はてなキーワード: アスペルガー症候群とは
幼少期は、場にそぐわないことを言ったりして周囲をドン引きさせるのを繰り返してきた。
ある程度成長してそれを自覚するようになると、周囲をドン引きさせないために何を言えば良いかが分からず、誰とも何も話せないようになっていった。
大学に進学して一人暮らしを始めると、周囲に話す人間が誰もいない生活がスタートした。
授業やゼミでの発表のような「論理的で一方的な発言」は得意だったので、そういう場は難なくクリアすることができたが、
普通の「雑談」の場で何を話せばいいか分からなかったので、授業に出ても誰とも雑談しなかった。
俺にとって誰とも話さない生活が最高に快適である、ということだった。
もう周囲をドン引きさせることを恐れる必要もない。何を話すかで思い悩むこともない。
俺は孤独耐性が高く、1~2か月程度人と話さなくてもまったく平気だったのだ。
しかしそうした生活は、少しずつ確実に俺の中の「会話能力」を衰えさせていった。
使わない能力は徐々に衰えていくものだが、大学院も含めた6年間の大学生活が終わる頃には
まず舌や喉の筋力が衰え、呂律が回らなくなり吃音を発症するようになった。
それから、会話をしても次に発言する言葉が脳裏に浮かばなくなり、会話のキャッチボールが難しくなった。
もともとキャッチボールで大暴投するような俺だったが、投げ返すことそのものが困難になったのだ。
卒論の発表などは問題なくクリアできたのに、人との会話は1分間も続かなくなった。
学歴がそこそこ良かったおかげでなんとかまともな企業に就職することはできたが、
会話能力の低さはあらゆる場面でハンデとなった。
仕事をしていると嫌でも人と会話をすることになるが、一度低下した会話能力は簡単には戻らない。
誰とも雑談しないので職場内の人間関係がほとんど構築できず、何かあった時に頼れる人がいない。
上司や同僚との信頼関係も築けず、それが仕事を進める上での間接的な障害となる。
こんな俺でも、専門性を武器になんとか10年以上働くことはできたが、そろそろ限界かもしれない。
この歳になると、マネジメントや難易度の高い交渉が仕事のメインになってくるが
会話がまともにできない、あるいはできたとしても大暴投する俺にはこれがかなりの無理ゲーなのだ。
結局、何度かの大失敗の末にマネジメントの立場からは外されることになった。
こんな俺をまだクビにせずに雇ってくれる会社には感謝する他ないが、
それもいつまで続くかは分からない。
結局、会話ができなければ生きていくのは難しいのだ。
ああそれでも、願わくば大学時代のように誰とも会話をせずに生きていきたい。
このまま会話能力が衰え、「どうも…」とか「うほ…」ぐらいの類人猿レベルの言葉しか話せなくなっても、
それでもいいから誰とも会話をせずに生きていきたい。
――
メアリーはアイスを買いたかったが、お金を持ってきていなかった。
アイス屋さんは午後もこの公園にいるというので、メアリーはお金を取りに戻った。
しばらくしてアイス屋さんは「教会に行く」とジョンに伝え去っていった。
その途中、アイス屋さんはメアリーの家の前を通り、メアリーに教会に行く事を伝えた。
少し経って自宅に戻ったジョンだったが、宿題の事で聞きたいことがありメアリーの家に行ったものの、メアリーはすでにアイスを買いに出た後だった。
ジョンはメアリーを追いかけていったのだが、ジョンは彼女が何処に行ったと思い、何処に向かうか。
――
である。所謂アスペルガー症候群や学習障害のチェックに使われる文章だ。
だがASDやLDの人間だと「教会に向かった」と答えるのだという。
私は全くこの意味が理解出来なかったのだが、「誰に対して発言をしているのかが読み取れない」
最終的に「自分が得た情報は相手も持っているに決まっている」と考えてしまうという事らしい。
では教会に向かったと答えた人に向けて一つずつ文章を解説していく。
=
・ジョンとメアリーは公園にいる。公園にはアイス屋さんの車も来ていた。
