はてなキーワード: 局所とは
>あれはそもそもお仕事アニメが主眼だと思ってない(まあシリーズではあるけど)。
>あなたはなんでそんなに終始的はずれなのか訳わかんない
思ってない、で反論が終了できるなら何とでも言える
それで反論完了したつもりになっているから、私は「思う」で反論完了だよ
お前がどう思おうが、二クール目はくくると風花の関係よりお仕事アニメが主眼になっていたのは明らか
というか、色々と罵倒の言葉を並べているけど、結局この人二クール目の脚本の不出来を何もフォローできてないよね
そして「これだけ完成されてる部分に盲目的だった事実は何も覆らない」と豪語( https://anond.hatelabo.jp/20220131020235 )していたのだから
「それは局所的な話で、全体としては不出来だった」と言い改めるべきでは
>あれはそもそもお仕事アニメが主眼だと思ってない(まあシリーズではあるけど)。
>あなたはなんでそんなに終始的はずれなのか訳わかんない
思ってない、で反論が終了できるなら何とでも言える
それで反論完了したつもりになっているから、私は「思う」で反論完了だよ
お前がどう思おうが、二クール目はくくると風花の関係よりお仕事アニメが主眼になっていたのは明らか
というか、色々と罵倒の言葉を並べているけど、結局この人二クール目の脚本の不出来を何もフォローできてない
のだから「アクアトープはシナリオよく読むとよく出来てるよ」と言ったが
それは局所的な話で、全体としては不出来だった、と言い改めるべきでは
あの頃はまだインターネットが発達してなかったから、局所的にそういう流れが発生したとしても全体に広がるパワーが弱かったのでは。
ミリオタ(軍隊が好き程度)だけど中国がアメリカに勝てるビジョンが見えない
調べれば調べるほど米軍が圧倒的
量に関しては中国が追い上げてきているけど、それでもまだまだアメリカが圧倒的
質に関しては、本当にアメリカが桁違い
アメリカが世界からマジで20年ぐらい進んでる、実戦経験も豊富
空母の世界展開がマジでできるのはアメリカしかない。やっと中国が原子力空母を建造し始めたけど、これも運用ノウハウをイチから蓄積する必要がある
ここまで世界展開して、量揃えて作戦行動できるのも、この圧倒的すぎるロジスティクスのおかげ
アメリカはやろうとすれば中国を海上封鎖を簡単にできる。中国は日本レベルで他国に依存してるわけじゃないけど、それでも依存はしてる
中国が勝つには局所戦でアメリカを本気で戦わせないようにする、アメリカを内側から攻めるみたいな従来の戦争の手法を使わない(超限戦)になる
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という話かと思いますが
大多数の利便性を優先して、人命軽視を許容しているのではないか、という話になると思います。
一旦この解釈が正しいとすると
ブコメに多くあったメリットデメリットの話は若干回答がずれている、というかあまり良い回答ではないでしょう。
実はこの話、科学技術を世に出す際に倫理的に何が求められるのか、という話でもあり、
大学で科学技術と倫理(技術者倫理)という教養として習う範囲でもあります。
と言うわけで、ここでは科学技術と倫理の観点からなぜ許容されるのか話をしていこうと思います。
と、本題に入るまえにブコメで多くされていた
メリットが大きいからリスクが許容される、つまり最大多数の最大幸福であるという話について触れて起きます。
この様な功利主義的思想は局所適用にはあいますが、社会システムに適用されると非常に危険です。
言い換えてしまうと多くの人が益を受けるから少数者は被害を受けても構わない、という全体主義的システムになりかねないからです。
銅山から流れる鉱毒のせいでそこらへんに住む人は甚大な被害を受けるけど、
国家全体から見れば利益が多大なので仕方ない、みたいな話に繋がってしまいますよね。
なのでデメリットに対してメリットが大きいから、だけだと間違いを産む可能性がありあまりよくないということになります。
では次に本題の、人を死なせることはこの社会において許可されていないのになぜ人を死なせる可能性のある車が許されるのかの話をします。
