はてなキーワード: エリート意識とは
先週, Twitterを中心に大学院生の授業料免除について大きく話題になった. 話題の根拠となったのは文部科学省がHP上に公開している高等教育段階の教育費負担新制度に係る質問と回答(Q&A):文部科学省であり,
A67 大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)
との記述が大きな反感を買ったようだ. 大学院生の授業料免除がなくなると捉え, 反発した人も多くいたようだが, 実際には授業料免除がなくなるわけではなさそうである.[1]
この話題に関してTwitterで見かけた投稿に違和感を感じたので, それについて述べたいと思う. 私が見かけた多くの意見は, 文科省に対する強い憤りを示したものであった. とくに, 引用箇所の「こうした者とのバランスを考える必要」というところに強い反発があったように思う. 日本の科学力に貢献している我々がなぜこのような不遇な状況に置かれなければならないのかといったように.
しかし, 本当に彼らは劣悪な待遇を受けているのだろうか. 学歴別の年収統計を見てみよう. 厚生労働省の公開しているには学歴別の賃金カーブが掲載されている. 大学院生と大学生は区別されておらず, 一緒のカーブに統合されてはいるが, 一番賃金カーブが高いのが大学・大学院卒である. 大学院卒の初任給について https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/17/01.html に掲載されているが大卒に比べてやや高い. また, 経験的ではあるが大学院に進学する学生は難関大学ほど多いことを加味すると, 大学院卒のほうが大学卒よりも昇給の度合いが高いのではないだろうか.
何が言いたいかと言うと, 大学院卒は(少なくとも大卒以上は)日本社会における勝ち組であり[2], 高卒と比べて一年あたり数百万程度の賃金格差が存在するのである. 国立大学なら修士2年で100万程度の, 私立大学でもおよそ300万の学費に文句を垂れる資格はあるのだろうか. 大学院生である間の懐が寂しいのであれば, 奨学金を借りて勝ち組になった後に返せばいいだけだろう. 就職に失敗した時の不安なら, 奨学金返済に関して勝ち組になれなかった場合のセーフティネットの拡充を求めるべきだろう. 大学や大学院には, 国家から様々な形態で資金が渡っている. 高卒者と比べてすでに多くの支援を受けているにもかかわらず, 大学院生に対するさらなる厚遇があって当然と言わんばかりの発言には不快感を感じた.
大学院生らのもう一つの主張は, 大学院生を冷遇すると日本の科学力を大きく損なうことになるというものだ. これが事実だとしても, この手の意見には少しばかりの違和感を感じる. 先の意見を強めに言い換えれば「日本政府は大学院生という国家にとって非常に価値のある人材に投資するべきであり, 高卒などの投資価値の薄い人材との公平性など考えなくて良い」となる. 彼ら彼女らの持つ強いエリート意識にあまりにも無批判でいることに嫌悪感を抱いた.
先にも述べたように, 体感として大学院生の多くはある程度の難関大学に在籍する者たちである. 東大生の親の年収の多数派は950万以上というデータ[3]があるように, 彼らはアッパーミドル以上の家庭で育っていることが多いだろう. 日本には非常に劣悪な環境で勤務する労働者が存在するということを認識していないのではないか. 周囲にいるのはそれなりにお上品な人ばかりだから, 他者感覚のない意見を平気で発言できてしまうのではないだろうか.
彼らの考えでもう一つ気に入らないものがある. 彼らはこの手の話題[4]になるたびに文科省や財務省を批判している. 日本政府を満足気に批判して終わっているが, 大学院生でもありながら事の本質に迫らずに終わっているのは悲しいものだ.
文科省や財務省も所詮は与党政治家の手先に過ぎない. そして与党政治家も所詮は国民の多数派や圧力団体の代弁者に過ぎない. 彼らの真の巨悪は日本が採用する民主主義だ.
民主主義はすべての国民が平等であることを前提に構成された制度である. どのような人間でも有権者でさえあれば等しく一票を投じる権利を有する. つまり多数派が正義だ.
彼らの考えに基づけば, 政府が投資する価値のある大学院生・研究者と投資する価値の少ない「その他」に分けられる. しかし, 大学院生や研究者は日本において圧倒的少数派である. 投資する価値の少ない多数派に多くの国家予算が注ぎ込まれ, 投資する価値が高くても所詮は少数派にすぎない彼らにはあまり投資されない. これが民主制の必然ではないか. とくに大学院生は将来の勝ち組である. いくら投資するのが合理的とは言え, 勝ち組に投資することを許容できるほど今の日本の民主主義は成熟していない.
それでも昔の日本はうまくやっていたのだろう. バブル崩壊前までは日本は精神的にも豊かであり, 国民は日々の生活に満足していたはずだ. 日々の生活に不満がなければ政治に関心を抱かないし, 裏で国家の資源が勝ち組に回っていたとしても許容できるくらいの度量があっただろう.
しかし今の日本は先行きが見えない. 少子高齢化問題により国家の財政は逼迫し, さらに高齢者や妊婦などの様々な国民が政府からの支援を求めている. 現代の日本の最大の課題は限りある国家予算をどう分配するかであり, どこかに予算を割り当てるには, 他の誰かの予算を削る必要がある. そして日本は民主主義国家なのだから支援を求める多数派から順に予算を分配することになる.
日本において大学院生は非常に少ない存在である. 後期高齢者1700万人[5], 身体障害者436万人, 知的障害者108万人, 精神障害者392万人[6], 生活保護受給者210万人[7], 母子家庭123万世帯[8]に対して大学院生は25万人[9]にすぎない. 一般的に考えられる支援が必要な社会的弱者より一桁人数が少ないのだ. 国民の多数派に媚を売ることしか考えていない政治家にとって, 大学院生など考える価値もない存在だろう.
今の日本に民主主義を見る限り, 限られた国家予算は彼らの思う投資価値の高い少数派にではなく, 投資価値の低い多数派に注ぎ込まれるだけだ. 彼らがなすべきことはTwitterで文科省や財務省の文句を垂れることではない. 国民は平等であるという欺瞞に満ちた民主主義を崩壊させる工作活動や, 日本の支配層たる愚かな多数派の日本国民から主権を奪い取る活動をこそ行うべきなのだ.
1 ttps://twitter.com/noi_springfield/status/1154657222816747520?s=21
2 人文系の大学院生やアカデミアに残った研究者などは違う境遇だろうが, 大学院生という大枠でみれば平均的には勝ち組である.
