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はてなキーワード: 神様とは

2021-04-10

anond:20210410011634

神様がそんなに可愛いわけないじゃん

だいたいヨボヨボのジジイだろ

なんで駅って段差あるんだろうな

ホームなんてあんな高いところにある必要ないだろうに。神様に対して階段登らせるってのがナンセンス

女性車椅子障害者に優しい社会弱者男性にとっても優しい社会になるよ

anond:20210410103206

ほんとうに神様だったら、すっげーよな、

賽銭いっぱいしておこうぜ日頃から

anond:20210410021602

煽りマジレスするけど、

逆に自分は見ず知らずの他人を助けたいと思うか?もし自分がそういう人間だというのなら、まず自分を助ければいい。それでこの話は終わり。

現実的には「余裕がある」人にしか他人を助けられない

よって、余裕のない自分を余裕のない自分が助けるのは現実的には不可能困難である

誰も助ける人がいないなら、助けることができうる人は自分しかない

それもまた正しいと思う

思いはするが、一方でまた、余裕がない自分自分を助けられるはずもない、というのもまた事実である

他人は変えられないが、自分は変えられる」と自己啓発本自己啓発セミナービジネスで言われる常套句であるが、本当にそうだろうか?

一見自分自分コントロール可能に思えるが、本当にコントロール可能なのだろうか?

コントロール可能であるとしても、まず疑問に思う、考えてみる、というワンクッションを置いているだろうか?

よしんばそういう善きサマリアの人が現れたとしても、「なんとかなりたい」と考えている人の方が圧倒的に助けやすいのでそっちを救いがちだ。

調べてみるとサマリア人の話の真意宗派によっても大きく分れるようであるが、

サマリア人とは異国の人という意味が込められているように思える

まり日本人が道端で困っていたが日本人は誰も助けない

しかしながら、米国人中国人日本人を助けた、といった感じの話である

助けた理由としては、隣人愛として誰であれ困っている人を助けなさいという考え方もあるだろうし、

助けてくれた米国人中国人キリスト教徒から助けただけである、という考え方もあるかもしれない

しかし、いずれにせよ、他人を助けることに何らかの見返りを求める話ではないというか、

ここで見返りとして考えられるのは神によって死後与えられる永遠の命であって、

「なんとかなりたい」と考えている人がトリアージとして優先されるとか、そういう話ではないのである

というか、トリアージと考えても、助かる人を優先するなら軽症者が優先されてしまうわけで、それはそれで変な話である

これも宗派に寄る考えであり、私の考えは異端邪教なのかもしれないが、

現実的に誰であれ助けるということは不可能であり、それは端的に述べれば人は神ではないかである

誰であれ助けることができ、助けるべきである豪語する人がいるならば、それは自分を神と思っている人である

宗教とはそういった自惚れを戒める意味もあるはずである

我々人にできるのは神様の良き考えを倣う、ベストエフォートしかありえないのである

また、イエスは例え話をするのみであり、真意ズバリと語ったり解説はしない

真意はお前が考えろ、になってます

私はシンエヴァを観に行ってはいませんが、エヴァもまたTV最初から真意ズバリと語ってはいません、謎だらけです

どうやらシンエヴァで謎を比較的具体的に直球で説明口調に語るようですが、それでも謎は残っているのではないでしょうか?

例え話ばかりする理由真意解釈によると思うのですが、

まず、例え話とか回りくどい話し方をすれば考える人は考えるはずです

例えば、エヴァというアニメが何が言いたいのか分からない、と思ったとして、

そこでエヴァは難しいからもう観ない、という人と、

いや、何が言いたいのか知りたい、謎の真実改名したい、考え続けたい、という人に分かれると思うのです

ここで、エヴァが何が言いたいのか分からん、難しいからつまらない、もう観ない、

という人と同じように、イエスが語るのは例え話ばかりだ、何が言いたいのか分からん

という人はそこで考えるのを放棄してしまタイプなのです

イエスとしても、神様がそういう回りくどいことを言っていて、自分はそのまま伝えてる面もあるので、

意味が分からないと言われても、俺が説明するよりお前らひとりひとりが考えて見つけろよ、

ということでもあると思うのです

それから、これもエヴァに例えることもできると思うのですが、

分かる人には分かる、

という意味とも考えられます

そういえば、早稲田インタビューで、人類補完計画って何だったんですかね?みたいな質問に対し、

庵野氏が、分かる人には分かると思うですけどね…、と語るに留め、それ以上は語ってなかったと思うのですが、

まあ、そういうことです

イエスというか、神様的には、例えで書いても分かる人には分かるんで…、ということであり、

逆に刺さらない人には刺さらない話なんで、そういう人たちは自分の客ではないのでどうでもいいです、

ということだとも考えられます

結論として、これもエヴァに例えられると思うのですが、

善きサマリア人って何やねん?