シンプルに言ってしまうと人を死なせることと人を死なせる可能性がある、というのは大きく違うから、という話なんですが
車増田氏としてはそれに対し可能性があることを認識してるのであれば未必の故意いえるのではないかと考えているんじゃないかなと思います
これに関してはマックスウィーバーが著書「職業としての政治」で述べた心情倫理と責任倫理という考えが役に立つと思います。
心情倫理とは結果がどうあれ正しいと思うことを行動することで
ドイツ観念論のカントの「定言命法」に近く、物事がうまくいったとしても動機が不純なものであれば善としない考えです。
一方、責任倫理とは動機がどうあれその行為が不幸の結果を及ぼすことを予見できるのであればそれを避けるための最善の努力をし、
その結果を負わなければいけないという考えです。
ウィーバーはこの2つの倫理を兼ね備えることが政治家としての不可欠な資質としましたが、技術者倫理としてもこの思想は適用できます。
技術者として製品を世に出す際、その製品が世間をよりよくするものを目指すべきでありかつ
その製品の持つ機能が直接的に危害を及ぼすことがない様に想定できうる限りの防止策を講じるべきである、という考えです。
多分ですが、日本の車メーカーに車を作る理由を問い合わせた際に「弊社の利益さえ上がればいいと思っています」なんていうところは
基本的にないと思うんですよ。
内心はどうであれ、車の製造が利用者の利便性/快適性をあげるという公益性を目的にしているということを言うのではないかと想定してます。
そして実際、機能の研究開発の期間もさることながらテスト期間も相当長く、真冬の北海道に持っていって
寒冷地テストしたり、砂地や泥を用意してそこに突っ込んでスリップテストしたりと
事故を起こさない、人命を守るためのテストをすごいしているんですよね。なので大体開発に5年程度かかります
そしてメーカーだけでなく行政も運転免許という適正審査や安全講習、
小学生児童に対しても交通安全講習会も行い、技術と社会規則の両輪から事故を未然に防ぐ努力をしているわけですね。
つまり、車の利用に関しての「直接的な結果」として人命への被害を避けるための「最善の努力」をしている、とも言えるのです。
そして皆が交通安全規則を守り安全運転をすれば突発的な災害等が起きない限り人命を損なう様な事故は起きないだろうというところまで
この「最善の努力」を「完全に避けなければいけない」としてしまったり「間接的な結果」も責任としてしまうと
言い換えると企業がリコール訴訟を受けた際、事故と直接的な因果関係がないことはもちろんのこと
「最善の努力」をしていたということとが必要になると言うことでもあります。
(アメリカでプリウスが訴訟になった際、そこら辺が焦点になったと聞いています)
つまり、メーカー及び行政がさまざまな手段で事故を防ぐための策を講じてる事実があるので
当初の
人命第一を謳うこの社会で便利だという理由で人が死ぬ原因となる車(装置)を許容するのはおかしい、という意見に対する回答としては
人命に対するリスク対策を社会コストとして払っており、そもそも人が死ぬことを許容はしていない、ということになります。
というわけでまとめます
1. 危険性を伴う製品に関し、メリットデメリットの観点だけだと公害を許容しかねないのでよろしくない
2. 建前とは言えメーカー・行政の両輪で理論上事故が起きない様にする施策を打っており人命軽視しているという認識は間違い
ということになります。
念のため付け加えますが、努力しているから問題を起こしていい、責任がない言うわけではなく、
その開発当時にしりえる知識、技術を元に最大限の努力をしたかが問われるため「最善」と表現されます。
言い換えれば公知の知識の対応を怠った場合などは懈怠責任をとわれます。
つまり今後、科学技術の発展に伴い、危険運転でもリカバーする技術が発明されたらそれも実装が必須になっていくと思います(昔はエアバックとかなかった)
どうでしょう?車増田氏のどこで線引きをしているのか、という問いに対して回答になりえたでしょうか?
