで別という感じ方も存在することを知っています。
わたしの場合性愛も親愛も一直線上のものですからこういう状況になっているわけですが、実際「性愛」と「親愛」が別だと感じる方は、どういった分け方をされているのでしょうか?
仕切りで区切られたようなもので、一度カテゴライズすると、もう二度と変更されることはないでしょうか。
もしくはグラデーションのようなものでしょうか。その場合は、相手から感じる思慕の中に性愛が含まれると見極める方法とはあるものでしょうか。
また、敬意が最大に達すると献身的になるものでしょうか。熱狂的な矢沢ファンのヘテロ男性が「矢沢永吉になら抱かれてもいい」とおっしゃってるのを見たことがありますが、それは矢沢永吉が性愛対象ということではなく、あくまで献身ということですよね。そういった切り口でも、活路があるのかな。
ともあれ、今の状態ではツラいため、本懐を遂げたい思いと、断られることへの恐怖で行ったり来たりしています。
※念のため注意書きしておきますが、その方との関係は仕事上のものや、何らかのコミュニティにおいて上下関係にあるものではありません。社会的にはお互いフラットな関係です。