3 ttps://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/6950.php
4 欧米諸国に比べて研究者の待遇が悪いことや学費が年々上がり続けていることなど批判できる話題はいくつもある
5 ttps://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2017/html/gaiyou/s1_1.html
6 ttps://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h30hakusho/zenbun/siryo_02.html
7 ttps://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000164401.pdf
8 ttps://www.mhlw.go.jp/file/04-Houdouhappyou-11923000-Kodomokateikyoku-Kateifukishika/0000188136.pdf
9 ttp://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2017/07/24/1386653_05.pdf
大手新聞社で記者をしていた知人は、かれこれ20年以上前から海外で何らかのトラブルに見舞われたとき、日本大使館が動いてくれたことは唯の一度もなかったと言っていた。いつだって、見るに見かねた他国の大使館が手を差し伸べてくれたそうだ。この国は、そういう国だという覚悟が必要らしい。
亡くなった俳優の三船敏郎さんも同じ事をおっしゃってかました。「日本の大使館も外務省も何もしてくれない」と。大使館員も外務省官僚も事が起きても全く対処出来ない無能にも関わらず、傲慢なエリート意識だけは人一倍持っているどうにも使えない連中だ
https://togetter.com/li/778350
首を切って死んだのが本当だとすると彼は神様が地上に遣わした天使なのでは
我が子はいわゆる発達障害児だった。小さい頃から東大を目指してがんばってきたわけではない。周りの子供と同じように田舎の公立小中学校へ通ったし通塾などはしたことがない。本人が「自分と話が合う人が多そうだから」と希望したので高校は私立へ進んだが、受験直前も夜10時には寝ていた。彼にとって、中学までの学校生活はつらいことも多かったと思う。けっこうトラブルもあった。高校では水を得た魚のようで、本当にほっとした。同級生は我が家より裕福な家庭の子弟が多かったが、特に疎外感をもつほどではなかったようだ。
夫はサラリーマン、私はパート主婦で、東大へは「行かせてやれないことはないが余裕はない」レベルの経済状況だ。本人が東大を志望し合格した時は、もちろんうれしかったが不安も大きかった。彼に一人暮らしができるレベルの生活能力があるとは思えなかったし、十分なサポートをするだけの時間的経済的余裕が我々夫婦にはなかった。危惧したとおり様々なことがあった。今も、このまま無事社会にでて自立してくれればと祈るような気持ちだ。
実は、私自身も今なら発達障害者と言われていただろう人間だ。親や周りからぼこぼこにされながら生きてきた、という恨みのようなものも抱えている。反面、「出来が悪い普通の人」として生きてこられた自分は「恵まれている」という思いもある。我が子は、東大に入ったことで、かえって生きる道を狭めてしまったのではとすら考えることがある。
彼は「東大なら自分の能力が生かせる」「自分と同じような人、もっとすごい人と出会える」という希望を抱いて東大に入学したのではないだろうか。しかし、本当にそうだったのか。上野氏の祝辞は、彼に響いただろうか。東大にあの言葉が響く「恵まれた」学生が多いのなら、私は失望しかない。「恵まれた」とカッコ書きにするのは、彼らを恵まれていると思えないからだ。肥大化したエリート意識を持ち想像力が乏しく、東大合格によって自分の将来が約束されたと誇らしく思う人々、上野氏の祝辞で言及された社会の諸問題や「恵まれない人」のことを今まで考えたこともなく、「初めて考えた、心に響いた」と思うほど無知で愚かな人々…彼らは本当に「恵まれている」のか?
いわゆる裕福な家庭で小さな頃から学力を高める教育を受けてきた子、そういう子に負けずに「エリート」へのパスポートを得ようとがんばってきた裕福ではない家庭の子、東大にはその二者しかいないのか? いってみれば「東大くらいしか行き道がなかった」子は少数なのだろうか。学問の道ならば自分の生きるすべがあると希望を抱いて入学する人々は、この大学には数少ないのだろうか。
上野氏の祝辞は少なくとも私には響かなかった。全体に雑で学者なのか疑わしく思う。「自閉症はマザコンのせい」といったとんでも発言で名を馳せた人らしいですね、と皮肉をいいたくなった。「弱くダメな人、他者から恵まれないとみなされがちな人」を社会にどう包摂していくか、そもそも「弱くてダメ」「恵まれない」とみなしていることに間違いはないのか、そこに価値がないのかを考えることが学者の仕事では。
人選をした東大もどうかと思う。コミュ力が高くてはったりが効く外部の人間を人寄せパンダのように登用するのはやめて、大学でしっかりと研究をして実績を積んだ人々を縁故や世間受けなどと関係なく登用していくほうが(されていないとはいっていない。実態を知らないので)、長い目で見れば大学の価値を高めていくのではないだろうか。
東大入学式の祝辞で著名なフェミニストである上野千鶴子がスピーチを行い、その内容についてインターネット上では賛否の声が上がっている。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
個人的な感想を端的に言うと、内容の正否以前にわかりづらい部分があって、ときおり彼女が何を主張しているのか理解できない部分があった(私だけだったらすいませんでした)。インターネットの皆さまは内容を理解した上で議論しているのだろうか?まあ実際のところはこのようなスピーチを真面目に読む人暇人なんぞは少数派だろうから、雰囲気で流し読みしてあーだこーだと感想を言っているのだろう。それはいいとしても、このスピーチでは、いかに東大生の頭がいいと言っても口頭ではロジックを理解できずに混乱してしまったのではないだろかと心配になる。
「女性学のパイオニアとして」の章は著者の自分語りであるし、「変化と多様性に拓かれた大学」と「東京大学で学ぶ価値」の章は良い雰囲気の一般論なのでこれらの章に特に理解が難しい点はない。問題なのは、女性学生差別にまつわる内容が記述されている「女子学生の置かれている現実」の章であり、その中でも特に理解が難しく、思わず男性差別的なのではないかと脊髄反射してしまいそうなパートは、第3パラグラフである。以下では、同パラグラフの読解を行うので、私と同様に一読してわからなかった人、特に男性差別的に感じた人は読んでほしい。
事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。