あと、死刑の話を絡めて聞いていますが、その話は犯罪者の更生の話や社会から外れてしまった人格をどう扱うかという話なのに対し
車社会の話は公益性を持つが危険性を伴う科学技術とどう付き合って行くかと言う話で根本が違うため
その話を混ぜると複雑になりますし長くなるので省きました。
某医師が布マスクを備蓄に向いているというツイートをしたが、布マスクが向いている一面もありつつ総合的に考えれば向かない
というのが私の考えである。
現在韓国などでは感染症の猛威がまだ続いているが、オミクロン型の重症度は低いと言われるなど収束の兆しを見せている。
また、凶悪な呼吸器感染症の危機はH5N1などあれど、世界的規模のものは約100年前のスペイン風邪まで遡る。
世界規模にさえならなければトイレットペーパーのように一時的な流通の混乱だけで終わるため、呼吸器感染症のためのマスクを備蓄する意義は薄い。
では、マスクの備蓄が役に立つときというのは地震や水害のような災害等で局所的に流通がストップする時である。
布マスクは不織布マスクに比べフィルタ性能は落ちるものの再利用を前提としている。
また災害時ではフィルターのターゲットは塵や埃なので性能をそこまで追求せずとも良く、以下のような利点がある。
・追加の供給が少なくてすみ、他の物資の供給にリソースを使える。
ただし、この優位点は再利用するための水や空間がなければ発揮されない。
私は兵站というか物資の備蓄供給(以下兵站)を4つの要素がサイクルしているものと考えている。
※分配(調達・流通)は立場の違いで言葉が違うもので同じカテゴリとして扱っている。
災害時の備蓄は調達してから消費されまで数年かかるものと考えたほうがよく、生産も数年に一度のものを作っているということになる。
ということは生産量も少なく製造ノウハウが積み上がらないため質が低くなる。
備蓄で足りなくなって急に大量生産しようとしても、ノウハウの積み上げから始まるので質の低いものがぼちぼちできてくるだけである。
兵站のサイクルが長いものは急激な需要増に耐えられないため備蓄のスタンダードには向かないというのが私の考えだ。
そして消費されなければ問題点の洗い出しもされず、前例主義によって備蓄に向かないものが再度調達されることもある。
普段使いするものであればローリングストックでこれらはあまり問題とはならなくなる。
緊急時には「無いよりマシ」で備えるべきだと私は考える。
つまり緊急時の備えは質より量なので事態が落ち着けば質が担保されたものと置き換えて、廃棄することもセットとして考えなければならない。
そのため、廃棄費用も「政策の失敗・無駄」と考えるのではなく「緊急時における”無いよりマシ”にかかる経費」と思ったほうが良い。
メールを整理してたら親のブログを見つけてしまった。少し自殺する気が失せたが情緒が安定しない。ブログごときで揺れる自分が嫌になって、気分は最悪だ。
私は3年前以上の記憶は意図的に思い出さないようにしており、親からみた自分自身を読んでもどこか他人事にしか思えない。無邪気に小学生してた頃があったことが信じらないのに、記憶の残骸と部分一致するのが気持ち悪かった。
そして過去の親にも自殺を考えるほどの状況があって、それでも自分のことをちゃんと大切にしてくれていたことが感じ取れて憂鬱だ。親だって人間なんだよなーって実感した。
これがドラマだったら改心して、前向きに生きていくのが正解なんだろうな。親孝行して、看取るまでちゃんと生きなきゃいけない。ベタなトゥルーエンド。絶対に親の介護はしたくないが。
でももう生きることを頑張りたくないから死にたい。死にたいというか消えたい。ありがたいことに世界を恨んでるわけじゃないので、透明人間にしてくれるなら死ななくても済むかもしれない。透明人間になって、隣の晩ごはんでも眺めていたい。何もできなくていいのでテレビ感覚で人の人生を見ていたい。でもなれないので困っている。
「苦しみたくない」がわがままで甘えで、その全部は私の責任だと認めるから『楽に』死にたい。就活したくない、すべての締切が辛い、人と話したくない、ずーっと遊びたい、苦痛を感じたくない、痛いのが嫌だ。この場合の苦痛に一般的に言う「向上するための努力」を含む。
自分より辛い状況で頑張っている人に比べたら全然恵まれているかもしれない。寝床も明日のご飯もあるし、なにしろ親の金で絶賛モラトリアム中だ。ここでちょっと頑張ればなんだかんだやっていけるかもしれない(超楽観主義)。
だが自分にめっちゃくちゃ甘いので無理なもんは無理なのだった。だって安楽的な自殺が成功することに期待しちゃうくらいには甘ったれだ。「言い訳しないで死ね」といわれれば「でもでもだって」、「努力しろ」といわれたら「でもでもだって」と返すのでよろしく。
それでもこの先の自分に期待するよりは自殺の方が確実性が高く、生きていても苦痛なんだろうと思う。局所的な快楽は漠然とした苦痛を超えられない。その根拠なき妄想は十分に自殺の理由になると思う。それに自分でさっさと苦痛を感じる器官を壊す方が楽だし早いのは事実。