・メアリーはアイスを買いたかったが、お金を持ってきていなかった。
・アイス屋さんは午後もこの公園にいるというので、メアリーはお金を取りに戻った。
この時点で二人が同じ情報を持っている事をちゃんと記しておくべきなのだろうが、無いのは不親切だ。
今回はそれを前提条件として以下の通りにする。
持っている情報:1・メアリーはお金を持っていない 2・メアリーはお金を取りに戻る 3・アイス屋さんは午後もこの公園にいる
・しばらくしてアイス屋さんは「教会に行く」とジョンに伝え去っていった。
持っている情報:1・メアリーはお金を持っていない 2・メアリーはお金を取りに戻る 3・アイス屋さんは午後もこの公園にいる
持っている情報:1・アイス屋さんは午後もさっきの公園にいる。
・その途中、アイス屋さんはメアリーの家の前を通り、メアリーに教会に行く事を伝えた。
持っている情報:1・メアリーはお金を持っていない 2・メアリーはお金を取りに戻る 3・アイス屋さんは午後もこの公園にいる
持っている情報:1・アイス屋さんは午後もこの公園にいる。 2・1の情報取り消し。アイス屋さんは教会に行く
アスペルガー症候群の疑いのある人は、ここの関係性を理解出来ていないのだと考える。
とはいえメアリーは「アイス屋さんが教会に行く」との情報を得ているのだから、
少なくとも「メアリー」はお財布を持ったら間違いなく「教会」に向かうだろう。ここは間違えないと思う。
問題は次だ。
・少し経って自宅に戻ったジョンだったが、宿題の事で聞きたいことがありメアリーの家に行ったものの、メアリーはすでにアイスを買いに出た後だった。
・ジョンはメアリーを追いかけていったのだが、ジョンは彼女が何処に行ったと思い、何処に向かうか。
この時点でジョンが持っている情報は次のようになる。
持っている情報:1・メアリーはお金を持っていない 2・メアリーはお金を取りに自宅に戻る 3・アイス屋さんは午後もこの公園にいる
4・3の情報は取り消し。アイス屋さんは教会に行く 5・1と2の情報を取り消し。メアリーはアイスを買いに戻った
持っている情報:1・アイス屋さんは午後もこの公園にいる。 2・1の情報取り消し。アイス屋さんは教会に行く
これで何故公園に戻ると導かれるのかがアスペルガー症候群にはわからないのだという。
しかし「ジョンは、"メアリーがアイス屋さんが教会に行くという話を聞いた"という話をメアリーからもアイス屋さんからも聞いていない」
要するにジョンは「メアリーが何かしら情報を得ている」事を知らないという事である。
勿論メアリーも「ジョンがアイス屋さんが教会に行く事を知っている」という事を知らないのだが、今回の問題にメアリーの情報の有無は関係ないので割愛。
アイス屋さんに一緒に並ぼうとしたメアリーは財布を持って無くて一度家に帰った。
自分も自宅に戻ったは良いが用事が出来たのでメアリーの家に寄ったら、もう財布を持ってアイスを買いに出かけた後だった。
公園にいるといっていたアイス屋さんは教会に行くと言っていたがメアリーはきっと知らないだろう。
メアリーは公園でアイス屋さんを探していると思われるから公園に行けば会えるのではないか。
である。
ここを「メアリーはアイス屋さんが教会に行くと知っていて」「ジョンもアイス屋さんが教会に行くと知っている」のだから「ジョンもアイス屋さんのいる教会に行くに決まっている」
だがジョンはアイス屋さんには用事がないし、メアリーが帰り道で情報を得たことを知らないのだから教会に向かう理由はない。
よって答えは「公園に向かう」だ。
それでもわからない人に次の文章を解いてもらいたい。アスペルガー症候群の疑いがある人に行うサリー・アンテストだ。
――
サリーは籠を持っている。同じ部屋にいるアンは箱を持っている。
サリーはビー玉を持っている。サリーはビー玉を自分の持っている籠に入れて籠にタオルをかけた。
アンはサリーのビー玉を、サリーの籠から取り出すと自分の箱に入れた。
サリーが間もなく戻ってきた。サリーがビー玉を取り出そうとするならば最初に何処を見る?