このパラグラフはいきなり衝撃的なトピックセンテンス「事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。」で始まる。おまけにサポートセンテンスの中には「男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験している」という主張が入ってくるので、恐らくこれを口頭で聴いたら「上野千鶴子はとりあえず男が馬鹿だと言いたいのか?」と感じてしまう可能性がある(実際にTwitter上ではそのようなリアクションが少なからずみられる)。さらに、冒頭で「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高い」と言っておきながら、サポートセンテンスでは「統計的には偏差値の正規分布に男女差はありません」と真逆のことを言われて、読者(聴衆)は混乱の極致に達する。しかし、このパラグラフの本意はそうではない。鍵は、この前にある第2パラグラフにある。
女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。
つまり、著者はひとつ前の第2パラグラフで、「医学部以外の女子の入りにくさは1以下で、医学部が1以上であることの理由をこれから説明するよー」と宣言しているわけだが、実際に次の第3パラグラフで説明されるのは、前者の「なぜ女子の合格率は(医学部以外において)高いのか」ということに対する理由だけだ。この宣言と実際のズレが、まずもって2パラと3パラの繋がりを分かりづらくしている。
それを踏まえて第3パラグラフのトピックセンテンスである「事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高い」を解釈すると、これは実はかなり曖昧で、「受験生全体としてみたときに女子の方が偏差値が高い」という解釈(A)と「ある大学の受験者プールをみたときに女子の方が偏差値が高い」という解釈(B)の両方が必要となる。このトピックセンテンスの意味の曖昧さが、続くサポートセンテンスとの繋がりを不明瞭にすることで、このパラグラフの読解を困難にしている。しかしながら、これらはいずれも、「なぜ女子の合格率は男子に比べて高いのか?」という第2パラグラフの問いに対する明確な解答となっている。
では、このトピックセンテンスの解釈(A)、(B)を前提として、そのあとに続く3つのサポートセンテンスの内容を読み解いていこう。
①「第1に、女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。」⇒要は、女子は余裕を持って受かる大学を選ぶため、ある大学の受験者プールで見たときに女子の方が偏差値が高い、という話なので解釈(B)を支持する内容。
②「第2に、東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。(中略)統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。」⇒これも①と似たような話。男子の方が相対的に下方の学力の学生まで東大を受験するため、平均的にみれば女子東大受験生の方が偏差値が高いということ。解釈(B)を支持する。なお、ここでいう偏差値の正規分布とは、「東大受験する/しない」「大学受験する/しない」という条件を一切つけない高校生全体の分布の話をしていることに注意しよう。一方でトピックセンテンスの「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高い」は、これらの条件を付けたときの条件付き確率分布の話をしている。ここもわかりづらいポイント。
③「第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。」⇒要は、学力順に大学受験をするとしたら大学進学率の高い男子の方が下方の学力の学生まで大学受験をするため、平均的にみれば女子受験生の方が偏差値が高いということ。これは受験生全体の話なので解釈(A)を支持する内容。
以上の様な形で、一見意味不明にみえる第3パラグラフも、落ち着いてよく読んでみればしっかりと論理的な構成になっている。では、結局のところ上野千鶴子はこのパラグラフで何が言いたいのか?私の理解は次の通り。「女子学生は、性差別の抑圧の結果として、浪人のリスクをとって上位校を目指したり、東大生になろうとすることが忌避され、その上そもそも大学進学率が低いことから結果的に大学合格率が高くなっている(除く医学部)。」つまり、女子受験生の偏差値が高い(⇔合格率が高い)というのは性差別による抑圧の結果なので、上野千鶴子はそれをポジティブに捉えてはいないということになり、男性差別的な意図とは真逆であるということがわかる。
以上、誤読しそうな一章第3パラグラフの読解を、ややスピーチを擁護しながら行ったが、以下ではこのスピーチに対する批判的な私見も+αで少し書く。
まず1パラグラフ目について。
その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。
たしかに東京医科大では女性差別的な入試不正が行われていたのは事実だし、ここに列挙されている私大についても不正をしている可能性はある。それ自体は何らかの形で是正されていくべき問題であることは同意。ただ、私はこのパラグラフで拭えない違和感を覚えてしまう。それは、東大理3にもこの議論を敷衍している点と、「地方国立大医学部が並んでいます」という記述である。
当たり前だが、どれだけ男女平等に選抜してもこの男女合格率比率は1を超えたり1を下回ったりしてフレる。奇しくも彼女自身が記述している通り、「鳥取大、島根大、徳島大、弘前大」では1を下回って、女性有利の結果となっているのだが、これは単なるフレであると考えられるので、彼女は「これらの大学では男性が差別されている」とは主張しないだろう。にもかかわらず上野千鶴子は、断言はしないものの、この比率が1.03しかない理3に入試不正の話をつなげる訳だが、これは誰しもが感じる通り、さすがに無理筋である。1.03という差はどれほどなのか考えてみよう。理3女子の合格率が概ね25%だとすると、男子の合格率は25.75%であり、わずか0.75%ポイントの差でしかない。つまり、100人受けたときに1人未満の合否の差が発生するということであるが、これは統計的に有意な差たりえるだろうか?もちろん私は実際の分布についての情報を持たないので統計検定は出来ないが、理3受験者数の少なさ(標本の少なさ=この比率のフレも大きい)まで含めて考えれば検定するまでもないと思う。こんな微妙な差を以って、東大理3の入試においても男女差別が存在しうることを仄めかす様な物言いをするのはいかがなものか。
また、些末過ぎて私しか感じないかもしれないが、「地方国立大医学部が並んでいます」という記述にもなんとなく違和感というか、いやらしさを覚えた。彼女がわざわざ先ほどの4校を持ち出して、「地方国立大医学部が並んでいます」と記述した理由は何なのか。うがった見方をすれば、「女子は地方のless prestigiousな大学に追いやられ、東大理3を含む首都圏のprestigiousな大学は差別により入れない」という印象を明確にしたいがために、これらの地方国立大医学部を拾ってきて並べたように思える。しかしながら、もしも彼女がこの様な印象操作を図ったとすれば、それはやや牽強付会にみえてしまう。なぜなら、理由は2つあって、そもそも地方国立大の方が医学部が多いということと、加えて、(平成30年度入試のデータではあるが)帝京大学や北里大学、東京医科歯科大学医学部医学科、東京女子医科大学(当然)、自治医科大(首都圏か微妙だが)、など首都圏の大学でも女性有利の結果となっている大学は存在しているので、地方国立だけ取り出してみせるのはいささか正当性に欠けるように思えるてしまうからである。(ソース:http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409128_002_1.pdf)
