はてなキーワード: 小田原とは
どうしても心苦しく逃げ出したくなったので、仕事を休んで旅をした。
その顛末を話したい。
大学時代、親(同じく学校教員だ)に強く勧められなんとなく教職課程の受講を始めた。
なんとなく高校教員になろうと思っていたが、何の因果か教育実習は中学校に配属された。
実習中は忙しかったものの、生徒が人懐っこくこちらに近づいてくれたことが非常にうれしく、授業以外でも彼らとの交流(体育祭の練習に一緒に参加するなど)に楽しさを覚えた。
これって本当に教員の仕事か?と思えるような事務作業がやたらと多かった。
また、「校務分掌」という名目でやたらと多くの業務が割り振られた。日本は年寄りは何でもありの価値観が蔓延しており、年齢の低い私には特に業務が集中した。
これらの業務は事務職員の仕事ではないらしい。事務補佐員は人数が少なく短時間しかいない。また、個人情報を含むものの取り扱いができないため依頼できることがほとんどない。
やっと作業が終わり(もちろん時間外)ヘトヘトになったところで始めるほかなかった。
建前では休憩時間はあるらしいが、その時間も業務が振ってきて休むこともできず。
おまけに最近はアクティブラーニングやICTの重要性が叫ばれており、授業の事前及び当日の準備はそれどころではない大変さがあった。
それでも、教育実習の時と変わらず、コミュ障の私に偏見を持たず純粋な心で関わって、笑顔を見せてくれる生徒たち(教室に来れない生徒にも)に元気づけられていた。
体育祭は大嫌いで、私は自チームを応援する気は起きなかった(自チームカラーの服を着ている先生が目立ったが、私はどのチームにも関係ない色のものを着ていた)が、練習は一緒に楽しんだ。
生徒に交じって競技を楽しむのもまた一興。一緒に生徒の中に混ざるだけで生徒は喜んでくれた。
授業はただ真面目にやるのではなく、時にネタを入れると生徒が反応してくれてうれしかった。
アイマス(担当アイドルの話とか)をはじめとしたソシャゲネタ、鉄道ネタ、自虐ネタ、淫夢ネタにちょっと不謹慎なネタなどを入れるだけで笑いが取れた。
定期テストも、かなり完璧主義的に作ったにもかかわらず、その結果を見て教えたことをしっかり身に付けてくれたこともうれしかった。
しかし、どうしても大変なことは大変で、それが私を疲弊させた。
例えば、生徒の失くしもの(学校からの貸与品)の捜索を命令され、どうしても見つからず教頭に報告すると「知るか、自分で何とかしろ」の一点張りで取り付く島もない。
なければ学校に余りはありますか、それとも購入は可能ですか、と聞くと「お前さぁ、それ教育者としてやることか!?」と怒鳴られた。
また、目標申告書(全国でやっている)で下っ端は記入不要の項目も「制度上は記入義務はないがみんなやっている」と強制された。
(余談だが、記入例に不登校生徒減少の話があったが、なぜ不登校は生徒自身の選択なのにそれを無視して無理やり連れだす必要があるのか、それが原因で自殺されたら本末転倒ではと思った)
まあいいやこんなこともあると思いつつ耐えていたが、こんな出来事があり、ついに限界が来た。
生徒が下校した後、いつも通り雑用に追われていたが、なぜか隣の校舎の窓に火が見えた。
他の先生方に相談したところ、無関係な私が急行するよう言われた。するとなぜか鍵が閉まっていた。
鍵を開けると、面識のない生徒数人がおり、その隣には火柱が上がっていた。
どうやら裏側から侵入して火遊びをしていたらしいが、すぐに水をかけ消火した。
事情を聴くと「これは作業だ」「面倒だから仕方ない」「効率的だからやっている」と。
今後こういったことはやめるよう言えば「燃料は自腹だ。100円の自腹がもったいない」と反論。さすがにこちらもキレて「命と100円どちらが大事なんだ」と言って無理やりやめさせた。
重大事案なので当該生徒が在籍する学年に報告すると、ある先生は「あー…最悪のメンバーがそろってる」と。
管理職に報告するとこちらの責任のあることではないのにやはり怒鳴られた。「どうするか自分で考えろ」「早くしろ」とわけのわからないことを言われ。
教頭から「怒るのはあなたを信頼して成長してほしいからだ」と言われたが、(わざわざ応募して選考を突破した)管理職と下っ端は意欲が違うし、成長したくないので信頼せず放置してくれと思う。
校長は「生徒の失敗を大目に見たらどうか」と状況を理解せず、面倒をこちらに丸投げする発言。
なぜ私だけこんな目に遭わなければいけないんだと思った。
気づくと、どうすればこんなことから解放されるだろうと思い色々検索していた。