――
トラバと話がつながっていないことから、頭が悪いorアスペと判断いたしました。
次に、トラバ元増田さんが全く話題にしていない「学歴」について脈絡なく語りだしている点から、学歴コンプレックスの持ち主だろうと推察しました。
そして、「ため息混じりで説教する」という文言から、見栄を張れるだけ張りたい自意識の肥大化した人間だと推察しました。
また「高学歴クソコーダーに説教するのが面倒だ」という増田さんの主張は、自分は高学歴より優れた人間であるというアピールだと考えられます。プライドが高い割に自信のない人間は自分をより良く見せようとこのようなアピールをしがちです。これは、自己肯定感が低く育ちがちなアスペルガー症候群の人にも良く見られます。
以上のことから総合的に考え、増田さんは「低学歴だが腕は確かなプログラマー」というアイデンティティに飲み込まれた人だと判断しました。
知的障害を伴わない発達障害の存在が世間に広く認知されるようになって10年以上になるだろうか。
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)やADHDなどの、コミュニケーション不全の障害は、現在の高度情報化社会に適合することが困難な人々を障害者として認定したもので、そのような意味で「新しい障害」「時代によって創られた障害」とも言われている。
歴史的経緯から俯瞰すれば、社会の構成員の多くが第一次産業に従事していた時代には、軽度な発達障害は障害としては認識されていなかった。社会にとっては身体的な機能障害の有無が、何より重要視された。
機械を使わない農作業では人間の身体が頑強であるか否かが生きていく上で重要である。逆にこのような時代において、体格さえ頑丈でよく働くことが出来ればよく、発達障害の有無が社会の構成員にふさわしいか否かの判断基準とされることはほとんどなく、それどころか知的レベルで多少劣っていても問題とはされなかった。
ところが産業革命が起こり、人々が工業生産すなわち第二次産業に従事する者が多くなってくると、知的レベルが低い者は労働生産性において不利となり、工場などで働くことがままならず、障害者としてみなされるようになる。どれだけ体格が頑丈であっても、軽度知的障害者は障害者として扱われる。
そして現在の高度情報化社会では、第三次産業に従事する者が多くなっている。情報通信業を含むサービス産業においては、他人との間の情報の伝達に問題を生じる者、すなわちコミュニケーション能力が低い者が障害者と認定されてしまう。認定を受けた者やその予備軍は、生きづらさを抱えて生きていかなければならなくなったのである。
こうして、今日の社会では他者とのコミュニケーションが困難な者は軽度であっても、総称して「発達障害者」と呼ばれ、障害者として取り扱われ、治療の対象となり、障害者枠で働くことが可能になってしまった。
生きづらさを抱える人々が社会から援助されるようになったのだから、それは社会の進歩である、ととらえる人もいるが、高度情報化社会が発達障害であることが生きづらくしてしまったのだから、発達障害者にとっては社会の悪化であろう。
ところが社会の進歩(あるいは対象者にとっての悪化)はとどまることを知らない。高度情報化社会から次の社会へとステップアップする中で、今後クローズアップされるであろう障害が、掲題の第四の障害である「嫌感障害(けんかんしょうがい)」(英訳するとharassmental disability)ではないか、というのが私の予想である。
「嫌感(けんかん)」とは私の造語で、嫌感障害者は、他人の嫌悪感を感じ取れずに、あるいは知りながらも敢えて、ハラスメントを行う人々のことを指している。
(同様に"harassmental disability"も、発達障害=disappointmental abilityに寄せて作った造語)
「それは一般の発達障害とどこが違うのか?」と問われるかもしれないが、知的障害が身体の脳の障害という意味で広義の身体障害者であり、発達障害が広義の知的障害であるのと同様に、嫌感障害もまた、広義の発達障害ととらえて差し支えない。
しかしこれまでの発達障害という概念の中には、共感性が低いために他人の感情が分からずに意図せず他人に嫌悪感を与えることをその中に含みつつも、「他人が嫌がることがわかっていながら他人の嫌がることをすること」、いわゆるセクハラやパワハラをすることまでを障害の一種だと認定することはなかった。
今回私が提唱する「嫌感障害」は、一歩踏み込み、発達障害者の中で他人に嫌悪感を与え続けてやまない行動発言をする人々と、攻撃的であったり、あるいは人が嫌がることをすることをやめられない人々を、まとめて新たな障害者として認定するものだ。
第1の障害が身体障害、第2の障害が知的障害、第3の障害が発達障害ととらえたことが、嫌感障害を第4の障害ととらえる所以である。
