はてなキーワード: 人知とは
口内発射だのスパンキングでイクなんてエロゲーと二次ドリの世界だけの話だろ、膣内とクリトリス、妥協しても乳首を刺激でもしなきゃ女性がアクメするなんてありえないよね、実際に業界でエロテキスト書いて飯食ってる友人知人(男性も女性もいる)もだいたいそんなことをいう。
しかし…ラピュタは本当にあるんだよ。結局性的興奮を感じるのは女性の脳であって、物理的刺激には限りがありまするが、実に無限にして無尽蔵なのは人間の想像力なのであります。信じてもらえないかもしれないけれど俺が出会った最小限の物理的刺激でイッちゃった女性のお話をしよう。以下の文章において女性のアイデンティティその他については嘘をついてる可能性があるけれど起こったことは正真正銘の事実です。
①
30歳バイオリン奏者
アイマスクで視覚を奪い、ボディストッキングだけを身に着けた女性をラブホのベッドに大の字に縛り付け、触ってと懇願する声を無視してしばらくクネクネする彼女を放置して視姦を楽しむ。おもむろに近づいとボディストッキングをあちこち破くそれだけでビクビクと体を震わせる彼女、そして仕上げとばかりに力を込めて太ももから足の指先まで一気に引き裂いたら…ヒーッヒーッと叫び声をあげて背中を反らせ10秒ほど激しく痙攣。え…もしかしてストッキング破いてるだけでイッちゃったのかよ。一人取り残された俺茫然。ほぼ肌に触れていないのに音の刺激だけでそこまで深い快感を味わうのか。音楽家の耳ってすごい(違うぞ)。
②
セーラー服姿で緊縛。後ろ手に縛って拘束したうえでアイマスクとボールギャグを装着、ソファの前に立たせる。カメラを取り出すとどこをどう写しているのか実況しながらシャッターを切る。するとAFの合焦音とシャッター音が響くたびに身体をよじらせるうえに股間には大きなシミが。おおだいぶ盛り上がってるなもうひと押ししてやるか、と連射モードに切り替えストロボの調光をプラス1段にしてより刺激を強くしたら…あれ、なんか反応が変だぞ、撮るたびに釣り上げられた魚みたいに痙攣してる。そして6回目か7回目の連射の直後、彼女はギャグにふさがれた口からくぐもった叫びをあげると足の先から頭まで激しく震わせながらソファに倒れこんだ。あの、俺触るどころか1メートル以内に近づいてすらいないんだけどな…。シャッター音とストロボの光の刺激だけでイッちまったぞ。
ええ、彼女は強烈な露出性癖持ちでAVで成功しなかったのは撮られていると思うだけで頭が真っ白になって演技もセリフも全部飛んじゃうからだそうです。監督さん、大変でしたね。
その瞬間に感じたのは性的興奮よりも人間の想像力の偉大さに対する尊敬の念とほんの少しの敗北感でした。もしかしてこの人たちには俺のちんちん、必要ないんじゃないかという、みみっちい敗北感。いちおう、どちらのケースもそのあと活用は、させていただきました、けれども。
同性愛者は、資料によって幅があるもののだいたい人口の数%ってあたりだから、1人しか知らないってことは友人知人の中にカムアウトしてない(本人も自覚が無いかもしれない)人がそこそこいるって可能性が高いよ。
で、わからないでしょ? カムアウトしてない人が誰か。思春期ならともかく、普段の日常関係であらゆる友人知人の恋愛事情に首突っ込むことなんてしないし、その部分を除いたら何も変わらないからね。(もちろん社会的偏見があるから本人の悩みという点では普通ではないけれど)
自分の場合、比較的オープンな土地に住んでるんで(日本ではない)、カムアウトしてる友人が5~6人、知人のレベルまで広げれば20~30人いるけど、何も特別なことはないなあ。
覚えてない方はこんにちわ。
今回も長文でごめんなさい。
わたくし実はクレーム担当という側面もございまして、先日ちょっと話題になってた某オリエンタルランドにおけるチケットクレームの件を少し考察してみたいと思います。
要約すると「特別なチケットをもらったのに、入場制限がかかっていて入れないのはおかしい。それをなんとかしないディズニーは殿様商売だ」といったものです。
まず、クレームに対応する上での鉄則がありまして、その話を一つしてみます。
今回で言えば、「特別なチケットで入場ができなかった。」さらに踏み込めば、「それによって家族の労力が無駄になった。」というものです。