隣の先生にこれを見られ、「行動に出る前に管理職に相談した方がいい」「教頭は口調がきついから真に受けないほうがいい」「私も色々失敗した」などといろいろ慰めの言葉をくれた。
私と同時に着任した先生などにも相談に乗ってくれた。「あなたは完璧を目指そうとしてたんだ。60点でいいのでは」とも言ってくれた。
また、該当生徒の指導はその生徒が在籍する学年に依頼できることになり、非常に助かった。
何もかもやる気を失った。大好きな曲を聴いても拒否反応がすごかった。
テレビをつけると、時代劇の切腹シーンが出てきてますます気分が沈んだ。
通勤途中に外国人観光客を見ると、なぜ日本人だけ労働に苦しまなければいけないのかと思った。私も自由気ままに旅行したいのに。
(日本は労働法規に甘く、バカンスもなく権利行使がしにくい、下手すると同じ立場の労働者が権利行使を妨げてくるのはなぜだろうか。一説には資源の少なさと正社員制度が原因だというが…)
その後の数日、外出したいとも思わなかった。
そういえば、今までも出勤できていたものの、疲れというかなんとなく休み明け出勤したくない気分になることがしばしばあった気がする。
しかし今回はその気持ちが特に強かった。そんななか、ベッドの上のぬいぐるみが私に話しかけてきた。
渋谷凛「もう休めば。疲れてるでしょ」
島村卯月「早く休まないと…大変です!」
本田未央「よく頑張ったねプロデューサー。思い切って休んじゃお!」
あれ、苦しいときは休めばいいんじゃね?なんでこんな簡単なこと思いつかなかったんだろう。
今まではこんなこと考えつかなかったが、思いついた途端肩の荷が一気に下りた気がして、気がすごく楽になった。
そういえば、小学校の頃の私は皆勤至上主義で、ひどい風邪でも登校していた。
高校でそのおかしさに気づき少しでも体調が悪ければ欠席するようになったのだが、なんでこの解決法を忘れてしまったんだろう。
だが、この計画は勤務校はもちろん、何かの機会で口外するリスクのある同僚には当然言えない。
一見仲間にも見える両親にも口外してはならない。
母親は祖父(母方の曾祖父)が職を失いつまらなそうにしていたのを見て、仕事があることが素晴らしい、働かせていただいていると思うようになったそう。
つまり、「クビになりそう」→「ならないようにどんなことでもする」という感覚の持ち主だ。
父親は偉そうに上司にも独りよがりなイデオロギービジネスマンとしての心構えを力説していたらしい(それで啖呵を切って職を転々としていたらしいが)。
「自分の思い通りにならない、またはその仕事の責任を120%果たせないなら辞めるべき」と思っているらしい。
その日は特別な準備を要する授業や前述の生徒の指導も予定されており、休んだら迷惑かと思ったが、どうでもよくなっていた。
となると、どのような手段で休もうか。
休むのは電話すればいいのは知っているが、真っ暗な家で引きこもっても体調回復は絶望的だろうと思った。
じゃあ逃避行してしまおう。せっかくだし最近行っていない江ノ島に行こう。
ふと気になった。この休みはどういった扱いになるのだろうか。休暇の一覧表をみると、「病気休暇」があった。
利用条件は「ケガや病気で勤務できないとき」とのことだが、「病気」の詳しい定義がない。
ということは、「精神的に辛く体調がすぐれない」(これが悪化したものが「うつ病」「適応障害」などの精神疾患)も問題ないはずだ。
日数でいろいろ条件も変わるらしいが、今回の場合はまずは電話一本で、正式な手続きは出勤できてからで問題ないらしい。
ところで、病気休暇を取得している期間は病気の療養に専念しなければならない。
逃避行で精神の不調が回復するのならそれも療養であるから問題なく、むしろ進んで行わなければならない。
病気休暇が使えないなら年次有給休暇の利用、それもダメなら(給与が減るが)欠勤扱いでもよい。いずれも無断欠勤よりずっとマシだ。
今日は出勤しなくていいんだ。そういうつもりで髭剃りと歯磨き、自宅の風呂掃除とトイレ掃除を念入りに。
教員の労働環境のブラックさが世に知られ叩かれ出したことから、働き方改革の一環で電話は始業時間までつながらない。
始業後に連絡すると迷惑だろうから、自分が所属する学年団への連絡手段(こちらは連絡時間の制限は特にない)があったので、先にそちらに体調不良の旨連絡した。
学年団の先生方(原因となった出来事を直接は知らない人含め)は「ゆっくり休め」と言ってくれた。
「次の日も厳しいかもしれない」と続けて言えば、「好きなことをしてしっかりとリフレッシュしなさい」とも。事情を知っているのかな?