というのも、当時の人々でないと当時の空気感が分からなかったりするわけで、真意が掴みづらいと思うのです

エヴァだってシンエヴァだって、これから50年後、100年後に初めて観る人たちからすれば、

この人たち何を言い争ってるの?バカなの?

みたいに思われるかもしれません

シンゴジラだってそうでしょう

原発事故なんて100年後には忘れ去られてしまって、その頃の子供たちが観たら、

ふーん、歴史教科書原発事故は知ってたけど、当時は話題だったんだねー、と思われるだけかもしれません

しかしながら、善きサマリア人の話には、相手に助けがいがあるかといった見返りを求める話には思えないはずです

見返りがあるとすれば、それは聖書で述べられているように永遠の命であり、しかしそれは死後に与えられるものです

当前ですが、他人を助ける、聖書に記されたことを守れば、不老不死メトセラになれるという話ではないのです

もし自分のことをめちゃくちゃ可愛い子がじっと見つめてきたらさ

少しでも良いところを見せようと思って襟を正したり、仕事を頑張ったりするわけじゃん

まり神様を信じることの効用はそういうことなんだよ

2021-04-08

anond:20210408000218

このエントリを読んで、思い出したことがある。

学生時代、件の「あえぎエディタ.xls」におそらく触ったことがあるのだ。

学部生と院生が共同で利用できる談話室で、そこにはPCが一台だけ置いてあった。

PCルームコンピュータの方が機種が新しかったためか、はたまたそこに一台しかないために起こる遠慮のせいか、ほぼ独占していたように記憶している。

ある日、気まぐれに隠しファイル検索すると、諸先輩方が残した過去問データに混ざって「エディタ.xls」があるのを発見したのだ。

文章入力すると、その緊張度合いが「絶頂度」という値で算出される不思議ツールだった。

これを卒論に応用できないかと思い、試行錯誤したものだが、式を見ても音声的要素の数値化と計算処理の妥当性を担保する理論自力復元できなかったため、諦めざるを得なかった。

どういう理屈で作り上げたのか、テキスト化してくれなかった制作者を恨んだものだ。

この試行錯誤過程で、気がついたことがある。

1点目は、増田が指摘していたように「多くの作品で、最後に向かうほど「絶頂度」が高まっていく」ことだ。

2点目は、「1点目の傾向は短~中編に顕著で、長編になると当てはまらないものが増える」ことである

例えば、太宰の「駈込み訴え」は典型的な「最後に向かうこと「絶頂度」が高まっていく」作品だ。頭から250越えの高い値をマークしていながら、「私の名は、商人ユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」で最高潮に達する傑作である。(最後の数値は伏せる。太宰は「羅生門」より高くても低くても何か言いそうだ。)

しかし同じ太宰でも長編小説の「人間失格」はエピローグの値が全体的に低いのだ。(ただし「神様みたいないい子でした」で跳ね上がる。)

この、長編における末尾の値の落ち着きについて何か述べたかったのだが、前述の経緯で諦めたため、そこから先のより突っ込んだ分析はしていない。

それにしても、算出される値に「絶頂度」と名付けるとは、不思議趣味だと思ったが、こうしてツール作成の経緯と本来名前が判明したことで合点がいった。

あえぎ声か。すると私が気にしていた「末尾の値の落ち着き」はさしずめピロートークだったのだな。

2021-04-07

anond:20210407174925

多くの日本人にとって神様トトロサンタクロースみたいなものなのかもしれないね

子供の頃に素朴に信じていた経験が根っこにあると思う

大人は本気で信じちゃいないが、それでもなんとなく神様に見守られてるような感覚を多くの日本人が共有している

それを「信仰」と表現するのは大いに違和感があるが

から見たら「信仰」としか言いようがないのかもしれない

anond:20210407203409

結局政治家がいい政治家か、そうじゃないか?は立場とか結果論によると思う

小説なら作者が神様からどんな政治が最善がわかるけど現実は予想しても外れることはある

田沼意次とか結構評価割れてるし(現代じゃなくてすまん)