その結果として、大半の場合、その被害に見合った補償、もしくは解決のための要求がなされます。
それが今回で言う、「なんとか入場させて欲しい」だったり、「せめて心付けほしい」といった内容だったわけです。
クレーム対応とは、一見この2つに対して解決を行うものと思われています。
しかし、クレーム対応が最もこじれるポイントは、その解決にこだわりすぎてしまうことでもあります。
「相手の言う被害と要求に、絶対にこだわってはいけない」ということです。
さて、今回のクレームにあたって、現段階で明るみになっていない部分があります。
クレーム対応とは、即ち、この「原因」を読み解くことが全てといっても過言ではありません。
今回の方のブログを拝見すると、この原因部分がまだ解決されていない印象を受けました。
それは、「もらったチケットが特別なものである」という誤解です。
他の方の反応を見るに、このチケットにはそうした特別な能力はなかったようです。
その誤解が解決されないままに、いくらディズニー側が解決手段を提示したところで、当事者としては納得ができるわけがないのです。
なぜなら、自分の被害の責任は先方にあるという誤解が解決されていないからです。
本来、クレームに対応するにあたって、こうした「相手の考える原因」を紐解くことが真っ先に求められます。
そのためにヒアリング技術などを用いて、まずは相手の話を聞き出すことが必要なのです。
今回であれば、このチケットが特別なものではないという誤解を解くことが、まずはこの対応において再優先になります。
しかし、ここで相手方の無知や調査不足を指摘するようでは、さらなるクレームに火を付けてしまいます。
ここは解決を優先させて、説明責任が不足していたことに原因をシフトさせる必要があります。
「当方の説明が不足しておりまして、誠に申し訳ございませんでした。大変恐れ入りますが、当チケットは入場規制が発生してしまった日には入場することができません。誤解を招く結果となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。」などでしょうか。
ここで大切なことは、できないことはできないとはっきりと相手に伝えることです。
ここに少しでも緩和の余地があると、相手に食い下がるポイントを与えてしまうことになります。
これによって、「当日入れるはずのチケットで入れなかったことに対する被害」を、「当日入れると思い込んでしまった勘違い」にシフトさせることができました。
そうなれば、もともとあった「その日に入場できないとおかしい」という要求は意味を成さなくなります。
これによって、本来の問題に対する解決は、「チケットの説明不足に対する謝罪」、もしくは「それに見合う対応」に変わるわけです。
説明不足(ただし、ある程度説明責任を満たしていたとして)、もしくは当人の勘違いが原因となれば、本来あると思い込んでいた当日入場できる権利は行き過ぎた要求になります。
それでもなお要求が続く場合は、今度は過剰な要求に対する対応へとシフトすることができるようになるわけです。
ただ、今回の件に限っては、何故入場制限が必要なのかというポイントに対する説明も不足しているように感じられました。
ここにも原因に対する勘違いがありそうなので、説明があると解決が早まったように思えます。
「お客様に快適に楽しんでいただくために、一切の例外を作らず対応させて頂いております」
「これだけの混雑ですので、小さいお子様をお連れの場合であればむしろ入場をすすめることはできません」
「警察からの指導のもと、パーク内でのお客様の安全を優先することが義務付けられています」
「何かしらトラブルが発生してしまえば、今後さらに厳しく入場制限を設ける必要が発生してしまいます」などなど。
実情は知りませんが、あくまでサービス提供側の都合ではなく、お客様のためにあるルールであることが伝わると良いのだと思います。
さて、今回に限っては、当人を後に引けなくさせるもう一つの要因がありました。
もしここまでにこの要因を見抜けた人は、クレーム対応においてかなりの才能があるといっていいと思っています。
もし、本人だけであれば、この方はこれほどまでに食い下がることはなかったかもしれません。
人知れず一人で恥をかいたならば、こっそりと身を引くことは容易いからです。