もう一つ、東大生によるレイプ事件に言及した第6パラグラフをみてほしい。
東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。
具体的に「どんな目」でみられているか上野千鶴子は言及しないが、文脈からいえば、「他大学の女子を頭が悪いからと見下していて、彼女らをレイプしてもいいと考えている異常な選民思想を持った人々」と解釈できるだろう(この解釈は行き過ぎだろうか?否、これが男女差別の文脈のスピーチのおいて、レイプ事件と関連した東大"男子"学生のイメージとして語られた以上、性的加虐の意味は必然的に含まれている)。「彼女は頭が悪いから」という作品はたった一冊のフィクション作品であり、しかもモデルとなった事件もおよそ東大生一般に当てはまるようなものとは思い難い。そこに描かれた東大男子像を持ってして、お前らはこう見られてるから自覚しろ、と彼らを脅迫する行為はいくらなんでも行き過ぎであろう。少なくとも私は普通の東大生男子たちが、もしかしたらうちに秘めたエリート意識ぐらいは持っているのかもしれないが、それを以ってレイプに及ぶ様な集団だとは思っていない。世間が東大男子のことを選民思想レイパーだと思っている、と本当に言いたいなら、アンケート調査で統計をとってみてはいかがだろう。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。
近藤麻理恵は一冊目の本である「人生がときめく片づけの魔法」が2014年にアメリカで出版されたときから社会現象であり続けている。「日本の片付けと整理の術」を詳しく記したその本は、コンマリ・メソッドまたは「Kondoする」と呼ばれる、持ち物に触ってときめきを感じる(it sparks joy)かで判断する片付け法を誕生させた。しかし、やはり近藤の人気が急上昇したのはNetflixで「近藤麻理恵とお片付け」(邦題:KonMari ~人生がときめく片づけの魔法~)が放送されてからだ。ところが、この人気の急上昇により本にまつわる予期せぬ騒動が発生した。著述家であり「We Need Diverse Books」(多様な人種の子供に向けて本を与える活動をする非営利団体)の創設者の一人でもあるエレン・オーを含むSNS上の大勢の人々によれば、近藤への反発には明確な人種差別と階級意識の要素が含まれているという。Bustle(訳注:原文の掲載サイト)はオーにコメントを求めた。
韓国系でありながら子供時代を日本で過ごし第一言語が日本語であるオーは次のように語る。「近藤麻理恵への反発が発生してからというもの、ずっと意図的に誤解している人々に嫌な思いをさせられています。最初は文化の違いのせいかと思いました。特に、翻訳によって生じる問題についての意識のなさです。アジアの言語は英語とはかなり違います。どうやってもうまく翻訳できない言葉もあります」。ところが、オーが「人々が意図的に近藤を誤解している」と確信するに至るまで長い時間はかからなかった。
すべての始まりはこうだ。Netflixの番組の第5話で、近藤は若いカップルが本を片付けるのを手伝う。番組の中で、そして著書の中で、近藤はコンマリ・メソッドで蔵書を片付けるやり方について広く語っている。Deseret Newsの記事に書かれた近藤が語ったことの要点はこうだ。読んでいない本や、いつかもう一度読むかもしれないという思いにとらわれている本がたくさんあるのなら、それは捨てるべきだ。また近藤は、もしほんの一部だけにときめきを感じるのであれば、一部のページだけをちぎって残すことも薦めている。
小説家のアナカナ・スコフィールドはすぐさま近藤の本を捨てるやり方にSNSで憤慨したうちの一人だ。スコフィールドは「近藤麻理恵だかコンマリだかの本に関する意見に耳を貸すな」とTwitterに書いた。他の利用者たちもすぐに続いた。そのうちの一人であるジェニファー・ライトは「この女はモンスターだ」と既に削除されたツイートで記した。このツイートは「理想的には蔵書は30冊未満にしましょう」という吹き出しが書き足された近藤の写真に対する返信として書かれたものだ。ワシントンポストに掲載された書評家のロン・チャールズの「近藤麻理恵よ、おまえのトキメキお片付けは私の本の山には無用だ」をはじめ意見記事もいくつか出た。
しかしこの「理想」の蔵書数は30冊というのは、いったい何なのだろうか?この数字は、近藤がコンマリ・メソッドで自分の家を片付けたときに使ったものだ。「人生がときめく片づけの魔法」で、近藤は自分の蔵書は30冊にするようにしていると書いている。しかし、近藤は誰もがこの30という数字を使うべきだと言っているわけではない。重要なのは、近藤は一度も本をすべて捨てるべきだなどと言ったわけではないということだ。Refinery29のインタビューでケイト・ムンロは近藤に、ガラクタの山や、本で破裂しそうな本棚にときめきを感じる人はどうすればいいのかを尋ねている。近藤は次のように答えた。
家がちらかった状態でもそれで本当に快適なら、それは良いことです。なにもおかしくありません。その上で、それぞれの物に決まった場所を割りあてたり、それぞれの物がどれくらいの量あって、必要な量はどれくらいなのかを把握したりすることをおすすめします。こういう意識を持つことは大事だと思います。
オーは、アナカナ・スコフィールドが近藤についてのツイートの後で書いたガーディアン誌の記事を、自分の意見に合わせるために近藤の言葉を意図的に誤解している例の一つとしてあげている。「ときめき(spark joy)という表現が過剰に強調されていて、その言葉で近藤が本当に伝えようとしていることが置き去りにされています」。「ときめき」は実際には喜び(joy)と同じ意味ではなく、鼓動や興奮や動悸を意味する。この基本的なことさえ理解すれば、本は喜びだけでなく挑戦や動揺を読者に与えるべきだというスコフィールドの主張が無意味だということがわかるだろう。「ときめき」という言葉が意味するのは、本が読者に挑戦や動揺を与えてそれが良い反応をもたらすのならとっておくべきだということなのだ。
オーはさらにライトが削除されたツイートで近藤を「モンスター」と呼んだことについて言及する。「意図的な誤解は、近藤の助言はそもそも片付けをしたいと思っている人に向けられたものだという事実から目をそらすことから始まっています。片付けをしたくないなら、助言に耳を貸さなければ良いだけです」
「近藤への反発は、近藤の流暢でない英語や、独特の言葉づかいをからかうことまであらゆることに及んでいます」とオーは語る。「ときめきという概念を笑いの種にするたくさんの画像を見て、私の両親が話す片言の英語を意図的に誤解しておちょくってきた人たちのことを思い出さずにはいられませんでした」
今回の本を片付けることについての議論には、ある種の特権も絡んでいるとオーは語る。
「階級意識、エリート意識、たくさんの収納がある大きい家に住めるという特権。私には近藤への反発が何を根拠にしているのかはわからないけど、反発している人たちが特権的な立場にいるということはわかります」とオーは言う。「たくさんの本を持っていなければ賢い人間だとは言えないというエリート意識と経済的な階級意識です。かつて貧しかったころ、私が持っていた本は10冊もありませんでした。だから図書館は私にとって安らぎの場所だったんです」