anond:20210407123142

別に日本人がいろんな神様に対して思うことと変わらんよ

anond:20210406154303

まぁそれらが信仰かというとそこまでのものではない気がする。

まれた時から特定宗教信仰してる人は多かれ少なかれそれを土台にした性格形成をされてると思う。

でも信仰を持たない日本人寺社仏閣を訪れるのは他の信仰をすでに持ってる外国人観光で訪れるのと感覚的に似てる。

しろ自分の神を持ってる人らのほうがよその神への敬意は深そうに見える。

個人的には信仰ではなく完全に観光で行ってる。

葬式等のイベントにしてもみんながやってるからやらないと立場が悪くなりそうだからやってる。

宗教を持ってる人の信仰心って、宗教アレルギー的な刷り込みを受けてきた信仰を持たない日本人とは温度差がすごすぎるんだよ。別に狂信者とかじゃなくてもね。

神様っていると思う?」って聞かれて「どーかなわかんない」って流したらめっちゃ驚愕されて説明されまくったり、「日本人は○○教の教育を受けてないか道徳心が無い」とか普通に言われたり、何かというと常にその宗教の教えが会話の中に出てきたり、そういうのを目の当たりにすると信仰を持たない日本人がやってる宗教的な行いは、特定宗教信仰してる人のやってるやつとは全然違うなと思ってしまう。

2021-04-06

anond:20210406202713

ようするに

神様を信じるってことは神様にもこっちを信じてもらうために(その神様目線からいえば)いい子にするってこと(大まかに信仰のありかた)

・どの神様が何していいとか何しちゃだめとかいろいろ決まりがあるけど日本人はそれ守る気はない(逆説的に上記神様に信じてもらうためというのを否定してる)

 学校教育が「日本においてあるべき情報の基礎」と思われるくらい義務化されてるから宗教文化情報の記録で教育で治世的なものであるという役割を捨ててる

 道徳倫理も「学校で学んだろ」って言葉で完結してしまうし善悪基準は「世間さま」

 神ってものが何なのかよくわからないけれどもおなじ立ち位置に「みんな」「世論」「世間」とかを据えてる

この二つで信仰心はないし無宗教っていえる

さら

神様にお願いする行為はなんでもするけど、神様がお願いしてる事(禁則事項)は守る気はない

神様はえいかうちら庶民ことなんかとりたてて監視しないしそんなきついこともいわんやろ、けど神様基本的人権について忘れてそうっておもったらすごい勢いで呪う

概念想像範囲内はすぐ頼るけど、それに到達しないと現実のなにかをめっちゃ攻撃する

駅に階段しかなかったら駅員を晒すし望みのレストランに入れなかったら晒す 運を神様が操って自分にだけカスタマイズされた試練だとは思ってない

でも運よく予約がとれたら日頃の行いっていうしスムーズに事が運べば神様感謝して実際の関係者には感謝しない

構造的に一番安上がりな事をするというだけ

受験勉強を寝ずに毎日頑張るのよりも小銭で絵馬を書いて願掛けしたら匹敵するかもって期待しておちたら学校制度を呪うし合格したら何らかの実力を誇る

という理由で神の座がないってことやね

anond:20210406154303

なんか適当精霊的な神様を思う事はあるけど、それを信仰してる訳ではない。

別に裏切ってもいいし、無かったことにしてもいい。

ただとりあえず何となくそこにいる神様的なやつにあやかっておこうというプロテスタントよりも遥かに緩い宗教観

無神論ではないけど、特定宗教に傾倒している訳でもない。

から無宗教

anond:20210406154303

いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰信仰方法自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか

信仰宗教は違うのかというとそれはもう文字意味も違うので違うのだと思います

どの神様に、と選べる時点で無宗教宗教宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです

宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう

宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう


自由という範疇についてすこし絞っておくと

自由を奪うことは罪であり悪であり宗教道徳といった観念から排除されるべきものととらえるのは早計でしょう

選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由範疇におさめることができます

どんな宗教悪事自由ではなく制限され道徳権利自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう

自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう

それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです

自由で公平で自発的なのか、恣意的他人欲求だったのか、視野自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人所為でもあります

この定義方法を、議論考察研究文化形成生活安全性自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者認識共通させる必要があります

その基準定義宗教なわけです

Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです

その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物文化継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです

これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化しま

民主主義多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報積極的に取り込み侵食する必要はないのです

日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思います日本島国日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした

この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります

培ってきた文化財産、知恵や技が家族一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体自由制限自由を得るための礎となるわけです

自由自由みたいなことになってしま言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由選択することすらままならなくなる」のです