昨今の脳科学では、人間の自由意志の存在は否定され、すべてが所与の条件、すなわち、遺伝子と環境、構造などによって思考は自動的に決定されているという。
自分の意思によって他人の嫌がることを行う人もまた、ある意味自分ではどうしようもない衝動によって突き動かされ、社会に不適合な行動を取らざるを得ない障害者と言えるのではないか。
彼らが適合できない社会とはなんであるか。それは女性や障害者が多く進出した社会であり、多様な社会であり、弱者が認められ、生きやすく、守られる社会である。
この社会では、強者や多数派が、その力でもって弱者や少数派の人権を踏みにじることは、もはや許容されない。
強者が所有していた権力、多数派が所有していた圧力でもって、他人の自由を拘束し、口をふさぎ、多様性を蹂躪することは社会がもはや許さないのである。
他人への嫌がらせを許さない社会は、高度情報化社会が発達し、様々なサービスが生まれる中で、人々が夢中になるサービスに人々の興味が集約していく中で育まれていった。人々が夢中になるサービスとは、SNSである。
高度情報化社会が理性の支配する知識の共有を成し遂げたものであるならば、その中で育てられてきたSNS内では、感情の共有が重要なものとして形作られてきた。
それは「高度感情化社会」と言えるものである。私達は高度感情化社会という新しいセクターに生きており、産業革命、情報革命の次に生じた、感情革命の只中にいるのである。
GAFAが情報化社会の雄ならば、そこに入っていないTwitterは感情化社会の雄であり、今後は感情産業と言われるような感情の共有化をビジネスの柱とする産業(第四次産業?)に、多くの人々が従事するようになるだろう。
その産業の中で障害となるのが、他人の感情を傷つけて平然とする人々である。その問題が今、ジワジワと、次々にクローズアップされているのを私達は知っている。
「こんなことまでハラスメントなのか?」
という疑問を抱いた人は、多いのではないだろうか。なぜ新しいハラスメントが次々に問題視されているのか、わからない人も多いはずだ。戸惑っている人々も多いだろう。新しいハラスメントを提唱する人々に「お気持ちギャング」というレッテルを貼る人々も少なくない。
しかし、これが時代の趨勢である、ととらえると、納得できるのではないだろうか。他人に嫌悪感を抱かせるのは障害である、という新しい常識が広まりつつある過程なのだ。
嫌感障害という概念が確立されるメリットとしてまず考えつくのが、嫌感障害は障害であるのだから、治療の対象となり、医療が解決する分野となることだ。
発達障害がコンサータなどの投薬で治療されてきたように、いずれ嫌感障害を解決する薬が見つかることになるだろう。
次に挙げられるメリットとしては、パワハラ、セクハラをしてきた人々が、ひとくくりの集団として可視化され、社会活動における「障害」の持ち主と認識されることだ。
発達障害という概念が、コミュニケーションの重要性を浮き彫りにしたように、嫌感障害という概念は、他人への攻撃性を抑止できる能力の重要性を明らかにする。
パワハラ、セクハラ、モラハラを、無意識であれ意図的であれ、行ってはいけないし、それは教育によって徹底されていき、矯正できないものは「障害」がある者として取り扱われることになるだろう。
このような潮流が社会に表出しようとしていることを、私達はこれから目の当たりにすることになるだろう。
なお、以上のようなことがふと頭に浮かび、自分のオリジナルなアイデアかもしれないと思い、一気呵成に書き上げたが、研究者でも専門家でもない私の思いつくようなことは、すでにどこかで誰かが考えついているかもしれない。
「高度感情化社会」「嫌感障害」といった概念に似たことが書かれている本などがもしあれば、ぜひブックマークか増田返信で教えていただきたい。
逆にアイデアが私のオリジナルだった場合、用語やアイデアに関して、皆さんのご自由にお使いいただきたい。この記事からの引用である、などと断る必要もありません。
by tnkm
“「侮辱罪だ! 謝罪させろ!」逮捕された“マスク拒否おじさん”は東大出身の研究者だったらしい。
東浩紀の存在からずっと仮説を持ってたけど、本当に「東大に入って学問を志ざせるぐらいの人って結構な割合のアスペルガー症候群がいる」説がまた正しいと証明されてしまった…
別にアスペルガー症候群的な人が悪いって話じゃなくて、本来は「今の受験制度は若くてできのいい子を選抜する(中高一貫校はかなり有利)」というシステムが、早熟のアスペルガー的な人と相性いいって話ね。
だから、東大や学者の人がネット炎上したり、テレビでこどもっぽい振る舞いすることがある…
私、研究など理系分野の人材を選ぶ時にはこのシステムで全然いいと思ってるよ?
