はてなキーワード: 膾炙とは
元日にぼーっと見ていたテレビに映った右肩下がりの棒グラフ。「新聞の発行部数か?」と思ったら、「年賀状配達数14年連続減少」のニュースだった。確か年末には新聞の部数の話もバズっていたと思う。かつて人口に膾炙した紙メディアの先細り話がこうも連続して出てくると、このままの仕事を続けているわけにはいかないとの思いが一層強まってくる。
記者を辞めたい。そう思うようになってもう数年が経ったが、まだ辞めていない。現状の安定を失いたくない器の小ささか、単なる行動力のなさか。辞めたら次に一体何をするのか。自分の中でもはっきりしないまま、「歳食うと一年があっという間だなあ」などとぼやいて徒に時を過ごしてしまった。
なぜ辞めたいのかを簡単に言えば、やりがいを感じないのに激務薄給で、さらに会社の将来性も自分の適性もないと十年弱で分かってきたからだ。
マスコミを志望したのは就活を始めてから。元々政治家になりたいとの夢があったが、大卒でいきなり出馬できるわけではない。政治家という職業自体が不安定で待遇も十分ではなく、カネもコネもない人間が安易に挑戦できるものでもない。将来政治家になれる選択肢も残りつつ、仮に機会に恵まれずにそのまま会社勤めが続くことになっても公共のためになり、納得できる仕事ということで選んだと記憶している。
「斜陽産業だけど大丈夫?」「地方勤務できる?」と問われても、むしろ自分の世界が広がると望むところだった。同級生たちが競って入ったとにかく高給取りであることが取り柄のような仕事には惹かれなかった。今にして思えば若気の至りでいちびっていた。
良いこともたくさんあった。大きなニュースに関わる機会に何度か恵まれ、今までの人生では関わったことのない、あるいは他の仕事をしていたら一生関わることもないような人たち-有名な人も社会の周縁に立たされている人も、町の気のいいおっちゃんも地方から新たな挑戦をする若者も、会って話をしたことはかけがえのない経験に思えた。それだけでなく、小さな街ダネにも出身地とは違う習慣や文化、価値観が潜んでいて面白かった。違う地方に住むのも新たな発見ばかりで飽きなかった。
が、大きなニュースを扱ったからこそ感じた限界もあった。非常に優秀な記者が、リスクを負いつつ長い期間をかけて大スクープや深い調査報道を書き、社会や政治の問題を浮き彫りにしたとする。スクープしたその個別の問題については盛り上がりの中で解決するかもしれない。でも根本的な解決のためには法改正や行政の介入、社会の変革が必要だったりするが、それはちっとも叶わない。こんなにすごい人が一生に一本書けるか書けないかの記事で、影響力ってこんなものかと思った。
自社のスクープを他社が追い、さらにワイドショーが特集した段階で「昨日テレビでやってた話、取材してないの?」とか読者から電話が来る。マスメディアの影響力なんてたかが知れている。記事書いてる暇があったら自分で議員になって法律作った方がよっぽど多くの人が助かって、しかも一生にいくつもの大きな問題を解決できるじゃないか。
日頃の一面や社会面なんてもっと陳腐にしか見えなくなった。よく働く記者ほど困っている市井の人の声なら何載せても良いと思っている節がある。その傾向はコロナ禍でより増していて、「ハワイ行ってコロナなって金がかかって困った」とか「高級ホテルの結婚式のキャンセル料が高くて大変」とかいう話がテレビで長々特集されたり新聞の一面を飾ったりした。現場の声を重視するのはいいがデータを軽視するので正確性や普遍性に乏しく個人の感想の域を出ない「困ってるお気持ちポルノ」がたびたび見受けられた。
就活の時期が近づけば「もう就活生の〇割は内定あり!」と騒いで学生を焦らせ、今度は悩む学生を見つけ出して特集する。アメリカ大統領選で階層の分断が言われるようになれば、国内の細かい話での個々人の意見の違いを取り上げて「分断」とか大げさに言ってみたりする。元々たいした問題などなかったところに「困っている」とする個人をなんとか見つけ出して最初から問題があったことにする。存在しないマナーを作り出しては講習で稼ぐマナー講師が「失礼クリエイター」と呼ばれるなら、メディアは「問題クリエイター」だ。
