長いので長文読むの嫌いな人はそっ閉じ推奨。
最近増田界隈で結婚というか子供の話がホッテントリ入りし始めて久しいので
結婚しているが子供のいない共働き夫婦である我が家の話をしようと思う。
子供がいないのは単に今までできなかったというだけのことだ。
できなかったけれど、お互い子供に関しては「いてもいい、いなくてもいい」というスタンスだったので
特別不妊の検査をしようとか不妊治療をしようという話にもならなかった。
本当にどちらでもよかったのだ。
「いてもいい、いなくてもいい」などと表現すると、
「結婚したなら子供は必ずつくるべきでしょうが派」の文章の主旨を読み取ることが苦手な人から
鬼の首を取ったように責められそうなので一応解説しておくが
「できたなら頑張って育児したよ、でもできないからといって頑張って作ろうとは思わなかったよ」
子供のいる知人友人と子供を交えて会ったりすると「子供やっぱりおもしれえな」と思うし
未知ながらもやはり子供がいたら楽しい嬉しいということが多いのだろうなとは思う、
なぜかリアルな子持ち友人知人からは子供を持つことは勧められないが
不妊で悩んでいる夫婦も多かろうから気を遣われているのかもしれない。
とはいえ、やはり勧められようが勧められまいがスタンスは変わらず
いてもいいしいなくてもいいと思っている。
子供のコスパの増田で「自分は子供を持たなかったのに老後は誰かの子供の世話になるんだろ?なら叩くよ」
このブコメをつけた人、それに賛同した人は、病気で子供を持てなかった人や
結果的に未婚で過ごすことになってしまって老人になってしまった人たちについてはどう思っているのだろう?
「その人たちは仕方ない」?「仕方なかった人たちなのだから許してやる」のだろうか?
万一、我々夫婦にこの先も子供が出来なかったら、この人たち(恐らく子持ちの人たち)に
許しを得られないなら、この先ずっと叩かれながら生きていかねばならないのだろうか?
子供を持たないというのはそんなに罪なことだろうか?
確かに、種の保存という観点からいえば、子供を持たない・持てない生物は生きている価値がないともいえる。
しかし我々は人間だ。人間は、脳の発達・文明の発達に伴って「生きる」ということに繁殖以外の目的を見いだしてきた。
そもそも子供を持つというのは、繁殖期をとうの昔に失った「人間」にとっては本能ではなく文化的な活動だ。
人がその人の人生を生きるための考えとして、子供を持つも持たないも、いずれも認められて然るべき選択肢だと思う。
「俺いまニートだけど親死んだら俺も首くくるわ」
と言う人がたまにいる(ネットに)。
彼が本気かどうかはわからないが、日本のニート人口は2014年の調査で56万人らしいので
どうしても働くのがイヤであるだとか、身体的・精神的な事情で働けない場合
自死という選択をせずとも、そのまま亡くなってしまわざるを得ない人は少なくないように思う。
働けるのなら働けばいいのに、とは思うが、私には彼らを責める気はない。
「親の金で楽して羨ましいなあ」とは思うし僻みもするが、責める権利はないと思っている。
自分の選択を他人から責められたくないのと同様に、他人を責めるのも嫌なのだ。
自分は責められたくないが他人は責めるよ、というのは卑怯な気がするのだ。
多様性が認められているように感じられていたはてなでさえこの有様なのだから
それが世間にまで広がるのはまだまだまだまだ時間がかかりそうだ。
自分がマジョリティな選択をしている可能性があるからというのもあるが
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