しかし、今回はこのまま引き下がれば、家族の前で大きな恥をかいてしまうことになります。
文章の内容から見るに、そのことは彼の中で絶対に許されるべきことではなかったのでしょう。
例えばここで、パークの説明員(しかもそれなりの責任がある人物)が、家族の前に立ち、説明不足を謝罪していたら解決はもっと早まったかもしれません。
なぜなら、それによって自分の力で謝罪させたという男性のメンツが保たれるからです。
こうした相手が引き下がれなくなった理由を素早く見つける能力は、クレーム対応において非常に優れた能力であるといえます。
まとめるとこんな感じです。
・ヒアリングから原因を読み解き、全てを聞き出した上で間違っていれば正しい原因へと導く
・正しい原因から被害に対する誤解を説明し、適正な被害とそれに対する解決策を提示する
・この時、相手がなお元の要求にこだわる場合、過度な要求として態度を改める必要がある(第三者が介入した時に有利になる)
・一連の内容以外、相手が引き下がれなくなっている理由があれば、察知して解決策を提案する
・ルールを主張する場合、それは運営側の都合ではなく、あくまでお客様の権利を守るためであることを前提として説明する
当然実際のクレームは、簡単にフローチャートでわけられるようなものではありません。
しかし、こじれてしまう理由のほとんどは、原因を共有しようとせず被害と要求にこだわってしまっていることも事実です。
クレームを訴える側は要求が正当だと信じ、クレームに対応する側はクレームが不当だと戦うことになってしまうわけです。
被害の責任がどこにあるか。それによって相手の要求がどこまで現実的であるか。
クレームの解決において、両者がその部分をどこまで正しく共有できるかが最も重要なポイントといっていいと断言できます。
尚、クレーマーが要求を通すための常套手段に次のようなものがあります。
・解決にかかった時間をどうするつもりだ。
今回も数時間を無駄にしたことが言及されていましたが、全てとは言いませんがこれらの都合は先方にあります。
諦めなかったのは先方ですし、予定があるのも先方の都合です。
それによってクレームを受ける側が態度を変える必要はありません。
そんな要求に屈することなく、勇気を持って毅然と対応してもらいたいと思います。
蛇足ですが、例えば今回の例に限っては、後日利用できる日付確定型の入場チケットに変えることが妥当なところではないかなと思いました。
さて、運営側として読まれる方も多いかと思うのでここで忠告を一つ。
クレームを解決するにあたって、ルールを主張することは大切なことです。
しかし、解決を優先するあまりにその都度ルールを変えてしまうようでは、それだけ信用を失うことを意味しています。
クレーム対応は組織を成長させるものとして、不明瞭な部分を明確にするために役立てるのがいいのではないでしょうか。
パチンコなんかで言うと理不尽な要求なんて日常茶飯事なのですが、それが理不尽かどうかはその時点ではこちらの視点でしかないわけです。
たとえそれがどんな要求であれ、まずは原因を紐解かずして解決はないと言えるのです。
今朝もひどい夢で目が覚めた。
連日の悪夢の原因は落ち着かない世界情勢か、もしくは3日前から患っている風邪による発熱か。
カーテンの隙間を覗き込んでみても、時間を知るのヒントも見いだせぬほどの漆黒だった。
枕元のスマートフォンをおぼつかない手つきで探し当てると、ホタルのように光る画面に時刻が浮かび上がった。
まだ4時を過ぎたばかりだ。
一度は枕に顔をうずめてみたものの、ここ数日、頭のなかで鳴り止まないBGMによって寝付くことができなかった。
彼らが駆け上ったスターダムの行き着く先を体現するような切ないメロディと詩が並ぶ。
洋楽を聞きかじり始めた中学生の頃、明け方の誰もいないあぜ道に自転車を走らせながら言葉の意味もわからずによく叫んだものだった。
「レリピー!レリピー!」
恥ずかしいことに、あの頃はbeがビーと聞き取れず、ピーと発音しながら叫んでいたのだ。
それを猿のように繰り返し叫んでいたのかと思うと、未だに人知れず苦笑が漏れてしまうような封印したい過去の一つだ。
そうしてサビの最後はこう締めくくられるのだ。
「Whisper words of wisdom. Let it be」
