はてなキーワード: 神様とは
神様もそんな暇じゃないよ
逆に自分は見ず知らずの他人を助けたいと思うか?もし自分がそういう人間だというのなら、まず自分を助ければいい。それでこの話は終わり。
よって、余裕のない自分を余裕のない自分が助けるのは現実的には不可能困難である
誰も助ける人がいないなら、助けることができうる人は自分しかない
それもまた正しいと思う
思いはするが、一方でまた、余裕がない自分が自分を助けられるはずもない、というのもまた事実である
「他人は変えられないが、自分は変えられる」と自己啓発本や自己啓発セミナービジネスで言われる常套句であるが、本当にそうだろうか?
一見、自分は自分でコントロール可能に思えるが、本当にコントロール可能なのだろうか?
コントロール可能であるとしても、まず疑問に思う、考えてみる、というワンクッションを置いているだろうか?
よしんばそういう善きサマリアの人が現れたとしても、「なんとかなりたい」と考えている人の方が圧倒的に助けやすいのでそっちを救いがちだ。
調べてみるとサマリア人の話の真意は宗派によっても大きく分れるようであるが、
サマリア人とは異国の人という意味が込められているように思える
しかしながら、米国人や中国人は日本人を助けた、といった感じの話である
助けた理由としては、隣人愛として誰であれ困っている人を助けなさいという考え方もあるだろうし、
助けてくれた米国人や中国人はキリスト教徒だから助けただけである、という考え方もあるかもしれない
しかし、いずれにせよ、他人を助けることに何らかの見返りを求める話ではないというか、
ここで見返りとして考えられるのは神によって死後与えられる永遠の命であって、
「なんとかなりたい」と考えている人がトリアージとして優先されるとか、そういう話ではないのである
というか、トリアージと考えても、助かる人を優先するなら軽症者が優先されてしまうわけで、それはそれで変な話である
これも宗派に寄る考えであり、私の考えは異端や邪教なのかもしれないが、
現実的に誰であれ助けるということは不可能であり、それは端的に述べれば人は神ではないからである
誰であれ助けることができ、助けるべきであると豪語する人がいるならば、それは自分を神と思っている人である
我々人にできるのは神様の良き考えを倣う、ベストエフォートしかありえないのである
また、イエスは例え話をするのみであり、真意をズバリと語ったり解説はしない
私はシンエヴァを観に行ってはいませんが、エヴァもまたTVの最初から真意をズバリと語ってはいません、謎だらけです
どうやらシンエヴァで謎を比較的具体的に直球で説明口調に語るようですが、それでも謎は残っているのではないでしょうか?
まず、例え話とか回りくどい話し方をすれば考える人は考えるはずです
例えば、エヴァというアニメが何が言いたいのか分からない、と思ったとして、
いや、何が言いたいのか知りたい、謎の真実を改名したい、考え続けたい、という人に分かれると思うのです
ここで、エヴァが何が言いたいのか分からん、難しいからつまらない、もう観ない、
という人と同じように、イエスが語るのは例え話ばかりだ、何が言いたいのか分からん、
イエスとしても、神様がそういう回りくどいことを言っていて、自分はそのまま伝えてる面もあるので、
意味が分からないと言われても、俺が説明するよりお前らひとりひとりが考えて見つけろよ、
ということでもあると思うのです
分かる人には分かる、
そういえば、早稲田のインタビューで、人類補完計画って何だったんですかね?みたいな質問に対し、
庵野氏が、分かる人には分かると思うですけどね…、と語るに留め、それ以上は語ってなかったと思うのですが、
まあ、そういうことです
イエスというか、神様的には、例えで書いても分かる人には分かるんで…、ということであり、
逆に刺さらない人には刺さらない話なんで、そういう人たちは自分の客ではないのでどうでもいいです、
ということだとも考えられます
善きサマリア人って何やねん?
というのも、当時の人々でないと当時の空気感が分からなかったりするわけで、真意が掴みづらいと思うのです
エヴァだってシンエヴァだって、これから50年後、100年後に初めて観る人たちからすれば、
この人たち何を言い争ってるの?バカなの?