以上の点について声を上げているのはもちろんオーだけではない。Twitter利用者のジョナー・ヴェンは一連のツイートで、コンマリ・メソッドの本来の目的に対する一般的な無知についてこう書いている。「コンマリへの批判やネタ画像は、アジア、とりわけ日本の文化や影響への無知により、目立たないが本質的に人種差別的なものだ」
近藤への反発の人種差別的な側面についてSNS上で反応している人々は他にもいる。作家のカット・チョーはツイートで「有色人種をモンスターと呼ぶのはやめてください。既に社会の隅に追いやられている人たちを、人でなし扱いするような言葉を使わないで」と書いた。そして著述家のピューター・セレステは「アジア人の女性を不当な理由でからかうことに何の意味があるんだ?近藤麻理恵じゃなくてマーサ・スチュワートが相手だったとしてもこれ以上続けるのか?違うだろう」とツイートした。
確かに、本を捨てるという行為は一部の人々にとってかなり感情を動かされるものだし、本の一部をちぎると図書館や学校や非営利組織などに寄付して役立ててもらうこともできなくなる。しかし、とどのつまり近藤の助言に対する反発は、近藤とは関係がない。むしろそれは、一部の読書家が、自分の読書家としての自意識を維持するために必要だと考えている、本を所有するという行為を近藤が侮辱したという誤解に基づく怒りなのだ。
近藤を支持している読書家もたくさんいる。Twitter利用者のアレクサンドラ・ダンカンはツイートで「驚くかもしれないけど、図書館員として家の本棚をコンマリ・メソッドで整理することを100%支持します」と書いている。
もしかしたら年明けは、物理的な片付けについてだけでなく精神的な整理についても完璧な時期なのかもしれない。読者の皆さんも、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚そのものと、本に書かれた内容とどちらにときめきを感じるのか、自分に問いかけてみてはいかがだろうか。
10年目内科医。ここを見ていると「医者を増やせば解決する、日本医師会が巨悪」「女性医師は医療崩壊の原因」云々…との意見が多いように思う。
恐らく東京医大の事件に関しても、「男女平等の時代に逆行するなんて前時代的大学なのだ」といった感想を持つのが一般的なのだろう。
しかし、この出来事は実は医療崩壊の最終段階の端緒となる出来事のようにも思われる。
他でも議論されているが、まず医師を増やすことに原則的に反対の医師は多くないように思われる。増やせるものならどんどん増やしてほしいと思っている。
しかし我が国の医師の数が増えないのは、医師会が反対しているから、医師らが声をあげないから、等々ではないように思う。
欧米と決定的に違うのは、我が国では国民皆保険制度があり、誰でもどこでも医療を受ける権利がある。ということである。
極端な話、日本最高峰の大学病院に突然風邪でかかっても、数千円のはした金を余計にはらえば見てもらうことができるのである。
保険証の力は絶大で、診療の求めを受けた医療機関は「応召義務」のため診察を原則拒否できない。
しかし国民皆保険のこの素晴らしいシステムには致命的な制約がある。
それは、国が決めた一律の料金で患者を診察する、ということである。ここに「よりよいものを提供し、より大きな対価を得る」という資本主義的価値観はない。
訓練された一流の外科医が胃がんの手術をしようが、3年目のペーペーが手術しようが、病院が手にするのは「所定の胃がんの手術料金」である。
外来で例えよう。A医師は患者の話を遮り、高圧的で、診察は3分。B医師は患者の話に共感的で、優しく、10分間丁寧に診察を行う。
しかし病院からしたら、A医師は一時間に20人分の売り上げを獲得するのに対してB医師は6人分の売り上げしか獲得できない。病院から見てより稼いでくるA医師の評価の方が高くなる。
要するに薄利多売のビジネスモデルを「お上」に強制されていて、回転率が命なのだ。即ち某ラーメン屋風に言えば、ロット乱しはギルティであり、長話する客と、それを許容する店員は退店やむなしなのだ。
以上のように、国民皆保険のシステムと病院の関係を考えると、「高圧的で話を聞かず、3分診療の医師」の需要はとても高いのだ。
B医師は人間的には素晴らしいかもしれないが、殆どの病院が赤字すれすれでやっている現状をかんがえると、「いらない子」なのである。
でもそんなA医師みたいなやつばかりな病院はどうせ患者がこなくなるかというとそうではない。
一つは、医師不足で患者余りであること、もう一つはA医師のような人物は大体特殊な技術や多分野における専門医資格保持者であったりするからだ。そのような、希少価値のある医者は一時間に20人ほどの予約がはいる。そりゃみんな、「優しいけど非専門」より「ぶっきらぼうだけどド専門」の先生に見てほしいからね。こうしてA医師はさらに人の話を聞かず、高圧的になっていくのでした。
以上のように、医療の価格は「お上」に決められているのだ。うちはすごい手術するから+10万円ね!なんてできない。当然、すごい手術をする医師に特別手当てが出る病院なんてのもない。そもそも病院は儲かってないのだから。
そうすると、医師からしたら、腕を磨く必要って何?ということになる。
普通の会社であれば、大きなプロジェクトを遂行し、地位が上がって、給与もあがり、達成感を得るのだろうが。
それがない医師はどうしたらいい?残されたのは「やりがい」のみである。患者さんに「ありがとう」と言ってもらった。助からない人を助けた。そういうことに価値を見いだすしかないのだ。
医師は医科大学に入学し、その段階から世間とは切り離された環境で培養される。総合大学においても医学部とその付属病院は、他学部とは明らかに一線を画している。「頑張って素晴らしいパフォーマンスをあげれば収入が増える」といった極めて基本的な資本主義的価値観を体験することなく研修医となり、医師となっていく。
そういった育成環境によりいわば世間知らずのまま育った医師は次第に先鋭化していく。「医師は人命に関わる特別な職業であり、滅私奉公を基本とし、過労死も厭わない。金を求めるものは、医は仁術の精神を忘れた愚か者だ」と言う奴すらいる(自分は引いてしまうが、どこの医大にでも少なからずいるものと思う。)
いわばエリート意識の塊となり、医療現場に放り込まれるのである。
一人前の医者になってもその「呪いとも言うべきエリート意識」から解放されることはない。技術を高めても、接遇を改善しても、給与に反映されることはないからだ。
しかしこの「エリート意識の塊」こそ、現代医療の根幹を支えている人たちなのだ。
医者には三種類いる。勤務医、開業医、フリーターだ。一番儲かる(時給換算で)のは開業医、次にフリーター、最後に勤務医である。しかし、勤務医は段違いに忙しく、高度な技術を要求され、責任も非常に大きい。しかもこの三種類の形態はお互い自由に行きできるのだ。
それでも勤務医が存在し続けるのは、「エリート意識の塊という呪い」のおかげであり、先鋭化した医師がいるからである。36時間連続フルパワーで働き、土日も働き、下の教育と、病院経営陣との間に挟まれ、寿命を削る(実際に勤務医の寿命は一般人口より短い)。こんなことができるのは言わば「エリート意識の塊=狂信者」だけである。
この「狂信者=勤務医」の呪いがとけて、居なくなるときが日本の医療崩壊が真に実現するときではないだろうか。
