はてなキーワード: マボロシとは
それでも、決して到達できない「理想」として普遍を目指すのが知性というものではないですか?
例えば、「中立報道」なるものがリアルワールドに実在しないからといって、
「結局は個人の感想じゃん。プロの記者が取材して悩みながら書いた記事とオレの感想は同等だ」と結論しちゃったら、
ネットde真実とか陰謀論方面に落ちていくのは容易に想像できますよね?
「そんなのウソじゃん。強い奴が威張ってるのが現実じゃん」と言ってしまったら
国連で議論されてるようなことはタテマエであって、現実はチカラが支配する世界なのだから
防衛力を強化して、なんなら攻められる前に攻める(積極的防衛)のが正解という主張は
一見「リアリスト」のように見えますが、実際はプーチンと同じ「脳筋」ですよね?
オバマ大統領が「理想主義」という言葉を多用したのはそういうことです。
決して到達できない理想を目指しつつ、現実と折り合いをつけようと悩み続けるのがまっとうな「リベラル」で、
ネット上でリベラルの人気がないのはそのせいですね。死ぬまでずっと修行を続けようなものだから…
「あなたの感想ですね」「お気持ち表明」みたいな言葉で冷笑してると、
悩んでる人より賢くなったような気分になるかもしれませんが、それこそがマボロシです。
Chatgpt:
お金持ちになるにはスキルを磨きましょう。そう、高級レストランのスプーンのようにピカピカに。ピカールを使うとよいでしょう。ピカールはホームセンターに売っています。ピカールは白い液体で、ボロ布に少しつけて磨くのです。すると、なんということでしょう、スプーンの精が現れましたよ!さあ、スプーンの精に願いを伝えてください。この時に欲張って「願い事を無限に叶えてください」などと裏ワザを使ってはいけません。そのような願い事は神龍と同じように受け入れてくれません。しかもスプーンの精は気まぐれなので、消えてしまうかもしれません。それは嫌ですよね?では素直にこう言いましょう。「私をお金持ちにしてください!」するとスプーンの精はあなたにクレジットカードを渡してくれます。「これを使いなさい。請求先は私になっているのでいくらでも使えますよ」と。さあ豪遊の始まりです。赤坂プリンスを予約し、デリヘルを呼びましょう。そして三日三晩過ごしたら、チェックアウト。するとフロントでこう言われます。「このカードは使えません」そう、全ては夢マボロシだったのです。残念!あなたの冒険はここで終わってしまった!コンティニューしますか?しませんね。それでは、リセットボタンを押しながら電源を切りましょう。そしてそのゲームを窓から放り投げてください。いいですね!ちょうど駿河屋まで飛んでいきました。すると駿河屋の店員がソフトを買い取ってくれます。なんと買取価格が100億円だそうです。これでお金持ちになりました。congratulations!
NHKで放送中のドラマ「昭和元禄落語心中」の主題歌である「マボロシ」である。
ゆずといえば「栄光の架け橋」や「虹」などの前向きな応援ソングや「夏色」や「飛べない鳥」などのフォーク色の強い爽やかな曲が多い中、「マボロシ」は公式サイトでも「これまでのゆずを手放した、幻想的なバラード」と記されてる通りあまり彼らの曲では聴き慣れないような曲調と歌詞になっている。
私はゆずのオタクなので(公式のファン名称である”ゆずっこ”の響きは私にとってはあまりにも明るくて爽やかでこっ恥ずかしいのでこう記す)PVが解禁され初めて聴いたときはとてもびっくりした。
まあとにかく暗い。オタクとして少し心配になった。ゆずの病み期とも言われたりするアルバム「トビラ」を聴いたときと同じ様な気持ちになった。
しかし「昭和元禄落語心中」の主題歌であり、作詞作曲の北川悠仁氏も原作を読み込み作成したとも言っているためこの暗さも納得できる。
個人的には新しいことに挑戦することはいいことだと思うし曲の感じエモエモのエモなのでこの曲はとても好きです。
しかし不満がある。この「マボロシ」は配信限定シングルなのである。一曲単体で配信されている。何が言いたいかというとこの曲にはB面の曲が存在しないのだ。
ゆずは2015年の「終わらない歌」を最後にB面のあるシングルを出していない。(先日発売された「マスカット」にはB面があるが元がA面の既存曲のため除く)昨年は20周年だのEP盤を出すだのしてたためしょうが無い気もする。それでももう3年B面のある曲が無いのだ。
オタクの戯言であるがこの曲にはB面が必要だったと思う。いくら「落語心中」の曲だとしてもオタクとしてはどうしても作り手の顔が浮かんでしまう。
岩沢厚治さん、この曲聴いたときどう思いましたか?歌ってなにを感じましたか?