ただ、文系の仕事は調整などのバランス感覚を要するから「学歴フィルターで本当に正しいんですか?」ってのがずっとあるわけ。
単純に数字に強い、強い物言いで注目を集めるのが目的ならそれでいいと思うけど…
「学歴フィルター的/学閥的な採用をする企業・官庁が多いなら、その根っこは受験制度でどんな人間が選ばれるかをもっと真剣に考えたほうがいいのでは?」
ってとこに繋がってくるわけ。
別居に至るまでは色々あって、
一つ一つはどの家庭にもあるようなことで
でも、やめてほしいと言っても嘘をつかれてやめてもらえない、
やってほしいと言ったことは嫌な顔をされてやってもらえない、
家事も育児も仕事もしながら、自分の気持ちに向き合える余裕などなくて、
ただ毎日なんでこんな人と結婚してしまったんだろう、なんでこんな人と子供を作ってしまったんだろう、
と毎日毎分思いながら、その相手の食事も作って片付けて洗濯もして、一緒に生活するのは本当につらかった。
別居後、子供が保育園に行っている間に夫と二人で話をする時間を作って、
想像していたよりも長期間、結婚前からずっと嘘をつかれていたことを自白されて、
やっとこの10年近くの間に自分がされてきたことの全体像が分かった。
(まだ隠してることがあるんじゃないかとも思うけど。)
混乱した状態で毎日のようにLINEで親しい友人に話を聞いてもらって、
(この友人には感謝してもしきれない。)
自分の状態を検索して最初にたどり着いたのは、「カサンドラ症候群」という言葉で、
wikipediaの記述を読んで、自分のことが書いてある…と衝撃だった。
アスペルガー症候群の項目も読んだけど、夫に当てはまるような、当てはまらないようなで、よく分からなかった。
それからカサンドラ症候群を自称している方のブログやtwitterなどを読んで、書かれている旦那さんのこと、気持ち悪いくらいうちの夫と一緒だ…と思って、
本当にどの人の行動も言動も似すぎていて気持ち悪くて、それからはあまり調べたりしていない。
別居前から食欲不振や動悸などの身体症状もあり、仕事に支障も出ていたので
カウンセリングと心療内科を調べて、まず近くの臨床心理士さんのいるカウンセリングへ、泣きながら予約の電話をした。
そこで夫との関係のこと、夫の行動、自分の気持ちなどをカウンセリングの先生に聞いてもらい、
自分はカサンドラ症候群なのではと思っているというのも話した。
カウンセリングの先生も「僕も話を聞いていて旦那さんは発達障害の傾向があるのではと思った」と言って、夫に受診を勧めるように助言してくださったのだけれど、
そこから実際に夫が発達障害の検査を受けるまで、3か月以上かかった。
その間に私はカウンセリングですすめられた心療内科にも行き(適応障害と診断、安定剤を処方してもらったけど効果はよく分からず)、カウンセリングも月2回のペースで通っている。
これまでのカウンセリングでは私自分のことよりも、夫の問題(発達障害疑いと風俗依存)へのアプローチが中心だった。
紆余曲折あって、結局夫も私と同じカウンセリングに通うことにしたようで、検査もそこで受けて、検査結果は数日前に夫に伝えられたようなのだけど、
「○日に結果を聞いたら連絡する」と自分で言った夫から私に報告はなく、結局私から夫に催促して聞いた。
IQテストのような検査で、結果、ASDの傾向は低いとのことだった。
それじゃあ私のこの状態はなんなのだろう、やっぱり夫が思っているように私が完璧主義のモラハラ妻なのか。
夫のことが憎くて仕方がなくて発狂したように責めてしまう私が人格障害なのか。
風俗通いとアスペルガー的行動は別問題としても、夫のことは本当に理解できなくて気持ち悪いし、