元気のない声で、やる気を出そうにも空回りしている雰囲気を出した。
何の問題もなく休暇が取れた。休暇届提出は次回の出勤日でいいらしい(説明もその時するから急ぐなとのこと)。
混雑したバスが来るいつもと変わりないバス停。そこに私はとてもラフな出で立ちでいた。
家を出発する際は、勤務するときと同等の服装だったが、バス停近くの隠れられる場所で着替えた。
・本田未央ちゃんのフルグラフィックTシャツ(二次元コスパ)を着てアロハシャツを羽織り
・本田未央ちゃんの腕時計(キャラアニ。スーパーグルーピーズじゃないよ)を左腕に
・本田未央ちゃん、渋谷凛ちゃん、島村卯月ちゃんのぬいぐるみをカバンにしまい
・八宮めぐるちゃんやライブ(空は澄み、今を越えて。他)記念のキーホルダーをカバンに付けた。
どうだ、カッコイイだろ。
普段の通勤と時間があまり変わらないので混雑がストレスになるのは変わらない。
まあすぐに解放されるしいいか、と思っているうちに新宿駅に着いた。
ATMでお金を引き出し、藤沢までの切符とロマンスカーの指定券を購入(本当は特急券不要の快速急行でもよいのだが、せっかくなので…)。
江ノ島方面のロマンスカーは夕方までないとのことなので、相模大野で普通電車に乗り換えることにした。
横断歩道で信号待ちをしていると、知らない人からサイエントロジーとかいう宗教団体のチラシをもらった。すぐ捨てた。
コンビニで酒(ほろよい桃味)とつまみを買ってから(車内は)滅多に人が来ないところなんで、そこでしこたま酒を飲んでから(デレステを)やり始めたんや。
飽きたので、Amazonで大崎甜花ちゃんのフルグラフィックTシャツをポチっと購入。送料込みで7,321円也。
小田急線を乗り通すのは15年ぶりだ。複々線区間が代々木上原~向ヶ丘遊園まで伸び、列車種別構成の大きな変更があり、準急が緩行線を走行するようになったらしい。
藤沢に着いた。片瀬江ノ島まで行っても江ノ電を使ってもよかったが、せっかくなので大船まで戻る。
乗り換え専用改札があった。こういう改札は利用区間が制限されないICカードでしか通行できないものだが、聞いてみるとICカードとここまでの切符の組でも通れるという。
ここまでの切符を入れ、すばやくICカードをタッチすれば通行できた。ちなみに、新幹線乗り換え口でも似たようなことができるらしい(クレジットカードやEX-ICは不要)。
ここからは神奈川のジェットコースターとも評される、湘南モノレールに乗車。
強烈な地響きとともに列車が入線。駅壊れるぞ。
大船を出たばかりなのに猛スピード。おい、右に葬儀場があるぞ。車両は棺桶じゃないぞ。
思ったほど揺れなかったが、心配なのは走行高度が低すぎる点だ。大型路線バスとかぶつかるのでは。
湘南深沢から先はさらに本気を出した。70-80 km/hは出したか。これに匹敵するのは東京モノレールの一部区間(昭和島付近)だけだ。
15分程度で終点の湘南江の島に到着。テラスでアイドルたちと記念撮影。
そのまま南に歩き、湘南海岸公園に。やることがないので近くの岩場で昼寝。
雲が動き日差しがまぶしいので、目隠しをした。時に涼しく時に熱くなるがこれが気持ちいい。
1時間ほど寝たら、桟橋の方を覗いてから15年ぶりに新江ノ島水族館へ。
岩場を歩いたり、飛び込み泳ぐペンギンさんが人間の言葉を話せたら何を言うのか、不謹慎なセリフを考えると非常に面白い。
最後に物販店でくじ引き。2等が当たり、店員さんがハンドベルを鳴らした。後ろから拍手。恥ずかしいだろ。
江ノ島にも行った。
恋人同士が鳴らす鐘らしきものの前で、本田未央ちゃんと一緒に記念撮影。
気づかず徒歩で戻ったのだが、どうやら船で江ノ島大橋のところまで帰れたらしい。
時間が足りず、江ノ島シーキャンドルやそのまわりの施設群、しらす丼は手付かずだった。また今度行った時味わおう。