テレビニュースは毎日同じ時間、新聞は毎日同じスペースで作られるが、世の中の出来事なんて日によって数は大きく異なるわけで、それを毎日同じスペースに載せようということ自体に無理がある。ニュースが多い日には大事な話であっても隅っこに短く追いやられるか、後日掲載になる。ニュースのない日にはただ紙面を「埋める」ためだけのネタが並ぶ。ある日はある、ない日はないで良いのに、同じスペースを埋めなければいけないから取り置きの原稿がどんどん溜まっていく。紙面が数日~数週間前の話ばかりになるなら週刊や月刊で良い。なんで日刊で発行しているのか。埋めるための取材ほど不毛なものはない。
価値判断ができずに他社が書くかどうかだけを気にする部長や支局長、紙面が埋まるかどうかだけを気にして原稿を抱え込む次長、複雑な問題であってもなんでもかんでも単純化した図式でしか捉えようとしないキャップ…部署ごとの属人性が強すぎ、適当なさじ加減でできあがる。社内政治で紙面が決まる。報道が広告に忖度することなどあるはずがないと思っていたが実際はある。そういう読み物なんだと思ったら愛着が薄れていった。
勤務日の夜はまだしも、特に緊急でもない用事で休日に平然と電話をかけてくる上司もいる。それで気づかずにいると「休日でもすぐに電話に出ろ」と怒鳴られる。立派な使命感だとは思うがそういうことを求めるならもう少し給料を出してほしい。こんな給料では家族を養うことはできない。共働きでなければ結婚は難しいが、全国転勤では共働きも制約される。
部数は毎年減っている。広告はコロナ禍で激減した。まだぎりぎり体力のあるうちに勝負に出て成長分野に投資しなければ生き残れないのに、そんな気配はみじんもない。部数が減ることはもはや所与のことのようになっていて、本業でどうやったら稼げるのかという話がちっとも出てこない。いい報道をすれば読者は読んでくれるという、反例が無数に見つかる理論が繰り返される業界で定年まで勤める人生設計で生きていっていいはずがない。
「斜陽産業なのは知ってたはず」「激務や転勤なんてわかって入ったんでしょ」と言われても、経験したことがない学生に何が分かるというのか。やってみた結果想像以上の実情を知り、このままでは無理ということが分かって考えが変わった。それだけのことだ。
自分が意外と人見知りをすることにも気がついた。特定の人と繰り返し会うのはいいのだが、毎日違う知らない人と会うのは気疲れする。文章を書くのは好きだったが、元々目立ちたがりで自分の意見を書いたり言ったりするのが好きなだけだった。人のやっていることを聞いて書くこと繰り返すのにも疲れた。人が何をやってるかじゃない。自分が何をやってるかだろうがと何度問うただろうか。完全にミスマッチだった。
それでも、少しでも世の中が良くなったらいいなと思って神経すり減らして働いていた。なのに友人ですらネットで「マスゴミが~」とか言っているのを見ると気が滅入る。別に金持ちになりたいとかいう願望はないが、公共のために働こうという精神って報われないなあとも思う。
たとえば官僚なんて民間就職すればもっと稼げるだろう人が能力を公共のために使って午前様で働いているのに、私生活でも高潔さを求められてちょっとでもやらかせばあり方を問われることになる。ハードル高すぎないか?能力を自分のためだけに使って大金稼いでる人は素行が多少悪くても特に何か言われることはない。社会にどっちが必要な存在かと言えば前者のはずだが、これから職業を選ぶ(選べるくらいの能力を持っている)学生らの視点に立てば後者を選びたくなる人が多いはずだ。職業に求められる規範と待遇が釣り合ってなくて、それで社会が損している。
自分がやりたいと思える仕事は公共に奉仕する仕事だが、そういう職業としての条件の悪さ、釣り合わなさに耐えられるかわからず、次の選択肢に挑むのに尻込みしている。そんな程度のマインドなら職業での自己実現は諦めて、ホワイトな環境で趣味を楽しみ家庭を重視する生き方を選ぶべきなんだろう。でも、どっちかを選んで他方の道を断ってしまう決心は付かず、ずるずる先延ばしにしている。
これだけ不満たらたらで、それでも辞めていない。次に何になっていいかも何になれるかもわからない。そういう現状に、自分の小ささを感じている。
これと似たような事を初めて聞いたのはNHKのドキュメンタリーだったな。
昭和天皇がまだご存命だった時の皇居を撮影したドキュメンタリーで、「宮内庁の廊下について、一般職員は端を歩くのが習わしです」みたいな事をアナウンサーが言ってた。