医者を増やす事のリスクとしては、①医師数の増加による、医師の社会的ステータスの低下②収入の低下があげられると思う。
①に関して、先に述べたように「狂信者」のエネルギー源は強烈なエリート意識である。数を増やすと言うことは、医師の質は下がるのは必死である(弁護士の例をかんがみても)。今まで医師になれなかった人を、医師にするのであるから。こうした変化は、家族も省みず、収入にも執着せず、すべてをなげうって医療に身を捧げる者の士気を「医師の希少価値の低下」を通じて下げてしまうかもしれない。
②に関しては、医療費はその半分が人件費であり、医師の数を増やすと言うことは、医師一人辺りの給与は下げなくてはならない。これも「医師間で相対的に少ないとはいえ、一般社会人より多い給与を減らすこと」で「狂信者」の、モチベーションを下げ、呪いを解き、開業やフリーター医師への逃散を誘発するには十分な理由になるだろう。
つまり、今の医療崩壊は医師を単純に増やすだけでは解決しない。また増やすことは万事を解決するわけでもなく新たな問題を起こす可能性もある。
これが我が国で医師を増加させることが、医療崩壊の解決にならないであろう理由である。
歪な国民皆保険制度のもと、なんとか医療業界が試行錯誤でたどり着いた妥協案が現在の医療体制なのだ。東京医大の問題もその歪みの一部でしかなく、この問題を小手先のテクニックで解決したように見せたところで、根本の病理はなにも変わらないのだろう。
忖度能力以外のスキルが身につかないので公務員を辞めることは不可能だ。
浮世離れした身内のルールのためだけに作られた無意味な書類に対する処理能力など、官僚組織の外では何の役にも立たないスキルだ。
それどころか、こじらせた前例主義とエリート意識を抱えているという汚点が経歴上の消せないシミとなって永遠につきまとう。
雇用流動性の低さは、組織的犯罪行為に対する抵抗力を人間から奪う。
逆を言えば、社会の上位に立ち忖度を受ける側からすれば、雇用の流動性が低ければ低いほど都合が良いのだ。
無垢なままでは食い殺されるだけだ。
クソ男死ね。
劣等感が強くて、その劣等感を弱者を見下すことで解消しようとする人間、死ね。主に男にそういう人間が多い。
劣等感を、女・在日朝鮮人・生活保護受給者といった、社会的弱者を攻撃・蔑視することで解消しようとする、クズ。
そういう男が多い、死ね。
若い世代だからってフェミニストとは限らない。むしろ、若い世代に非正規の男が増えて、稼げないことで劣等感を強くしたクズ男が増えて
そういう男が、女や在日朝鮮人や生活保護受給者を攻撃してる。クソが。稼がなきゃ、って価値観にとらわれてるところも愚かだし、
その稼げないことによる劣等感を弱者を攻撃することでしか解消できないところも愚か。クソ男、死ね。
若い男で正規には確かにフェミニストが多いかもしれない(劣等感が強くないから)
でも、若い男でも非正規で劣等感強い人間はダメだ。クソ男、ミソジニー男。
死んで欲しい。いつも偉そうで、女を見下して、嬉々として「嫁」とかって蔑称を使ってる、クソ男。目の前に女の人がいても、そういう蔑称を使うところがクズ。
エリート意識が高く、プライドが高そうだから、非正規の自分を受け入れられてなくて、その劣等感から、弱者を見下すんだろうけど。
日本には、劣等感が強い男が多い。全員が全員、表立ってミソジニーな言動をしてくるわけではないけど、端々にそういった思想を感じる男が多い。
表立って、堂々と、ミソジニーな言動をしてくる、クソ男もいるけど。
劣等感が強い男の特徴
・自分では女好きだと思ってる(実際は女嫌い、ミソジニーによって女を見下すために、色んな女に手を出してる。遊び人ほど女嫌い、ってやつ。芸能人にも多い。こういうやつは下に見える女しか選ばない
・キャバクラに行ったり、アニメや声優に入れ込んだり、女を消費したがる(キャバクラに行くような男とオタク男は違う人種と思われがちだが、実は同じ。女を対等に見てない、消費したがる点で同じ
・家庭環境由来の劣等感やミソジニーだったりもする(母や祖母に虐待(精神的なものも含む)をされてたとか
・自己顕示欲が強い、良く喋る(劣等感から承認欲求が強くて、よく喋るのかも。表立ってミソジニーな言動をするタイプはこれに当てはまるが、表立っては言わないタイプは当てはまらないかも
まだ、ミソジニー男が多数派ではない職場だからマシ、なのか…と、悪い方に慣らされてはいけない。それでも3分の1はいる、最低でも。
ミソジニー男はミソジニー男同士で仲良くしてる、嫌いな人間同士が仲良く喋っていて、イライラする。喋らずに仕事しろよ、と思うけど、劣等感から自己顕示欲が強い人間だから、雑談しないのは無理なんだろうな。
大多数の女が、キャバクラに行くような人間、堂々と女を見下したがる人間を嫌うのは当然だけど、オタク男も実は同じようなミソジニー男だっていうのは、認知されてるのかな?
認知されてるからこそ、オタク男は嫌われてるのかな。キャバクラに行くようなミソジニー男と違って、金もない、社交性もない、そのくせ、劣等感が強くてプライドが高いから、その劣等感を解消するために
そういった、下に見れる存在しか相手にできない男が増えて、女児への性犯罪も増えたのでは?
もとから、日本には劣等感が強い男が多かったけど、そういうやつらは昔はキャバクラで堂々と女を見下すことで劣等感を解消してた、クズだけど。(キャバクラに行く理由、で、「堂々と女を見下せるから」と答える男が多いと聞いたとき、男ってクズだなと再確認した
だけど、不況で貧しい男が増えて、キャバクラに行く金はない、金をかけずに堂々と女を消費する方法として、二次元コンテンツに需要ができ、そこが伸びた。アニメなんて、劣等感が強いクソ男がクソ男のために作ってるような作品がほとんどだから(そうじゃないのもたまにあるけど)ほとんど見ない。アニメは嫌いではなくても、アニメを好む、オタク男が嫌い。劣等感の強い、クズ男。
そうやって、男の劣等感を解消する方法としてキャバクラとかの代わりに二次元コンテンツに需要ができて、需要があるからこそ、ロリ系の二次元コンテンツも蔓延して(女かつ子供という、劣等感の強いクソ男が好む対象)それによって現実でも、子供に性犯罪をする男が増えた、と解釈してる。
気持ち悪い。クソ男が。二次元だけならまだしも、現実にも女を傷つけるとか、終わってる。そういう風に、二次元だけなら良いとかって言う男は(二次元なら児童ポルノを肯定するような人間)実際の犯罪に繋がってる状況を見て、どう思うのかな?
児童ポルノやそれにまつわる議論、かつての援助交際ブーム、どこを見ても、クソ男が弱い立場(女かつ子供)の存在で劣等感を解消しようとしてる、という構図になる。
そんな風に劣等感の強い男を量産してきたのが、この国の終わってるところ。
漫画は読むけど、男作者の作品は、男に都合が良い、男の劣等感を解消してくれる、都合の良い存在が出てくるから、苛つく。
・子供だったり背が低かったり、自分より身体的に弱い、から自分を傷つけない
・にも関わらず精神的には自分より大人で母の役割を果たしてくれる(自分を全肯定したり導いてくれたり
自分より下に見れて、怖がらなくて良い、子供か身体的に弱い存在、でも、精神的には導いてくれる…って、そんな存在、都合が良すぎ。夢みてんじゃねぇよ、クソ男が。
この前、はてブで話題になってたアフタヌーンの漫画も、こういう存在が出てきてて、イライラした。
教育のせい? ずっと競争させられてきて、褒められることもなく、職場でもパワハラやそれに近い待遇が当たり前の、劣悪な労働環境で働いてたら、劣等感が強くなるの??