両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう

自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由侵害するために自由供給されているともみれます

選択肢を狭くすることで状況を予測やすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか


さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやす解決をしやすい方向へ導くためのルール規則単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます

宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなもの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段複数あるということになるかもしれません

それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康文化による財産生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです

日本調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要いからです

気温が50度を超える環境冷蔵庫家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態無宗教日本とおなじ文化必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります

これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか

それを残すための独立組織宗教団体です

お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることな中立でいて安全のためだけに情報継承する立場聖人という代替概念でその尊厳意味づけて形作っているのが宗教です

これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性保障を引き受けられる個人団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう

その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです


日本無宗教なのはほとんどの生活行動範囲安全なため危険回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです

交通安全山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です

まり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者賠償要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです

責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです

個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません

それぞれの個人責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全担保しているのが政府国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇自分日本人だとして人権自由国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう

その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません



男性女性は、と議論をするときにまず男性女性議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう

宗教宗派戒律ルールもそうです

男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです

「それ、あなた感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動あきらかでしょう

その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールことな干渉があるとどうなるでしょうか

いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人構成比較議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません

「それあなた意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか

裁判官が有罪と口にしたら「それあなた意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか

裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家ルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成であるということがそれらの代弁代行に意味なすことができるわけです

一人が自己責任権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織定義している範囲侵害されるべきではないでしょう

これらルールにのっとり、ルール適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体定義方法なのです


日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界安全繁栄目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄闘争議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール個人ごとの約束などがあるわけです。

まり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分宗教に属することで行動範囲限定利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです

自由時間抑制しより賃金収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教自由といったところでしょうか

会社につとめながら、フリーター自由さを味わい、フリーター責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルール戒律罰則があるわけです

複数の神を信仰する自由は、個人可能範囲自由謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです

いかがだったでしょうか?

日本人が無宗教という表現に、いくつかばかり参考や選択肢の候補になりましたでしょうか?

anond:20210406182808

「一粒のお米には七人の神様がいる」の神様は、私が思っていた七福神ではありませんでした。水、土、風、虫、雲、太陽、そして作る人の七つの意味があるそうです。

作る人=小作人

農地解放社会主義思想から一世紀も歴史はないな

anond:20210406181049

「一粒のお米には七人の神様がいる」って明らかに歴史の浅い考え方だよな。

anond:20210406154303

日本人は「初詣神社に行ったり、お葬式に出席したり、結婚式チャペル」を宗教だとは考えておらず、これらの宗教的な行いをマナーやただの行事と考えています

「一粒のお米には七人の神様がいる」というようにアニミズム八百万信仰無意識にあるからではないでしょうか。

日本宗教と言えばキリスト教などの有名なものか、オウムなどの新興宗教を思い浮かべる方がほとんどのため、自分はとくに宗教上の信条はないと考える日本人が多数います

結局俺がほしいのは恋愛ゲームヒロインみたいに勝手にこっちを好きになってくれるキャラクターなのよ

でもそんなのいないじゃん なろう系だよ

から同じなろう系でも転生の方に賭けてトラックにそのうち跳ねられる機会を伺っているわけ

神様が手違いで殺してくれることを待ちながら黙々と日々を過ごしてるだけ

クリスチャンですが日本人無宗教だって言うと違和感がある

私はクリスチャンです。といってもカトリックのような懺悔だとかミサがあるわけではなく、割と自由な感じのプロテスタント教会クリスチャンです。日曜礼拝とかあるけど、サボってもそんなに怒られないし、私自身日曜礼拝サボりまくりダメダメクリスチャンなんですが。だいたい神様を信じたら、だいたいの「やってしまった!でも悔い改めるわ!」で神様は許してくれるのでな?ゆるいぜキリスト教プロテスタント

こういう感じで、ゆるふわ神様信仰しています教会宗派によっては厳しいとこもあるみたいですが。

で、なんとなく、増田にでも書いて、すっきりしようと思って書くのです。それは、日本人宗教観についてです。日本人無宗教だといわれますが、私にとっては違和感しかありません。

というのも日本人って、なんとなく神を信じていてなんとなく信じていいないだけなんじゃないかって思っていて、それは無宗教でもないよねというか。

しかに私のように一つの宗教を信じているって日本人は少ないと思います(一つの宗教を信じている中にも私のようにゆゆるふわふわ信仰している人もいれば、ガチ信仰している人もいるんですが)。