江ノ電は意外にもVISAのタッチ決済による運賃収受を行っているらしい(決済端末は改札内なので、一部改札は不正通行検知装置を切っている)。
日本の改札は専用の券を駅などで購入し、機械に通す方式を取っており、欧州で一般的なQRコード付きの切符を任意の場所で印刷して通行するようにするのは難しいとのこと。
そこでVISAのタッチ決済による運賃収受が導入されたが、おそらく江ノ電は日本で2-3番目あたりには早く導入したかと思う。
本田未央「今日は楽しかったね!ねぇねぇ、明日も一緒にどっか行こうよぉ!」
勤務校と学年団に連絡した。2回目なので良心の呵責は全くない。
電話は教頭ではなく事務職員が取るため、こちらの事情は知らない。「はい分かりました」で終わり。
そこで、今日はアロハシャツの下には乙倉悠貴ちゃんのTシャツを。
いつものバス停に行く途中、ネームホルダーが落ちていた。手に取って見ると近くの幼稚園のものだと分かった。
グーグルマップでその幼稚園の電話番号を調べ電話をかけると、「どこに落ちていたのですか」と聞かれた。近いので「そちらに持っていきます」と伝えすぐに向かった。
その幼稚園に着くと、ちょうど登園時間とかぶっており保護者が子供を預けに来ていた。
乙倉悠貴ちゃんのTシャツ丸出しの男はロリコン扱い間違いなしなので、アロハシャツのボタンを閉めて事務室へ。
対応した職員さんは、電話に出た人とは別のようだが、「これ落ちてました」と言えば「ありがとうございます」で終わり。さっさと退散。
暑いので路地裏に入って下着を脱ぐ。肌の上に直接乙倉悠貴ちゃんがくっついてきて興奮する。
昨日歩きすぎたのか、右足小指に水ぶくれが。
昨日よりかは早いが、それでもまた出発が遅れてしまった。
今日もバスと電車を乗り継いで新宿へ。今日は小田原方面に向かうのでロマンスカーも多く走っている。
なんと小田急の自動券売機はクレジットカードに対応していた。箱根湯本までの切符と特急券を買うと、なぜか乗車券は小田原→箱根湯本のものしか出てこなかった。
小田急の改札は切符を2枚重ねで投入できるが3枚重ねはできず、しかたなく新宿→小田原の切符と特急券を投入。箱根湯本到着後有人改札で事情を話すことにした。
今日もセブンイレブンに行き酒とつまみを買い乗車。今日は酒2本(ほろよい桃味とぶどう味)。
電子レンジによる加熱が必要だが温め忘れてしまったものがあった。まぁ生で食べて腹を壊せば休みを伸ばせて都合がいい。
車内でつまみを全部食べ終わってから Permalink | 記事への反応(12) | 13:12
例えば、九州の餓死事件とか、小田原の「保護なめんな」ジャンパーとか、さいたまの生活保護相互監視条例とか、
リベラル左翼が騒ぎ立てて大事にしたり、潰したりして来たけど、そう言ううるさい奴らを除くと、「まぁそれくらいの犠牲や抑圧は仕方ないよね」って空気の方が強かった気がする。
ましてや今は不法移民や、日本人でも詐病やサボりによる生活保護が急増していることが可視化されているので、ますます生活保護が憎悪されるようになっている。
そのうち、生活保護を支給を決定している役所に対して批判の矛先が向くのは明らかなので、水際作戦を合法化して、数値化できるようにして、
東京の、じゃなくて神奈川県足柄上郡大井町。小田原の右上あたりにある人口1.5万人くらいの町。
理由は「国民健康保険料(税)が来年度から2.4%上がる」から。
https://www.town.oi.kanagawa.jp/soshiki/5/hokenzei-hikiage-reiwa6.html
ある程度この辺も考慮した上で移住先に決めたので、なんだかなーという感じ。
2023/10/18に発表された国民健康保険料の水準統一加速化プランの影響で交付金が出なくなる
→ 2023/12/07の町議会で税率決定 (議事録なども2末くらいまでは未公開だった)
→ 2024/03/01で保険税引き上げを広報(04/01施行?)