これは多分「神社の参道の真ん中は歩くな」っていうやつの派生形だと思う。
神社の参道の真ん中とかは、物理的に手すりとかで区切られてて歩けないようになってる所も多いけど。
ていうか、そういうマナーというか慣習っていうのは、いつ始まったかってそんなに重要じゃないと思うんだよな。
二拝二拍手一拝なんか、今や予測変換にも出てくるレベルで膾炙してる。
普段御朱印集めで神社巡りとかしてると、もう10年ぐらい前から確実に出くわすから既に習慣化している可能性がある。
邪魔で回転率が低くて効率悪いからやめようってのは、お参りの性質にそぐわない考え方だと思う。
そういうの気にするならそもそも混んでる時に参拝しなければいい。
ワールドカップで影山優佳が人口に膾炙されてしまったようだけど、坂道グループ、特に櫻坂と日向坂はビジュアル・ダンス・ボーカルをそこまで絶対視しないアイドルグループになっていて、なんだか芸能人の大学サークル(もしくは予備校)と化しているような気がする。
正直テレ東の乃木中(乃木どこ)、そこさく(けやかけ)、ひなあい(ガナー推し)の3番組と、フットブレイン、将棋フォーカスしか見てないからあまり詳しく書けないけど、伊藤かりんの将棋と影山優佳のサッカーはとび抜けてすごいと思う。
櫻で言えば大園玲とえんぴかのイラストは素人離れだし、飛び級入学の山﨑天は多才すぎて末恐ろしい。櫻は今のところ天ちゃんの為のグループになっているんじゃないかと思うくらいだ。外番組に出すのはまだ少し怖いところがあるけど。
日向で言えば、齊藤京子も抜けている。カゲとは真逆で、ボーカルとバラエティーに全パラメータ振っている、他の部分はかなりポンコツなのに。
かりんが卒業後も将棋仕事にひっぱりだこなように、カゲはサッカー仕事に困らないだろうし、齊藤京子もソロ歌手になる未来が見える。
今回はSynthesizer Vってソフトのやつの、その中のyumaって声のやつの、幽霊東京って曲の話やんな。
ワシ先にな、こっちの人が作ったカバーを聞いたねん。
したら、「めっちゃええやんけ!」てなったんすわ。
(余談やけどこのyumaってやつはかなりスゴめのボイスバンク。でもちゃんと歌として聞ける仕上がりにするのはやっぱ打ち込む人の手腕なんやで。)
でな、ちょっとあとに同じ声・同じ曲の投稿があってチャレンジブルなやつやな~と思って聞いてんねん。聞き終えたねん。
したら……。
こっちのバージョンのほうが好きになってしまってんねん!!! 好みやねんね!!! どして? 前の人のもええやん? 自分でもわからん。 でもあとのやつのほうがすっきゃねん。なんでかワシもしらんけど。
ワシの好きはうまく言語化できんし、そもそも人口に膾炙してそうなのはどっちの人のカバーなのかもわからん。
なのでここでアンケートを取らせていただきます。引用でもブコメでもどっちでもいいので意見をお願いします。
そもそもyumaの声あんまり……になった人は他の声のバージョンも聞くといいかもしれません。ryoとか、六花とか、夏梨とか。ryoは癖が薄めの声なので比較するのにちょうどいいと思います。
辛い辛い。案の定、正論に溢れてるブコメも辛い。ブコメは正しいし、私もそう思うんだけど、結局発達障害持ちは人間に擬態しながら生きていかないといけないのかと思ってしまった。
初めて発達障害と診断されて、コンサータ処方されて、「やったー!これで人間になれるー!!」と喜んだのも束の間、薬を飲んでない私はなんなんだ、人間のできそこないかと絶望したことを思い出した。
帰り道、親に「すいません、あなた方の要因もあるかもしれませんが、私は出来損ないの人間でした(とても偏った意訳)」って言うの想像しただけで泣けたわ。もちろん親には言ってないが。
ブコメの総意ではないだろうけど一部コメントにあるように、発達障害者なら結婚前にじゃなくて付き合って最初の方に言っとけよ後出しは騙された気分になるぞっていうの、多分発達障害という概念が人口に膾炙すればするほどこういう意見が増えるんだろうなと思って悲しくなる。
「最悪。結婚考えてたうちの彼氏(彼女)が発達障害者だったわ、子供にも遺伝するのにずっと黙ってたとか、詐欺じゃない?」
って言われるんだよ。
何が悲しいって自分が発達障害者じゃなかったら、自分もそう思う側になるんだろうなって予想出来るのが辛い。