解散を目前に、彼らはあの時どんな気持ちでこの曲を演奏していたのだろう。
そして今、世界で繰り返される惨劇に対して何を思っているのだろう。
そんなことを考えると、足りないはずの眠りがまた少し遠ざかっていくことがわかった。
スマートフォンを開くと、青地に白い文字でB!と書かれたアイコンをタップした。
遠い異国で、昨晩警官隊が突入した事件のその後が知りたかったからだ。
色々とカテゴリーを渡り歩きながら、目的の記事に辿りつけなずにイライラばかりが増していった。
事件に対する言及や関連する内容に対する記事ばかりが目につきながらも、肝心の記事そのものにはたどり着きづらいきらいがあるのがこのサービスの悪いところだ。
そうこうしながらもいたずらに時間が流れ、副交感神経が役割の終わりを自覚し始めたころ、全身の血液が急速に一箇所へと集中していくのがわかった。
朝のお通じのお知らせが高らかに腹部から鳴り響いたのだ。
唐突に時間が迫ってきたことを自覚しながらも、それでも該当の記事を探し続けた。
電波が届きやすい寝室にいるうちに事の顛末を知りたかったし、それに、熱を持った身体にはあの個室は寒すぎるのだ。
そうして記事に辿りつけないままに、風邪は容赦なく今度はわたしの鼻の奥を刺激し始めた。
慌ててティッシュを探すと、それまでに募った苛々を吹き飛ばすかのよに盛大なくしゃみを放ったのだった。
しかし、それと同時にわたしの尻は先ほどのアイコンよろしくB!と叫んだ。
メールボックス漁ったらコール来てて、見てみたらブクマけっこう付いてた。全然意図が伝わってなかったので意見を述べる。
難民侮辱イラストを描いた漫画家はすみとしこ「シリア難民問題に関する最悪の7人」に選出される | BUZZAP!(バザップ!)
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/268764398/comment/Gakkuri-Kanabun_09
アイドルのアンチのコメントをわざわざ拡散したり、アイドル本人に知らせたりするファンやマネージャーはおらん。
ISISの処刑映像をわざわざ拡散したり、遺族に見せようとする奴らはISISの協力者とすら思う。
しかし今回の騒動では、差別的であるから問題だという風刺画を、FaceBookが削除しないからといって、
圧力をかけるために世界中に拡散する人が居て、深く傷つくかもしれない関係者に報告までしたという。
なんと狂っていることか!
本当に混乱させられて、かなりきつく皮肉めいたことを書かずにはいられなかった。
ドイツは海岸に流れ着いた子供の亡骸が報道されたことで、一気に世論の流れが変わり難民受け入れをすることになったんだけど、
そういう世論の熱狂に流されて重大な政策を進めるのって危険だし、まさしく戦後日本が恐れてきた空気って奴だと思う。
なので、いかにも同情を惹き、社会を扇動しそうな画像を、あえて空気を読まないでおちょくるってのは、
民主主義を大切に思うなら基本的には、強い自制心を持って意識的に賞賛しなければならない表現だ。
もっと言えば、画像をおちょくる風刺画を見て「悲しいけど、そういう意見もあるか。」と受け止めるのではなく、
「可哀想な少女を悪人として描いている!許せない!世界中から同調者を集めて圧力かけよう!」となったのであれば、
反差別を信条とする人でも空気に飲まれ軽率な行動に走ったり、同調圧力を発する側になる。
普通と言えば普通だが、それを見せつけてくれたことが風刺画の最大の成果だと個人的に思っている。
とにかく、問題の風刺画にはそういう批判的精神を見出すこともできる。
でもそれは、「マスコミの扇動には乗らないぞ!」っていう意識や文脈を共有していないと分からないことであり、
文脈の外では良くてただの嫌味な絵、最悪の場合には憎悪や暴力を誘発する絵になってしまう。
よくある難民支援への協力を求めるお涙ちょうだいの少女の画像に対する皮肉あるいは、
ドイツの難民受け入れ決定への批判やドイツにならおうとする国内の勢力への警告
という意味合いが強かっただろうと推測できる。難民の全部が全部、金をせびりに来た者だと作者も思ってなかろう。
では、風刺画を世界中に拡散して難民本人が見るようになったとき、風刺画の意味合いはどう変わるだろうか?