カウンセリングの先生からは、「旦那さんに何かしらのコンプレックスがあって風俗通いやセックスレスはそれが原因だろう」「あなたに対しての態度や言動もコンプレックスの裏返しでしょう」とのことで
これからは夫婦カウンセリングで、夫婦として夫の性の問題に向き合っていきましょうという感じなのだけど、正直もう自信がない。
息子と二人の生活を4か月近く続けて、
それは仕事しながらのワンオペ育児は大変だし落ち込むこともあるけれど、
保育園も頼りにさせてもらえているし、話ができる友人もママ友もいてくれるし、
何より何もしない、不機嫌な顔でただそこにいるだけの大人が家にいないというだけで
こんなに楽しく軽い気持ちで過ごせるのだ、子供との生活はこんなに毎日充実しているのに、
これがもし、夫が戻ってきたら、また夫と暮らしていた頃の自分に戻ってしまうのか、とこわいし、
そうならないために、冷静に冷静にと自分を押し殺して我慢して、そうしてまで夫婦でいる必要はあるのかな…子供のためにもよくないよな…
あーもう全部投げ出して消えちゃいたい。
3ヶ月の内1ヶ月半低調で、1ヶ月不調なので、正直寛解しているという感じはしない。
どこかふとしたことでガクッと来るタイミングが合って、そうするとまた2週間動けなくなったり。
今はたまたま自宅で出来る仕事に巡り会えて、ここ数年で大分貯金もできたけども、
今している仕事があと何年出来るかは疑問。少なくとも10年は続かなさそう。
仕事に転用出来る仕事じゃないから、今の仕事が終わるとその後行きていけるかなーっていう
考えがじわじわと押し寄せてくる。
ゲームやアニメが大好きなにわかオタクなんだけど、ゲームしたりアニメ見たりする時間は数年でかなり減った。
最近の趣味?は雑にネット小説を適当に読みつつ、ツイッター見てワイワイ騒いでるのを羨ましいなーって眺めるくらい。
今までの何十年の人生、常に苦しんできた。
私は九九が出来て、それを自慢する気なんてないが、出来ない人も世の中には潜んでいて、そういう人に対してどう接すればいいのか私には分からない。
九九なんてよっぽど小学校のときに怠けてなければ身につくはずだし、身につけずに今までどう生きてきたのか想像もつかない。
しかし、そういう人は世の中にいる。
私も同じように、普通の人が小学校や幼稚園で身につけていくことが身につかないままここまで来た。
普通の人からすれば、どう生きてきたのか理解もできないだろう。
端的に言えば、理解を得られないまま影で泣きながら生きてきた。
こんなことを言っても多くの人は「誰しも人に全てを理解なんてしてもらえない」と答える。つまり、理解されていないのだ。全く。
まさにこれは「足の骨が折れているときに、走れば足がむくんで痛むのは当たり前だみんな我慢している」と叱責されながらマラソンに参加させられ続けているのと同じだ。
もう無理だ。このレースから降りたい。早く死にたい。いっそ殺せ。なぜ誰もが私を死ぬしぐらいしか答えの出しようがない問いかけをしては何事もなかったように横を走り抜けていく?勝手に死ねということか?お前たちはなぜそんなに簡単に人を全否定できる?なぜだ?その自覚がないのだろうな。死んでくれ。おまえたちが死んでくれ。いいやお前たちも今すぐ脚の骨を折ったまま走り続けろ。そのときになってお互いに助け合おうなんて言い出さず私にやったようにお互いに罵倒しあって死ねと言い合い走り続けろ。
そんな恨み言でいつも頭が一杯だった。
アスペルガー症候群は遺伝する。最新の研究成果によればであるが。
そして、治療はまだまだ難しい。
西洋医学の力で症状を緩和するのも、傾いた天秤の片側に重りを載せるようなものであり、それは最初から平衡の天秤を管理するのとは全く別物として扱う必要がある。