あのブコメが彼氏を叩く方向にいってたら、自分はトップコメみたいなことを思っただろうし書いてたかもしれない。
区別する側の気持ちが理解できるゆえに、自分の特性に絶望する。
特に理不尽でもなんでもなく、皆んなが当たり前に行動した結果、区別されることに絶望する。
極端な思考かもしれないが、こういう罪悪感とか絶望感みたいなものを抱いてる発達障害者もまあまあいると思うので書いておいた。
ノクターンノベルズ(小説家になろうの18禁版)のランキングを「AI挿絵つき」が席巻し始めている。
今現在のランキングだと、1位と12位が全話AI挿絵付きの長編。
1位と12位はNovel AIを使用していると明記されている。
7位は明記がないがおそらくNovel AIと見ている。
AIイラストは、複数の生成イラスト間で同じ登場人物を同じように描くことが苦手だと思っていたが、それもできている。
これは、3Dカスタム少女やコイカツなどで3Dモデルを作っており、それに任意のポーズをとらせて出力した画像をimg2img機能で挿絵に変えているという考察があった。
元々、3Dカスタム少女による画像を挿絵として入れている作者はノクターンノベルズに存在したので、仮説として十分ありうる。
また、上記小説の説明を見ると、AI生成イラストに対してさらにレタッチを行っているらしい。
3Dモデルから直接出力した画像に比べて平面的に描かれるAI生成画像は、修正もしやすいだろう。
3DモデルとAIイラストの良いところを組み合わせる方法で正直賢い。
面白いのはこれがノクターンノベルズでのみ起きていて、小説家になろうでは同様の波が来ていないことだ。
これについては以前読んだこのエッセイを思い出した。
https://ncode.syosetu.com/n3823bk/2/
読み手は、それまでの人生の蓄積のなかから、既知のイメージの張り合わせを行って、描写の内容を“想像”する。
想像の難易度は、小さくて単純なものだと簡単だが、大きくて複雑なものになると極めて難しくなる。
読み手の想像そのままのプレーンな状態に、書き手の指定が、あまりに多く入りすぎると、想像に注釈がたくさん付いた状態になって、すなわち読み手の処理能力に負荷をかける。そうすると想像したものの保持自体が難しくなってくる。
もちろんネット小説と言えども小説を読んでいる人間ならば、この「想像の保持」ができないわけはない。
ただエロ小説の場合それでシコるという巨大なタスクがある関係上、「想像の保持」にかかるコストは通常の小説と異なり、少なければ少ないほどいい。
また、エロ小説というのは読者に「読者の頭の中で作られた映像」をエロく感じさせる必要があるので、本来独特の難しさがあった。
シチュエーションや感情描写やセリフにより、ある意味情念に訴えるような間接的なエロが要求された。
Noval AIは本家Stable Diffusionと違って18禁画像の生成が封じられていないので、その点非常に都合が良い。
Novel AIは、投稿画像のほとんどがpixivやエロゲCGなどの無断転載で占められる悪名高き画像投稿サイトdanbooruから学習したモデルだという。
あそこはコンプラめちゃくちゃな癖にタグ付けが異様に充実していることは以前に書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20171022133100
本当に無制限ってことはないだろうが、見かけ上の上限は無い。少なくとも50個くらいは付けられる。
キャラ名や作品名、シチュや場所を表す言葉から、キャラの人数、ポーズ、付けている装飾品の隅々までほとんどタグ化されている。
これは確かにAIにとって非常に学習しやすい環境だろうと思う。
あとネット上のあらゆる画像ではなくpixivやエロゲCGがほとんどなので、小説の挿絵的なものにはかなり向いていそうだ。
ノクターンの多くの小説に挿絵がつくようになるのも良い変化だと感じる。
ただ、それをもたらしているものが違法転載から学習したNovel AIだというのがどうしてもいただけない。
今後、法規制、クリーンなモデルの発展、Novel AIの相当多くの日本人への膾炙からの既成事実化などがあれば、自分も使うかもしれない。
なんだって、反出生フェミの人達ってわざわざ「独身女性」じゃなくて「単身女性」という言葉を使うんだろう?