上で述べたようなメディア論や政策論的な意味合いは消え失せてしまい、難民個人を中傷する要素が強くなってしまう。
少なくとも難民受け入れ国で難民に対して見せつけて喧嘩にならない表現ではないだろう。
誰が風刺画を中傷画にしたのだろうか?誰が難民に対して酷い表現を投げつけたのだろうか?
拡散という行為がどういう結果をもたらすのか少し考えてほしい。
難民や少女とその関係者を大切に思うなら、今回の風刺画騒動は日本国内で決着をつけなければならなかった。
適当に書いた作品が世界レベルで拡散されるとは誰も思うまい。その点は同情する。
しかし、熟慮して書かれたものではないのに、見た人の思慮深さを試す内容になっている。
無礼だと思う。
を読んで。
ワロタ。てか、10年近く前にはてなで流行った非モテ論争を思い出した。
モテている、結婚のできた、承認欲求の満たされた女が気に入らないから席を譲らない
って頭の悪い理由に嗤った。
しかも叩いている相手が女(妊婦)だけってところでウーマンヘイト、あるいは男の自己承認欲求の強さを感じて、
更に嗤う。
列車の運行を妨げない、もしくは妨げる要因を少しでも減らす為、
以外の何物でもない。
その妊婦が幸福だろうが美人ブス関係なく、また不幸な(DVや強姦被害による妊娠等の)状態にあろうが、関係ない。
急いでいる電車で、妊婦が急に具合が悪くなって「停止ボタン」を押す羽目になったら、嫌だもん。
俺、行き先に急いでるんだから。
それ以外のなんの理由もない。
好きでもない。嫌いでもない。憎しみもない。ただ、関心もない。恐らくは、感心も。
友人知人が妊婦で、ってんなら多少は関心も持つし、自分の好感の持つ人が妊婦であれば普通に安産は祈念するけどね。
自分の不幸(元増田の場合は容姿によるコンプとそれを拗らせた変なベクトルの女叩き)を相手に投影するほど、妊婦にも、また美人にもブスにも美男にもブサ男にも
関心はないもん。
車がビュンビュン走ってる幹線国道の脇に生えてる草を鹿が食んでた。
車を恐れる気配が全く無い。
と思ったが、道路脇なら猟師いないし罠も無いからかえって安全なのか。
ただ、道に飛び出して来られるのが怖い。
友人知人に聞くと、鹿にぶつけたorぶつけられたって話が珍しくない。
二昔半ほど前、RVブームと言われた頃にグリルガードとかアニマルバーとか言われるものが流行った。
http://www.nakarai.co.jp/image6/20110701image11.jpg
引用元(【フロントグリル・フォグカバー・バンパー再メッキ】 : http://www.nakarai.co.jp/ref9.html)
当時は「海外ならともかく、日本じゃそんなのいらないだろ」と馬鹿にされてた。
その頃は田舎でも山に分け入って探しでもしない限り、鹿なんてそうそう見かけなかった。
だが事情が変わった今、アニマルバーは田舎の実用品として再評価されて良いのではなかろうか?