って感じで、移住前(12末)の段階でこの改正を知ることはほぼ不可能でした。
「もともと安かっただろ」とか「値上げ後でも安いだろ」とか言われるとそうなんだけど、
あまりに決定プロセスが不透明すぎて、次年度はいくらになるか予想がつかない。
(共産系の町議員は議事録みると猛反対してたみたいだけど、自治体側の言い分が「仕方ない」だけでまともに議論できてない)
今年度中には引っ越そうかな...と思っています。
dpzでも記事になってるというか、小田原のオススメスポットはこの記事読めばええんちゃう?みたいな。
>小田原にはトリックアートみたいな不思議な景色がある~地元の人頼りの旅in神奈川県小田原市~ :: デイリーポータルZ — https://dailyportalz.jp/kiji/170915200663
石垣山一夜城はちょっと遠いのだけど、行くなら坂の途中の堀秀政墓所にも寄るのをオススメ。景色がバツグンによいし、墓所の脇のオバケのような樹木も味わい深い。
明治天皇皇后が立ち寄った海岸。まあ、そういうの抜きにしても、海を見るのは一年中いつだってええものやないの。
大久保忠世・忠隣の親子が酒匂川の土手を整備し、小田原合戦で荒廃した土地を見事に復興させた。
のちに酒匂川は富士山の宝永噴火で大量の火山灰で土砂が堆積して水害が頻発するようになった。
自慢のイチモツをポロリして「ちんちんぶらぶら総世寺」と言えば彼女も爆笑まちがいなし。
近くに古墳群がある。
一号墳の主は百塚の王の異名を持ち、古墳からは足柄平野を一望できる。
dpzでも取り上げられている。なぜかGoogleマップでは早川港になっている。
はじめて行くのか、2回目か3回目か、
最新にアップデートされたミュージアム。逆にいえば、本物ではない。
とてもおすすめ。
https://www.odawara-kankou.com/tour/hajimete-sougamae.html
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/odawaraArch/11207/pdf/20190701101222.pdf
その前になぜ小田原なんだ
BAN 直之(ばん なおゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は直次、尚之とも。通称は長八、後に団右衛門に改めた。一時、出家した際には鉄牛と号した。
後世、『難波戦記』などの軍記物や岩見重太郎の講談などで有名になったため、塙 団右衛門(ばん だんえもん)の名でも知られる。
出自は不詳である。尾張国の人で、同姓であるため、織田氏の家臣・塙直政の一族か縁者とする推測もあるが、遠州横須賀衆[3]で浪人となった須田次郎左衛門という人物が本人であるという話[4]や、上総国養老の里の出身で千葉氏の家来だったが、小田原北条氏家臣で「地黄八幡」の旗印で知られる北条綱成に仕えた[5]という話、相州玉縄の住人で玉縄城主となった北条左衛門大夫[6]の徒士となったという話[7]もあり、出身地や素性も定まらない。
前歴についても不詳である。猟夫より身を起して織田家臣の坂井政尚の馬卒となり、功をあげて織田信長に士分として取り立てられたが、酒を飲むと暴れ出すという悪癖のために人を殺めてしまって放逐され、浪人となって諸国放浪したという話もあれば、前述のように北条綱成の家臣であったが、小田原合戦の後に浪人となったとする話もあり、小早川隆景の家臣・瀧権右衛門に仕えて200石の知行を得ていたが、浪人となって貧窮し、豊臣秀次の家臣・木村重茲の小姓達が憐れに思い、衣類を揃えてやって加藤嘉明に口添えしたという話[8]もある。幾つかの話には浪人中は時雨左之助(しぐれ さのすけ)を名乗ったという逸話も登場する。
年 | 名称 | 概要 |
---|---|---|
1531年 | 享禄・天文の乱 | 浄土真宗本願寺派の権力闘争である享禄の錯乱。管領・細川晴元が一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文の錯乱。 |
1532年 | 北部九州天文の乱 | 大内氏と大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆が大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前・筑前・肥前を平定した。 |
1533年 | 稲村の変 | 安房里見氏当主・里見義豊が、叔父の里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。 |
1536年 | 花倉の乱 | 駿河守護・今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探と栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳が勝利し今川義元を名乗った。 |
1537年 | 河東の乱 | 北条氏と今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏が武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏が今川領に攻め込み河東地域を占領した。 |
1542年 | 天文の乱 | 伊達氏当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。 |
1550年 | 二階崩れの変 | 豊後の大名・大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。 |
1551年 | 大寧寺の変 | 周防の大名・大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友氏から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。 |
1565年 | 永禄の変 | 畿内で勢力を誇る三好氏が、将軍・足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。 |
1568年 | 本庄繁長の乱 | 越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信の被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。 |
1569年 | 本圀寺の変 | 本圀寺にいた将軍・足利義昭を三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内の織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。 |
1569年 | 大内輝弘の乱 | 九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防で挙兵させた。毛利元就は九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。 |
1570年 | 元亀の変 | 伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族は粛清・追放された。 |
1574年 | 天正最上の乱 | 出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。 |
1576年 | 三瀬の変 | 伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族は粛清された。 |
1578年 | 御館の乱 | 上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信の養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。 |