B面だからといってA面への答えや対となるような曲が収録されるとは限らない。しかし必ずその曲がB面として収録された理由があるはずなのである。
その理由がある曲が欲しかった。彼らのバックボーンを知ってしまっているオタクにとって単体でこの曲を聴くにはあまりにも重すぎる。(…聴くけど)
この曲は北川悠仁氏の曲のため、今まで通りだったらB面は岩沢厚治氏の曲だろう。最近は発表数が少ない岩沢氏だが、「マボロシ」を歌って感化された部分とかなにか絶対にあったろうと思ってしまう。B面が路上時代のリメイクだったとしてもこの重くて強い曲のB面にする重くて強い理由があるはずだろう。
オタクはそれが知りたかった。聴きたかった。2曲を延々リピートし続けたかった。
やっぱりCDは売れなくて儲からないから作らなくなったのかしら。でもいくらお手軽に曲が買えるようになって便利になっても、変えちゃいけないところや減らしてはいけないところがあったのではないか。
それだけ
この年の瀬だけで、2次と3次の区別がつかないロリコンや、何も考えずに共産党を叩きまくるガルパンファンが出現しましたね。
もはや現実と創作世界の区別はつく、影響はないなんて言説はマボロシです。
GATEを読んで自衛隊が好きになったという人、永遠の0を読んで朝日新聞が嫌いになったという人。
そして今回のこれだ。あれほど”戦車道”を強調し、一応現実の戦車との関わりを少なくしていたガルパンで、よりによって作中唯一”戦車”として登場した10式戦車の展示に何も感じない。
彼ら彼女らはただ「すきな作品に水がさされたらしい」というだけで攻撃をはじめる。疑問の声をあげた仲間さえ封殺しはじめ、「共産党の手先」と罵る始末。
そうして社民共産を攻撃して「奴らは表現の自由を侵している!」と叫び、なぜか自民党はアニメに優しくオタクの味方だと信じている。
自分たちへの”攻撃”には敏感で、自分たちの攻撃には無頓着かつそれらをたしなめられても”攻撃”されたと騒ぐ。自分たちの立ち位置がマジョリティかつ時には体制側であることすら理解しない。
もう彼らの意見はくみ上げなくて良いのではなかろうか。反表現規制はオタク抜きで行い、ただオタクたちには結果のみを与える。
それでオタクは満足だろうし、足も引っ張られないだろう。
この限りある無限大の宇宙で君は私は喜びを分かち合い鬩ぎ合い語り合い放ち合い紡ぎ合い嘆き合い時に愛それは愛
ずっともっと人知れず底知れず広がって絡まってくるくる回って描いて足掻いて捏ねて捏ねて夢想して想像して壊してこわして
瓦解する落ちるどこまでもだがしかしけれどもしかするとふっともっとそっとゆるりとぬるりと喰らって食らって喰らわれて暗って
永遠など永久など永世など衛星など英明など英断など栄華など栄光などAKなどABなど幻まぼろしマボロシ魔滅しマボロしマ滅死間簿炉し麻婆降ろし
フと暗く灯りが燈る世界に気ズいて眼が開けたら
少し筒欠けテ足りなクてク堕らなくて
終わりノ誓いと云ふノに
細かに微蟹微妙に㍉㍍にワら得ておかしくて可笑しくて笑笑わら得てお菓子喰って
形などかたちナド容など象などななんんんんnnnnnNIえむオー
要ら っっっっない
叫び飛ばしたいアケビ飛ばしたい柵AB飛ぶあたし鯛裂け美化→↓←→AB
私の命を、なんとも言葉を揃えても形にならず不器用で無様で生々しく細かで繊細で大雑把でからっぽで何もないらしいこの生を、限り無く限り有る声に乗せてどこまでもどこまでも快心の
叫びたい
起立命令を「他人の内心まで踏み込」んでいるという発想自体がそもそものポイントなわけだ。