世間一般では、単身女性と言われたら夫に先立たれて子供もとっくに独立した既婚子持ちの高齢女性を連想する人が多いと思う。だって人口的には、結婚経験のない女性よりもそっちの方が圧倒的に多数派だからね。
普通は単身女性と言われて、「男と番わない、産まない」なんてイメージは沸かないよ?
単身赴任の「単身」のように、「単身」という言葉は独身者よりも寧ろ、既婚者の一時的な一人暮らしを指すイメージが強い
敢えて分かりにくい表現を用いる謎。
まったく新しい言葉が造られて定着している例は思いつかないが、元々あった言葉が改変される等して頻繁に使われている例は結構ある。
・今となっては死語かもしれんが、「お茶する」とか「茶をしばく」は比較的新しい用例だと思う。
現代では「どっかカフェに行く?」「タピる?」「スタバ行く?」など、より具体的な言葉で説明されることのほうが多いかもしれない。
・ネット上でちょっとした買い物をすること(してしまうこと)を「ポチる」と現代日本人は呼んでいる。購入ボタンをポチっと押すことから来ている言葉だ。
・「秒で」はすぐにである。
・「語彙力を失う」「語彙力が足りない」は言葉を失う(ほどすごい)とか、筆舌尽くしがたいの現代語である。
・「~る」とすると動詞となり、「~い」とすると形容詞となるのは普遍的かもしれない。
・粋がっている由来の「イキってる」はたぶんもう少し最近の用例だ。
・「~ガチャ」は、結果が主に~部分に依存する運次第であることを意味する。親ガチャ、国ガチャなど。いくらか投入するとランダムに景品を出す仕組みの俗称、「ガチャガチャ」が由来。
・「尊い」は素晴らしい、素敵くらいの意味で使われている。日常的にはあまり使われなかった言葉が日常にふたたび浸透した例。
・「~み」。ツラみ、バブみ、わかりみなど。すぐ消える表現と思ったが、意外と生き残っている気がする。
・「〇活」。就活、婚活、朝活、終活、推し活等。○活は半ばリ○ルートがむりくり流行らせたのが人口に膾炙したんじゃねーかと思う。
ほかにも色々ある気がするがとりあえずこんなもんで。
今回の事件の報道を追う中で、彼の手紙やツイートを読んだが、これは正しく「令和の文豪」と呼んで良いのではないか。
「◯◯の文豪」という表現は、今やすっかり人口に膾炙して久しい定番のインターネットミームの一つだが(例:真夏の夜の淫夢関連のネタである「岡山の文豪」など)、彼の行い、彼の信念、彼の悲壮なまでの自己犠牲精神(自殺して死亡保険金を得てまで兄妹を救おうとしたところなど)、そして何より、その巧みな文章、ある種の達観と知性とを強く感じさせる筆致などを鑑み、これはもう、インターネットミーム云々を抜きにして、正しく本来の意味で「令和の文豪」と呼んで差し支えないと私は思う。
元首相暗殺にまで至ってしまったことは本当に残念だが、同時に、この事件が無ければ、政権与党に巣食う極悪カルト宗教という日本の闇は決して表に出ることはなかっただろう。
日本のインターネットの一部、または、中国などでは、彼を英雄視・神格化する意見が絶えない状況にあるが、それも至るべくして至った必然だと思う。