でも全く宗教を信じていないってわけでもないなって感じます。それはよく言われるように「初詣神社に行ったり、お葬式に出席したり、結婚式チャペル」みたいなことをするけど、「宗教を信じていない」というのから来ています

私にとっては意味が分かりません。矛盾しているのです。本当に宗教を信じていないならば、神社に行ったりなんかしないはずです。

また、アニメ漫画を見ていても、「神様」みたいなキャラクターが出てきたり、神話みたいなもの抵抗なく受け入れているのを見て、それって無神論者であれば受け入れられないと思います

それが古くから伝統から?慣習だから?みんなやっているから?と答えられますが、それこそ私にとっては「宗教信仰」なんですよ。

私の家も古くからキリスト教信仰しているから家の慣習で私もクリスチャンやっているだけなんですよね。

神様も「ぜったいいる!!」みたいな感覚というか「ああ、なんかいるよね~」って気分で信仰しています

ずっと解消されない疑問で、つまり、「無宗教」「なんの信仰もしていない」ってのになんで、みんな神社言ったり、お寺言ったりしてるでしょうか?という疑問が未だに解消されないので、ここに書いてすっきりしたいと思っていますがすっきりしないな。と。誰かすっきりさせてください...


追記

みなさんのコメントを見て、なんとなく理由が分かってきました。ありがとうございます。ですが、同時に私の疑問をもうすこしはっきり言語化すると、

例えば、みなさん、神社にお参りに行きますよね?その時に、手水で手を洗って、2回お辞儀して、2回拍手するらしいですね? それでお賽銭?というお金を投げ込んで、なにかお祈り(願いごと)をするらしいですよね?(実際には私は一度もお参りをしたことがないので実態が分かりませんが、人から聞いた話によるんですが)

これって、まさに何か信仰していないとできないことだと思うんです。でも、日本人は「無宗教」だというのがよく分からないのです。無宗教なのに、お祈りしてしきたり守って挙句の果てに献金(お賽銭)までしてる。

お葬式なんて、仏教行事で、なにかお坊さんがお経を唱えるのを訳も分からず、ずっと聞いているらしいのですが、僕らからすると牧師さんのわけのわからない説教を聞くのと同じようなもんじゃいかと。(ちなみに、余談ですが「教会に行くと洗脳されそうで怖い」って言われたりするんですが、「お経を聞いて洗脳されないの?」というのと似たような疑問を持ったりします。あと話が逸れますが、お坊さんのお経って日本語じゃないらしいのですが、なんで日本語で唱えてくれないのでしょうかね?だれも文句いわないんですか?)

でもコメントをみる限りそういうのを信仰と思っていないとか、「信仰自覚的ではない」んだなと理解しました。もしくは、「他の熱心な信者に比べると、信仰していないので無宗教」という感じですかね?

チャンスの神様には前髪しかない

髪の毛掴むとか神様に対してなんて扱いだよ

anond:20210405202858

あのさぁ、三国志ってもともと中国ではほとんど人気がなくて、関羽中国人「なんかひげの長い神様。ご利益あるらしい」)くらいしか知名度なかったの

昭和日本三国志演義を誇張した吉川英治という小説家とそれをマンガにした横山というのが知名度ガン上げしたの

から三国志なんてほぼ日本のキャラが固定したイメージをなぞってつくってるだけなの(一応ものすごく無知な人のために豆知識もつけたしておくと底本の三国志演義だけは中国人が書いた本だよ。ドマイナーだけど。)

信長の野望とか筋肉おじさんばっかりの和製ゲームかにもあるよ

おまえが無知なだけ

おわり

anond:20210405210640

制度施設の不備を指摘する方法は他にもあった

駅員に文句垂れて呼びつけて100Kg以上ある車椅子階段で運ばせて

お客様神様ならぬ障害者様は神様

差別差別差別差別

これで黙らせられるって学習してんだよ

2021-04-05

anond:20210405233842

遅くとも1980年代から不正が行われ、対象製品の納入先は1747社に上ることが判明した。

現時点では性能上の不具合安全上の問題確認されていないという。

経営陣が不正を黙認、隠蔽(いんぺい)するなど、全社的な法令順守意識の欠如も明らかになった。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021012801312&g=eco

お客様神様

靖国神社神様としてまつられるという意味ですか?

お客様神様

この考え方は多神教なので、キリスト教徒の反感を買う。

2021-04-03

anond:20201214214430

これかなり深刻な問題だと思うよ。

どっかの神様侮辱するコラとか作られたら身の危険でしょ。

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