クラッシャブルボディとの両立、エアバッグのセンサーとの兼ね合いなど面倒も有るだろうが。
http://news.mynavi.jp/news/2013/12/20/014/images/001.jpg
引用元(JR東海、在来線の鹿衝突対策で車両前方への「衝撃緩和装置」順次導入 | マイナビニュース http://news.mynavi.jp/news/2013/12/20/014/)
この限りある無限大の宇宙で君は私は喜びを分かち合い鬩ぎ合い語り合い放ち合い紡ぎ合い嘆き合い時に愛それは愛
ずっともっと人知れず底知れず広がって絡まってくるくる回って描いて足掻いて捏ねて捏ねて夢想して想像して壊してこわして
瓦解する落ちるどこまでもだがしかしけれどもしかするとふっともっとそっとゆるりとぬるりと喰らって食らって喰らわれて暗って
永遠など永久など永世など衛星など英明など英断など栄華など栄光などAKなどABなど幻まぼろしマボロシ魔滅しマボロしマ滅死間簿炉し麻婆降ろし
フと暗く灯りが燈る世界に気ズいて眼が開けたら
少し筒欠けテ足りなクてク堕らなくて
終わりノ誓いと云ふノに
細かに微蟹微妙に㍉㍍にワら得ておかしくて可笑しくて笑笑わら得てお菓子喰って
形などかたちナド容など象などななんんんんnnnnnNIえむオー
要ら っっっっない
叫び飛ばしたいアケビ飛ばしたい柵AB飛ぶあたし鯛裂け美化→↓←→AB
私の命を、なんとも言葉を揃えても形にならず不器用で無様で生々しく細かで繊細で大雑把でからっぽで何もないらしいこの生を、限り無く限り有る声に乗せてどこまでもどこまでも快心の
叫びたい
長いので長文読むの嫌いな人はそっ閉じ推奨。
最近増田界隈で結婚というか子供の話がホッテントリ入りし始めて久しいので
結婚しているが子供のいない共働き夫婦である我が家の話をしようと思う。
子供がいないのは単に今までできなかったというだけのことだ。
できなかったけれど、お互い子供に関しては「いてもいい、いなくてもいい」というスタンスだったので
特別不妊の検査をしようとか不妊治療をしようという話にもならなかった。
本当にどちらでもよかったのだ。
「いてもいい、いなくてもいい」などと表現すると、
「結婚したなら子供は必ずつくるべきでしょうが派」の文章の主旨を読み取ることが苦手な人から
鬼の首を取ったように責められそうなので一応解説しておくが
「できたなら頑張って育児したよ、でもできないからといって頑張って作ろうとは思わなかったよ」
子供のいる知人友人と子供を交えて会ったりすると「子供やっぱりおもしれえな」と思うし
未知ながらもやはり子供がいたら楽しい嬉しいということが多いのだろうなとは思う、
なぜかリアルな子持ち友人知人からは子供を持つことは勧められないが
不妊で悩んでいる夫婦も多かろうから気を遣われているのかもしれない。
とはいえ、やはり勧められようが勧められまいがスタンスは変わらず
いてもいいしいなくてもいいと思っている。
子供のコスパの増田で「自分は子供を持たなかったのに老後は誰かの子供の世話になるんだろ?なら叩くよ」
このブコメをつけた人、それに賛同した人は、病気で子供を持てなかった人や
結果的に未婚で過ごすことになってしまって老人になってしまった人たちについてはどう思っているのだろう?
「その人たちは仕方ない」?「仕方なかった人たちなのだから許してやる」のだろうか?
万一、我々夫婦にこの先も子供が出来なかったら、この人たち(恐らく子持ちの人たち)に
許しを得られないなら、この先ずっと叩かれながら生きていかねばならないのだろうか?
子供を持たないというのはそんなに罪なことだろうか?
確かに、種の保存という観点からいえば、子供を持たない・持てない生物は生きている価値がないともいえる。
しかし我々は人間だ。人間は、脳の発達・文明の発達に伴って「生きる」ということに繁殖以外の目的を見いだしてきた。
そもそも子供を持つというのは、繁殖期をとうの昔に失った「人間」にとっては本能ではなく文化的な活動だ。
人がその人の人生を生きるための考えとして、子供を持つも持たないも、いずれも認められて然るべき選択肢だと思う。
「俺いまニートだけど親死んだら俺も首くくるわ」
と言う人がたまにいる(ネットに)。
彼が本気かどうかはわからないが、日本のニート人口は2014年の調査で56万人らしいので
どうしても働くのがイヤであるだとか、身体的・精神的な事情で働けない場合
自死という選択をせずとも、そのまま亡くなってしまわざるを得ない人は少なくないように思う。
働けるのなら働けばいいのに、とは思うが、私には彼らを責める気はない。
「親の金で楽して羨ましいなあ」とは思うし僻みもするが、責める権利はないと思っている。
自分の選択を他人から責められたくないのと同様に、他人を責めるのも嫌なのだ。
自分は責められたくないが他人は責めるよ、というのは卑怯な気がするのだ。
多様性が認められているように感じられていたはてなでさえこの有様なのだから
それが世間にまで広がるのはまだまだまだまだ時間がかかりそうだ。
自分がマジョリティな選択をしている可能性があるからというのもあるが