みたいに思われるかもしれません
原発事故なんて100年後には忘れ去られてしまって、その頃の子供たちが観たら、
ふーん、歴史の教科書で原発事故は知ってたけど、当時は話題だったんだねー、と思われるだけかもしれません
しかしながら、善きサマリア人の話には、相手に助けがいがあるかといった見返りを求める話には思えないはずです
学生時代、件の「あえぎエディタ.xls」におそらく触ったことがあるのだ。
学部生と院生が共同で利用できる談話室で、そこにはPCが一台だけ置いてあった。
PCルームのコンピュータの方が機種が新しかったためか、はたまたそこに一台しかないために起こる遠慮のせいか、ほぼ独占していたように記憶している。
ある日、気まぐれに隠しファイルを検索すると、諸先輩方が残した過去問データに混ざって「エディタ.xls」があるのを発見したのだ。
文章を入力すると、その緊張度合いが「絶頂度」という値で算出される不思議なツールだった。
これを卒論に応用できないかと思い、試行錯誤したものだが、式を見ても音声的要素の数値化と計算処理の妥当性を担保する理論を自力で復元できなかったため、諦めざるを得なかった。
どういう理屈で作り上げたのか、テキスト化してくれなかった制作者を恨んだものだ。
1点目は、増田が指摘していたように「多くの作品で、最後に向かうほど「絶頂度」が高まっていく」ことだ。
2点目は、「1点目の傾向は短~中編に顕著で、長編になると当てはまらないものが増える」ことである。
例えば、太宰の「駈込み訴え」は典型的な「最後に向かうこと「絶頂度」が高まっていく」作品だ。頭から250越えの高い値をマークしていながら、「私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」で最高潮に達する傑作である。(最後の数値は伏せる。太宰は「羅生門」より高くても低くても何か言いそうだ。)
しかし同じ太宰でも長編小説の「人間失格」はエピローグの値が全体的に低いのだ。(ただし「神様みたいないい子でした」で跳ね上がる。)
この、長編における末尾の値の落ち着きについて何か述べたかったのだが、前述の経緯で諦めたため、そこから先のより突っ込んだ分析はしていない。
それにしても、算出される値に「絶頂度」と名付けるとは、不思議な趣味だと思ったが、こうしてツール作成の経緯と本来の名前が判明したことで合点がいった。
あえぎ声か。すると私が気にしていた「末尾の値の落ち着き」はさしずめピロートークだったのだな。
多くの日本人にとって神様はトトロやサンタクロースみたいなものなのかもしれないね
生まれた時から特定の宗教を信仰してる人は多かれ少なかれそれを土台にした性格形成をされてると思う。
でも信仰を持たない日本人が寺社仏閣を訪れるのは他の信仰をすでに持ってる外国人が観光で訪れるのと感覚的に似てる。
むしろ自分の神を持ってる人らのほうがよその神への敬意は深そうに見える。
葬式等のイベントにしてもみんながやってるからやらないと立場が悪くなりそうだからやってる。
宗教を持ってる人の信仰心って、宗教アレルギー的な刷り込みを受けてきた信仰を持たない日本人とは温度差がすごすぎるんだよ。別に狂信者とかじゃなくてもね。
「神様っていると思う?」って聞かれて「どーかなわかんない」って流したらめっちゃ驚愕されて説明されまくったり、「日本人は○○教の教育を受けてないから道徳心が無い」とか普通に言われたり、何かというと常にその宗教の教えが会話の中に出てきたり、そういうのを目の当たりにすると信仰を持たない日本人がやってる宗教的な行いは、特定の宗教を信仰してる人のやってるやつとは全然違うなと思ってしまう。
ようするに
・神様を信じるってことは神様にもこっちを信じてもらうために(その神様目線からいえば)いい子にするってこと(大まかに信仰のありかた)
・どの神様が何していいとか何しちゃだめとかいろいろ決まりがあるけど日本人はそれ守る気はない(逆説的に上記の神様に信じてもらうためというのを否定してる)
学校教育が「日本においてあるべき情報の基礎」と思われるくらい義務化されてるから、宗教が文化で情報の記録で教育で治世的なものであるという役割を捨ててる
道徳も倫理も「学校で学んだろ」って言葉で完結してしまうし善悪の基準は「世間さま」
神ってものが何なのかよくわからないけれどもおなじ立ち位置に「みんな」「世論」「世間」とかを据えてる
さらに
・神様にお願いする行為はなんでもするけど、神様がお願いしてる事(禁則事項)は守る気はない
神様はえらいからうちら庶民のことなんかとりたてて監視しないしそんなきついこともいわんやろ、けど神様が基本的人権について忘れてそうっておもったらすごい勢いで呪う
概念や想像の範囲内はすぐ頼るけど、それに到達しないと現実のなにかをめっちゃ攻撃する
駅に階段しかなかったら駅員を晒すし望みのレストランに入れなかったら晒す 運を神様が操って自分にだけカスタマイズされた試練だとは思ってない
でも運よく予約がとれたら日頃の行いっていうしスムーズに事が運べば神様に感謝して実際の関係者には感謝しない
構造的に一番安上がりな事をするというだけ
受験勉強を寝ずに毎日頑張るのよりも小銭で絵馬を書いて願掛けしたら匹敵するかもって期待しておちたら学校制度を呪うし合格したら何らかの実力を誇る