私の子供、いや、誰の子供であってもアスペルガー症候群として生まれ、死を超えるほどの生の苦しみを味わう人間がこの世に生まれるのは一人でいいから少ない方がいい。
同時に、私の子供がアスペルガー症候群等の心配がない健常な脳(別の器官に原因があるとも最近は言われているがここでは取り合えす脳に問題があるとする)を持って生まれたとして、その子は私の事を理解してくれないだろう。
こういった話をすると、「子供を増やすのは国民の義務」と批判されることがある。
だが待ってくれ。
お前たちが私の存在を心から歓迎していたことなど一度もないことを私は知っているぞ、と。
自分が携わったアスペルガー(高度自閉)患者のケースで似た案件があったので情報整理がてらに言及する。
おそらく増田の「情報を明かさない」という他者との関わり方が、他者からすると「何をしているのかわからない」という形に映り
おそらく今回のように「仕事をしくじった」が先方には突然の霹靂として「いきなり突き付けられた」という形で報されたのではないか、と想像する。
そしておそらく、前提条件となる情報共有の少なさこそが先方にとっての「問題」と感じられているのではないだろうか。
自分は職業上&趣味としても発達障害者と他者のすれ違いを翻訳するのを生業としているので
こういう憶測で時間を割くことを楽しいとすら感じる異常者だが、
おそらく発達障害当事者も含めたほぼ全ての人にとっては「他者の内心をいちいち想像するのは面倒」だし
「他者の内心などどうでもいい(※自分に危害が及ばなければ)」でしかない人が圧倒的多数だろう。
「『仕事をしくじった』に至るまで状況報告がないと不利益も大きいしフォローもできない→業務として困る」
というのがおそらくは先方の「事情」であり、おそらく増田の内心そのものは求められていないというか興味すら持たれていないと思われる。
(あくまで想像でしかないので必要なら確認を取ってみて欲しいが)
人間性に問題があるかは別にして、文字通りに受け取ったかあるいは
「自分に強く関連付けた認知」として解釈した&他者に提示する情報が少ない増田が「少数派」の発達障害である可能性はそれなりに高いはずなので
これも「関連付けのし過ぎ」の結果だと思うが、「ASの人は***だ」と書くと、「ASの人だけが***で、他の人は全て***ではない」という意味にASの人は受け取っているように思う。
例えば「ASの認知のゆがみ」と書くと、もともとの意味は「ASの人は認知のゆがみがあることがある。(他の人についてはあるとも無いとも言ってない)」 という意味であるのに、
「世の中でASだけがどうしようもなく認知がひん曲がっていてまともにものを見ることも出来ない」という風に非常に極端に(感情的に)受け取っているのではないかと私は想像する。
当たり前だがこの二つは全く違うことだ。
「社交辞令は分からない」とか、「言葉ではっきり言われたほうがいい」 という割りに、実はASの人は多数派よりもはるかに「意味を付け加えて過剰に受け取る」ということが多く、それに直面してADHDは戸惑う。
アスペルガー症候群の一大特徴は、「特定の人への愛着」である。知的障害に近い人からIQ130の高機能の人まで、みんな同じく愛着の問題に苦しむ。
この愛着は、本人の認知としては、「一心同体」「相手の全てを知っているのが当たり前」「自分の全てを相手が分かっているのが当たり前」という形になり、
それを前提に、例えば「お母さんは全部分かっているはずだから説明する必要は無い」ということになり、説明する必要があることがなかなか了解できない。