それでおわりなんだが、私のシミュレーションの中では、自分が自殺してもそんなに影響ないかなと思っている。実際、親以外に連絡先持ってないから連絡しようがない。
TypeScriptのスペシャリストでない俺が見ても型定義は本当に局所的でAnyばっかりだわstrictFunctionTypesがfalseだわts-ignoreばっかだわでTypeScriptの型チェックをまともに使ってなかった。
言語仕様のうちメインの機能を使ってない時点でバリバリ使っているという印象ではなかったしただトランスパイルのオーバーヘッド増やしてるだけのようにしか感じなかったのでとても不誠実だなって思った。
「私たちはTypeScriptを使って堅牢な設計を構築してまーす」みたいな文言があったら警戒しておくに越したことはないなって感じ。
政治運動において敵対者への嘲笑は時代や地域を超えて普遍的である。
SNSにおいても、特定政治家のみならず支持者や大衆への嘲りは、もはや見飽きた光景だ。
だがその効用は明らかとは言い難い。
嘲笑することは一見、敵対者への攻撃にはなるが、第三者の反応はまちまちだ。
一緒になって攻撃するか、逆に攻撃者への批判を呼び起こすか、そういった争い自体を忌避して場を立ち去るか。
とくに、最後の効果、つまり政治自体を忌避させる原因を、政治運動における嘲笑に帰結する分析もある。
支持を拡大するという目的にマイナスにもなりうるのにも関わらず、なぜここまで嘲笑が溢れているのだろうか。
社会学において支配関係を類型化した初期の学者であるマックス・ヴェーバーは、政治運動の上層部が運動員に与える精神的報酬のひとつだとしていた。
選挙活動などの強力な支配行動に人々を動員するには当然、従わない人間よりも多くの報酬が必要である。
しかし、(とくに猟官制の廃止された後の)民主主義では、大衆を動員するときに直接的な経済的見返りを与えられない。
それ故に様々な精神的見返りを与えることが必要であり、「嘲笑のための大義名分」がそれにあたるのだと。
この描像だと、嘲笑はあくまで精神的な見返りのひとつであり、怒りや復讐心の発散なとど同列とされ、そこまで重視はされていない。
政治家がトップダウンで操る戦術のオプションとして扱われている。
現代的な心理学の描像だと、嘲笑はもっと政治に直結したものだとみなされる。
そもそも、「笑い」という行為や付随する情動は、自他の思考や行動の間違いを指摘するために獲得されたと考えられている。
人は、社会的に正常な状態だと思いこんでいた状態が間違っていると発見したとき、その気付きに対して笑う。
自分が間違っていたと自分で気づいた場合には行動を改めるだけだが、重要なのはこれが仲間に、かつ攻撃的に向けられたとき(すなわち嘲笑)だ。
期待されている効果は、間違っていた人間が態度を改め、仲間に従うことだ。
だが、仲間の「間違い」に気づいたとしても、実際に正しいのは自分なのか、相手なのか。それはどうやって決まる?
社会的な正常さを決めるのは、群れの政治的力学だ。人間の原始的社会は単純な多数決でもないし、かといってリーダーや強者による完全な序列制でもない。
たとえば、強く序列が高い人間の笑いには追従の笑いをもたらす効果がある。これによって周囲から笑われた人間は態度を改める。
しかし、リーダーが明らかに間違っている場合には、群れの全員から嘲笑され、リーダー側が反省を強いられる場合もある。
場違いな場面で他人を笑った人間が、逆に間違いを笑われることもあるだろう。
このように、嘲笑とは複雑な政治行為の最も原始的な発露であり、人間特有の行動である。
無論、現実、とくにSNS上の政治言論における嘲笑はこの2つの描像の中間にあるというのが実際のところだろう。
特定の政党や政治家、言論人が嘲笑行動を種々の政治目的で扇動する場合もありうる。
そういった目的を持たない、無意識の笑いが政治シーンに影響を与えることもある。
ただ、そういった背景を無視して効果だけを見れば、ひとつほぼ明らかな事実がある。
嘲笑は多数派を固めるためだけに有効であり、それ以外の場合には逆効果になる、ということだ。
集団的に行われる嘲笑は、味方には精神的報酬をあたえ、仲間関係を確認し、支持を固めて動員する効果がある。
また、怒って反応する敵対者をあぶり出し、敵として認定することもできる。
日和見派のうち気の弱い人間には追従笑いを引き起こす。彼らはすくなくとも言論の場では逆らわないことが期待できる。
そして、何よりも重要なことに、それ以外の無関心層を遠ざける効果がある。
これによって、多数派の勝利を確定させる一方、少数派にとっては確定するのは敗北となる。
さて、ここから考えると、もしあなたがすでに多数派だとわかっている場合だけ、集団嘲笑戦略をとるのが合理的である
だが現実には、少数派が集団的に他人を嘲笑し、かえって袋叩きに合い、劣勢を固めてしまうという現象はありふれている。これは何を意味するか?