という理由で神の座がないってことやね
なんか適当に精霊的な神様を思う事はあるけど、それを信仰してる訳ではない。
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
「一粒のお米には七人の神様がいる」の神様は、私が思っていた七福神ではありませんでした。水、土、風、虫、雲、太陽、そして作る人の七つの意味があるそうです。
作る人=小作人
日本人は「初詣で神社に行ったり、お葬式に出席したり、結婚式をチャペル」を宗教だとは考えておらず、これらの宗教的な行いをマナーやただの行事と考えています。
「一粒のお米には七人の神様がいる」というようにアニミズムや八百万の信仰が無意識にあるからではないでしょうか。
日本で宗教と言えばキリスト教などの有名なものか、オウムなどの新興宗教を思い浮かべる方がほとんどのため、自分はとくに宗教上の信条はないと考える日本人が多数います。
結局俺がほしいのは恋愛ゲームのヒロインみたいに勝手にこっちを好きになってくれるキャラクターなのよ
でもそんなのいないじゃん なろう系だよ
だから同じなろう系でも転生の方に賭けてトラックにそのうち跳ねられる機会を伺っているわけ
神様が手違いで殺してくれることを待ちながら黙々と日々を過ごしてるだけ
私はクリスチャンです。といってもカトリックのような懺悔だとかミサがあるわけではなく、割と自由な感じのプロテスタントの教会のクリスチャンです。日曜礼拝とかあるけど、サボってもそんなに怒られないし、私自身日曜礼拝サボりまくりのダメダメクリスチャンなんですが。だいたい神様を信じたら、だいたいの「やってしまった!でも悔い改めるわ!」で神様は許してくれるのでな?ゆるいぜキリスト教プロテスタント。
こういう感じで、ゆるふわに神様を信仰しています。教会や宗派によっては厳しいとこもあるみたいですが。
で、なんとなく、増田にでも書いて、すっきりしようと思って書くのです。それは、日本人の宗教観についてです。日本人は無宗教だといわれますが、私にとっては違和感しかありません。
というのも日本人って、なんとなく神を信じていてなんとなく信じていいないだけなんじゃないかって思っていて、それは無宗教でもないよねというか。
たしかに私のように一つの宗教を信じているって日本人は少ないと思います(一つの宗教を信じている中にも私のようにゆるゆるふわふわ信仰している人もいれば、ガチ信仰している人もいるんですが)。
でも全く宗教を信じていないってわけでもないなって感じます。それはよく言われるように「初詣で神社に行ったり、お葬式に出席したり、結婚式をチャペル」みたいなことをするけど、「宗教を信じていない」というのから来ています。
私にとっては意味が分かりません。矛盾しているのです。本当に宗教を信じていないならば、神社に行ったりなんかしないはずです。
また、アニメや漫画を見ていても、「神様」みたいなキャラクターが出てきたり、神話みたいなものも抵抗なく受け入れているのを見て、それって無神論者であれば受け入れられないと思います。
それが古くからの伝統だから?慣習だから?みんなやっているから?と答えられますが、それこそ私にとっては「宗教の信仰」なんですよ。
私の家も古くからキリスト教を信仰しているから家の慣習で私もクリスチャンやっているだけなんですよね。
神様も「ぜったいいる!!」みたいな感覚というか「ああ、なんかいるよね~」って気分で信仰しています。
ずっと解消されない疑問で、つまり、「無宗教」「なんの信仰もしていない」ってのになんで、みんな神社言ったり、お寺言ったりしてるでしょうか?という疑問が未だに解消されないので、ここに書いてすっきりしたいと思っていますがすっきりしないな。と。誰かすっきりさせてください...
※追記
みなさんのコメントを見て、なんとなく理由が分かってきました。ありがとうございます。ですが、同時に私の疑問をもうすこしはっきり言語化すると、
例えば、みなさん、神社にお参りに行きますよね?その時に、手水で手を洗って、2回お辞儀して、2回拍手するらしいですね? それでお賽銭?というお金を投げ込んで、なにかお祈り(願いごと)をするらしいですよね?(実際には私は一度もお参りをしたことがないので実態が分かりませんが、人から聞いた話によるんですが)
これって、まさに何か信仰していないとできないことだと思うんです。でも、日本人は「無宗教」だというのがよく分からないのです。無宗教なのに、お祈りしてしきたり守って挙句の果てに献金(お賽銭)までしてる。
お葬式なんて、仏教の行事で、なにかお坊さんがお経を唱えるのを訳も分からず、ずっと聞いているらしいのですが、僕らからすると牧師さんのわけのわからない説教を聞くのと同じようなもんじゃないかと。(ちなみに、余談ですが「教会に行くと洗脳されそうで怖い」って言われたりするんですが、「お経を聞いて洗脳されないの?」というのと似たような疑問を持ったりします。あと話が逸れますが、お坊さんのお経って日本語じゃないらしいのですが、なんで日本語で唱えてくれないのでしょうかね?だれも文句いわないんですか?)
でもコメントをみる限りそういうのを信仰と思っていないとか、「信仰に自覚的ではない」んだなと理解しました。もしくは、「他の熱心な信者に比べると、信仰していないので無宗教」という感じですかね?