女で劣等感が強い人間は、そんな男に選ばれることで劣等感を解消しようと、クソ男に迎合して、必死にメイクしたり露出したり。そういう人間も少なくないから、イライラする。
労働環境や家庭環境のせいで劣等感が強くなる(男女ともに)→男は弱者(主に女)を見下すことと人の上に立つことで劣等感を解消しようとする→劣等感の強い女はそんな見下してくる男に迎合して
メイクだったり言動だったりで男ウケを考える。ミソジニーを内面化する
そういう国、なのかな。
劣等感が強い、クソ男、ミソジニー男と、それに迎合する、ミソジニーを内面化した女とが大多数の、病んだ国。韓国よりマシだろうけど…。日本も韓国も、滅びればいいのに。
日本の中でも特に劣等感強い地域があって、そこは滅びればいいと思う、そうじゃない地域の人間はまだマシでも、そういう地域の人間と関わることもあって、そのたびにストレスが溜まる。
クソ男、ミソジニー男も嫌いだし、それに迎合してる、ミソジニーを内面化してる女も嫌い。
数少ない、劣等感の強くない、健全な男(ミソジニーではない男)とフェミニストでミソジニー男を嫌ってるような女、ぐらいしか、心を許せる人間がいない。
敵ばかり、クソな国。滅びればいい。
ミソジニー男、死ね。劣等感が強い男、死ね。そんな男に迎合する女も、死ね。
日常生活も、ストレスが溜まる。ミソジニー男と迎合する女を目にするから。
創作物との関わりも、フェミニスト女性が作ったような作品じゃないと、楽しめない。いくら評価されてる作品でも、男作者だとミソジニーだったり男に都合の良い女が出てきたりして、萎えるから。
最近、女嫌いの若い男が増えてきてる(ように感じる、ネットで)のは、上に書いたように、非正規に男が増えて、稼げない劣等感を女を見下すことで解消しようとする男が増えたことと、それによって
「男で得をしてないのにかつての得をしていた男のように女から恨まれてる」
日本の女は、大なり小なり、男への恨みを抱えてる。下に見られたり、抑圧させられたり、自分より能力がないのに仕事で評価されてるのを見たり、性暴力の被害にあったり、そういうの無しで生きていけないから。
だから、女から男への恨みは昔からずっとあるけど、それが今でも存在するにもかかわらず、男としての得が減った(男なのに稼げない・労働市場で有利ではない)存在が増えたから、昔より得が減ったのに
相変わらず恨まれてるから、反発するんだろうけど、昔より減ったとしても男の方が得をしてるんだから、恨まれるのは仕方ない、と思うけど。
そうやって、男と女で憎み合って、くだらないと思うけど、私はクソ男が嫌いだし、ミソジニー男が嫌いだし、女を憎み返してくる男が嫌いだから、憎み合うのは避けられないんだと思う。
クソ男、死ね。少なくとも、私の周りのクソ男が全員、死んでくれたらいいのに。
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「メサイアコンプレックス」という言葉がある。
実際はモラルハラスメントなどに通じる考え方であるが、ここではちょっとネット向けにアレンジした理解として、「個人の問題や悩みを解決するために、わざわざ社会を変えなければならないと考え、それを呼びかける人」のことを指すこととする。「スラクティビズム」という言葉と親和性持たせる感じね。
例えば、自分がオタクとして十分なアイデンティティの充足が得られない人が、「今のオタクは間違っている。正しいあり方に直さねばならない。私が主導する」といい出したり、例えば、左翼やリベラルとして十分なアイデンティティの充足が得られなかった人が、活動の場を求めて、他に誰も問題視していないことを大げさに騒ぎ立てて自分の存在感をアピールしたりtogetterまとめなどを使って拡散しようとしたりする事案などがそれに当てはまる。
そういう人たちが、自分の問題と社会の問題を「リンク」はさせつつも「別の問題」として扱えるのであれば問題はない。当然のようにつながりはあるが、それでも自分の問題は自分の問題、社会の問題は社会の問題として、それぞれの課題を分離できるならいいのだ。
だが、大抵の人はこの2つを混同してしまう。というか、そうでもなければ、わざわざ社会の問題なんて考えようという人はそうそういないだろう。
だけど、これはわざわざ難しい事をやって、わざわざ行き詰まるように自分を追い込んでいる。セルフハンディキャップよりタチの悪い、約束された失敗に向かって飛び込む破滅願望のようなものだ。自分に酔っているだけで何の役にも立たない。
いわゆる「心の贅肉」というやつだ。
そういう贅肉がある人は羨ましい限りだ
それにしても学歴が高い人に有りがちな「自分のことだけ考えていてはいけない」という強迫観念があるのかもしれない。
最近はそうでもないと言われるが、やはり良い大学に行った人や、
本人はそうでなくとも親が良い大学に行っていたり医者だったりする人は、
多かれ少なかれエリート意識と言うのはまだ残っている人が多い。
そして、エリート意識というのは、正しく扱わないとその人間を蝕む毒になる。
数十年前の学生運動というのは当初、東大や京大などの人間が真面目に考えすぎた結果、こじらせてしまったところが出発点だった。
せっかくいい大学に通わせてもらったののに、他人より恵まれた立場にいたはずなのに、自分は何をやっているのだろう、自分だけ幸せになっていいのか、社会はこのままでいいのだろうかと余計なことを考えて、ふわふわした感覚のまま社会を変えなければならないという気持ちだけが先行してああいうことになった。
彼ら彼女らはとにかくクソ真面目なのだ。クソ真面目すぎて、背負う必要もない責任を抱え込んで、それをどう扱っていいのかわからないまま混乱してしまったのだ。
最近はてなブログでこれに近い、クソ真面目な人が混乱しながら書いたんだろうな、という記事を読んだ。
東大に次ぐ日本で二番目に難しい文系大学を出たあとニートになったりすれば、その鬱屈した感情は非常に強いことだろう。
ああ、エリート意識を持て余し、メサイアコンプレックスに取り憑かれているなと感じる。
だが、タイトルに革命、のような言葉をつけているわりに記事の内容は幼稚としか言いようがない。
自分に酔っているなとすぐわかる。
大学卒業したての人間が、雇われずに生きていくと言っているのと近い。
願望を述べるのは良いが、具体性が足りない。そこに本気を感じない。
この人はシャドウ・ワークという言葉を知らないのだろうか。 良い大学を出ていても、あまり勉強してこなかったように思われる。
自分の問題から逃げるために社会の問題を論じているだけのようにしか感じない。
自分の現実から逃避するために適当に論じている人を見ると少し腹が立つ。
そういう人間が、私は社会の問題をちゃんと考えてます、というツラをされると私としては大いに腹が立つ。
今の社会はそりゃ間違っているかもしれないが、それでもとりあえずギリギリ成り立っている。
それを支えるために結構な労力を費やしているわけだ。
ブラック企業を支持する奴隷と言われるかもしれないが、すくなくともこの社会において