まず、自分が多数派か少数派かを判断するのは、大半の人間には難しい。
社会調査などの客観的な指標でなく、周囲の人間の意見を重視してしまうバイアスは容易には逃れがたい。
次に、感情を抑えてまでマクロに合理的な政治行動を行うほどのインセンティブは個人にはない。
感情が進化的な意味では合理的であったとしても、それは過去の環境に適応したものであり、現代政治における合理性とは相容れない。
これらはそもそも戦略的に振る舞えない個人がいるという問題だ。
が、真に重大なのは、この理由により「少数派に属している時、味方が嘲笑という不合理な選択をとりうる。そしてそれに対する良い戦略がない」ということだろう。
その味方は自身を多数派だと意識的あるいは無意識に考えている。
嘲笑に追従しないことは、対象を孤立させるシグナルとなるし、たしなめたり批判したりすれば敵対行為だとみなされるだろう。
よって追従することが局所的には合理的だが、それにより嘲笑は拡大し、多数派の敵対者や日和見派の目にとまり、敗北を拡大することに貢献してしまうのだ。
この問題にたいする回答は筆者の力量では思いつかない。
SNS上において政治言説をひろめたい、政治的に少数派であると考えている人々は、この現象に対応する戦略を考案する必要があるだろう。
恐らく今後何十年かして振り返った時に今回の選挙が最後の分岐点だったな、と思うだろう。
コロナ由来の与党支持率低迷という数十年に一度のチャンスを物にできなかった日本はもうダメだろう。自民は庶民の暮らしに全く興味がない。地元民と経済界の話には耳を貸すがそれ以外はどうでもいいと思ってるだろうね。これから格差は進み金持ち・大企業とそれらの養分になる庶民との2つに大別され、庶民は真綿で首を絞められようにじわじわと殺されていく。
で、搾取側の大企業がどうかと言うと世界に羽ばたくこと無く国内の縮小傾向に有る市場だけでしか通用せずこれまたジリジリと苦しくなっていくと思う。消費税減らして法人税上げると企業が海外に逃げるぞ!とか言ってるやつが居るが今の日本企業程度に逃げ場所有るか?技術力も人材も無い企業にできるのは国内の小さいパイの奪い合いだけ。IT企業は育つ土壌が無いし自動車産業はEV転換が間に合わず落ちぶれそう(その以前に品質偽装で評判落ちてると思うが)他なんか有った?
元々日本て技術で食ってる国じゃなかったっけ?それが科学軽視の末に技術も無くなっちゃった。Facebookがメタバースとかいうのに兆単位で投資するって言ってる時に日本は半導体に億出しますとか言ってるんでしょ?世界市場はゾウ、日本市場はアリって感じだよね。科学というか学問自体軽視の自民が仕切っている間は日本はほぼほぼ浮上しない。
少子高齢化、貧困の拡大、挙げ句に基本的人権も奪われ日本には何も残らないだろう。もう後は滅びの道を行くだけ。
少しは議席伸ばすかなと思ったけど局所的に大勝利をあげたが戦局全体を見れば敗戦。次にワンチャンあるとすれば今後10年20年かけて地道に準備しない限りスタートラインにすら立てないと思う。反ワクチンの候補とか目先の利益に走ってるようじゃ無理の無理。しかも維新が伸びてきてるから仮に自民公明と拮抗できても自民は次は維新を仲間に入れて勢力保持するだろうから敵が増えただけなんだよね。維新が存在しなかったらもう少し伸ばせたと思うんだけどね。そう考えると橋下徹って間接的に日本を滅ぼした人間として教科書に載るレベルだよね。