1578年 | 天正伊賀の乱 | 伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。 |
1582年 | 本能寺の変 | 織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。信長は自害した。 |
1582年 | 天正壬午の乱 | 織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川・北条・上杉が三つ巴で争った。 |
1585年 | 粟ノ巣の変 | 伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主・伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。 |
1591年 | 九戸政実の乱 | 南部晴政の死去に起因する後継争いから南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。 |
1599年 | 庄内の乱 | 島津忠恒が重臣・伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。 |
1637年 | 島原の乱 | 島原・天草の苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍に鎮圧された。 |
1651年 | 慶安の変 | 軍学者の由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪は自決した。 |
1652年 | 承応の変 | 軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆の計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 | 腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商に失望した元・町与力の大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日で鎮圧された。 |
1837年 | 生田万の乱 | 国学者の生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩の陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。 |
1860年 | 桜田門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄を引き起こして水戸藩を圧迫していた開国派の大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した。 |
1862年 | 坂下門外の変 | 攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体を推し進めていた開国派の老中・安藤信正を襲撃し、負傷させた。 |
1863年 | 朔平門外の変 | 破約攘夷派の公家の代表格であった姉小路公知が暗殺され、薩摩藩の田中新兵衛が逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相は不明。 |
1863年 | 天誅組の変 | 尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国で挙兵したが、幕府に鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。 |
1863年 | 生野の変 | 長州の支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国で挙兵をしたが、幕府に鎮圧された。 |
1864年 | 天狗党の乱 | 水戸藩内の尊攘過激派「天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山で挙兵したが、幕府に鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。 |
1864年 | 禁門の変 | 前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵、会津藩や薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。 |
1874年 | 喰違の変 | 征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣・岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。 |
1874年 | 佐賀の乱 | 征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族が佐賀県で挙兵したが、政府軍により鎮圧された。 |
1876年 | 神風連の乱 | 熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府の熊本鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 秋月の乱 | 神風連の乱に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、政府の小倉鎮台軍により鎮圧された。 |
1876年 | 萩の乱 | 神風連の乱に呼応して、山口県で不平士族が挙兵したが、政府の広島鎮台軍により鎮圧された。 |
1877年 | 福岡の変 | 西南戦争に呼応して、福岡県で不平士族が挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。 |
1878年 | 紀尾井坂の変 | 石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。 |
(Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)
明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。
〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺・粛清・失脚など。権力の上下は関係ない。成功したか失敗したかは関係ない。
〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動・後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功したか失敗したかは関係ない。
こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏と物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍・足利義教が暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。
あとついでに。
〜の役:大規模な軍役。必然的に辺境への遠征や対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役・後三年の役・富山の役・文禄の役・慶長の役など。
〜の陣:長期間の在陣。遠征・戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。
という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。