別に私でなければ回らないようなオンリーワンの仕事なんかしてないが、
与えられた仕事で毎日踏ん張って、自分だけでなくて家族を養って生きてるのだ。
他人から見たらつまらない人間に違いないだろうが、そういうことを蔑ろにされたくない。
そういうことすらろくに出来ないやつが、社会の変革みたいな大げさな話をしても鼻ホジでしかない。
サークルの先輩になるが、就活中にいろいろと思い悩んだ結果、とうとう発狂して虎にメタモルフォーゼしてしまった男がいた。
彼は極めて優秀な男で、幼少期からご近所でも評判の秀才だった。
なので、彼自身としてもエリート意識というか、周りの奴らとはひと味ちがうんだよなーみたいな気分があった。
そんな彼だったのだが、就活をしている最中に突如失踪し、そのまま行方不明になってしまったのである。
飲み会帰りで酩酊状態にあったわたしは、軽くリバースしようと思って路傍の植え込みに近づいた。
しかし、そのガオーをよく聞いてみると、そこには往年の先輩を思い出させるような音色が多分に含有されていたため、わたしは勇気を出して話しかけてみた。
「すみません。ひょっとして、先輩じゃないっすか?」
すると虎先輩は悲しそうに縞模様を震わせながら、
と答えた。
以下は本人が語ったところの、彼が虎になってしまった経緯である。
講義は最前列で聞いて教授のお気に入りだったし、サークルでも部内の恋愛事情などによく精通していたし、ツイッターのフォロワーもかなり多かった。
「自分のアピールポイント」と言われても、はっきり答えることができなったのである。
もちろん彼は自信家だったし、自分は教室後方に跋扈するアホより遙かに優れた人間であると確信していた。
だが、いざアピールポイントなどと真正面から切り出されると、臆病な自尊心というか尊大な羞恥心というか、フォロワーが増えるに従って加速度的に複雑化した自意識が、イージーな解答を阻んだ。
その結果、彼の答えは謙虚を装いつつも隠しきれぬプライドが透けて見えてくる、ウザい感じのものになりがちだった。
それに対し、彼が平素よりバカにし続けていた学生はどうだったか。
彼らは、先輩基準では凡庸としか思えないようなアピールポイントを堂々と答えた。
先輩はそれを内心バカにしていたが、彼らの堂々と答える姿が妬ましくもあった。
そして、蓋を開けてみれば、内定をよりゲットしていくのは彼らだったのである。
周りが東証一部上場企業の内定を続々奪取してゆくのを見て、彼は思い悩んだ。
丸の内の面接会場から横浜辺りまで猛ダッシュしていると、両手を地面に近づけたい欲求がだんだんと生じ、小田原辺りに至ると全身がむずむずして毛の生えてくる感覚があった。
正気に戻ると、虎になっていた。
一息つくと、先輩は続けた。
「お前に最後の願いがある。
オレの代わりに投稿しておいて欲しい。
このまえ聞いた、高校生くらいの雌虎が餌場で話してたことを元にしている。
140字に収めるにはかなり苦心したよ。
今までにないリツイート数になるだろう。
あそうそう、うちのオフクロ、多分けっこう心配してると思うから、元気にやってるって伝えといてくれ。
じゃあまたいつかな!」
そう言って先輩はしっぽをぶんぶんさせながら、遠くへと走り去っていった。
先輩のツイートは世界中で評判となり、相当なリツイート数を誇った。
やはり先輩は優秀だった。
しかし、母親に対するメッセージが最後に0.05ツイート分ってのはどうなんだろうか。
なんでそんなに非モテが卑屈なのかといえば
「何事においても出来ないということの原因は人格にある」
自分の裁量ではどうすることも出来ない事柄に対するコンプレックスがあることで、
「好きの反対は嫌いではなく無関心」と誰かがいったように、
彼らは自分が求められないという状況に強い拒絶感を抱いている。
どこで歪んでしまったのか、
組織や対人関係の上で然るべき機能を果たせない不能な存在だからだと考えている。
これは自らの出自に関して、
強烈なエリート意識を持つことにより
逆説的に自尊心を高めようとするためだと僕は推測している。
なぜなら彼らは自分の行いを他人が認めてくれると思っていないから。
他人が自分に寛容な印象を持っているという確証を得ることを経て、
ようやく自分の行動が他人にとって意味のあるものになると彼らは信じている。
拗らせた非モテというのは、
下手をすればコミュニティから締め出されるという感覚を持っている。
こういった人間からすれば増田の言動は仲間だと認めていないというに等しい。
セックスすら彼らからすれば「敵ではない」という意思表示でしかないのだ。
劣等な人格の持主だからというような結論で収めてしまうのは如何なものかと思う。
彼らが非モテであるのは幼児的なマインドで行動するからというのは間違いではないが
他人との関係の築く際に着目する所が初期段階で停まっているだけなのだ。
東大とか京大とかそれなりのところに行ってると、それこそ明らかに凄い奴がいるんだ。
どうしたって追い付けねー、って人たちが。
そこまで無いにしても俺より5年先、10年先いってるって人たちもごろごろいる。
ちなみにその明らかに凄い奴も、自分はたいしたことないって言う。
上の世界に行くと、凄い奴の中でも超絶凄い奴が見えてくるらしい。一般人には区別がつかんけど。
まともな奴なら上には上がいるってことが見えてるからそんな強いエリート意識は持たない。
エリート意識持ってるとしたら、それより上が見えてないってことだから、たいていはそのレベル止まりだ。
これって勉強だけでなくスポーツとか職人とかオタクの世界でも同じだとおもう。
おんなじ提督でも司令部Lv.100なんてどうやったら到達できるのか、俺的には神レベルなんだが、
実際 司令部Lv.100の提督に聞いたら「俺なんか全然たいしたことない」って7割くらいが言うんじゃないかな。
司令部Lv.60の俺でも始めたばかりの新人提督にはすげえって思われてるかもだけど、特に自慢する気にはならない。
Lv.60なりの矜恃はあるけどさ。
野球も「甲子園出場経験」とかでフィルタリングするのが慣例だし。それ崩すには地方大会で余程の成績を上げないといけない。
http://anond.hatelabo.jp/20150727000250
俺は東大じゃないだが、東大卒の人間何人かと仕事したけど、なんかお前と同じようなこというやつ多いんだよな。学歴バンザイ、のところじゃなくて「就職活動始めるまで自分は学歴しかないつまらない人間だと思ってた」ってやつ。最初は謙遜かと思ったがどうも本気っぽい。なんでそんなに自信ないんだろうかこちらからすると不思議に思っていたが、東大生って周りに同じ大学目指してる人間しかいなくて自分をたいしたことないって思い込んでる奴多いのかもしれんな。
しかしそれってもったいないよな。ホリエモンのことはあんまり好きじゃないが、やっぱり東大入ったんだったらエリート意識というか、最低でも強い自信を持って学生のうちから高い目線で何か取り組んで欲しいって思うんだわ。
元増田には、釣りでないなら自信ありそなやつとそうでもないやつってどのくらいの割合か、肌感覚でいいから教えてもらいたいんだがどうだろう。