ただボケッと馬鹿面下げて突っ立っとけばいいし、命令自体もそれ以上の事を要求していない。教職員に求めている事は「起立しろ」以上でも以下でもないんだよ。
だから彼らの訴えを門前払いしてる判決は、どれもこれも「たかが立つだけの事にお前ら騒ぎすぎ。つか仕事サボんな」としか答えてない。
起立なんて、入学式や卒業式なんかじゃ色んなシーンでやる。たとえば「開会の言葉」で校長が登壇した時とか。普通に「一同起立!礼!」やるでしょ。
だから「どうして国歌斉唱・国旗掲揚の時だけ拒むの?」という当たり前の疑問に、彼らは一度も回答出来た事がない。
つまり「国歌斉唱・国旗掲揚の時に起立を強要される事によって損なわれるもの」はマボロシなわけ。
「思想信条の自由」って風呂敷に包まれてる事もあるけど中身はただの空気。なーんにも入ってない。
そんなマボロシをあたかも実在する何かであるかのように言い立てるから、「じゃあそのマボロシをここに出せ」「その風呂敷を開けてみろ」と判事に言われて彼らはいつも負ける。
それで思いましたけど、
どうして自分はそのときある選択肢で最も最悪なものを選んでしまうのか?と考えたら、
私には夢見がちなところがあって、
自分の人生を変えてくれそうな相手を選んでしまうというのがいけなかったと思います。
旦那は年々頭が薄くなって、セックスは外で済ませるようになり、
という程度の人間ですが、
(いや、それはすごいことです、まさにそういうことを私はやりたい)
これまでの私の選択を省みると、明らかに間違っています。
(年齢は付き合ったときの相手の年齢です。)
23歳 映画監督志望→後にそこそこ著名な脚本家に、彼は唯一成功したかも。
30歳 ミュージシャン志望→実際は名もないスタジオミュージシャン。後にどうなったかは不明です。
30歳 小説化志望→後に生活保護受給者に、離婚後付き合ってすぐ別れた人です。
32歳 自称芸術家→後にヒモに
で、20代前半はまだいいけど、30前後にもなって、
芸術とかいっちゃってる人はもう駄目っていうのがこの表からよく見えますね。
思い返せば普通の学生やサラリーマンも選択肢の中にはいたのに、
そういう人には目がいかないというか…眼中になかった。
だけど後に私が選ばなかった彼らがどんどん結婚して、
「かみさんがうるさくてさ??」なんてぼやくのを聞いていると、
ぼんやりと「あれ?私間違ってた?」と思いますが、
これまではどうしてもその間違いを認めることができなかった気がします。
これはどうしてかな?とつらつら考えると、
少女マンガの読みすぎかなあと思います。
私の親友のYちゃんが、私の部屋にあった、
とある少女マンガを読んで言ったことを思い出しました。
「ああっ!今ようやくわかった!
「はあ?どういう意味?」と、私が聞き返すと、彼女はこう答えたんです。
私をお姫様にしてくれるってあんた本気で思っているでしょ?
この子は何処でこういうくだらない幻想を拾ってきたんだろう?
って私は長年不思議に思ってたんだけど、今ようやくわかった。
あのね、現実は違うから!
このヒロインみたいにニコニコ笑って辛さに耐えてたら、
いつか皆わかってくれるとか、ありえないから!」
「うるさい!」と当時は聞き入れられませんでしたが、
Yちゃんの言うとおりでした。
ただ愛し愛されて生きたかっただけなのにな、と思います。
今は男の人に対して幻想はありません。別に何も期待してないです。
だけど、ただ知らないだけで、いろいろな事を知ってしまえば、
ほかの男と同じようになるんだろうと思う。)
もしかしてやっぱり両方と別れて、お見合いでもするべきなのかな?